体 験 記

  1.チベット人との出合い

 最初に「チベット人との出合い」と表題を付けてしまったが、実は私は「○○人(じん)」と言う言葉が余り好きではない。「日本人」「アメリカ人」「イギリス人」等と使われるが「○○」に当たる言葉の定義がはっきりしない。「○○」は国名を表すのかと思えばそうでもない。北海道や沖縄の人達が本州の人を「内地人」と言う事もあれば「山形人」「東京人」と言ったりする事もある。又、民族を表すのかと言えばそうでもないようだ。「アングロサクソン人」と言えば「アメリカ人」と「イギリス人」の一部を表してしまう。と言うように「○○人」と言う言葉は使う人、聞く人の都合に合わせた曖昧な言葉のようだ。日本語特有の曖昧な言葉と割り切って使い通す事もできるけれども、使い方、受け取り方を誤ると相手を傷つける事にもなりかねない。日本を良く知る「外国人」が「外国人」「外人」と言う言葉を快く思わない事もうなずける。事チベットのような複雑な状況にある人達に到ってはなおさらである。既に表題を付けてしまった後であるが「チベット人」ではなく「チベットの人達」と言い直したいと思う。
 私がチベットの人達と始めて出合ったのは1993年10月11日、『日本文化デザイン会議93`山形』が始まる十日前である。『日本文化デザイン会議93`山形』のサブイベント「砂曼陀羅展」で製作実演するチベット僧との打ち合わせのため、会場となる山形市中央公民館5階の会議室においてであった。私も関係スタッフの一人として同席したのだが、その時の印象は格別の物だった。
 エンジと黄色の衣を纏った6人の僧が部屋に入ってきたときの第一印象は誰しも同じだった。
「日本人に似ている。」
  チベットの人達はアジアの人間で、皮膚の色は我々日本人と同じである。中国や韓国の人達も日本人には良く似ているがどこか違うようにも思われる。しかし、6人の僧の内数人は日本人と全く同じと云っても良いくらい似ている。日に焼けた顔に坊主頭の彼らは「甲子園球児のようだ」と云うのが忌憚のない印象だった。
 似ているのは顔形だけではなかった。彼らの物腰、仕種が違和感を感じさせないものだった。
 休息時間に彼らは良くお茶を飲む。彼らが飲むのは日本の緑茶とは違ったミルクティやバター茶と云った甘いお茶である。甘いものが好みらしく茶菓子もパンケーキのような甘いものを食べていた。私が彼らの休息中に控室に入っていくと、まず日本人が良くするように椅子を一つ開けて私に座るように促し、そして茶菓子の入った皿を私のほうへ引き寄せ食べるように促してくれる。それらの仕種は日本人のそれと全くかわりがない。言葉こそ通じないけれども一瞬相手がチベットの人達であることを忘れてしまうようだった。
 もう一つ驚かされたのはチベット語の数の数え方である。日本語で
「イチ、ニイ、サン、シイ・・・・・・ジュウイチ、ジュウニ・・・」。
チベット語では
「イー、ニー、ソン、スー・・・・ジュイー、ジュニー・・・・」
と数える。通訳をしてくれた三浦さんによるとチベット語の文法は日本語と同じだと言う。言語学的にどうこう云う難しいことは分からないが日本語と全く関係がないとは思われない。その昔、日本にまだ数字がなかった頃1人あるいは数人のチベットの人達が誤って海を漂流し日本に流れ着き日本人に数の数え方を教えたのではないだろうか、等と勝手に創造してしまうのである。

 

  2.ゾンカル チューデ モネストリイ

  チベット人、チベットの人達とは云っても彼らはチベットから来たわけではない。彼らは現在南インド、カルナタカ州にあるゾンカル・チューデ寺に在籍し活動している。
 チベットは紀元前127年に最初の王ニャティ・ツェンポが王位についたとされているが、それ以来20世紀初頭まで2000年間平和と孤高を維持してきた。20世紀に入りチベットは清国、英国の干渉を受け世界の歴史に翻弄される。1949年には共産中国が侵入し中国の直接支配を受けることになる。チベットの文化、宗教の破壊に抵抗して1959年にラサで一斉蜂起が起き、このときダライラマをはじめとして10万人のチベット人がインドに亡命する。チョガル氏ら6人の僧侶はこの時難民として亡命した人達の二世である。インドに亡命した人達は北部のダラムサラを中心として集住した。ダラムサラ付近は余分な土地も少なかったので人口密度の低い南部カルナタカ州の未開の土地が与えられ入植した。開拓の苦労は想像を絶するものだったらしいが現在彼らは村を造り寺院を建て畑を耕しながら難民として暮らしている。  今回来形したテンジン・チョガル師はじめ6人の僧侶はいずれも30歳以下である。インド生まれのチベットを知らないチベットの人達である。それでもチベット仏教という彼らの信仰の基、心はチベットにある。

 

  3.不思議な体験

 私は「砂曼陀羅展」開催中に何度もチョガル氏と打ち合わせの為に話をする機会があった。話をするとは云っても私はチベット語は分からない。チョガル氏は英語を話せるが、私は打ち合わせができるほど英語が堪能ではない。間にチベット語の通訳の三浦さんに入ってもらったが、その度に幾度か不思議な体験をした。
 まず私が三浦さんに日本語で事の次第を説明し「○○なので××をしてほしい」と話をする。その間ずっとチョガル氏は私の目を見て話を聴いている。私が話を終え、三浦さんがチョガル氏にチベット語で話を始める。すると不思議なことに、三浦さんが一言、二言話をするとすぐにチョガル氏は返事を返してくる。三浦さんは話をやめ、チョガル氏の言葉を日本語に訳してくれる。的確な回答である。三浦さんは短い会話の中で私の話を正確に訳してくれたのだろうか。それともチベット語と云う言葉は短い言葉で深い意味を表現できるのだろうか。チョガル氏は私の目を見て話を聴き私の意を察したのだろうと思う。このような体験をしたのは一度や二度では無かったし、私だけではなかった。 しかし、「不思議な体験」と云ってもオカルト的な体験だったとは思わない。「心が通じあう」とか「目で話をする」という言葉があるように、話をしなくとも相手の意志が伝わると云う事は経験する。チョガル氏はそういった感覚が鋭く磨ぎ澄まされているのではなかろうか。                          

4.マンダラとは

 曼陀羅、マンダラと言う言葉は最近良く聞かれるようになった。「マンダラのように」とか「マンダラ模様」とかいうように「不可解なもの」「複雑な模様」の代名詞として使われている節も有る。
 マンダラに関しての関心も高く、マンダラについての知識の豊富な人も多い。その人達が「マンダラ」と聞いてまず頭に浮かべるのは「金剛界曼陀羅」と「胎蔵曼陀羅」の所謂「両部両界曼陀羅」である。私もこの度砂マンダラを見るまでは、「マンダラ」とは「両部両界曼陀羅」であり、「砂マンダラ」とは「金剛界曼陀羅」や「胎蔵曼陀羅」を砂で造ったものだと思っていた。              
  「金剛界曼陀羅」「胎蔵曼陀羅」ともに中央に頂く本尊は大日如来である。マンダライコール大日如来という印象を持っていたのは私だけでは無かった。砂マンダラ展の期間中多くの見学者が来場し様々な質問を受けた。その中で
「真中に有る青い円筒形の物は大日如来を表わしているのですか。」
という質問が数多く聞かれた。
「大日如来ではありません。文殊菩薩の化身でヤマンタカというものだそうです。」
そう答えると、
「マンダラなのになぜ中心が大日如来ではないのですか。」
という質問も又多く聞かれた。そして、
「マンダラは四角いんじゃないですか。」
という質問も多く聞かれた。いずれにしても日本におけるマンダラのイメージとチベットの曼陀羅のそれとは大きく違っているようだった。
 チョガル氏に聞いてみた。
「マンダラとはいったい何なのですか。」
「マンダラは神々の宮殿です。」

 

  5.マンダラは神の宮殿

 それは単純明快な答えだった。マンダラに関する書物は数多く出ている。本格的な仏教学の本から庶民受けするような奇を衒った説を並べ立てる解説書まで。しかし、どれをとっても難解である。難解な書物ゆえにそれを読む人々の
「自分はマンダラという難しく深遠な知識を得ているのだ。」
というような自負心がページを繰らせているのかもしれない。しかし、どれもこれも私にとっては不可解で、マンダラとは何かという疑問には答えてくれず、己の無知と理解力のなさを自覚させられるものばかりだった。
 それだけにチョガル師の説明は無知な私にも充分に理解できるものだった。チョガル師の説明によると、マンダラとは次のようなものである。
 砂マンダラの中心に据えられた円筒形のものは本尊である。両部両界マンダラの場合、本尊は大日如来であり、それぞれの神々にはそれぞれの宮殿、すなわちマンダラがあるという。今回造っている砂マンダラは文殊菩薩の化身ヤマンタカの宮殿である。マンダラは、あくまでも本尊の為のものであり、本尊の周りに描かれる複雑な模様は本尊の位置から見た宮殿の様子を再現したものである。すなわち宮殿の中心に立ち、東西南北に見えるものをパタンパタンと展開したのが平面的に描かれた宮殿の砂マンダラである。
 宮殿の壁面には瓔珞が飾られ、四方に鳥居のある扉がある。入り口の外には雲がたなびき、幡が立てられている。宮殿は聖域で、それを表わす蓮華の輪(雑色蓮華輪)によって結界されている。その外側には金剛杵輪、その外側には煩悩を焼き尽くす火炎輪が描かれている。そして一番外側には現世の苦悩を現す八大屍林が描かれている。
 チベットのマンダラには砂マンダラの他に立体マンダラというのがある。立体マンダラとは神々の宮殿を模型で造ったものである。宮殿本体と本尊、それを囲む仏たち、宮殿を飾る瓔珞や幡、鳥居など、精巧に造られた模型である。雑色蓮華輪や火炎輪、それを取り巻く動物たちを再現したものもある。この立体マンダラを見れば、 「マンダラは神々の宮殿」という意味が良く分かる。
 チョガル師にそう聞かされた後、ある時仏壇を見て思った。
「仏壇はマンダラなんだ。」
仏壇を見ていると、仏壇は立体マンダラなのだと思えてくる。立体マンダラのように四方に展開はしていないけれども、神の宮殿の一部(4分の1)を表わしているように思える。
 中央奥に本尊があり、宮殿の扉がある。飾り物があり、マカラ魚を配している仏壇もある。
「何のことはない。仏壇がマンダラなんだ。」
そう思うとマンダラとは何かが分かったような気がする。しかし、それは深遠なマンダラの序の口にしか過ぎないのだろう。

 

  6.保存の失敗

 通常、砂マンダラは制作後破壊され川に流される。しかし、今回6人のチベット僧の手で造られた砂マンダラは保存される事になった。
 砂マンダラは文字通り砂を積み上げて造られている。そのまま保存されている例もあるけれども、時が経つにつれて次第に砂が崩れて形を失っていくという。静かで外気の入らない部屋でも、人が感じられないような微小な地震や、その他の振動によって徐々に砂が崩れていく。まして台ごと動かそうものならたちまちに崩壊してしまうのである。
 保存は専門家の手に委ねられた。遺跡や文化財の修復を専門とするK社がその任を負うことになった。K社から派遣された技術者は凝固剤を使って砂マンダラを固めていった。注射器に入れた凝固剤を少しずつ砂に浸透させて固める根気のいる仕事だった。アルバイトの主婦3人と共に3日間かけて保存作業を進めていった。
 保存されている砂マンダラは国内に2〜3例あるけれども、こような素晴らしい砂マンダラが山形に保存されるというので私は期待していた。しかし、保存作業の終わった砂マンダラを見て私は愕然となった。
 本来砂マンダラは高価な宝石や色石を砕いたものを材料とする。神々に奉るために赤や青、緑の石が砕かれ惜しげもなく制作に使われ、最後は川に流してしまう。しかし、現在のチベット難民は貧しく、高価な宝石や色石など使う事が出来ない。今回使われた砂は水彩絵の具で彩色した物だった。見た目が鮮やかだったのはそのせいもあるかもしれない。保存に使った凝固剤は水溶性だったので、その為に彩色された砂の色は落ち、滲んでしまい、砂マンダラは台無しになってしまっていた。
 この時の砂マンダラは現在山形市中央公民館四階ロビーに展示されている。アクリルのカバーをかけられた砂マンダラは崩れることなく原型を留めている。初めて見る人は、素晴らしく綺麗なものですねと感想を漏らしていくのだけれども、オリジナルの砂マンダラを見てもらえれば、もつと感動しただろうと思うとつくづく残念である。

  

  7.山寺にて

 18日は火曜日で砂曼陀羅展の会場になっている公民館が休館日なので、チョガル氏達を観光に連れていってくれと言う。どこへ案内すればいいのかと分からずチョガル氏に聞いたところ、
「連れていってくれるのならばどこでもいいが、どこか工場を見てみたい。」
とのことだった。世俗を離れたチョガル師だけれどもチベットの復興の事を考えているのだろう。急な事でもあり知人の努める電子部品工場に聞いてみたが、急な見学はできないと言う。商店街の仲間で造り酒屋があるので、
「酒の工場はどうか。」
と訪ねると、
「酒造りには興味が無い。」
と言う。(当然のことだ。)
 そこで山形ではありふれた観光地だけれど山寺に行くことになった。山寺立石寺は天台宗の寺。彼らも行ってみたいと言うので、県の担当者が立石寺に電話を入れてくれた。
 昼過ぎに彼らの宿舎である駅前のホテルにジャンボタクシーで迎えに行った。約束の1時ちょうどに彼らは出てきた。
 山寺までは約30分。市街地を抜け橋を渡り山寺に向かった。整備された河川敷を見て、
「ここはピクニックにはもってこいだね。」
彼らはピクニックが大好きだと言う。
 山寺立石寺は慈覚大師円仁が開いた天台密教の寺で、比叡山の不滅の法灯が移され、今日でもその灯が灯されている。信長の延暦寺攻略によって一時消えた延暦寺の法灯は山寺より持って行って再び燈されたと言う。
 ふもとの根本中堂から奥の院まで1100段の石段を登る。奥の院まで行くと、
「ここが奥の院か。」
と尋ねられ、
「そうです。」
と応えると、6人の僧は合掌し、経を唱え始めた。先導するのはジャンパ・カルソン師。チベットの僧侶にはそれぞれ得意とする専門があるらしい。ジャンパ・ソパ師は砂マンダラ。ロブサン・テンジン師は写経というように。
 ジャンパ・カルソン師の声は浪曲師のようにつぶれ、腹の底から唸るような経を唱える。そして、チョガル師は持参した線香の太い把を惜しげもなく灯していた。
 3時に庫裏で住職に会う約束をしていたが、彼らはたいそう気に入ったらしく遅れてしまった。遅れる旨を住職に連絡し、3時半に庫裏に入った。
 庫裏では茶と茶菓子が供された。ジャンパ・カルソン師が茶菓子を手に取り突然唸りだした。それに続けて他の僧五人も経を唱え始めた。供されたものに対する感謝の為なのかは分からなかった。
 住職との対話はごく儀礼的なものに終始した。宗教論争でも聞けるのかと楽しみにしていたが期待はずれだった。宗教論争にならなかったのは日本側の宗教事情によるものかもしれない。

 

  8.法話を聞く

「チベットの僧侶と話ができるなどめったに無いですね。法話を聞く会をできないものだろうか。」
知人の料亭「揚妻」の主人から持ちかけられた。
「何とか頼んで見てくれないか。」
揚妻氏は、場所を提供するから頼んでみて欲しいと言う。
 通訳の三浦さんに話したら、意外と話はすぐにまとまった。企画会社の人にも話したが、決められた以外の時間はフリーだから構わないと言う。日時は会場の公民館が休館の火曜日、昼は山寺に行くので其の後の夕方と言う事になった。
 法話と言えば法事の時に坊さんから聞かされる話を思い出す。しかし、チベットの僧侶の法話と言えば、どんな話が飛び出すのか想像がつかない。皆そんな想いで集まったのだろう。急な話だったが30人ばかり集まった。中には現役の坊さん、神道、キリスト教の人もいた。
 通訳を介して話す1時間の法話は実質非常に短いものだった。内容は、竹筒の蛇(後述)など密教についての一般的な話。マンダラについての初歩的な話だった。もっとも1時間位の話で密教の奥義など話せるものではないとは分かっているけれども。
 参加した人の中にはもっと核心的な話を聞きたかったのだろう。質問を受け付けると唐突な質問が出た。
「悟りとは何なのですか。」
 余りに唐突な質問に私も驚いた。まともに応えれば延々と法話を続けなくてはならないのだろうか。チョガル師は何と応えるのだろうか。そう思っていると三浦さんに質問の内容を聞かされたチョガル師が応えた。
「はい、自由な状態です。完全に自由な状態を言います。」
 余りに簡潔な答えだった。そして、それ以上説明する必要は無いというように説明を終えた。
「悟りとは完全に自由な状態。」
 では完全に自由な状態とはどういう事を言うのだろう。そうなる為には何をしたら良いのだろう。

 

   9.スリッパの話

 山寺から戻った一行は「法話を聞く会」の会場である山形市内の料亭「揚妻」に入った。「揚妻」は木造二階建ての由緒ある、うなぎ川魚の料理屋である。「揚妻」主人の好意もあり、二階の中広間で法話を聞く会、そして大広間で会食会を催させてもらった。
 「揚妻」に着いた一行は靴を脱ぎ、スリッパに履き替えてもらい、控室として用意した一階奥の「竹の間」に通された。チョガル氏はじめ6人と通訳の三浦さんと私。8人が「竹の間」にあがった。私は最後に付いていったが彼らがスリッパを脱ぐのを見て驚いてしまった。スリッパの脱ぎ方がいい加減なのである。まるで外で遊んでいた子供たちが、我先におやつを食べようと家に上がったように、あちら向きやこちら向き、他人のスリッパを踏んづけて、と云った具合でとても大人の仕業とは思えない。こんな事も有るのかと思いながら私は彼らのスリッパを並べた。4足は北向きに、残りの4足は南向きに並べ替え、
「チベットでは靴を並べる習慣は無いのだろうか。」
と考えながら竹の間に入った。
 法話が始まる時間になり2階の中広間に私が一行を案内した。約1時間の法話が終わり一度「竹の間」に戻った。なんと驚いたことに彼らは今度は私が並べておいたのと寸分違わずにスリッパを揃え「竹の間」に入っていった。彼らは僧侶である。廊下を歩くときも部屋の中でもペチャクチャとおしゃべりなどしない。誰かがスリッパを揃えるように注意した様子もない。彼らは一人一人が日本の習慣、礼儀を悟り実行したのだろうと思う。

 

  10.竹筒の蛇

 チョガル氏は法話の中で密教について次のように語っていた。
 「密教を学ぶ、と云うのは大変難しいものです。『難しい』と云うのは理解することが難しいというだけではなく、大変危険な事なのです。チベットではこの事を『竹筒の中に蛇がいる』と例えています。」
 さて、『竹筒の中の蛇』とは何だろうか。
 竹筒の中では細長い蛇は前にしか進めない。後戻りしたり、Uターンすることはできない。ただ前に進むのみである。もしも、竹筒の中に蛇が上向きに入っていたとしたならば蛇はどこまでも上に上っていく事になるが、もしも下向きに入っていたとしたならば蛇はどこまでも下に落ちていく事になる。密教を学ぶ事はこれと同じで、正しく学ぶことができればどこまでも天に向かう道では有るけれども、もしも密教を誤って学べばどこまでも地獄に向かう事になる、と云うことである。
 密教についての詳しい知識を持たない私にとって、『竹筒の中の蛇』が何を意味するのかは良く理解できなかった。しかし、昨今のオウム真理教やその他の新興宗教が引き起こす事件を見ていると正に『竹筒の中の蛇』ではないかと思ってしまう。魂の救済を目的とした宗教活動を一生懸命にしているつもりが人を傷つけ、不幸にしてしまっている。オウム真理教やピープルズテンプル(人民寺院)太陽寺院などの新興宗教の殺人や集団自殺等の悲劇的な結末を見るにつけ、宗教とは何なのかと考えさせられてしまう。

 

  11. 僧侶の食事

 どこの国の人間でも食生活というものがある。国や地域によって産物も違えば調理法も異なる。外国の人を接待すれば、何を用意すれば良いのか迷ってしまう。まして、今回は僧侶である。宗教者の食事には人一倍気を使う。ヒンズー教徒は牛を食べない。イスラム教徒は豚を食べない。酒は飲むのか、肉魚は食べるかと気を使ってしまう。そして、チベットの僧侶は何を食べるのかというのは誰しも関心があった。   イベントを企画した会社の担当者に聞いてみた。
「僧侶は何を食べるんですか。何をご馳走したら良いのですか。」
「ラーメンかハンバーガーを食べさせれば良いですよ。美味しがって食べますから。」
 ラーメン、ハンバーガーというのは意外な回答だった。ラーメンやハンバーガーを卑下するわけではないが、彼らが本当にラーメンやハンバーガーを欲しているとも思えない。
「とりあえず、食べるものを食べさせる。」
と言う風にしか聞こえなかった。
「そんな失礼な話はない。」
そう思い、彼らが何を好むのかを推察した。通訳の三浦さんにも聞いたけれども、
「ええ、何でも食べますよ。ただし、魚は食べないかもしれません。」
 チベットの人達は魚は食べないと言う。チベットにはヤルンツァンポ川という大河があるけれども、ほとんどの地域では川らしい川はなく魚とは無縁なのかもしれない。魚を見たことのない人にとって魚はとても食べられないだろう。
 チベットではツァンパというハダカ大麦を炒って粉にしたものを主食としている。ヤクの乳を原料としたバター茶と共に、あるいはバター茶で練って食べると言う。他にモモという餃子のような料理があると聞くけれども食生活はそれ程豊ではない。
 彼らは甘いものを好むらしい。マンダラの製作中も度々お茶を飲む。お茶菓子には甘いものを食べていた。私も差し入れにと和菓子を持ち込んだら大変喜ばれた。
 知人の料亭で法話を聞く会を催す事になったのだが、さて何を食事に出したらよいのか迷ってしまった。その料亭は鰻、川魚専門の料亭である。川魚は食べないだろうというので料亭の主人と相談して献立を決めた。牛肉は食べると聞いたので牛丼風に出し、鰻の蒲焼も出す事にした。それに山形名物の芋煮である。もちろん酒抜きなのでこちらも酒を飲めない。大広間の会食で私は通訳の三浦さんとともに僧侶の近くに座っていたので彼らが何を食べるのかを見ていた。
 牛丼は皆たいらげ、芋煮も美味しそうに食べていた。鰻は見たことのない人には蛇よりも気持ちが悪いだろう。しかし、蒲焼となれば食べるかもしれないと思って見ていた。6人のうち3人が蒲焼を食べていた。
 会食が終わり我々が席を立った後、会場は出席者が一斉に僧侶達が何を食べたのかを見に上座に殺到したという。皆それぞれに僧侶が何を食べたのか、関心があるらしかった。

 

  12.気前の良いチベットの人達

 日程が全て終わり、後片付けをしていた時である。チョガル師は持参したみやげ物を居合わせたスタッフに手渡した。私も象嵌の飾り物と余った線香をもらった。そして持ち物を整理しているとスタッフの若い女性がチョガル師が使っていた小さい香炉を見て云った。
「あっ、かっわいー。これ欲しい。」
  その香炉は銀の細工をしたものだった。通訳の三浦さんは彼女の言葉をチョガル師に伝えていた。そして、
「いいそうですよ。差し上げると言っています。」
 それを聞いて彼女はびっくりした。まさか貰えるとは思ってもいなかったのだ。そして、周りのスタッフの顔にも
「彼女ばかり、いいなあ。」
という表情がありありだった。それを見て取ったのか、三浦さんが続けて言った。
「チベット人は気前がいいですから欲しいものがあったら早く言ったほうがいいですよ。」
 その言葉を聞いてスタッフから一斉に「あれくれ、これくれ」の大合唱が始まった。
 三浦さんの言葉どおり、チベット人は気前がよく身の回りのものをくれた。
 私も調子に乗ってジャンパ・ソパ師が使っていたマンダラを造る時の砂を入れる筒が欲しいと言ったがさすがにくれなかった。
 私は彼らに上質の羽二重地、胴裏地を一匹贈った。彼らがお礼の印に使うカタという白い布がある。私もカタを貰ったが、その生地は絹と化繊の交織だった。正絹の羽二重地ならば喜ばれると思いチョガル師に差し上げたが、とても喜んでくれた。
 他に何かお土産に欲しいものは無いかと尋ねると、意外な応えが返ってきた。花の種が欲しいと言う。寺の周りに咲かせる花の種だと言う。知り合いの花屋さんから取り寄せお土産にと贈った。果たして彼らは、日本人は気前が良いと思っただろうか。

 

   13.チベット名ソナム・プンツォ

 チベットの僧侶と共にした10日間は瞬く間に過ぎてしまった。初めはどこか異星人のようにも思えたチベットの人達だったけれども、毎日顔を付き合わせれば心が通じ合うものである。言葉は通じないけれども、そばに居て違和感がない。顔かたちが似ていることもあるけれども、そればかりではない。本来人間は国や人種を越えて分かり合えるものなのだろう。そして、それにもまして僧侶の他人に対する愛情、それは彼らの修行が生み出したものに違いない。
 別れの段になっても通訳を通して雑談を交わしていた。そして、僧侶が我々に名前を付けはじめた。チベット名をくれるというのである。  一緒にいたスタッフは、
「ドルジェ・ゴンボ」。
「えっ私の名前・・・「ドルジェ・ゴンボ」?。なんかごっつい名前だな。」
 ドルジェとは金剛仏を表わすらしい。
 そして、私を指差し、
「ソナム・プンツォ」
他の僧侶も同意したように
「ソナム・プンツォ!」
どんな意味が込められているのかは分からない。しかし、通訳の三浦さんが言った。
「結城さん、ソナム・プンツォというのは良い名前ですよ。」
私のチベット名は、ソナム・プンツォ。

 

  14.おわりに

 チベットの6人の僧侶と10日間共にして、私は驚きと発見の連続だった。
 砂マンダラ展を見に来てくれた人達も、緻密で美しい砂マンダラを見て一様に驚き、その美しさに見とれていったようだった。しかし、砂マンダラにふれた多くの人達は、それをすばらしい美術品と受け止めたかもしれない。微細な砂を積み上げて緻密な絵を描く技は、熟練の職人技であり、芸術品と云える物だった。しかし、私を感心させたものは、その技はもちろんの事、彼らのマンダラ制作に対する姿勢だった。
 砂マンダラは美術品でも商品でもない。彼らの生活そのものなのだ。自分の作品を世に問い後世に残したいと云うような芸術家の願望、それはチベットの僧侶達には微塵もない。作品を売って生活の糧にするということもない。彼らの目的は砂マンダラを制作する事だけにあり、他の何物も彼らの心を動かしはしない。
 砂マンダラは神経を張りつめて一週間、息をこらしながら制作される。そして、祈りを終えると惜しげもなく崩され川に流される。それをよしとする心は現代社会に慣れきった人々の誰にも似ていない。
 砂マンダラを制作し、崩して、川に流す。そのいずれもが目的ではなく手段なのだ。彼らの目的は・・・・・、私だけではなく現代社会という麻薬に冒されている者には到底理解できないものなのだろう。
 チベットの話題を取り上げたテレビ番組で、チベットの人達(僧侶ではなく)がインタビューに応えていた。
「あなたは死ぬ事が怖くはありませんか。」
応えたのは露天商のような人だった。
「ああ、俺は何も悪い事はしていない。だから死ぬ事なんてちっとも怖くはないさ。」
 また高齢の老人が応えた。
「私は生きるだけ生きた。あとは死ぬ事だけが楽しみだ。」
 チベットには活仏と呼ばれる人達がいる。中には一生涯一つの部屋から出ることなく経を唱えている活仏もいるという。現代社会の人達には考えられない事である。
 同じような事はインドでもあった。
 石の上で座り続けながら何年間も川の流れについて考え続けている行者。何年間も立ったままの行者など。
 彼らを文明の異端者、世界の奇習、あるいは未開の人達とかたずける事は容易である。しかし、物質文明をひた走り、混乱に陥っている現代社会の方が異端ではないかという論理も充分に成り立つのである。彼らは我々が失った、人間にとって最も大切な物を守り通している、とは考えられないだろうか。

 

  15.最後に

 チベットの僧侶と共にするという貴重な体験だったので、体験記を書いてみた。しかし、私は熱心な仏教徒でも宗教家でもない。強いて言えば浄土宗の寺を菩提寺としているので仏教徒、いや葬式仏教徒と言えるかもしれない。そんな罰当たりな私の目から見た砂マンダラとチベットの僧侶たちである。真面目な宗教家から見れば御粗末な体験記かもしれない。また、学術の専門家から見ればマンダラの稚拙な理解にあきれ返られるかもしれない。しかし、私が見たもの聞いたもの体験したものは私にとって全てであり真実である。何よりも、チベットの僧侶達と直接に付き合えたというのが私の歓びだった。各人各様受け止めていただければと思う。

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