1.あこがれのハワイ航路

 「晴れた空〜そよぐ風〜」 岡晴夫のヒット曲「あこがれのハワイ航路」である。ハワイには今、年間180万人もの日本人が訪れている。それだけの日本人が行くのだから、やはりハワイは日本人にとって「あこがれ」なのだろうけれども、岡晴夫の時代は現在とはおよそ事情を異にしていたのではないだろうか。「あこがれのハワイ航路」がヒットしたのは昭和23年。今から50年前である。当時は今とは違って誰しも彼しも海外旅行に行ける時代ではなかった。
 日本の外貨持ち出し規制が排除されたのは昭和40年代になってからである。それ以前は外貨の持ち出し規制が有り、お金持ちであっても海外で自由にお金を使うことはできなかった。しかも、今から較べれば、円は安く、「上等舶来」という言葉があったように、海外での買い物は安いという現在のイメージとは正反対であった。1949年に1ドル360円という固定相場が設定され、1971年8月のニクソンショックの時に変動相場制に移行し、基準相場が1ドル308円となった。以後、円高が進み、一時は1ドル80円を割ったけれども、現在は120円前後で推移している。円の相場が1円上下するたびに輸出メーカーや原料を輸入するメーカー、為替関係者は戦々恐々としているけれども、30年前の相場から見れば、円は3倍以上の力を持ってきたことになる。岡晴夫の時代に較べれば、裕福な旅行に行ける時代になったものである。
 岡晴夫はマドロスの格好をして「あこがれのハワイ航路」を唄っていた。横浜の港あたりからハワイに向かうイメージなのだろう。当時は船で渡った「ハワイ航路」ならば、現代は飛行機で行く「ハワイ空路」である。今成田からハワイに向けて飛び立つ飛行機は週89便。関西空港からは週35便。その他の地方空港も合わせると、実に週162便がホノルルへ向けて飛んでいる。全便が満席と云うわけではないだろうけれども、週に約5万7千人の乗客をハワイに送り込んでいる。1日平均約8000人。1日15時間営業する定員60名のバスに例えれば、6分30秒に1台ホノルル行きのバスが出ている計算になる。ハワイはそれほど近くなり、OLが気軽に行ける場所となってしまった。既に5回も6回もハワイに行ったという人も私は知っている。岡晴夫の時代とはおよそ違ったみじかなハワイである。
 それほどみじかになったハワイだけれども、私にとってハワイは、それ程「あこがれ」の地ではない。海外へは何度か足を運んだし、これからも行ってみたいと思う所は沢山有る。しかし、行ってみたい外国の地を揚げていけば、ハワイはその順位がずっと下位に位置するのである。行ってみたい所と言えば、近くでは沿海州、モンゴル、チベット、タイ等。遠くでは南米、中東、トルコ、中央アジア、ギリシャ、東ヨーロッパ、北欧、ポルトガル等。いくらでも出てくるけれども、ハワイの名前は中々出てこない。何故ハワイの名前が出てこないのかと言えば、第一にハワイはリゾート地のイメージが強い。一週間位スキンダイビングでもしてのんびりと・・・といったリゾートは私には余り縁が無い。のんびりとしてみたくない訳ではないけれども、時間がないし、あったとしても時間がもったいない。同じ海外旅行であれば、もっと色々な体験をしてみたいのである。第二に日本人が多いと聞く。土産物屋では日本語が通じ、和食にも不自由しないと云う。私の海外旅行の楽しみは自分の知らない世界を体験する事にある。日本人が多く、日本語が通じ和食が出る海外旅行などは私にとって、それ程興味は感じられないのである。
 しかし、今回はそんなハワイへ行く機会を得た。家族と義父、義母、義妹とその子供たち。こんなに早く家族で海外へ行く機会が訪れようとは思ってもみなかった。子供たちをつれて家族で旅行するのであればハワイは適しているかも知れない。海外旅行には危険が伴う。危険を自覚していけばそれ程危険は無いのだが、無防備で海外へ出向くことは危険が伴う。自分がいくら注意しても、子供が一緒となると事情が違う。しかし、ハワイは日本人が多く、子供を伴って行くには比較的安心できるところかも知れない。
 さて、ハワイについて私は三つのイメージを持っている。第一にリゾート地としてのハワイである。前述の通り、ハワイと言えばリゾートのイメージを持つ人がほとんどではないだろうか。第二にポリネシア文化圏としてのハワイである。現在ハワイは政治的にはアメリカ合衆国の一州であり、国際的にもアメリカの領土としてのイメージが強い。アメリカが太平洋の孤島を領有した、というのは事実だけれども、アメリカ以前にハワイはポリネシア文化圏に属していた歴史を持っている。ハワイと聞いてフラダンス、と連想するようなポリネシア的な印象を持つ人はいても、ハワイのポリネシア文化を積極的に感じようとする人はいないのも事実である。ポリネシア文化圏のハワイ、という見地でハワイに行けばいくらか違ったハワイが見えてくるかも知れない。第三にハワイは日本人にとっては忘れてはならない真珠湾奇襲の舞台となった地である。真珠湾奇襲は「リメンバーパールハーバー」の言葉通り、日本人よりもむしろアメリカ人にとって忘れられない出来事だっただろう。それだけに日本人は真珠湾奇襲を忘れてはならないのである。ハワイに住む日系人を含むアメリカ人、ハワイを訪れるアメリカ人、またハワイを訪れる日本人が真珠湾奇襲をどのように感じ、何を残しているのか、初めてハワイに行く私にとっては興味深い物が有る。

 

 2.タイムラグ(時差ボケ)

 海外旅行をすれば時差ボケに悩まされるのは私だけではない。地球の裏側に行けば昼と夜が逆転してしまうのだから普通の人間では参ってしまうのは当然である。南北に、すなわち同じ経度を移動する分には時差は感じない。同じ経度に位置するオーストラリアに行っても日本との時差ぼけに悩まされることはない。しかし、東西に旅する場合は少なからず時差ボケになる。中国や香港の様に近ければ時差は少ないけれども、少なければ少ないでこれが結構厳しい。1時間の時差は朝1時間早く起きること、又は夜1時間遅くまで起きている事である。毎日規則正しく生活している者にとっては、1時間でも時差は充分に感じられるのである。
 日本とハワイの時差は19時間である。ハワイが日本よりも19時間送れている。19時間遅れていると云えば計算が面倒だけれども、ハワイが日本よりも5時間進んでいると言えば話が早い。日本とハワイの間に日付変更線が有るために「19時間の遅れ」という表現をするが、体に感じる時差は5時間である。日本の朝7時はハワイの正午にあたる。この5時間を短時間に吸収しなければならないのである。
 時差ボケのメカニズムは誰でも知っている。地球の回転に逆らって、あるいは回転に沿って高速で進むことにより相対的に地球より遅く、または速く回ることになるのである。神は人間を創るにあたっては、時差ボケなどは想定しなかったに相違ない。人間がいくら速く走ろうとも、時差を感じることはない。1日に100km (マラソンの約2.5倍)東西に走ったとしても時差は感じられない。例えいくらか時差を感じたところで、体力を消耗し疲労による安眠の為に、わずかの時差は相殺されるように神は人間の体を創ったのかもしれない。
 問題は人間が自分の足で歩く(走る)ことなく高速で長距離移動できるようになったことに有る。牛車や馬車では問題にならない。牛にしろ馬にしろ神が創ったものに時差ボケは想定されていない。動物の中で最も足が早いと言われるチーターがいくら速く走ろうとも(最高時速113km)、神はチーターに持久力を与えなかった。
 船はどうだろう。手漕ぎの船も問題にならない。帆船はどうか。帆船は人間にとって長距離移動する交通手段としては画期的なものだった。時差ぼけは東西に移動しなければ起こらない。昔の船は陸地に沿って進む場合が多いので、長距離進もうとも経度差はそれ程にはならない。東西に長距離移動した最初の例はコロンブスとマゼランだっただろう。(それ以前にバイキングが船で大西洋を渡っていたと言われているけれども記録が無いのでここでは削除する)コロンブスはスペインのパロスを出帆してバハマ諸島に到達するまでに72日間、マゼランが南アメリカ南端のマゼラン海峡を抜け、フィリピン、オモンオン島に到るまでに110日かかっている。それぞれの時差を平均すると1日あたりコロンブスは4分、マゼランは6分の時差を感じていた事になる。これは充分に人間が吸収できる時差の許容範囲だっただろう。
 最近、豪華客船による世界一周旅行というものが企画されている。先日も新聞に参加者募集の広告が出ていた。日程は92日間で、東京を出発しインド洋からスエズ運河を通りカサブランカから南米のサルバドルへ。パナマ運河を通ってアラスカのジュノーから東京へ戻る、というものである。コロンブスやマゼランの時代とは比較にならない程、船の性能も航海技術も発達している現代の旅行である。その旅行の中で最も時差を感じるだろうと思われるのは、カサブランカからブラジルのサルバドルまでの9日間。アラスカのジュノーから東京までの10日間の船旅である。それぞれ1日の時差に換算すれば、20分と36分である。現代の船の旅でも、それ程時差は問題にならない。
 船よりも速い長距離交通手段としては鉄道がある。東西に走る長距離鉄道としては、大陸横断鉄道がある。ウラジオストク・モスクワ間9297kmを結ぶロシアのシベリア鉄道。アメリカ東海岸と西海岸を結ぶアムトラックなどは、その代表である。シベリア鉄道はモスクワ、ヤロスラウリ駅からウラジオストクまで7泊8日、アムトラックはマイアミとロスアンジェルスの間を69時間かけて大陸を横断する。1日あたりの時差に換算すると、それぞれ48分、62分である。時差を感じる事はあるかも知れないが、時差ボケと云う程ではないかも知れない。
 問題は飛行機の登場である。人間が鳥のように、それも長距離空を飛ぶことなど神は想定しなかっただろう。あるいは、神は空を飛んだ人間に「時差ボケ」という罰を与えたのかも知れない。初期の飛行機の速さは、せいぜい時速150km。初めて大西洋を単独無着陸飛行したリンドバークは33.5時間掛かってニューヨーク・ロングアイランド、ローズベルト飛行場からパリまでの約4200kmを飛んでいる。ニューヨークとパリの時差は実質5時間。1日に換算すると3.58時間。彼は人類で初めて時差を感じた人かも知れない。しかし、当時の飛行機では操縦するための疲労も相当に有ったのではないかと思う。彼は疲労のために時差ぼけを感じる余裕も無かったかも知れない。
 現代の旅客機は居ながらにして長距離を移動することができる。客室という狭い部屋の中で数時間退屈な時を過ごし、外に出てみれば数時間時刻の進んだ(遅れた)世界に足を踏み入れることになる。あたかもタイムマシンである。これでは神の罰を受けてもしょうがない。
 飛行機で旅慣れた人であれば、否初めて海外旅行をする人であっても時差ボケの影響を最小限にくい止める術を知っている。旅に出る数日前から少しずつ早起きをするとか、飛行機に乗ったら酒を飲み眠ってしまうとか、あるいは反対に眠くなっても機中では眠るのを我慢して、目的地に着いてから眠る、などいろいろな工夫が有る。
 今度も私は時差ボケには充分な対策を講じようと思っている。しかし、今回は子供同伴である。時差のメカニズムを理解できない子供が時差に直面した時、どのようになるのだろうか。
 仙台を午後6時30分に飛び立ち、ホノルル空港まで6時間30分。現地時間の朝六時到着である。飛行機に乗り、すぐに眠れば6時間眠ることができる。しかし、そうはいかないのが現実である。乗り合わせたパーサーも「行くときは興奮していますからなかなか眠れませんよ」と言っていた。  私はそれ程興奮していないつもりだったが、やはり眠れない。飛行機は空いていて充分に横になることができたけれども結局眠れなかった。
 次男駿三(6歳)の様子を観察してみた。
 初めての飛行機という事もあって、機内では緊張していた。私も初めて飛行機に乗ったのは20歳の時だったけれども、その時の緊張は忘れない。やはり神は、人間が空を飛ぶ事など想定してはいないのである。しかし、人間の適応能力は神も想像を絶するかも知れない。しばらくすると、子供も飛行機に慣れ、はしゃぎはじめ、機内食も食べていた。結局、機内では2時間程(日本時間午後10時〜12時)寝ていた。
 私は、ほとんど眠れずにホノルル到着のアナウンスを聞いた。現地時間午前6時、日本時間午前1時である。夜が明けたばかりのホノルル空港に降り立ったが、子供は2時間しか眠っていないにしては元気である。初めて踏む異国の地を意識してか、足下もしっかりしている。入国手続きを終え、アロハタワーへ。現地時間7時30分、日本時間午前2時30分。8時30分の観光バスに乗り、「ハロナ潮吹き穴」「シーライフパーク」「ヌアヌパリ展望台」を廻る。シーライフパークに着いた時は、はしゃいで友達への土産物を捜していた。シーライフパークを出てヌアヌパリまでの間、30分程眠る。ヌアヌパリに着いた時は、女房は寝ていて外に出ず、私は二人の子供と強風にあおられながらも展望台に行く。ヌアヌパリを出てから、次第にまぶたが重くなり、11時(日本時間6時)頃には女房の膝枕で眠ってしまった。11時30分にアロハタワーに戻ったけれども、起きようとしない。私がおんぶをして昼食のレストランに。レストランに着いても未だ起きない。椅子に座らせたけれども、テーブルにうつ伏せになって眠っている。食事も一人分もらったので、私が二人分食べるはめになった。食事が終わっても未だ起きない。ホテル行きのバスに乗り、ハワイアンリージェントホテルに向かう。ホテルに着いてようやく起きる。午後1時(日本時間午前8時)ホテルの中では再び元気になり、子供5人ではしゃいでいた。  ハワイ到着当日は、余り歩き廻らずに、早く床に入るようにというアドバイスもあったので、皆で早めに寝る。駿三は8時(日本時間午後3時)に眠り、朝7時30分(日本時間午前2時30分)まで約11時間30分しっかりと寝ていた。その後は、もう時差ボケなど全く無いかのようであった。子供の適応能力とはたいしたものである。どうしたら時差ボケを解消できるかと、あれやこれやと考えた私の方が時差ボケが残っていた。
 子供の時差ボケを心配した私だったが、やはり神は素直な者に罰を与えることが無い事が良く分かった。しかし、子供のように自然のままに生きられないのが現実である。

 

 3.タイ人スチュワーデス

 仙台発ホノルル行きの飛行機は、日本航空JAL56便だった。日本人にとって日本航空は何故か安心感が有る。日本人が乗務していて日本語が通じる。日本を高度成長に結びつけた日本の品質管理から来る、日本製、日本のサービスに対する信頼、安全性などがそれを裏打ちしているのかも知れない。
 しかし、最近の外国の航空会社でも日本を発着する便には日本語の分かる人間を乗務させているし、世界の航空会社の中で、日本航空が飛び抜けて安全であるとは言い切れない。もしも、飛行機が落ちる様なことが有れば、日本の航空会社であれば保障も手厚いのではと、死んだ後のことが頭をかすめるのかもしれない。実際GDPの低い国の飛行機が落ちても保障は日本の航空会社程期待できない。当事国の実勢から考えれば精一杯誠意有る保障をしたとしても、日本人から見れば取るに足らない補償である場合もある。もっとも、死んだ後の事はどうでも良いことなのだろうが、残された家族を考えれば、日本航空は安心と言うところだろう。
 しかし、私は日本航空で海外に旅立つのは、少し物足りなさを感じる。何不自由無い日本式の機内サービスが、海外へ旅立つ実感を萎えさせてしまう。言葉が良く通ぜずに、日本とは違ったサービスが出てくれば、空港を飛び立った時から海外旅行を実感できる。そう思うのは私だけだろうか。
 飛行機に乗り込むと、まずスチュワーデスの挨拶を受ける。彼女の人柄がそうなのか、それとも社員教育が徹底しているのか、スチュワーデスはとても愛想が良い。愛想の良い美人なスチュワーデスにうやうやしく歓迎の挨拶を受けると「自分もこんな美人に愛想よく迎えられ海外に旅行する程えらくなったものだ」と自尊心があおられるのは、私が下賤だからかも知れない。
 搭乗口から機内に入ると通路に等間隔にスチュワーデスが立ち乗客を案内する。マニュアル通りの機内風景だけれども、今回はいつもと少し雰囲気が違う。通路に立ち乗客を案内する女性が日本人ではないようだ。「この飛行機は日本航空機」という先入観が敏感に違和感を刺激する。私の日本人的島国根性も相当なものである。彼女らはちょっと色の黒い、南方系の女性であることが分かる。「へーえ、日本航空でも外国人スチュワーデスを雇っているのか」と思うと同時に、そんな新聞記事が有ったことを思い出した。『日本航空で外国人スチュワーデス採用』、その記事を思い出すと、「なるほど、ハワイ路線には現地人を採用しているのか」と直感的に思った。『仙台〜ホノルル間にハワイの女性をスチュワーデスに採用』つじつまが合う。と、勝手に思い込んでいた。
 乗客が座席に付き、搭乗口が閉められると、パーサーのアナウンスが流れた。
 「本日は日本航空を・・・・・・」
 「本日はタイ人スチュワーデスが乗務し、皆様のお世話をさせていただきます。これよりタイ式にて皆様にご挨拶申し上げます。」
  彼女達は仏教国タイらしく、両手を併せて膝を軽く折って挨拶した。
 私が勝手にハワイの人だと思っていたスチュワーデスはタイの女性だった。そう言われれば、そう見えてくる。私はタイに行ったことはないけれども、テレビで見るタイ人はそんなだったかなと思える。
 ポリネシア系のハワイ人とタイ人。私は民族学について詳しくは分からないけれども、どちらも黄色人種だが、明確に違うはずである。タイの人間がハワイの人を見れば、間違いなく見分けが付く。ハワイの人がタイ人を見ても同じだろう。日本人はアングロサクソンやゲルマン、スラブの人間を見て即座に見分けることができない。見分けることができるとしたら余程国際社会、とりわけ西欧社会に精通し、実際にその社会で生活したことのある人だろう。私もローマで韓国人と間違えられたことが有った。イタリアの人間にしてみれば、日本人も韓国人も中国人も皆同じように見えるのだろう。
 アメリカが国連平和維持活動部隊(PKO)としてソマリアに軍事介入した時に、統一ソマリア会議議長のアイディード将軍を捕えることができなかった。原因はアメリカがソマリアの民衆の支持を完全には得られなかったことも有るけれども、アメリカ軍の兵士にはソマリア人が皆同じ顔に見えて、アイディード将軍を特定できなかったからだと云う。ソマリア人同士では誰でもアイディード将軍の顔は特定できるのだろうけれども、アメリカ人には皆同じ顔に見えてしまうのである。
 タイ人もハワイ人も見分けることができない、外国人を特定できないというのは、国際社会に慣れていない証拠だろうか。言葉と同じである。外国の言葉が分からないのは、外国に慣れていないからに他ならない。
 外国人の顔が特定できないというのは、言葉が分からない事に比べれば、ほんの小さな事のように思えるけれども、こんな所にも国際人であるか否かの尺度が有るように思える。

 

 4.ヘール・ボップ彗星

 ホノルル空港に着陸する一時間程前、パーサーの機内放送が有った。
 「左にヘール・ボップ彗星が見えます。」
機内の灯が消され、起きていた乗客は皆左の窓に張り付いた。怪しい尾を引くヘール・ボップ彗星が見えた。少し曇ったガラスを通して見たヘールボップ彗星だったけれども、街の灯に邪魔されずに見る彗星は、まさに空に浮かぶほうきだった。
 天体の出来事、異変には誰しも少なからず興味を示す。日食や月食、流星群や彗星の出現、火星大接近など、天体の異変をマスコミは「天体ショー」と呼び大々的に報道する。「天体ショー」は人の心をロマンスへとかき立てる。人間の力の遠く及ばない天体の異変に現実を離れて見入ってしまうのだろう 。
 彗星の尾を引いた見事な写真は新聞。雑誌で良く目にする。私も小さいときにハレー彗星の写真を見て、自然への神秘を感じ、本物のハレー彗星を早く見てみたいと思っていた。前回(1910年)のハレー彗星接近の時には、地球がハレー彗星の軌道と交差して彗星の尾に入ってしまった。その時の巨大なハレー彗星の写真や観測された絵が残されている。当時はハレー彗星の尾に含まれる青酸ガスの為に人類が滅亡するとの噂も流れ、大変な騒ぎだったらしいが、それ程地球が彗星に接近するのは極稀な現象である。
 彗星の写真はどれも鮮明な写真が載っている。肉眼でもそのように見えると思ってしまうけれども、実際にはそうではない。そのような写真は専門家が望遠鏡を使って撮影した写真である。巨大な彗星が観測された昔の記録が多く残っているけれども、それは暗かった昔の夜空のなせる業である。今は大概の彗星は肉眼ではっきりと見ることはできない。深い山に入り天を仰げば見られるのかも知れないが、街の中では街の灯が邪魔をして彗星の尾をは夜空のシミにしか見えなくなってしまった。
 百武彗星も巨大彗星として話題を呼んだ。その時も暗い空を仰いでも、薄ぼんやりと輝く星を見て、「あれがそうかな」と思う程度しか見えなかった。今度のヘールボップ彗星はさらに大きな(見かけ上)彗星で、街中でも肉眼ではっきりと見ることができたが、写真で見るようなはっきりとたものではなかった。
 1985年のハレー彗星を始めとして、最近彗星が頻繁に現れるようになったような気がするのは私だけだろうか。ウエスト彗星、コホーテク彗星、木星に衝突したシューメーカー・レビー彗星、百武彗星、そしてヘール・ボップ彗星。小さい頃から彗星を見てみたい云う願いが最近になってかなえられたような気がする。
 彗星の出現は古来、凶事の前兆とされてきた。古代より幾多の彗星が現れ目撃されてきたのだから、それはなまじ根拠のない事ではないのかもしれない。そういわれれば、最近は凶事の連続である。オウム事件や相次ぐ金融不祥事。長年かかって創りあげてきた社会の規範が崩れるような事件が毎日のように新聞をにぎわしている。
 彗星が華麗な天体ショーを見せてくれるのはいいけれども、その巨大な尾で凶事を引き摺ってきてもらいたくないと思う。もっとも悪いことをしているのは彗星ではなく人間の方なのだけれども。

 

 5.レイ

 ハワイのイメージといえばフラダンス。そして、そのダンサー達が首にかけている花輪がレイである。
 空港からアロハタワーに着くと、ハワイの女性がレイを首にかけて歓迎してくれる。レイは花輪である。写真では見た事があったけれども、実物を見るのは始めてである。クリスマスパーティなどで首にかけるキラキラ光る輪ぐらいにしか思っていなかったけれども、かけてくれたレイは本物の花だった。ピンクや赤い花を一つ一つ糸で繋いである。さぞ手間がかかるだろうと思うけれども、日本の旅行社のサービスは過剰である。おしよせる日本人観光客一人一人にレイをサービスしていたらハワイの花は無くなってしまうのではないかと思えるのである。
 レイをもらった駿三(六才)は  
「なんだかベタベタしていやだ」
と言ってレイを取ってしまった。私がレイを2本巻いたけれども、なるほど生花が肌に触れるとベタベタするような感触である。それでも決して気分は悪くない。
 レイはハワイの住民が装飾品として使った花輪である。材料は花だけではなく八波木の実、貝を使ったものもある。もともとは神への捧げ物だったらしいが、後に客の首にかけて歓迎すると言う週間が起こったという。
 小さな花をいくつも糸で繋いでレイを作るのは大変な手間である。客を歓迎する気持ちがレイには込められている。
 話は変わるけれども、山形にチベットの僧侶が来た事があった。その時私は彼らの接待係を務めた。チベットでは「カタ」という白い布を神に捧げる週刊がる。私も彼らに「カタ」をもらった。首に掛けてもらったカタは経糸が化繊、横糸が正絹で織られたものだった。日本の羽二重地に似ているので、上等の羽二重の胴裏を彼らに贈ったら大変喜ばれた。
 その「カタ」は神への捧げ物であると同時に客を歓迎するときにも使われる。そして、白い布を送るのはチベットには花がないのでその代わりだと言う。
 日本でも仏壇に花を飾るように、チベットでも花を飾りたいのだけれども、花が手に入らないので代わりにカタを供えるという。彼らが帰国するときに「何か贈り物を」と聞いたら、花の種が欲しいと言っていた。花には特別な意味があるらしい。
 ハワイの「レイ」とチベットの「カタ」、どこか共通点があるように思える。遠い昔には、そのルーツは同じではなかったのだろうか、と想像を豊にしてしまった。

 

 6.家を半分とられる

 朝6時に飛行機は無事ホノルル空港に到着し、旅行者の案内でアロハタワーマーケットプレイスに向かった。そこで、旅行社の人から現地での説明や注意が行なわれる。7時過ぎにはアロハタワーに到着し、オリエンテーションが終わったのは8時過ぎだった。アロハタワーマーケットプレイスにはレストランやお店がたくさん有るけれども、まだ開いている店はない。義父は朝食を心配していたが、レストランも開いていない。ホテルに入ろうにも、ホテルは午後からしかチェックインできない。時差ボケで積極的に歩き廻る気にもなれない。暇潰しに観光バスに乗った。旅行社が仕立てる観光バスで無料。3時間程で観光の要所を廻ってくれる。バスの運転手は日本語を話す日系人である。完璧な日本語ではないけれども、十分に意味の分かる日本語で、ジョークを交えながら説明してくれる。
 アロハタワーを出たバスは市内に入り、イオラニ宮殿、カメハメハ大王の像を見ながら、高速道路に入り東に向かった。郊外の住宅地の中を走り、ハワイ大学の側を通りすぎた。右手には海が見える。しばらく行くと、運転手は
 「この先の右手の家を見てください。家が半分切り取られています」
見れば、成程高速道路沿いの家が、道路に平行にケーキを切ったように切り取られている。少しして、た運転手が、
 「その左手の家もそうです。家が切り取られたようになっています。」
さらに続けて
 「これらの家は、高速道路を作るために切り取られたものです。日本ではどうですか。立ち退き料は時価でしか買い取られませんから極わずかです。日本のように高額の保証金や立ち退き料は支払われません。」
 彼は、日系人だからか、あるいは日本人を相手に商売をしているからかどうか分からないけれども、日本の事情に精通している。
 日本の都市計画のネックは道路の拡幅である。我山形市でも市中心部の道路整備は遅々として進まない。数百mの道路を拡幅整備するのに、十数年の年月と、考えられないほどの用地買収資金が必要となる。長年掛かって進められた幹線道路の整備が、立ち退きを拒否する唯一件の為に全面開通できずにいた例を幾つか知っている。どうしても立ち退かない其の一件の為に、片側二車線の道路は、そこだけ片側一車線にしぼられ、側溝もその家を避けるように、わざわざ作られていた。どのように交渉がまとまったのかは知らないけれども、程なく其の家は立ち退き、改めて側溝、道路の工事を進めていた。無駄としか言いようの無い対応だけれども、日本国憲法に守られた国民の正義を貫くには仕方の無い事らしい。  時間と多額の資金を投入しなければ、整備できない市内の道路整備はあきらめ、為政者は自分の功績を目に見える形で残そうと、金も手間も掛からない周辺部の道路整備ばかりを進め、中心部は税金は高いが、整備が進まないというアンバランスな状態におかれ、都市中心部の空洞化が進むのである。
 ハワイで都市計画に従って道路造りを進め、住民に立ち退き又は敷地のカットをすることは、世界的な視野で見れば珍しいことではない。スイスに行った時も同じようなことを聞いた。住民の代表が決めた都市計画であれば住民はそれに従うのが当然だという。立ち退きを拒否しようものなら、その人間は社会から締め出されてしまう。日本で言えば村八分というところだろう。
 このことは、日本と外国の国民感情の違いとしか言いようがない。日本人の土地に対する執着心はすごいものがある。土地に関するいさかいを数え上げればきりがない。都市計画道路に関するもの。成田空港建設時の三里塚紛争から猫の額を争うような隣近所との土地争い。何故かくも日本人は土地に執着するのであろうか。
 「御先祖様から貰った土地」という事もあるだろうし、都市部では一坪当たり数百万円と高価な事もその原因に揚げられるだろう。また、日本は狭い国だからだとも言われる。しかし、まことしやかに学術的にいわれるのは、農耕民族と遊牧、狩猟民族との違いであるという。農耕民族である日本人は農業を通して土地への執着心が強いと言うわけである。しかし、世界の農耕民族は、全て日本のように土地に対する感情(公共よりも個人の土地が大事)という感覚を持っているのだろうか。
 現代の世の中、農耕民族だの狩猟民族だのという言葉は、既に死語になっている。近代的な文化が世界の隅々にまで行き渡り、いまだに狩猟や遊牧をする極一部の人達でさえも、バイクや車、テレビやラジオといった文明の利器が入り込んでいる。まことしやかに農耕民族、遊牧・狩猟民族と民族のルーツを云々することも悪いことではないけれども、それはそれだけの話である。現代の社会をどのようにするかは現代の人達にかかっている。今の社会にとって何が大切かを考えれば、農耕民族の末裔を盾に「ごね得」をきたいするような行為が認められるのはいかにもおかしい。  観光、リゾートに収入の多くを依存するハワイでは、リゾート環境の整備が何よりも優先である。それは州政府の政策だけではなく、ハワイに住む人、一人一人が自覚している事なのだろう。観光道路の整備が進まなければ、すなわち自分たちの首を締めることになるのである。
 欧米諸国の整備された都市を見ると、いかに日本の都市整備が遅れているのかを痛感する。土地は個人の物、という日本人の感覚は欧米では通用しない。日本の常識、世界の非常識である。

 

 7.バックオーライ

 観光バスに乗り、ハロナ潮吹き穴に行った時の事である。朝9時を回った頃だったけれども、既に駐車場にはタクシーやリムジン、大型バスが沢山止まっている。
 ハロナ潮吹き穴は寄せ来る波によって、岩の間から噴水のように海水が吹き上がる観光名所である。たわいもないと言えばそれまでだけれども、たわいもない物が名所になるのが観光地が観光地である所以である。その時はあいにく小雨が降っていた。たわいもない物でも折角来たのだからと見なければ気が済まないのは誰しも同じである。小雨に濡れながらも展望台へ行き、岩の間から潮を吹く様を見て戻ってきた。皆小雨に濡れながらも小走りでバスに戻ってくる。運転手は全員がバスに戻ったことを確認するとエンジンをかけた。そして、そろそろとバスをバックさせた。
 日本では一昔前までは大型バスをバックさせる時にはバスガイドがバスを降りて、安全を確認しながら後ろでバスを誘導していた。ガイドの誘導する「ピッピッ」という笛の音が何故か私には学生運動のデモ行進を連想させた。図体の大きなバスをバックさせるのだから大変だろう。後ろを良く注意しないと危ないだろうと日本人なら誰でも思う。運転手は、そうした日本人の気持ちを知ってか、
 「ハワイではバスは急にバックしますから気を付けてください。皆さんのバスは、お金持ちの日本の旅行社のバスですから後ろにはテレビカメラが付いています。」
と言って、備え付けられたテレビ画面を見ながらバスをゆっくりとバックさせている。車を切り返し、次の名所シーライフパークに向けて走り出すと、  「他のバスにはカメラは付いていませんから、バスの後ろは気を付けて通ってください。」
そして、
 「もしも、ひかれた場合は、ひかれた方が悪いですから。」
と、乗客に注意した。彼は、日本の事情を知り、本気で乗客に注意したのだろう。
 日本でバスがバックして人をひいたらどうなるだろう。「運転手の後方不注意」とかの理由で運転者が罰せられる事になる。しかし、ここハワイでは事情が違う。「歩行者の不注意」である。
 日本では、いかなる交通事故であろうとも、歩行者の責任を追求されて歩行者が罰せられるという事は考えられない。車と歩行者、バイクと歩行者、自転車と歩行者が事故を起こせば、罰せられるのは大概、車やバイク、自転車の方である。歩行者が意識して、走っている車の前に飛び出したとしても、歩行者が一方的に罰せられるケースは少ない。車のいささかのスピード違反や脇見運転、あるいはブレーキを掛けるのが遅れたと、最大限歩行者が弁護される。その常識から考えれば、バスがバックして人をひいたら、ひかれた人が罰せられるというのは腑に落ちない。
 日本の法体系には「弱者優先」という不文律が有るように思える。何が弱者か、という事については、多いに議論しなければならない事が沢山有るけれども、歩行者は交通弱者と見られている。交通事故に限らず、税金の累進課税制度も、その現われである。所得の高い者は強者、所得の低い者は弱者と見られる。弱者の救済を旗印にする政策は国民の支持を得る事になる。
 かかる法体系、というよりも国民感情は決して悪いことではなく、判官贔屓の日本人の性格を良くあらわしている。しかし、これはあくまでも日本人の物の見方、考え方である事を忘れてはならない。バックしてくるバスにひかたら何故歩行者が悪いのか。説明しようと思えば説明できないことではない。
『バスは前に進むと同時に後ろにも進む乗物である。まして、駐車場に停車しているバスは、バックするのは当然である。バックで歩道に乗り上げたり、バックで住居に突っ込む事は違法だけれども、駐車場でバックをするのは何ら違法ではない。駐車場で、バックする可能性の有るバスの後ろを何の注意もせずに歩くことは、そのために引き起こされる事故については、歩行者が責任を持たなければならない。クラクションを鳴らしてバックしてくるバスにひかれることは、視覚的にも聴覚的にも明らかに歩行者の不注意である。』
以上のような判断でアメリカでは歩行者が罰せられるのではないだろうか。
 アメリカやヨーロッパを旅すると、信号が赤であるにもかかわらず、信号を渡る人が多い。警察官がそばにいても、車が来なければ注意したり制止したりする様子もない。自分で安全だと判断すれば、平気で赤信号を渡っている。日本では車が全く通らない時でも、赤信号を渡ろうとすれば警察官に制止される。欧米では個人の責任が重要視される。自分の判断で赤信号を渡るのであれば、誰も干渉しないけれども、事故が起これば全て個人の責任に帰される。
 欧米の慣習から見れば、日本の法体系、国民感情は真に不可解に映ることだろう。ここでも、日本の常識、世界の非常識である。

 

 8.雨のホノルル

 ハワイ時間朝6時、ホノルル空港に降り立った時は曇っていた。さすがに日本より暑かったが、真夏という程ではない。滑走路もそうだったけれども空港から外に出ると道路が濡れている。水をまいたようにも思えたけれども、どこまで行っても道路が濡れている。
 夜来の雨が道を濡らす、と言うことも有るが 日本とは風情が違っている。
常夏のハワイと聞けば、年中夏が続くように思われる。夏と言えば日本の夏を想像してしまう。日本の夏と言えば、かんかん照りの夏である。夏に雨が降るときは、夕立のように厚い雲が空を覆い、雨を降らす。しかし、ハワイの空は少し違う。うす曇りの明るい空から時折雨が降ってくるのである。雨が降ったと思えば止み、止んだと思えばまた降り出す。空を見上げても雨が降るかどうかは予測がつかない。熱帯のスコールとはこういうものなのだろう。

我々が 滞在した始めの二日間はよく雨が降った。次第に天気が回復し、最後の日は真っ青な空が広がっていた。我々が到着する前日までは毎日雨の連続だったという。
雨のハワイ、雨のホノルルというのは想像できなかったけれども、ハワイは良く雨が降る。実感だった。

 

 9.ポリネシアン・ププ・プラッター

 初日、観光バスでアロハタワーに戻り、初めての食事をした。食事は私にとって旅行の最高の楽しみである。特に、食べたことの無いような現地の味に出会えることを楽しみにしているのである。
 レストランが並ぶ中、選んで入ったのはステーキハウスである。そこでは旅行社のクーポンが使え、特定のメニューが出される。義父を始め、皆ステーキを頼んだけれども、私一人他のメニューを捜した。
 『ポリネシアン・ププ・プラッター』 名前からして現地の料理らしいので期待を持って頼んだ。何が出てくるのか分からない。ハワイの料理とはいえアメリカの料理であることには変わりない。たいして味には期待しないけれども何が出てくるのかたのしみだった。ポリネシアの味、と言ってもまるで想像がつかない。イタリアや地中海の料理と言えばオリーブオイル。中華と言えば胡麻油の匂い、と大体想像が付く。しかし、ポリネシア料理と云っても、何を連想して良いのか分からない。バナナやタロイモと言った材料名は頭に浮かぶけれども、タロイモとはどんな食べ物なのか、料理法は、味は、全く分からない。
 出てきた料理は想像していたものとは違っていた。何の変哲もない鳥や豚の唐揚げに何故か春巻が添えられている。
 「何だこれは」 これがポリネシア料理とは思えない。
 唐揚げを付けるたれ(ソース)が、二種類付いていた。一つは辛子がベースのソースである。もう一つのソースは、マーマレードを薄くのばしたようなソースだった。辛子のソースはまずまず、どこにでもあるような、と言えばそんな味である。マーマレードの方は当然甘いたれである。鳥の唐揚げにマーマレードを付けて食べると思えば良い。私は酒を飲むこともあって甘い物は好まない。マーマレードと唐揚げという組み合わせが、舌の感覚を刺激する以前に頭の中で拒否反応が起きるのである。しかし、そこは旅の好奇心である。唐揚げにマーマレードを付けて一口食べる。唐揚げとマーマレードが口の中でいっしょになり、舌の上でケンカをしている。何とも奇妙な味である。
 日本であれば唐揚げにマーマレードを出されても、手を付けようとはしないけれども、旅先ではどうも感覚の一部がマヒしてしまうらしい。鳥唐、豚唐、一口、二口と口に運んでしまう。すると、次第に「そんな味だったかな」と慣れてしまう。
 「食生活は慣れ」という事は良く経験する。始めてみる料理に「よくそんな物を」と思うことがしばしばある。食べたことの無い食べ物に、舌で味覚を感じる前に視覚、臭覚を先に感じてしまう。(食べ物として)見たこともないもの、匂いをかいだ事の無いものを称して「ゲテモノ」というのである。
 最近はフランスの「エスカルゴ」なる、かたつむりの料理は日本でも食せられるようになったけれども、昔は「かたつむり」という視覚が先行してゲテモノの最たるものだった。私の息子も「エスカルゴを食べたい。」などと分不相応な事を言う。フランス人にとってエスカルゴはゲテモノでも何でもない。見方を180度変えれば、日本人の食卓はゲテモノの品評会である。イカやタコは食べたことの無い人達にとってはゲテモノ意外の何物でもない。ましてナマコとなれば見ただけではき気をもよおす人もいるだろう。「ナマコを始めに食べた人は偉い」とは良くいわれるけれども、ナマコに限らず、食材は何でも初めて食べた人は偉い、と言えるかも知れない。
 視覚に劣らず臭覚も「ゲテモノ」の尊称をいただく要素である。八丈島の「くさや」、滋賀県の「鮒寿司」は食べたことの無い人にとってはゲテモノの典型である。私は両方とも食べるし、とても美味しいと思う。特に鮒寿司は酒の肴にもってこいである。
 私が京都にいた時、仕事で滋賀県をまわっていた。得意先で夕食を馳走になり、鮒寿司が出された。主人は私が山形の出身と知って、わざと鮒寿司を出したのだった。私は以前から鮒寿司は食べていたし、本場の鮒寿司が食べられたと喜んでいた。
 「鮒寿司ですか、美味しいですね。その頭もいただけますか。」
主人は妙な顔をしていた。滋賀県の人間は「鮒寿司は自分達(滋賀県の人間)しか食べないと思っている節がある。
 食べ物好き嫌いは慣れである。「くさや」などは「慣れると美味しい、くさやの干物」という言葉があるように、私も始めは臭くて食えなかったけれども、慣れてくると美味しいのである。外国人から見れば、日本食は「鮒寿司」や「くさや」を揚げるまでもなく、漬物から納豆までゲテモノだらけである。
 視覚や臭覚だけでなく、好き嫌いには先入観から来るものも有る。何と何を食い合わせるか、と言う食い合わせの先入観である。ポリネシアン・ププ・プラッターは、その例にあてはまる。塩辛い唐揚げと甘いマーマレード。頭の中ではどうしても組み合わせることができない。
 「ところてん」と言う食べ物が有る。花見の頃には初夏の味覚として食される。山形では、酢醤油にカラシを入れて食べる。酢醤油の酸っぱさと塩辛さと、鼻にツンとくるカラシの辛さがとても美味しい。しかし、京都では「ところてん」に黒蜜をかけて食べる事が多い。同じように、京都では「葛きり」にも黒蜜をかけて食べる。甘い黒蜜をかけるのである。清水寺の三年坂あたりで出されるのはほとんどが黒蜜である。「ところてん」と言えば酢醤油、「葛きり」と言えば鍋物でしか食べた事のなかった私が、京都で黒蜜のところてんや葛きりを出された時には気が動転した。甘いところてん、甘い葛きりという味覚は私の頭の中には、どこを捜しても見あたらない。黒蜜をかけたところてんを一口食べようものなら、黒蜜と酢と醤油とカラシが口の中でいっしょになりそうな気がするのである。オレンジジュースに醤油を入れて飲んだり、味噌ラーメンにあんこを入れて食べることを想像してみれば良い。想像しただけで食欲が無くなってしまう。味覚の慣習とはそういうものである。
 唐揚げにマーマレードは美味しいとは思わなかったけれども、食べているうちに頭の中の拒否反応が次第に薄れていく。この組み合わせはポリネシアの人達が作ってきた味覚であろう。人類の舌にとって全く合わない組み合わせではないのである。「あんこ入り味噌ラーメン」と比べてはポリネシアの人達に申し訳ない。

 

10.回転寿司

 最近「回転寿司」という言葉は市民権を持ちつつある。「回転寿司」とは、言うまでもなく「回転」と「寿司」という言葉を繋ぎ合わせた造語である。しかし、「回転寿司」という言葉は普通名詞となり、それが何を指すのかは誰でも理解できるようになった。
 「回転寿司」ができたばかりの頃は、そうは呼ばなかったように思う。「元禄寿司」という店が回転寿司を始めた元祖だったと思うけれども、その後次々と類似の店ができ、総称して「回転寿司」となった次第である。
 その回転寿司は、今や日本を飛びだし世界に広がっている。香港やアメリカでもみかけられ、ここハワイにもあった。  回転寿司は低価格、明朗会計が看板である。「寿司屋で景気の良い話はするな」という言葉があるように、寿司の会計はどのようになっているのかわからない。  初日の夕食に回転寿司に行った。宿泊したハワイアンリージェントホテルの一階に回転寿司とラーメンの店が有った。日本の回転寿司のノウハウをそのまま取り入れているのだろう。皿によって値段の違う寿司が廻っている。ただ違うのは、寿司を握る人が日本人ではなく、東南アジア系の人だった。(と私は思った。)
 ニューヨークやサンフランシスコで寿司を食べた話は良く聞く。評価は両極端である。ネタが良く、とても美味しいと言う話を聞く。アメリカでは一般の食卓で魚を食べるときは、トロも赤身も区別しないと言う。全て計り売りなので、目の有る人であれば安くて良いネタを仕入れられると言う。日本のように品薄で値上がりと言うこともない。又、ネタによっては通常現地の人達が食べないものなので安く手に入るとも言う。そんな訳で、アメリカでは美味しい寿司を食べられた、と言うのがアメリカの寿司の肯定派である。  一方、アメリカの寿司はまずくて食えなかった、という人もいる。原因のほとんどは米である。パサパサした外国の米は寿司には合わなかったというわけである。米騒動の時に立証されたように、日本の米は(日本人にとっては)世界一うまい。当然日本人の口に入る日本食には日本の米が一番美味しい。まして長粒種米となると、果たして握っても寿司の形になるのかどうかさえも疑問である。
 どちらも一理有るけれども、今アメリカで寿司屋と言えば、高級レストラン街に並ぶ寿司屋も有れば、下町の寿司屋もある。ニューヨークやシカゴの下町を歩いた時、寿司屋を何件も見かけた。
「こんな汚い店で大丈夫だろうか」
と衛生面を心配せずにはいられなかった。
 日本には朝鮮焼肉の店がたくさん有る。カルビ一皿2000円もする煙も出ないこぎれいな高級店から、煙にまみれながら食べ終わると体中油が塗られたようになる安い大衆の店も有る。アメリカの寿司屋も日本の焼肉屋のようなものである。高級な寿司屋(主に日本の寿司屋が経営する)から大衆寿司屋(見様見真似で寿司を握っている)まである。
 さて、廻っている皿を一皿取った。皿の上に載っている寿司は、どうもいつも見る寿司とは少し形が違っている。寿司が平べったい感じがする。初めに食べたのはハマチか何かの寿司だった。味は期待していなかったが、その通りの味だった。米がパサパサしている。長粒種米である。酢の混ぜ具合も微妙である。酸っぱいご飯の上にネタが載せてあるといったところである。ネタを退けてみると、握られたご飯の形がまた奇妙だった。平べったく、石鹸をきったような真四角である。あらためて日本で食べる寿司を思い出してみると、その形は芸術的である。真四角(直方体)ではなく角があるような無いような。それでいて転がることはない。ネタを載せた寿司は今目の前にある寿司と比べれば、その形は芸術的であるかも知れない。日本人には心休まる形である。(大げさかな)  あまりにもきれいに角張った寿司なので、型押しででも作っているのかと思い厨房を覗いてみた。浅黒い顔をした東洋系の寿司職人が一生懸命に寿司を握っていた。よくもあんなに石鹸のように四角に握るものである。
 『寿司とは、酢を混ぜた炊いた米を四角に握り、その上に生魚や貝を載せて握ったもので、醤油をつけて食べるもの』 寿司とは何か、と一言で言い表わせばこのようになるかもしれない。ハワイの回転寿司は、この定義に寸分違わずに作られている。料理は職人技である。料理の定義やレシピに従って作ったからといって誰でも同じ味を出せるわけではない。寿司であれば、米の炊き方、酢の混ぜ具合、さまし方、そしてネタの切り方、握り方、どれもこれも日本の伝統が培ってきた職人技である。日本の寿司を充分に食べたことのない職人が、見よう見真似で作るのだから、そんなものかとも思う。
 しかし、翻って考えれば、日本で食べる洋食や中華料理もその程度なのだろうか。フランスやイタリア、中国へ料理の勉強に行く職人が増えたとは言え、その数は高級店や志ある一握りである。
 日本で洋食や中華料理が大衆に食べられるようになってから数十年たったとは言え、充分に日本人の舌に合わせた味に作られている。本場のフランスやイタリア、中国の人達が日本のレストランで自国の料理を食べればやはり「なんだ、こりゃ」と思うかも知れない。
 パサパサで真四角の寿司を案外アメリカでは美味しいと思っているかも知れない。日本の最高級の寿司が、必ずしも世界中で最高だとは思われないかもしれない。日本の柔道が世界の柔道になった時、気がついてみれば講道館柔道とは礼儀やルールなど、似ても似つかぬ物になってしまっていたように、日本の寿司は世界の寿司とは異なる物になるかも知れない。
 やはり日本の寿司は日本の寿司、ハワイの寿司はハワイの寿司である。

 

11.ハワイの日系人

 ハワイには日系人が多い。空港に降りると入国審査官や官憲、旅行社の人、バスの運転手など、その多さに驚かされる。日本人観光客相手の商売は日本語のできる日系人をという事もあるのだろうけれども、街のあちこちで日系人と思われる人を見かける。
 日本人がハワイに移民を始めたのは明治元年。移民第1号148名が海を渡った。しかし、彼らはいわば不法移民でその多くは後に帰国している。正式な「官約移民」は1885(明治18)年の事である。後、移民者が増え続け1890年の半ばには、ハワイ総人口の20%を超え、ピークであった1920年には約43%にもなっていたという。
 ハワイの日系人といっても日本で生まれた一世、その子供である二世、三世と代を重ねるごとに彼らの日本の記憶は薄れている。
 ハワイの日系人達は何を考え、日本をどのように思っているのだろうか。
 太平洋戦争中は日系アメリカ人には試練の時代だった。日本とアメリカが敵対し、日系アメリカ人は危険視されながらも彼らは米国市民として振る舞い、日本臣民としての立場をとる者は少なかった。ヨーロッパ戦線では日系人部隊442連隊が勇猛果敢に戦い、MIS(米軍情報機関)に志願した日系人は対日情報収集で多大の戦果を残し、その活躍は「太平洋戦争を2年早く終わらせた」とも評価されている。
 アメリカには日系人のみならず、多くの民族が一つ屋根の下に暮らしている。中国系アメリカ人、ドイツ系アメリカ人、イタリア系アメリカ人というように国ごとに別々の呼び名で呼ばれているけれども、最も多数派であるアングロサクソンもイギリス系アメリカ人と呼べないこともない。  日本では日系アメリカ人をアメリカに住む日本人と見ているけれども、当の日系アメリカ人にとっては同じアメリカに住まう多くの民族の一つにしか過ぎず、自分たちがアメリカで特殊な存在だとは思ってはいないだろう。日本人の日系アメリカ人を見る目は一方的なラブコールなのかもしれない。それでもルーツを共にする者として、日系人達は日本に特殊な感情を持っているだろう。
 初日にホテルに着いた時、ホテルの説明案内係は日系人だった。年齢は70前後である。日本語ができる日系人の老人にとって日本人観光客相手のこのような仕事は良いアルバイトなのかもしれない。ホテルのロビーで提出する書類を渡され書き方を説明された。
「ミナサン、コンニチハ。ヨウコソ。コレカラ書類ノ書キ方ヲ説明シマス。ヨク聞イテクダサイ。」
一通り説明が終わって、
「ソレデハ名前ヲ書イテクダサイ。」
私は所定の欄に名前を書くと、
「はい、書きました。」
と手を挙げた。彼は私の書類を覗き込み、
「ハイ、アナタ甲種合格!」
  「甲種合格」というのは、独特の響きを持って聞こえた。今は使われない言葉である。戦前、戦中の人が聞けば、なつかしい言葉かもしれないし、現代の若者には意味が分からないかもしれない。彼が昔の言葉をそのままに、何の疑いもなく使っていたのか、あるいはわざと使ったのかは分からない。戦前の事を良く知らない世代の人達が、彼の言葉を捉えて誤った解釈をしないようにと私は願うのである。
 ホテルの中には特に日系人が多いように思われる。クローク、ウェイトレス、バーテン、日本人客多いホテルでは日系人は重宝なのかもしれない。ハワイの社会では日系人は大きな役割を果たしている事は感じられた。しかし、ハワイの日系人が何を考え、何を思って暮らし、日本をどう思っているのかは皆目検討がつかなかった。

 

12.子供の海外旅行(異文化との出会い)

 今回のハワイ旅行は家族旅行である。私は、女房と一度ヨーロッパに行ったきり家族で海外旅行をしたことがなかった。まして今回は義妹とその子供たちもいっしょである。子供といっしょの海外旅行というのは、どのようにしたらよいのか、私には少し戸惑いも有った。
 私の女房は二人姉妹である。私の子供が二人、義妹には三人の子供がいる。締めて五人、全て男子である。義姉の長男、新一郎君が今年中学一年生。私の次男、駿三が今年小学一年生である。その間に三人の男子がいる。義父にしてみれば、二人娘に五人の男孫である。世の中、話題には事欠かないようにできているらしい。
 子供が海外旅行をすることなど、昔は考えられなかった。余程の金持ちでなければ、そんな機会には恵まれなかった。私が初めて海外旅行の夢を見たのは小学生の五年か六年の時だった。山形新聞社の募集する「小学生ハワイ訪問団募集」(そういう名前だったかどうかは定かでない)というのが有った。山形新聞社の何周年かの記念事業で、タダで小学生をハワイに招待する、というものだった。当時、小学生にとって海外旅行など夢のまた夢だった。もちろん同級生の中でも海外旅行に行ったことがある人など一人もいなかった。時代は昭和四十年前後、まさに日本の高度経済成長を象徴するイベントだったかも知れない。
 ハワイ訪問団募集の要項は新聞に掲載され、学校の先生からも聞かされ、自分も応募したいと思っていた。選抜は簡単な作文と面接だったと思う。ところが、その応募資格には、ただし書きがついていた。
 「山形県の小学校に在籍する○年生で○月×日以降生まれの者」
応募資格は私の学年を対象にしていたものの、航空運賃の関係で年齢制限があった。その制限が何月以降だったのかは忘れたけれども、五月生まれの私には応募資格がなかった。初めから私には応募の対象外だったのである。高度経済成長をひた走っていた日本だったけれども、未だ本当に豊かではなかった当時をも象徴しているようだった。それほど成績が良い訳ではなかった私に応募資格が有ったとしても、ハワイに行けた確率は非常に少なかっただろうけれども、門前払いを食った私は、何故自分は五月生まれなのかと悔やんだものだった。  私の息子は長男翔三が小学四年生、次男駿三は小学一年生である。私が小学生の時には、もし外国に行けると知らされたら天にも昇るように感じたかもしれないが、今の子供たちは少し違っている。聞けば、同級生の中にも海外に行った経験の有る友達が何人かいるらしい。駿三はまだ一年生という事もあり、ハワイが何処に有るのか、どのくらい遠いのかが飲み込めずに、
「飛行機は落ちるから新幹線で行きたい」
と言っていた。長男は世界地図や地球儀を見て、ハワイは何処に有るのか知っているし、そこはアメリカの領土だということも分かっているけれども、ハワイに行く事にそれ程驚かない。最近は海外が身近になり、身近な人が良く外国に旅行しているせいもあろう。テレビで外国の様子が紹介されるなど、情報が豊富で、ハワイと云っても未知の世界には映らないらしい。私だったら、迷子になったらどうしようとか、言葉が通じなくて困ることはないのか、などと心配しただろうけれども、そんな不安な様子は少しも見せない。
 大人子供に限らず外国で戸惑うのは、言葉、通貨、習慣である。言葉が違う事は子供達に十分言い聞かせていた。
 「ハワイに行ったら日本語は通じないんだから、英語で話さなきゃいけないんだよ」
それでも子供達には不安そうな様子はない。
 「ありがとうは、サンキュー。いくらですかは、ハウマッチ イズ イット」
と教えると、四年生の翔三は少しはにかむけれども、一年生の駿三は一生懸命に覚えようとする。
 ほとんどの日本人は、少なからず英語を習っている。習っていないとしても「ありがとうは、サンキュー」ぐらいは誰でも知っている。しかし、いくら知識で英語の単語を知っていても、外国人と英語で初めて話をするときにはなかなか英語の単語が口から出てこないのが実情である。私にもその経験がある。初めて海外旅行に出た時、アエロフロート(ソ連航空)の飛行機に乗り、食事を持ってきてくれたスチュワーデスに「Спасибо」(スパシーバ)という言葉がなかなか出てこない。ロシヤ語で「ありがとう」は「Спасибо」と分かっていても声に出てこないのである。
 ところが子供の場合は、口からすぐに言葉が出てくる。大人と違って羞恥心が無いと言ってしまえばそれまでかもしれないが、子供達は教えてやれば臆することなく英語が口から飛び出してくる。
 買い物をしてレジの前で
「ほら、ハウマッチ イズ イット でしょ」
と言うと、子供は大きな声で  
「ハウマッチ イズ イット?」
レジの女の子はニッコリ笑って  
「Three dollars twenty cents」
子供には理解できないけれども、心が通じているのが良く分かる。子供は言葉に関しては実に素直である。
 私の父が孫に餞別をと、二人の子供に50ドルづつ現金をくれた。銀行で両替した100ドルを二人に分けて財布に入れてくれた。初めて見るドル紙幣を小さくたたんで財布に入れたり出したりしていた。
 ドル紙幣は、とても分かりにくい。紙幣の大きさが同じ上に、色、デザインが良く似ている。1ドル札のワシントンから100ドル札のベンジャミン・フランクリンまで、良く見ればデザインも微妙に違うし、肖像はまるで違う。しかし、パラパラとめくったぐらいでは、どれが1ドルで、どれが100ドル紙幣なのかは分からない。その度にはっきりと数字を確認しなければならない。
 日本のお金すら満足に持ったこともない子供達がうれしそうにドルの入った財布を握っていた。
 子供が初めてドルを使ったのは、シーライフパークに降りたときだった。友達におみやげを買うんだと言って、土産物屋を走り回っていた。そのうちキーホルダーを持ってきて、「これがいい」と言う。値段は1ドル。ハワイでは4%の消費税がかかる。締めて1ドル4セント。2ドル払って、お釣りのコインをもらった。
「こんなにお金をもらったよ。」
始めて見るアメリカのコインを大事そうに財布に入れていた。それでも、
「あと48ドルだ。」
と、頭の中ではしっかりと計算している。足し算もまだ習っていない六才の子供だけれども、お金の計算になるとしっかりしている。
 アメリカのコインは札に劣らず分かり難い。日本の硬貨もそうだけれども、大きいから高額とは限らない。  
「これが10セント。これが25セント。10セントが10個で1ドルだよ。」
と、説明したが、二日もすると慣れてしまい、  
「これは4つで1ドルだね。」
と、クォーターコイン(25セント)を出して見せている。『25×4=100=1ドル』という計算が六才の子供には難しいはずだけれども、お金の事となると計算が速いのはどういうわけだろう。おもちゃのお金を扱う気分だったのかもしれないけれども、大人よりも通貨に対する戸惑いは少ないようだった。  言葉、通貨はいずれも技術的な問題である。言葉を修得するのは並大抵の事ではないとは言え、覚えればそれで済むことである。通貨は頭の中の円をドルに替えるだけで事が足りる。しかし、習慣というものはなかなか身に付かない。
 日本とアメリカの習慣の違いを挙げればきりがない。「チップ」という習慣が良く知られているけれども、これがまた難しい。「ベッドメイクは1ドル」「○○は1割程度」と目安を教えられるけれども、実際にチップを出すとなるとスムーズには行かない。日本人は旅先では金銭感覚が麻痺してしまうらしく、チップは多ければ良いとばかりに習慣以上のチップを出す人が多いらしい。その為に観光地では、チップの相場を上げてしまい本来チップなど必要ないところでも付け込まれてチップを請求される場合もあると聞く。習慣の違いを学ぶというのは語学以上に難しい。
 私もハワイの慣習について詳しく知っているわけではない。出発前には子供たちに、
「ハワイは日本じゃないんだから、日本ではやって良い事でもハワイではやってはいけない事もたくさんあるんだよ。」
と言聞かせる他なかった。 大人の世界では、習慣の違いに戸惑うことは良くある。レストランに入れば、日本では自分で席を探して座るけれども、欧米ではウェイターの案内を待たなければならない。また、日本では禁煙の表示がなければ構わずに喫煙するけれども、アメリカでは禁煙が常識である。日本人が禁煙(NO SMORKING)の表示が無いからと云ってタバコを吸う姿を見かける。習慣の違いを知らないと言うことは恐ろしいことである。「郷にいては郷に従え」という諺を日本人はどこか棚の隅にでも置き忘れているようだ。
 さて、ハワイでは子供たちに「コラッ、○○するな!」と叱る場面は何度か有ったけれども、考えてみれば、叱る原因は日本にいる時と同じ事ばかりだった。「ホテルの廊下を走るな」「ベッドの上で騒ぐな」「レストランの中を走り回るな」と、日本でも叱らなければならないことばかりである。格別ハワイだからと言うことではなく、全て日本の常識の範囲内であった。
 大人になると、次第に習慣が複雑になり、国ごとに習慣の違いが出てくる。社会でも守るべきルールが増えてくるので当然だけれども、子供の世界ではそれ程習慣の違いは無い。
 ワイキキで子供達が遊んでいる時に、すぐそばで金髪のかわいい女の子が砂遊びをしていた。歳の頃は次男(6歳)と同じくらい。言葉を交わすことは無かったが、そばで遊んでいる二人が意識しているのが分かった。子供は子供同士のルールを意識して遊んでいた。子供の習慣は世界共通である。 そんな子供たちも大きくなれば習慣の違いが出てくるのだろう。
 子供の海外旅行は子供の心に何が残るのだろう。全く知らない世界に触れ、日本も世界の一員である事が心の片隅に残ればと思う。

 

 13.日本人だらけのハワイ

 ハワイは日本人が多いと聞いていたが、まさにその言葉通りだった。
 空港、ホテル、ワイキキビーチを始とする観光地は、日本人で一杯だった。住宅地や郡部へ行けばそうでもないのだろうけれども、日本人は行くところが決まっているので、行く先々で日本人の団体に出会う。3日目に乗った観光用の潜水艦の乗客は日本人ばかり、わずかに二人のアメリカ人が乗っていただけだった。それだけ日本人が多いのだから日本語が通じる。その潜水艦の中でも日本語で説明してくれる。ホテルのフロント、土産物屋、レストラン等、日本人が行くような所では何処でも日本語が通じる。もしも、全く日本語が話せない人(ABCさえも知らない人)でも、一人でハワイを迷うことなく旅行できるのではないかと思う。
 ハワイで出会う日本人のほとんどは観光客である。若い人から老人まで、ありとあらゆる階層の日本人達がハワイのリゾートを楽しんでいる。当然現地に落とす金も莫大である。日本人は海外に行くと何故か財布の紐がゆるんでしまう。アメリカ、ヨーロッパ、中国、香港どこへ行っても日本人が買い物に熱中している姿に出会う。とりわけブランド商品には「買い漁る」と云う言葉がぴったりする程日本人が群がっている。パリやミラノ、ローマ、ニューヨーク等ブランドの本場ではしかたがないとしても、香港やシンガポールの出先の店でもなぜかブランドショップは日本人をターゲットにしている。日本人が海外に出ると財布の紐が緩むことを狙ってか、日本人が行くような海外の観光地には必ずブランドショップが軒を並べている。
 ハワイも例外ではない。カラカウア通りやアラモアナショッビングセンターには、世界のブランド品が揃っている。そしてその客の九割は日本人だと云う。ハワイで日本人がターゲットにされているのはブランドショップばかりではない。寿司屋やラーメン屋、和風鉄板焼等、和食系統のレストランは日本人客がほとんどである。ホテルや土産物屋、その他ありとあらゆるハワイの流通サービス業が日本人客をあてにしている。ハワイの最大産業である観光において日本人観光客なしでは成り立たない業種も多く有るのは間違いない。
 そういった現状と、ハワイの日本人観光客の多さに
「ハワイは日本に占領されているみたいだ」
と無礼なことを言う人もいるだろうし、
「日本との関係なしではハワイはやっていけないだろう」
と、あたかもハワイは日本の属国ででもあるかのような発言をする人もいる。日本人が金を落とし、ハワイはそれで産業が成り立っている、という単純構造を考えれば確かにそう言えないこともない。しかし、日本人が世界の中の日本を考える時、これは日本の大きな落とし穴である。
 日本は経済大国である。GNPは世界第二位、国民一人当りのGDPでは、為替レートで単純計算すれば世界一である。1ドル126円で換算すればアメリカの1.14倍。最も円高になった1ドル80円で換算すれば、アメリカの1.8倍にもなる。もっとも、購買力平価で云うと、アメリカの0.7倍にしかならないけれども、海外でお金を使う分には日本人は極めて裕福である。
 どこの国へ行っても日本人観光客は(表向き)歓迎される。GDPの低い国へ行けば、金持ちが貧乏人に金をばらまいているような錯覚にとらわれる人もいるだろう。ましてハワイのように所得水準の高い地域で日本人が金をばらまき、巾をきかせているのを見ると、日本が一方的に豊かさを分け与えているように思えてしまうけれども、世界の経済はそれ程単純なものではない。世界の経済は複雑に絡み合い、どちらか一方が一方的に貿易を許していると言うことはなくなっている。
 太平洋戦争の本当の発端が何であったかについては、私は云々できないけれども、日本に開戦を決意させた一因にアメリカの日本に対する石油の禁輸がある。当時、日本への石油の禁輸は日本の生命線を断つ事と同義だった。対してアメリカにしてみれば日本との国交断絶は大した痛みを伴わなかった。石油を持つ者が持たざる者に分け与えているという構図である。石油は与える物という神話は、戦前よりもはるかに世界経済が複雑になった昭和50年頃まで続いていた。
 OPECはオイルショックの時には「泣く子も黙るOPEC」と評され、世界中の石油消費国を震撼させた。しかし、現在OPECには、その力はない。OPECの石油供給能力が劣ってきたわけではなく、非OPEC石油産出国が台頭してきたことも有るけれども、OPEC諸国が石油の見返りとして享受している物が、OPEC自身にとってもなくてはならない物になっている。
 ニクソンショックの時にアメリカは日本に対して大豆の輸出を制限しようとした事があった。豆腐や納豆の大好きな日本人を困らせてやろうと思ったのだろう。ところが、アメリカの大豆が輸入できない事が分かると、日本の商社は南米アルゼンチンより大豆を輸入し、結局困ったのは、納豆好きの日本人ではなく、当のアメリカの大豆生産農家だった。
 現在、世界の経済は複雑に絡み合い、お互いがお互いを助け合う互恵の関係の上に成り立っている。世界の国々が互恵の関係になることは世界の平和にとって有用である。現実がそうであるばかりでなく、世界中の人々がその精神を認識しなければ、せっかくの相互関係も平和に役立たないばかりか、かえって経済大国や資源大国の増長を招くことになりかねない。
 日本人観光客のひしめくハワイを見て、日本人が経済大国日本を再認識するのは必ずしも悪いことでは無いけれども、日本は世界経済に組み込まれた大きな歯車である事を忘れる事を私は恐れている。

 

 14.ダイヤモンドヘッド登山

 ハワイの風景と言えば、ワイキキビーチとダイヤモンドヘッドである。ダイヤモンドヘッドはオアフ島ホノルルの東に有る標高232mの火山によってできたクレーターである。ダイヤモンドヘッドの名前は十九世紀始めにイギリス人の水夫達によってつけられた。この山で沢山拾う事ができた方解石の結晶を彼らがダイヤモンドと勘違いしてこの名がつけられたと云う。
 山が名山であるかどうかは、いかにその山が目立つかどうかということにあるらしい。富士山をはじめ、北海道のエゾ富士と呼ばれている羊蹄山、岩手山、筑波山、京都の比叡山、東山。四国の石鎚山、など、いづれも山の形が良いこともさることながら、人間の目に触れ目立つということが名山の条件となっているらしい。ダイヤモンドヘッドもしかりである。ホノルル市内、ワイキキビーチから椰子の木越しに見るダイヤモンドヘッドは絵になっている。ワイキキビーチから見れば、少し海に突き出た所に山頂がある。クレーター特有のゴツゴツした山頂である。もしも、山頂が反対側、北側に有ったとしたら、ダイヤモンドヘッドもそれ程観光名所にはならなかったかもしれない。
 写真で見るダイヤモンドヘッドはとても大きな山に見える。しかし、標高はわずか232mである。バスに乗れば私達の泊まったハワイアン・リージェントホテルからは15分でクレーター内部の登山口に着いてしまう。
 三日目の午前中に旅行会社の仕立てるトロリーバスに乗り、登山口に向かった。カピオラニ公園を過ぎ、住宅地を通り、狭いトンネルを抜けると、そこはもうクレーター内の登山口だった。登山口から頂上の展望台までは高低差にして150m位だろうか。すでに登山客が頂上を目指して登っているのが見える。頂上までの登山道の途中には暗いトンネルが有り、懐中電灯が必要だと言う。しかし、どこにトンネルがあるのか分からないし、登れば何とかなるだろう、と義母を残して皆で登山道を登っていった。見た目には険しそうだけれども、登ってみればそう大したことはない。ヘアピンカーブが続く快適なハイキングコースである。頂上が近くに見えてきた所で路幅が急に狭くなり、トンネルに入った。真暗なトンネルだけれども、手摺をたどってゆっくりと登ればトンネルは左にカーブし、間もなく出口の光りが見えてくる。
「なんだ、大したことはないな、懐中電灯なんかいらないじゃないか」
と思っていると、今度は小さな部屋に入り真暗な中を螺旋階段が続いていた。古くて狭い螺旋階段で、降りてくる人とすれ違うのも難しい。暗闇に目が慣れてくると、懐中電灯を持っている人の灯でなんとか登ることができる。
「何故こんな螺旋階段を」
「どうせ造るのならば、観光客の為に、もっと広く造ればいいのに」
と思いながら階段を昇りきると、明るい小さな部屋に出た。「やれやれ」と、登ってきた人達と、これから下ろうとする人達とでいっぱいだった。出口からは明るい光りが差し込んでいる。しかし、出口から出ようとすると、又、おかしな事に出会った。出口と言うには余りにも狭く出入りし難いのである。高さは80cmくらい。子供がやっと通れるくらいの出口というよりも覗き窓と言った感じである。観光地ハワイの名所としては、暗くて狭いトンネルや階段、便宜を考えない展望台の造りに少々あきれかえって外に出た。
 外は陽光の眩しい空と海が広がっていた。ワイキキビーチやホノルル市内、遠くにはパールハーバー、バーバスポイントが見える。眼下の海は真っ青だけれども、サンゴ礁がしみを作ったように広がっている。写真を撮ろうと展望台に登ろうとしたが、とても登りずらい。子供は大人の手を借りなければ登れないような展望台である。50m位離れたところにも展望台らしきものがあるけれども、そこへは鉄柵でしきられて行くことができない。若い人達は、れを無視して鉄柵を潜って行っているけれども、そこへ続く路には手摺もない。子供たちに
「あそこまで行きたい」
とせがまれたけれども、危なくてとても子供をやることはできない。
「どうしてこんな展望台を」
と又不思議に思っていると、妙な事に気がついた。展望台全体が無造作にコンクリートで固められていた跡がある。風化して崩れている所も有った。ここはトーチカの跡なのだ。「ダイヤモンドヘッド要塞」というのを聞いたことが有る。見晴らしの良い高い山というのは戦略上の拠点となる。ここには大砲が据えられ観測所が有ったのだろう。敵の攻撃に耐える為に要塞に通じる道にはトンネルが掘られ、弾薬庫も作られたのだろう。
 私はハワイに着いてから、太平洋戦争、真珠湾攻撃の痕跡を捜していた。まさか、ダイヤモンドヘッド登山でこのような戦争の痕跡にお目にかかるとは思ってもみなかった。
 ハイキング気分で山に登り、景色を眺めていたけれども、ここがダイヤモンドヘッド要塞の跡だと思うと、風景も違ったものに見えてくる。1941年12月7日早朝(ハワイ時間)に、ここで見張りをしていた兵士達にはどんな光景が目に映ったのだろう。遠くに真珠湾が臨め、その左にバーバスポイントが見える。オアフ島北方450km海上の航空母艦から飛び立った日本の第一波攻撃隊は、オアフ島北端のカフク岬を目標にし、そこから西に迂回してバーバスポイントを廻って真珠湾に向かったと云う。日本軍機がバーバスポイントから真珠湾に殺到する様が観測されただろう。しかし、真珠湾周辺基地の兵士がそうであったように、何が起こったのか、殺到する攻撃機が日本軍機なのか知る由もなかったかも知れない。米軍第二哨戒航空部隊指揮官ベリンジャー少将の「It is not drill!」(これは訓練ではない)の放送をどのような気持ちで受け取ったのだろうか。
 日本軍の第二波攻撃隊の一部はオアフ島の東側に沿って進入し、ダイヤモンドヘッド、ホノルル市内をかすめ、ヒッカム飛行場、真珠湾に向かっている。この時は、なす術もなく日の丸のマークをつけた日本機を間近に見ていたかもしれない。当時、ダイヤモンドヘッド要塞にいた兵士達は今日の様をどのように感じるだろうか。登山客の半数以上は日本人である。世の中が平和になったと手放しで喜んでくれるのだろうか。

 

 15.ミスター・サスカッチ(雪男)

 ダイヤモンドヘッドの展望台から降りる時のことである。私たちは、又暗い螺旋階段を降りなければならなかった。階段や梯子は登るときよりも、降る時の方が危険が伴う。山登りの時も登りはそれ程気を使わないけれども、下りは滑らないようにと一歩一歩気をつけて降りるのが常である。
 真暗な階段を子供の手を繋ぎながら降りた。準備の良い人は懐中電灯を持ってきている。子供の足下がおぼつかないと思ったのか後ろの人が子供の足下を照らしてくれていた。おかげで真暗な螺旋階段も難なく降りることができた。暗いトンネルを抜け、お礼を言おうと振り向くと、六十歳位の欧米人だった。
 「Thank you for your kindness」(ご親切にありがとう)
 「Are you from Japan?」(日本から来たのですか)
 「Yes」(はい)
 「コンニチワ.Do you speak English?」(こんにちは、英語は話しますか) 
  「Yes,but a little」(はい、ただちょっとだけ)
私は「英語を話せるか」と聞かれたらいつもこう答える事にしている。「Do you speakEnglish?」(英語は話しますか)と聞かれ、「Yes I can speak English」(はい、話せます)と答えようものなら大変なことになってしまう。とりわけアメリカ人やイギリス人の英語は分かりづらい。同じヨーロッパ人でも、スペインやイタリアの人達の話す英語は発音がはっきりしているので分かり易い。しかし、英米人が話す口調で英語を話しかけられようものなら何がなんだか分からない。女房が
「クリントン大統領の演説は全然分からない」
と自分の英語力を疑っていたが、それは誰しも同じである。「but a little」(ちょっとだけ)と、釘を指しておけば、ゆっくりと話をしてくれる。  「コンニチワ I speak Japanese one word」(『こんにちは』私は日本語はこの一言しか知りません)
オジサンはタンクトップにリュックを背負い、気さくに話しかけて来る。
「I am from Canada.Do you know Canada?」(私はカナダ から来ました。カナダを知っていますか。)  
「Yes I know Canada.Are you from Ottawa? Montreal? Vancouver?」(ええ、知っています。オタワですか。モントリオール  ですか。それともバンクーバーからですか。)
「No」(いいえ)
私は、さらに思いつくだけのカナダの地名を揚げた。
「Quebec? British−Columbia?・・・・」(ケベック?ブリティッシュ・コロンビア州・・・・・?)
 「No,
Saskatchewan middle of Canada」(いいえ、サスカチュ  ワン州です。カナダの中央部です)
サスカチュワン(Saskatchewan)州はカナダの中央部に位置する州で、「サスカチュワン」とはインディアンの言葉で「迅速に流れる川」を意味する。又、サスカッチ(Sasquatch)は、カナダの伝説に由来する、雪男あるいは巨大な山男を意味するという。以前、雑誌でサスカチュワンはサスカッチから来ているというのを読んだことがあった。私は、陽気で体格の良い彼を見てすぐにサスカッチを連想してしまった。
 彼は下から登ってくる人達に気軽に声を掛ける。日本人と見れば「コンニチハ」、アメリカ人には「もう十分歩けば視界が開けるよ」などと友人に話しかけるように声を掛けている。ところが、声を掛けられた日本人女性は戸惑った様子で黙っている。私は彼に
「日本人は外国人と話すのが慣れていないので、外国人に声を掛けられると驚いて(surprise)しまうんですよ」と言うと、彼は
「surprise!」  
と、変な顔をしていた。「surprise」という言葉が適切であったかどうかは分からないけれども、私の口からは、それしか出てこなかった。
 日本人は外国人の前では、なぜか口が重くなってしまう。折角外国の人達と言葉を交わす機会が有るのにもったいないとも思うし、かかる行動は日本人が諸外国の人たちに誤解される原因にもなりかねない。
 坂がややなだらかになった所で、彼は「ヒャッホー」と言いながら駆け足で坂道を下っていった。しばらく行くと彼は座り込んで、又誰かと話をしていた。
「Are you tired?」(疲れましたか)  
「Yeah」(いやいや)
彼の言葉の明るさは見習わなくてはならない。
 登山口まで降りて来て、彼に声を掛けた  
「Mr.Saskatch! Please join,May I take a picture?」(ミスターサスカッチ いっしょに写真を撮ってもいいですか)
彼は喜んで肩をくんで写真に入ってくれた。後で写真を送る事を告げると名刺をくれた。
      Ken L Rodenbush    
 ほんのひとときの外国人とのふれあいだった。私は、外国人とのわずかな出会いを大切にしたいと思う。島国、単一民族国家(と思っている)の日本人の中には、外国人と話をすること、ふれあう事を躊躇する人が多い。折角差し伸べられた手を払いのけるようで、私はなんとも複雑な気持ちにさせられてしまう。
 私には日本と外国との大げさな国際交流に関わる術も力もない。毎年数百万人の日本人が海外に渡航しているけれども、海外に渡航する日本人が一人一人外国人との小さなふれあいを大切にし、交流すれば、日本の国際的理解にいくらかでも貢献できる。小さな交流の輪が広がれば、日本の国際社会における誤解も解く事ができると思うのだが・・・。

 

 16,アメリカ料理

  料理は国の文化を代表する大事な要素の一つである。日本と西洋の料理はまるで違う。材料も違えば調理法も異なる。  現在の日本の料理の御三家といえば、和食、洋食、中華である。ホテルでの宴会ともなれば、料理は和食なのか洋食なのか、はてまた中華料理なのかは多いに気になるところである。大抵の場合は折衷で出てくる事が多い。しかし、和食、中華料理はさておいて、洋食というのは範疇がはっきりとしない。私の祖母の言によると、洋食の草分けはトンカツ、カレーライス、オムライスであったという。トンカツはポークカツで洋食と言えるけれども、カレーライスはインド料理(広い意味では南アジアから東南アジアの料理)である。オムライスと云うのは何処の国の料理なのか私は知らない。
 日本は異文化を取り入れる達人である。明治維新以後、短期間に西洋文化を取り入れてしまった。今日、西洋以外のあらゆる文化も大に少に取り入れている日本である。しかし、日本は外国の文化を正確に取り入れず、自分たちに都合良く作り替える達人でもある。洋食という範疇がはっきりしないのも当然である。
 今は祖母の時代とは異なり、海外との交流も盛んで、経済力の背景もあってか、外国の文化がかなり正確に入ってくるようになった。料理で云えば、洋食と云う訳の分からない範疇ではなく、フランス料理、イタリア料理、ドイツ料理、ギリシャ料理、ロシア料理と細かく分類され、それぞれの看板を掲げたレストランが見かけられるようになった。特にイタリア料理は若い人達に「イタメシ」と呼ばれ人気があり、何処の街でも見かけられる。
 それぞれの料理は材料も調理法も違えば、出てくる酒も違う。まさに料理はその国の文化の象徴であると云える。
 ところで「アメリカ料理」という言葉を聞いたことが有るだろうか。国に優劣をつけるつもりは無いけれども、アメリカは現在世界で最も影響力を持つ国である。料理がその国の文化を象徴するものであれば、世界一影響力を持つ国の料理が有ってもおかしくはない。しかし、アメリカ料理という言葉は余り聞かないし、「アメリカ料理」の看板を掛けたレストランも見掛けない。
 しかし、ハワイの旅行案内書には、イタリア料理、日本料理、ベトナム料理の名に混じってアメリカ料理の名が数多く出ているのである。例えば次の様である。
 「アメリカ料理、アメリカンスタイルのカジュアルな店」
 各国の料理と云えば、必ず看板料理がある。看板料理が必ずしも、その国の料理を代表するとは限らない面も有るけれども、日本料理であれば、「天ぷら」や「寿司」が世界に知られている。イタリア料理はパスタ。ドイツ料理はソーセージ。ギリシャ料理はムサカ。ロシヤ料理はボルシチ、と云った具合である。それではアメリカ料理の看板は何だろう。誰しも思うのは、ステーキとハンハーガーである。
 私は過去三回アメリカを訪れたことが有る。場所はニューヨーク、ボストン、デンバー、ラスベガス、サンフランシスコである。海外を旅するときは「食う」と「飲む」楽しみが有る。しかし、アメリカでは「食う」楽しみは過去の例から全く期待していない。過去のアメリカ旅行が必ずしも貧乏旅行ではなかったけれども、おいしい料理に出会ったことが無い。強いて言えば、おいしかった物はニューヨークで食べた「生ガキ」と「ジャガイモ」だった。
 「生ガキ」は日本の牡蠣きよりもいくらか平たく、磯臭さがない。ニューヨークのレストランで友人とテーブルの上に牡蠣の殻を山積みにして食べ、周囲の人達から奇異の目で見られていた。その時は牡蠣といっしょに生のクラム(あさり)も出てきて、これも「美味しい、美味しい」と食べたのだけれども、後で聞くと、生のクラムは危ないらしい。「よく肝臓をこわさなかったな」と料理屋の友人に言われた。
 同じニューヨークで食べた「ジュガイモ」はステーキの付け合わせに出てきたものだった。大人の拳よりも一周りも大きな茹でたジャガイモで皮ごと皿に載って出てきた。バターと塩をかけて食べたけれども、甘味が有りとても美味しかった。あれ程美味しいジャガイモを食べたのは初めてだった。 しかし、「生ガキ」と「ジャガイモ」、どちらも美味しいと云っても料理と云うには当らない。「生カキ」は殻を剥いただけの物、「ジャガイモ」は単純に茹でた物である。とても料理が美味しいとは云えない。食材が美味しいのである。
 アメリカらしい料理と云うことで、ロブスターを食べに行ったこともあった。一人100ドル位。結構な値段である。初めにフライドポテトとサラダが山程出てくる。そして一人に一匹茹でられたロブスターが出てきた。目の前のロブスターを前にして誰かが言った。
「何だこれは、バルタン星人じゃないか」
伊勢海老、というよりも巨大なザリガニ、それも飛び切り大きなハサミを持ったザリガニである。物珍しさも有り、パクついたけれども、ハサミを二つ食べた所でギブアップ。満腹になった訳ではなく、食べるのが嫌になってくる。食べ飽きしてしまうのだ。残りはテイクアウト。レストランを出て又誰かが言った。
「ラーメンだったら今からでも食べられるね。」
ポテトとサラダと大味なロブスター。それだけで満腹になれと言うのは、繊細な胃袋を持つ日本人にとっては酷な話である。 
 アメリカ料理は大味、大ざっぱである。ハワイでも大味のアメリカ料理を十分に堪能した。
 アロハタワーマーケットプレイスのアメリカンレストラン、フーターズでは子供達がハンバーガーを食べたいと言う。メニューを見ても現物が分からないので、若いウエイトレスに何が美味しいのかを聞いた。
「これが美味しいでしょう」
と持ってきたのは巨大なハンバーガーだった。山積みのポテトが添えられ、見ただけでも腹がいっぱいになる。一緒に注文した飲物が又巨大だった。日本で言えば中ジョッキ位のコップにコーラが出てくる。
 ハンバーガーとコーラはアメリカの食文化を代表している。その食文化を担っている最大の企業はマクドナルドとコカコーラである。この二社を通してアメリカの食文化は世界を席巻している。世界一の影響力を持つ国、アメリカの食文化である。先進諸国はもちろん、旧共産圏諸国、中国に到るまでハンバーガーとコーラは行き渡っている。
 日本でもマクドナルドとコカコーラは成功を納めている。日本マクドナルドは全国に2000店舗を持ち、売上げが実に3,000億円である。しかし、日本では日本版マクドナルドとも言うべきハンバーガーチェーンがいくつもでき、テリヤキバーガー、ライスバーガー等、醤油味のメニューが登場し、売れていると言う。ハワイのホテルのプールサイドのフードショップで「Teriyaki Burger」というメニューが有った。日本の食文化がハンバーガーを通して逆襲しているようである。
 子供や若い人達へのアメリカの食文化の浸透は相当なものである。数年前の事である。出張した時に、東京に住む兄の家に泊まった事が有った。ちょうど甥が高校受験の真っ只中だった。私は甥を励ますつもりで、途中の駅から兄の家に電話をした。受験勉強中の甥を呼び出し、
 「おい、がんばっているか。高校に合格するように叔父さんが何でも好きなものを買って行ってやるから、食べたいものを言ってみろ。」
私はフーテンの寅さんにでもなったような気分で気前の良い所を甥に見せようとした。私は甥が「上等の生寿司を食べたい」とか「縦か横かわからないビフテキを食べたい」というような答えが返って来るものと思っていた。上等の生寿司でも、いくら厚いステーキでも一人分くらいは買ってやる懐はあった。しかし、受話器の向こうから聞こえてきた甥の返答は、
「何でもいいけど、叔父さん駅にいるんだったらそこで売っているハンバーガーがいいよ」
私は唖然となった。ハンバーガーという答えは予想しなかった。子供達がハンバーガーが好きなことは知っていた。しかし、「一番好きなものは」と問われて、「ハンバーガー」と答えるとは思ってもみなかった。私は、  
「もう少し美味しいもの、普通食べられないものはなんかないか」
と重ねて尋ねた。
「うーん、じゃ叔父さんに任せるよ」
彼は私の懐を心配してくれたのだろうか。それとも、やはりハンバーガーが一番美味しいものなのだろうか。私は余り入ったことの無いハンバーガー屋に入り、てあたりしだいに山程ハンバーガーを買って帰った。ハンバーガー屋は若者でいっぱいである。兄の家に着き、美味しそうにハンバーガーを頬張る甥の姿を見て、私は複雑な気持ちに襲われていた。
 アメリカ料理はというのは有るのか。ハンバーガーは果たしてアメリカ料理なのか。少なくともハンバーガーは、アメリカを代表する食べ物で有ることは間違いない。
 私と食を共通する人と話をすれば、アメリカの食文化は受け入れられないと皆が言う。しかし、若い人と話をするとどうも話が違ってくる。町の若い人と話をしたときにはつい口を滑らせてしまった。
 「アメリカを旅行すると、美味しいものがなくておもしろくないな。」
と私が言うと
「いや、アメリカのホテルの朝食は最高に美味しかったですよ。」
と反論されてしまった。ホテルにもいろいろ有るだろうけれども、私がアメリカで食べた通算十数回の朝食は到底ほめられたものではなかった。もちろん、体裁は良いし日本のビジネスホテルよりは程度が良いが、「最高に美味しい料理」という表現にはあたらなかった。
 味覚は個人の自由である。自分の味覚を他人に押しつける必要は全く無いし、美味しいものは美味しいと言うべきである。アメリカ料理を「うまい」と言うのも、「まずい」と言うのも勝手であり個人の好みである。そこまで分かっていても、私はあえて言いたい。
 「アメリカ料理と言う料理の範疇は無い。ハンバーガーは代用食である。」
アメリカ大使館から抗議が来ようとも私にはそうとしか思えない。アメリカに対して失礼だろうか?

 

 17.ボウフィン博物館

 アロハタワーマーケットプレイスのアメリカンレストラン、フーターズで巨大なハンバーガーを食べた後、パールハーバーへ行くことになった。ハワイに来たのだからパールハーバーを見なければ、と思ったのだけれども、パールハーバーと言ってもただの湾である。名所らしいものといえば、アリゾナ記念館とボウフィン博物館ぐらいである。アリゾナ記念館は真珠湾攻撃の時に日本軍に撃沈された戦艦アリゾナ号の上に建てられた戦争のモニュメントである。子供連れという事もあって、ボウフィン博物館に行くことになった。
 パールハーバーはアロハタワーより西に約8km。ホノルル市内からは離れているので、トロリーバスは行かない。乗り合いバスかタクシーで行かなければならない。タクシーは地理の疎い旅先では目的地に迅速に移動するには便利な交通手段である。しかし、不馴れな土地では、料金を誤魔化されないだろうか、と心配になってしまう。中国や香港で悪質なタクシーに会った経験を良く聞く。アメリカではタクシーに対する規制、監督が厳しく、ニューヨークでもタクシーは比較的安全な交通手段である事は分かっているけれども、それでもタクシーを利用する時には疑心暗鬼、気を使ってしまう。
 アロハタワーのタクシー乗場で交渉した。ボウフィン博物館へは大体いくらかかるのか。一台に何人乗れるのか等。ボウフィン博物館までは約18ドルだという。乗場に停車していたタクシーはミニバンのタクシーとワゴンタクシーだった。日本でも最近は東京などでワゴンタクシーにお目にかかるし、数は少ないがジャンボタクシーという十人乗りのタクシーも有るけれども、未だそれ程一般的ではない。タクシーと云えばセダンのタクシー、それも同じような車種のタクシーばかりが目立つのが日本のタクシーである。しかし、ハワイのタクシーは多種多様である。フルサイズのセダンタクシーが多いけれども、少々くたびれたようなセダンから最新のセダンまである。ワゴンやミニバン、そしてダックスフントを連想させる大型のリムジンタクシーも流しで走っている。
 ミニバンは七人乗りだというので、ミニバンに六人、ワゴンに私を含めて四人が乗った。ワゴンに四人乗る事を告げると、運転手はバックドアを開けて座席を用意し始めた。ワゴンの荷室に座席が現れそこに座ることが出来る。それも後ろ向きに座る。子供たちは喜んで後ろの座席に乗り込んだ。
 たわいのない事のようだけれども、こんなところにアメリカの自由を私は感じてしまう。タクシーの後ろ向きの座席が日本では認められているのかどうかは知らないけれども、日本では見かけない。アメリカでは合理的であれば、後ろ向きの座席に限らず何事においても規制は少なく自由である。日本では危険を理由に、あるいは業界の圧力とかなんとかの理由で規制が加えられる場合が多い。アメリカでもPL法などの基本的な法律については、日本よりもずっと厳しいけれども、現実的な意味では日本よりも自由であることは否めない。日本もアメリカに見習うべきことは多い。
 タクシーと云えば、アメリカのタクシーの乗り心地は独特である。幅の広いフルサイズのセダンに乗り込めば、日本のタクシーでは味わえない開放感がある。加えて、フワフワの座席がアメリカ的である。ドイツやヨーロッパ製の車の堅い座席とは違い、スポンジのような乗り心地である。ハワイのタクシーはモケット張りのシートだったけれども、ニューヨークでは、フワフワの座席がツルツルのビニールシートである。タクシーが角を曲がる度にフワフワのシートの上を反対側に滑ってしまう。タクシーのシート一つ取っても国によって随分と好みは違うものである。  女房と二人でフワフワの座席に座り、カメハメハハイウェーを東に向かって走っていた。フリーウェイに入った辺りで運転手が話しかけてきた。年は六十を過ぎている。太平洋戦争を知っている年代である。 
 「Do you speak English?」(英語は話しますか)           
 「Yes but a little」(はい、少しだけ) 決まり文句である。
 「Are you going to Arizona?」(アリゾナ記念館に行くのか)
私は一瞬緊張した。アリゾナ記念館はアメリカ人にとって特別な意味を持っている。日本で云えば、原爆ドームや沖縄の姫百合の塔のようなものかもしれない。戦没者のの名前が刻まれ、いまだに沈没した船内からは重油が漏れ沸き上がる。それは戦没者の涙であると云う。カタコトの英語しか話せない私には相手の意図が良く飲み込めない。日本人同士であれば、言葉使いや語尾の調子などで、どんな感情で何を言おうとしているのかは容易に飲み込むことが出来る。しかし、運転手の「アナタハ、アリゾナ記念館ニ、ユクノデスカ」という言葉は理解できたけれども、何を言わんとしているのかが良く分からない。タクシーの運転手として行き先を確認しているだけなのか、それとも、アリゾナ記念館の意味を知っているのかを問い質しているのかが分からない。私は慎重に言葉を選んで答えた。
「アリゾナ記念館の事は良く知っています。アリゾナ記念館に行くかどうかは、前のタクシーに乗っている人が決めるので聞いてみます」
と言って携帯電話で前のタクシーに乗った義妹に連絡した。運転手にアリゾナ記念館には行かないことを告げると、今度はボウフィン博物館について説明してくれた。  
「全部見ルニハ五十分位カカリマスヨ。博物館ノ後ハ何処ニ行クノデスカ、ホテルマデデスカ、ホテルハ何処デスカ」
どうやら、帰りも乗せて帰りたいらしい。人の悪そうな人ではないけれども、旅先の緊張のせいで、又疑心暗鬼が頭をもたげてきた。
「待ち料金も含めて高額の料金を請求されるのかも知れない」
私と運転手のやりとりを聞いていた女房も同じように思ったらしい。  
「行きだけでいいんじゃない」
運転手に  
「One way please」
と言うと運転手も一応納得したようだった。  博物館の駐車場に着くと、又
「ソコデ待ッテイルカラ」
と言う。
「待ち料金はいくらか」
と聞くと
「待チ料金ハイラナイ」
という。一応区切りをつける為に、チップを含めて20ドル手渡す。
「サンキュー サー」
と言いながらニコニコと受け取った。とても人を騙すような人には見えない。駐車場を指さして
「ソコダヨ、ソコ」
と言う彼に手を振って博物館のゲートをくぐった。
 ゲートを入り、魚雷やロケットの模型の間を歩いていくと展示館があった。博物館には潜水艦の資料を集めた展示館と係留されている本物の潜水艦ボウフィン号と屋外展示物がある。展示館に入り、入場券を買っていると、先程の運転手がドアを開けて私を呼んでいる。先程のニコニコした表情とは違って、やや真剣な表情である。私に手招きをして
「こちらへこい」
と言っている。私は、タクシーの料金を間違って渡したのか、あるいはアメリカではしてはならない事を何かしてしまったのだろうかと思った。外に出ると
「こっちだこっちだ」
と手招きしている。そして、右側の屋外展示物を指さしている。
「アレハ日本ノ一人乗リノ潜水艦デ・・・」
その屋外展示物について説明している。彼が指さす先に有ったものは、旧日本海軍の特攻兵器「回天」だった。「回天」は一人乗りの人間魚雷、神風潜水艦である。彼は真剣な表情で、私に回天について説明しようとしていた。私はだいぶ若く見られたのか、それとも彼は日本人に人間魚雷の記憶をよみがえさせようとしたのかもしれない。私はボウフィン博物館に「回天」が展示されているのは知っていた。        
「ええ、回天の事は知っています。日本の神風潜水艦でしょう」
と言うと、彼の表情が急に柔らかくなった。近くのベンチで休んでいた年配の御婦人が、我々のやりとりを興味深く聞いていたのが印象に残った。
 展示館の中には潜水艦の歴史、ボウフィン号のカットモデルや調度品、ポラリス潜水艦の模型などが展示してあった。その中に真珠湾攻撃に参加した日本の特殊潜航艇「甲標的」のスクリューと、その搭乗員で最初の日本人捕虜となった酒巻少尉の着ていた海軍服が展示されていた。
 「甲標的」は全長23.9m、全没排水量わずか46トンの小型潜水艦、特殊潜航艇である。二人の乗員が乗り組み、二本の魚雷を搭載している。当初「甲標的」は艦隊決戦時に洋上の母艦より発進し、至近距離から敵の主力艦を攻撃するための秘密兵器として開発された。
 真珠湾攻撃では、伊号潜水艦に搭載され、五隻の「甲標的」が奇襲攻撃に参加した。しかし、奇襲攻撃に「甲標的」を使うにあたっては、艇員収容の見込みが薄いとして山本五十六連合艦隊司令長官は反対だったと云う。わずか50トンにも満たない潜水艇がオアフ島近海の潜水艦から発進して狭い水路を通って真珠湾に忍び込み、奇襲攻撃を行なって再び母艦に戻ってくる、というのは余りにも無謀な作戦だったのではないだろうか。当時の技術水準がどの程度であったのかは知らないけれども、技術よりも精神論が先行し、作戦を実行に駆り立てたように思えてならない。甲標的の搭乗員やその指揮官達は、本当に只の一隻でも無事生還を確信していたのだろうか。自爆を覚悟で潜水艦から発進した「回天」と同じような、戦争末期の特攻精神はこの時に既に現れていた。
 五隻の「甲標的」の内二隻は湾内に潜入したが戦果無く沈没。他の二隻は湾口付近で撃沈されたという。酒巻少尉の乗った艇は、発進時にすでに方向を計るジャイロコンパスが故障していた。正確な進路が定まらず、潜望鏡に映るわずかな視界を頼りに真珠湾口に向かっていった。生還を考えた冷静な行動とは思えない。
 我身を顧みずに任務を遂行するというのは、世界中の何処でも賞賛される。ペルー日本大使館人質事件でペルーの特殊部隊隊員二人が命を落とした。ファン・バレル少佐、ラウル・ヒメネス中尉、いづれも人質の安全確保を任務とし、それぞれペルーのドゥデラ外相、日本人人質をかばって銃弾に倒れた。人質救出作戦が正しかったのかどうかは別として、彼らの我身を顧みない勇敢な行動は内外から賞賛され、私も、同じ日本人を救ってくれた彼らに敬意を表したいと思う。
 しかし、戦争末期の神風特攻隊は異常と云う他無い。我身を顧みずに任務にあたることと、初めから絶命を前提とすることは意味が違う。国家や民族の為に絶命を前提とした捨て身の攻撃というのは日本の神風攻撃に限らない。スリランカの「タミルイーラム解放の虎」や、パレスチナのイスラム原理主義者達が、体に爆弾を巻き付けた自爆攻撃や、トラックに爆弾を満載して敵の兵舎に突っ込む、といった日本の神風攻撃も霞んでしまうような狂気の沙汰を繰り返している。彼らの身を挺した行動や日本の神風攻撃を、祖国や民族の為に我身を投げうった犠牲的精神の賜もの、あるいは一機で敵主力艦一隻を撃沈する合理的な戦法と、たとえ是認したとしても日本の神風攻撃にはまだ問題が残る。
 当初は既成の兵器が特攻に使われたが、戦争末期には、ありとあらゆる専用の特攻兵器が開発され、多くの若者が運命を伴にした。人間魚雷「回天」「蛟龍」「海龍」、人間爆弾「桜花」、そして特攻用のモーターボート「震洋」(実際は船舶用モーターの供給が間に合わず、トラック用のエンジンを動力としていた)が開発された。「震洋」はベニヤ板で作られた、お粗末としか言いようのない特攻兵器で、船頭に250kg の爆薬を装着し、沿岸に近づく敵の艦船に神風攻撃を行なった。アメリカは日本の狂気とも云える神風攻撃を極度に恐れていた。「震洋」の基地をくまなく偵察し、徹底的に攻撃し、その大多数が破壊され、実戦に参加した船は少なかった。残った一人乗りの「震洋」には二人で乗って敵艦に向かっていったという。同乗した搭乗員は「自分も祖国の為に命を捧げる」という気持ちだったのだろう。しかし、神風攻撃を是認したとしても冷静に考えれば不可解である。一人乗りの「震洋」に二人乗る必要はないし、二人乗ればスピードが落ちると云うことを考えれば、何ら合理的でないどころか、むしろ非合理的である。 
 戦争末期、昭和20年8月15日午前10時に木更津基地から神風特別攻撃隊として二機の流星が飛び立った。出撃を命令した寺岡中将は、その二時間後に発表される玉音放送、日本の無条件降伏を知らされていた。最後に一矢報いたいという気持ちが有ったのかも知れないけれども、まともな特攻作戦とは言えない。二人の若者に死ぬことだけを強要したとしか思えない。冷静に考えれば、その後の国家再建の為に一人でも多くの優秀な若者を残しておくべきである。(特攻に加わった若者は純粋で優秀な人間が多かったと私は信じている)飛び立った流星の内一機がエンジントラブルで帰ってきたのは不幸中の幸いだった。  第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将は、8月15日正午の玉音放送で戦争が終結した事を知って後、自ら11機の彗星を指揮して大分飛行場から沖縄へ向かった。宇垣長官が乗った彗星は二座の攻撃機で、前部座席(操縦席)に中津留大尉。後部座席に宇垣長官と遠藤秋章飛曹長が乗っている。日本が降伏した後に何故二座の彗星に三人が乗り組んで特攻出撃しなければならなかったのだろう。長官は多数の若者を特攻で死なせた事の責任を思ったのだろう。しかし、これは常軌を逸した行動であることは論を待たない。
 合理的な神風攻撃(という言葉が有るとは思えないけれども)を逸脱したこれらの行動は死ぬことのみを目的とした日本人独特の価値観に根差しているのではないかと思う。日本人の死生観は、日本武士道の奇習「切腹」(ハラキリ)に見られるように死ぬ事を美化している。「死んでお詫びをします」という言葉があるように、死ぬ事は自分の全てを犠牲にして他人につくす事を意味している。そういった日本の伝統的精神を私はむやみに否定するつもりはない。しかし、民族の深層に潜む精神は伝家の宝刀であり決して抜いてはならない物だった。
 戦争と云う狂気の中で、伝家の宝刀は抜かれ、その刃は多く若者を死地へと追いやる結果となってしまった。
 太平洋戦争では、国の内外を問わず多くの犠牲者が出た。直接生命を奪われた者。家族を失った者、精神的な苦痛を受けた者、家や財産を失った者等、途方もない数の人達が戦争の被害者となった。坂巻少尉もその戦争の犠牲者であった。
 五隻の甲標的に乗り込んだ十人の搭乗員のうち、酒巻少尉を除く九人は戦死し、九軍神として讃えられ、英雄視された。当時の社会状況や、その中に身を置いた彼の心理状態を思うと、生きて捕虜となった事は、彼にとって死ぬ事よりも苦しい事だっただろう。人の評価は、足利尊氏や楠正成がそうであったように、時代と伴に変わる。酒巻少尉の評価も時と伴に変わっていくだろうと思うけれども、彼にとって最も不幸な事は、時代の生き証人として歴史の矢面に立たされたことだろう。彼自身は自分に与えられた任務を遂行する事だけを考えていたに違いない。歴史の評価を受ける事など望んではいなかったし、考えもしなかっただろう。
 私は、酒巻少尉について云々する事はできない。もし、彼の評価を下そうとするならば、数年かかって彼の人生を調べ、数十年かかって人類の歴史をひも解かなくてはならない。人が人を評価するとは、そういう事である。
 ボウフィン博物館に展示されている酒巻少尉の海軍服は「戦争とは何か」という、永遠に答えの出ない問いを見る人に問いかけている。   展示館を出てボウフィン号の中を見学した。本物の潜水艦に乗るのは初めてである。艦首より乗船し、前部のハッチから艦内に降りた。狭い急な梯子を降りるとそこは魚雷発射管室である。身をかがめて隔壁ドアをくぐりぬけ、狭い通路を通って中央の司令室へ。通路の両側にはハンモックのベットが並んでいる。何本ものパイプが壁面を走り、バルブや計器が並んでいる。このような狭い中で、撃沈の恐怖にさらされながら何日も生活する事は並大抵ではない。普通の人間ならば精神的に参ってしまうだろう。
 後部のハッチから出ると、午後の日差しが眩しかった。デッキからはパールハーバー、フォード島が見える。そして、フォード島の前に白亜のアリゾナ記念館が見えた。
 潜水艦を降りて、屋外に展示してある「回天」を見に行った。中央部の搭乗員が乗るところは、外壁の鉄板が切り取られプラスチックのカバーが掛けられて中が見えるようになっている。狭い座席に操縦捍が見える。子供を呼び、「回天」の事を説明した。  
「これは、昔、日本がアメリカと戦争した時に使った日本の潜水艦なんだ。ここに操縦士が乗って、先に爆弾が付けてあってアメリカの船に体当たりしたんだよ。」  
「へーえ」
と、子供はうなずいた。子供の心に何が残ったかは分からない。しかし、ここで「回天」を見た記憶は、いつか戦争の悲惨さを知り、戦争を起こしてはならないという自覚の種になればと思う。
 展示館前のテラスのテーブルに、タクシーの運転手が座って本を読んでいた。私は向かいに座り、自分の子供に、悲惨な戦争のモニュメントである「回天」について言い聞かせた事を話した。そして彼に、日本に帰ったらこの博物館の印象を書いて送りたいので、住所と名前を書いてくれるようにメモを差し出した。彼は喜んで住所を書いてくれた。  
  KENT LUDEWIG
そして、少し躊躇した後、電話番号をかいてくれた。欧米では個人の電話番号はなかなか教えてくれないという。私は、彼が私に心を許してくれたと勝手に解釈している。
 書いてもらった名前を見て、  
「ドイツ人ですか」
と、聞くと、  
「エエ、ソウデス。ハワイデ生マレテ、ハワイで育チマシタ」
と言う。後に、ビショップ博物館を訪れたとき、ヘリテイジ「移民」の展示コーナーには、日本や中国、朝鮮、そしてポルトガルと並んでドイツからの移民が紹介されていた。相当数のドイツ人が移民としてハワイにやってきたらしい。ルードウィヒ氏もその末裔かもしれない。
 ドイツ系アメリカ人であるルードウィヒ氏にとって太平洋戦争や日本人を複雑な思いで見ているかも知れない。もし私がもっと英語を話すことができれば、彼の心情をもっと聞くことができたかも知れないが、それができなかったのが残念だった。
 戦争や兵器に関する博物館は各地にある。ここハワイにはボウフィン博物館の他に陸軍博物館があり、旧日本軍の戦車やアメリカ軍の戦車が展示してある。ボウフィン博物館のように実物の軍艦を博物館として開放しているのはニューヨークに航空母艦イントレピッド号がある。又、来年ハワイに、日本がその甲板上で無条件降伏文書に署名した戦艦ミズリー号が博物館として公開されるという。 
 展示された兵器や軍艦を興味本意で見るだけならば、体の良い高価なテーマパークにしかならない。小さい子供に兵器や軍艦を見せて何になるのか、戦争賛美につながるのでは、という意見も有るかも知れない。しかし、歴史を真正面に見ると云う事は是非とも必要な事である。  太平洋戦争について日米で論議をすれば、いまだに諸説芬々、議論が巻き起こるかも知れない。しかし、日米双方が分かり合う第一歩は、何があったのかを真正面から見る事である。私が「回天」の事について語ったとき、ルードウィヒ氏の表情が柔らかくなった事が、それを如実に表わしているように思う。過去の現実を知ることで、少なくとも双方同じ土俵に立つことができる。過去を知らずして外国と語り合おうとする事に無理があり、すれ違いの原因になるのである。ルードウィヒ氏は、過去を知らずにハワイにやってくる日本人も多く相手にしてきたのかもしれない。そんな日本人に一人でも多く過去の現実、日本の狂器「回天」の存在を教えようとしたのかもしれない。
 帰りもルードウィヒ氏のタクシーに乗り、アロハタワーまで戻った。  
「ありがとうございます。良い思い出になりました。」
ルードウィヒ氏と握手して別れた。彼の目は客を見る目とは違っていたように思えた。

 

 18.パールハーバー

 ボウフィン博物館からパールハーバーが臨める。ボウフィン博物館はパールハーバーの東側にある。対岸にはフォード島が見える。フォード島まではわずか1km。一番狭いところでは500kmである。パールハーバーは狭くて浅い湾である。今から56年前、ここはアメリカ太平洋艦隊の基地として今と変わらず多くの軍艦が錨をおろしていた。当時はまだ大艦巨砲主義の時代で、大きな大砲を搭載した戦艦が何隻も狭い湾内に停泊していた。日本軍の奇襲攻撃により戦艦アリゾナ号は横転沈没、オクラホマ号も沈没、その他の戦艦も多大の損害を受けた。日本の攻撃機は超低空飛行で水面すれすれに目標に近づき、正確に魚雷を放って行ったという。太平洋戦争の始まりである。このパールハーバーがまさにその舞台であったと思えば、太平洋戦争の意味を考えずにはいられない。
 私は昭和31年の生まれ。太平洋戦争が終わり10年後に生まれた戦後世代である。しかし、私が子供の頃の昭和30年代はまだ戦争の記憶が多く残っている時代だった。
 街には時折、傷痍軍人が軍帽をかぶり白い装束でハーモニカを吹いてゴザに座っている姿が見かけられた。戦争の意味も良く知らなかった子供の目にはそれが気持ち悪く、近づこうとしなかった。
 少年向けの週刊雑誌を開けば「戦艦大和大図鑑」「ゼロ戦のひみつ」といった特集記事や、ゼロ戦や伊号潜水艦の登場する戦記マンガが必ず連載されていた。又、当時子供達に人気が有ったプラモデルの題材はほとんどが太平洋戦争当時の軍艦や飛行機だった。今はその人気がコンピューターゲームに取って変わられ、プラモデルは子供のおもちゃの主流ではなくなってしまったが、今でもおもちゃ屋の隅に残る自動車のプラモデルを見ると、時代の移り変わりを感じてしまう。
 現在でも領土問題や従軍慰安婦問題など太平洋戦争の陰を引き摺っている日本である。日本は戦後処理をうやむやにしているとアジアの諸国より批判され、たびたびドイツの例と比較されている。日本人は何故、戦後処理を後ろ向きで行なってきたのか、もしそうでないとするならば何故近隣諸国の理解を得られないでいるのだろう。
 太平洋戦争とは何であったかについては、いまだに議論されている。太平洋戦争は大東亜戦争(アジアより西洋を駆逐し、アジア人の為のアジアを建設する為の戦い)だったと主張している人達がいることも知っているし、真珠湾奇襲はルーズベルト大統領がアメリカの参戦世論を促すために、知っていてわざと奇襲させたという説も最近盛んに流布されている。
 日本が近隣の諸国を侵略した事実は変わらないけれども、戦争の責任はどちらに有るのかという問題は大変難しい問題である。勝てば官軍の言葉通り、日本は極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)で裁かれる立場になった。東京裁判が公平な裁判であったのかと言えば相当に疑問が残る。裁判では連合国側の罪については触れられず、日本の罪ばかりがまな板に載せられた。インドのパル判事の裁定の如く、日本だけが悪いとは言えない面も有った。戦争は双方にそれ相応の責任が有る。そうは云っても日本の戦争責任は免れるものではない。
  十五年程前に「連合艦隊」という映画が封切られた。当時、大阪にいた私が京都の映画館にそれを見に行った時の事である。フォーク歌手の谷村新二氏が主題歌を作って話題になった映画だったが、内容はと言えば、太平洋戦争の総集編を見ているようで、駄作としか言いようがなかった。二時間半の映画に連合艦隊は余りにもテーマが大き過ぎた。
 映画が終わり、最後に主題歌が流れた。駄作とはいえ館内は満席である。私は映画を見たときには余韻を楽しむために完全に明るくなるまで席に座っているのだけれど、せっかちな人達は出演者の字幕が出るとすぐに席を立ってしまう。席を立つ人達と、入れ替えに席を確保しようとする人達で通路はいっぱいである。ほとぼりがさめるまでじっとしていた。すると隣の席の老人が話しかけてきた。 
「私はあれに乗っていたんですよ。」
七十歳前後の小柄な老人だった。  
「えっ、瑞鶴(ずいかく)ですか。」 私が答えた。
 瑞鶴は開戦当時の日本海軍の正式空母六隻の内の一隻で、翔鶴とともに最新鋭の航空母艦だった。真珠湾奇襲に参加したそれら六隻の空母の内四隻(赤城、加賀、蒼竜、飛竜)は17年6月のミッドウエー海戦で沈没。残る翔鶴も昭和19年6月のマリアナ沖海戦で沈没した。瑞鶴は六隻中最後まで残った空母で、レイテ海戦の前哨戦である昭和19年10月のエンガノ岬沖海戦で沈没した。その為に映画の中では主人公的な役割を果たしていた。  
「瑞鶴ですか」
と言う私の問いに老人は、ぽつりと答えた。  
「いいえ、大和です。」
  大和は連合艦隊旗艦として、活躍する機会を与えられずに終戦間際に沖縄に向かいその悲惨な最後は良く知られている戦艦である。大和が沖縄に向かった時の乗組員3014名のうち2740名が戦死。生き残ったのはわずかに276名である。その生存者の内、現在生きているのは何人いるのかは分からないが、その老人は数少ない生残りの一人だった。
 映画の最後は大和で締め括られていた。席を確保しようとする人に押され、それ以上その老人とは話をすることができなかった。彼がどのような人生を歩んできたのかは知る由もない。一水兵として大和に乗り組み、死線を越えて生き残ったのかも知れない。彼はどのような気持ちで映画を見ていたのだろうか。
 戦争は彼の人生の青春と云う一時期の出来事である。生まれてくる人は誰も親や生まれる時代を選ぶことはできない。誰しも生まれた時代を必死に生き抜く他ないのである。戦前に生まれ、たまたま青春期を戦争と云う不幸な時期を過ごさねばならなかった人々にとって戦争は間違いなく彼にとって青春である。その時代を生き、その時代が要請する任務を必死で遂行しようととした人間をどのように評価したらよいのだろう。
 太平洋戦争(だけではなく戦争について)を考えるにあたっては、国家単位で考えなければならないこととは別に、個人のレベルでも考えなければならない。この二つの立場を同時に考えなければ戦争の本当の姿は見えてこない。たとえ日本の戦争責任を100%追及したとしても、個人のレベルでは全く別の見方ができる。
 実際に統帥権を握ってそれを行使した者、一兵卒であっても邪悪な心で不必要な悪事を働いた者(一般住民への必要の無い虐待や殺りく等)。又、それを指揮した将校や下士官の責任は追及されなければならない。しかし、純粋に自分を殺しながら任務を遂行しようとした多くの若者たちはどうなのだろう。特攻隊で敵艦に体当たりして死んでいった人達をどう評価したらよいのだろう。彼らは純粋に「国や家族を守りたい」一心で敵艦に飛び込んでいったのではないだろうか。結果的に日本の侵略戦争の一翼を担ったと評価されたとしても、彼らの行為は悪意だけでは片づけられない。     
 大和の生き残った老人の青春は「自分は国の為に戦った」の一言だろう。老人は自分が「国の為に戦った」姿を見たくて映画を見ていたのではないだろうか。
 靖国神社の参拝問題が度々報じられている。首相が参拝するしない、その立場は何なのかと問題にされる。この問題は政党や国家間の駆け引きの材料にされているように思えてならない。日本が犯した過ちは過ちと率直に認め、純粋な気持ちで散っていった多くの人達の霊を慰める事はできないのだろうか。そうでなければ、彼らの死の後には何も残らない。彼らは平和に繁栄する日本を守ろうとしたのだろうから。
 国家的な責任と個人にとっての戦争、この二つは別個に考えなければならないと思うけれども、これらはしばしば交錯される。
 第二次世界大戦の最大の激戦、ノルマンディー上陸作戦五十周年の時に元連合軍兵士が旧ドイツ軍戦死者の墓石を土足で踏みつけにしたと報道されていた。その元連合軍兵士にとっては許すことのできないドイツ軍だったかもしれないけれども、ナチスドイツの国家的責任を個人の墓を踏みつける事であがなわれることではないし、これでは後に何も残らない。
 日本の戦争体験者の中には自分の純粋な青春の行動を美化するあまり、端から見れば戦争賛美と受け取られかねない発言をする人がいる。そういった感情が政府高官の不用意な発言を招き、日本が国際的に理解を得られない原因となっているように思える。
 パールハーバーよりホテルに戻った時の私と息子との会話である。  
「日本は昔アメリカと戦争していたの?」  
「うん、そうだよ」  
「日本は勝ったの、負けたの?」
「日本は負けちゃった」  
「ふーん、でも中国には勝ったんでしょ」  
「ううん、最後は中国にも負けちゃった」  
「へーえ」  
「だけどね、戦争は勝っても負けてもしちゃいけない事なんだよ」  
「ふーん」
 戦後五十年を過ぎ、戦争の記憶は益々風化している。子供達には正しい判断力を持たせ、過去に何が有ったのか、日本は何をしたのかを正確に教えたいと思う。過去の過ちを繰り返さない努力を惜しんではならない。

 

 19.ビショップ博物館

 三日目に女房、義母、義妹達三人は、アラモアナショッピングセンターへ買い物に出かけた。女性にとって旅の楽しみはやはりショッピングらしい。五人の子供達を義父と私がワイキキで遊ばせていた。午後1時にホテルのプールで落ち合う事になっていたが、1時を過ぎてもまだ来ない。ようやく携帯電話で連絡がとれたが、まだ買い物が終わらないという。ドルの両替に手間取ったとか何とか言っていたが、私は遅くなることは覚悟していた。結局、3時頃になってようやく戻ってきた。
 ハワイでは、ポリネシアの文化を感じることができるだろうと期待してきたけれども、観光、リゾート開発の波に飲まれ、ポリネシアの影は微塵もなかった。街を歩くポリネシア系の現地人にそれが感じられるけれども、皆西欧化され日本語を話す人さえいる。
 何とかポリネシアを、とビショップ博物館へ行ってみたかったけれども、子供達にとって博物館はつまらない。今回の家族旅行を考えれば、行く機会はないだろうと諦めていたが、女房達の長い買い物が私を解放してくれた。
 子供達は女房に預け、一人でビショップ博物館へ行った。
 ホテルを出て、やってきたタクシーに飛び乗った。  
「ビショップミュジアム プリーズ」
フルサイズのワゴンタクシーだった。三十歳前後の若い運転手はホノルルの街を西に向かって車を走らせた。ビショップ博物館まではどのくらいかかるのか分からずにタクシーメーターを見ながら乗っていた。高速道路を降りて住宅地に入った所にビショップ博物館は有った。
 ビショップ博物館はカメハメハ大王直系の末裔にあたる女王バーニス・パウアヒ・ビショップの夫C・R・ビショップ氏が彼女の追悼記念として1889年に建てたものである。本館はビショップ夫妻が住んでいた館を改装したもので、レンガ造りの古い立派な建物である。新館も含めて、ポリネシア文化の紹介、ハワイの歴史、自然に関する展示室がある。
 ハワイに来てポリネシア文化に触れる機会がなかったが、ここに来てようやくそれに触れることができた。しかし、ハワイにおけるポリネシアはすでに博物館に閉じ込められてしまっていた。現在のハワイはポリネシア文化圏というよりも西欧文化圏に属しているといった方が早い。
 ハワイが初めて西欧文化に接触したのは1778年キャプテン・クックの来訪の時である。それ以前、ポリネシアは独自の文化圏を形成していた。
 ポリネシアはハワイとニュージーランドとイースター島を結んだ一辺8000kmの三角形の領域で、その面積は実に2770万平方kmである。ミクロネシア、メラネシアと並び称され、ポリネシアとは「多くの島々」を意味している。一つの文化圏としての面積では、中国文明の最大範図をモンゴル帝国とすれば、ポリネシアの文化圏はそれよりも広い。もっとも島々を合わせた陸地の面積はニュージーランドを除けば25、806平方km足らずにしかならない。これは秋田県と岩手県を合わせた面積よりも小さい。陸地面積が小さかろうと、人口が少なかろうと8000kmもの距離を隔てて同じ文化を形成していたことにかわりはない。
 ポリネシアの人口移動は、紀元前13世紀にフィジーに住みついたモンゴロイドグループが紀元前1100年頃トンガに移住し、以後サモア→タヒチ、サモア→マルキーズ諸島→ハワイへと移住していったと云われている。マルキーズ諸島からハワイへ移住したのは紀元650年頃である。フィジーからハワイまで約2000年かかって移住したとはいえ、初めて海に乗り出した人達はどのような気持ちで航海に出たのだろう。果たして行く先に移住すべき島が有るのかどうかも分からずに小舟を漕ぎ出していったのだろうか。新大陸を求めて西に向かったコロンブスと似ていなくもないが、コロンブスの2000年以上も昔の話である。
 ビショップ博物館にはポリネシアの歴史、土器や祭祀に使われた仮面などが展示されていた。中には戦いで殺した敵の兵士の歯を埋め込んだ木のボウルも有った。
 メラネシアやミクロネシアも含めて南の島々の人達を日本では「土人」という差別用語のイメージで捕えている人が多い。大ざっぱな、繊細さを欠いた仮面や土器、木工品が未開の土人という差別的イメージを生むのかもしれない。彼らの文化は日本の培ってきた文化とはまるで違った所に有る。産業革命を歴史の一つの視点として捕えるならば、ポリネシアはたしかに遅れていると言う見方もできるかもしれない。  ポリネシアは熱帯から亜熱帯に属し、気候に恵まれている。気候に恵まれているというのは必ずしも快適な生活という意味ではなく、生きていく糧に恵まれているという意味である。バナナを始めとして果実は栽培しなくても自生し、採取するだけで事が足りる。ポリネシアの99.9%を占める海には海の幸が豊富で、ポリネシアの人達が自分たちが必要とする魚をいくら採って食べようとも枯渇することはない。寒さに対する備えも無用で、工業の発達が不要な土地と言えるかも知れない。 
 ポリネシアは1778年に初めて西欧文化と接触して以来、西欧文化の影響を受け、それを取り入れてきた。その意味ではハワイは最も進んだポリネシアと言える。カメハメハ大王がハワイ諸島全土を平定し、統一王朝を作ることができたのも西欧からもたらされた武器に寄るところが大きかったと言う。もしもポリネシアが西欧文化に接触せずに今日まで来たとしたら、産業は遅々として発展せず「土人」という差別用語を助長したかもしれない。
 しかし、「土人」という差別用語を使うならば、すなわちそれは己の浅はかさを証明している。ポリネシアは西欧文化に出会わずとも何不自由無く幸せに暮らしていただろう。現代は産業の発達に伴って多くの問題が起こっている。食糧問題、環境問題、金融問題など、いづれも産業の発達が生み出した問題である。産業の発達とは何なのか、何のために産業を発展させてきたのかを現代の人達はもう一度考えるべきである。
 現在ポリネシアが抱える大きな問題と言えば、海抜の低いトンガでは地球温暖化に伴って海水面が上昇し、国土全体が水没してしまう可能性が心配されている。それはトンガと自然の問題ではなく、トンガが近代文明の犠牲になっている証である。
 今後、人類がどのくらい生き延びられるのかは分からない。人類滅亡の原因が食糧問題によるものなのか環境破壊によるものなのか、あるいは核戦争によるものなのかは分からないけれども、人類が自分で自分の首を締める人為的な原因である事は間違いない。人類の滅亡が100年後か1000年後かは分からないけれども、ポリネシアの人達の様に平和に暮らしていればその10倍も100倍も寿命が伸びたかも知れない。 
 そんなことを考えながらビショップ博物館の素朴な展示品を眺めていた。

 

 20.人種のるつぼ

 ビショップ博物館を出て帰ろうとしたが、帰る足が無い事に気がついた。来るときにはホテルからタクシーで来たけれども、駐車場にタクシーはいなかった。もう閉館の時刻に近いので、タクシーでやって来る見学者もいない。途方に暮れていると、トロリーバスの停留所があった。日本人の親子がそこのベンチでバスを待っている。しめたと思い私もベンチに座っていたらトロリーバスがやってきた。乗ろうとして料金を尋ねると18ドルだという。ワイキキのホテルからタクシーで飛ばして16ドルだった。ばかに高いバスだと思っていると、これは乗り合いバスではなく、観光用のトロリーバスだという。バスの一日フリーパスが18ドルだった。「ドウモスミマセン」と言うガイドのたどたどしい日本語が夕闇迫るビショップ博物館の駐車場に冷たく響いた。トロリーバスが去った後、私は一人広い駐車場に残された。
 大通りに出ればタクシーを拾うことができるだろうと歩き出した。しかし、博物館の周辺は住宅地でタクシーなどまるで走っていない。車も余り走っていないが、少し広い通りに出るとバスストップがあった。しかし、バスの路線も料金も乗り方も分からない。私は海外を旅行するときには、できるだけ現地の乗物を利用したいので、いつもバスの乗り方や路線を調べてくるのだけれども、今回は家族旅行なので、その機会には恵まれないと思って全くの無防備であった。
 大概のガイドブックにはバスの乗り方くらいは出ている。しかし、この時私が持っていたのは、パック旅行用に旅行社が作ったガイドブックだった。路線バスの乗り方、料金の説明は全くない。日本の旅行社は旅行者を商品としか見ていないきらいがある。自社のツアーに参加する旅行者達は全て自社の企画に従い、自社がチャーターした乗物にしか乗らないと思っているらしい。レストランもしかりである。旅行者は自社が指定、又は推薦するレストランを利用するものと思っているらしい。旅行社の企画をはずれ、自分の足で歩こうとする旅行者は眼中にないのか、それとも彼らを無視しているのかは分からないけれども、自分の足で旅行を楽しもうとする人にとっては極めて不親切である。  さて、二、三人のバス待ち客のいるバス停でバスを待っていると「Kapiolani Park」と行き先を書いたバスがやってきた。カピオラニ公園はダイヤモンドヘッドの麓、宿泊しているハワイアンリージェントホテルの東側である。何処をどう通ってカピオラニ公園へ行くのか分からないけれども、現在地よりもホテルに近づくことは間違いない。たとえホテルには近寄らず、遠回りに公園へ行くとしても、大通りに出たらバスを降りてタクシーを拾えば良い。そう思ってバスに乗り込んだ。バスの乗り方は大方万国共通である。料金はいくらか。料金は先に払うのか、後に払うのかという違いはあっても、運賃を払いバスに乗ることに変わりはない。あとは現地の人間のまねをするだけである。
 他の乗客の後についてバスに乗った。料金は「1ドル」とある。1ドル札を出すと、両替機のような機械に札を挟み込み料金を支払う。たまたま1ドル札を持っていたが、外国では小銭がなく支払いに窮する事が有る。日本では大きな札を出して釣りをもらうのが当たり前だけれども、外国では小銭がなければ受け取りを拒否、すなわち乗車拒否あるいは販売拒否される場合が有る。スペインのマドリードでアイスクリームを買おうと5,000ペセタ(当時の邦貨で約7,500円)札を出したが売ってもらえなかった。香港のトラムは1.2香港ドルちょうど出さなくては乗せてくれない。あるいは損を覚悟で2ドル支払うしかない。自動販売機もお釣りの出ないものが有る。香港の地下鉄でも最近はお釣りが出るものも有るけれども、お釣りの出ない切符の販売機がほとんどだった。
 バスに乗り込むと、五、六人の客が乗っていた。路線バスに乗ると、現地の庶民の生活が良く分かる。夕方ということもあり、買物カゴを持ったオバサンが乗り込んでくる。市街地に入ると仕事帰りの人達が乗ってくる。
 旅行社に案内されるままに動けば、通り一片の人達にしか出会わない。ホノルル空港に降りれば官憲、旅行社の人、旅行者相手の物売り。ホテルに着けば日本人を相手にするのに慣れたホテルマン。観光地でもしかりである。しかし、市民の足である路線バスに乗れば、いろいろな人達に出会うことができる。
 足のふらつく、アル中かな?と思えるような人が乗ってきた。目の焦点が合わずにきょろきょろしている。太った現地のオバサンが乗ってきた。曙関のお母さんと見まがうような体格である。東洋系の若い女性が乗ってきて私の隣の座席に座った。本を開いて読んでいる。学生だろう。
 バスが何処をどう走っているのか分からない。私はどんな土地でも地図を開いて見れば、すぐに居場所がわかる、という特技を持っている。しかし、旅行社のガイドブックには自社の企画の範囲しか地図にのっていない。ホノルル全体の地図さえも載っていないのである。時折見えるダイヤモンドヘッドと東西南北の位置関係からだいたいどのへんを走っているかを考えながらバスに揺られていた。
 バスは次第に市街地に入ってきた。東洋系の人達が多く乗り込んでくるようになった。チャイナタウンの中を走っているらしい。次第にバスが混んできた。白人、黒人、ハワイ人、日系人を含む東洋人、またそれらが複雑に混血したと思われる人達。ありとあらゆる人種が一つのバスに押し合いへしあいしながら乗っている。そしてそれらの数は一様である。多数派も少数派もなく程よく混ざっている。これ程多種多様な人種、民族が混ざっていれば、対立関係を起こすのも難しいかもしれない。二つの民族の対立とか、多数派が少数派を差別する、といった単純な対立関係では無くなるだろう。それとももっと複雑な対立関係を生むのだろうか。
 そんな事を考えながら乗っていると、市の中心部、イオラニ宮殿が見えてきた。ハワイは人種のるつぼである。いろいろな皮膚の色、民族が入り混じって暮らしている。しかし、彼ら同士どんな感情を抱きあっているのかは観光、リゾートの陰にかくれて見通すことはできなかった。

 

 21.ハワイ王国の消滅(小国の運命について)

 ビショップ博物館から乗ったカピオラニ公園行きのバスは、市街地を通り抜け、ダウンタウンに入りイオラニ宮殿の前のバスストップに止まった。イオラニ宮殿は一般公開もしているけれども、予約が必要である。外からでも拝もうと思いバスを降りた。夕方五時をまわり、バスストップには人が並んでいる。このあたりは市の中心部、ビジネス街である。その時間にバスを降りる人はほとんどいない。私は一人バスを降りた。
 ハワイに到着した初日に観光バスはこのあたりを通り、イオラニ宮殿やカメハメハ大王像、カワイアハオ教会、そしてその前の菩提樹を車中より見ていた。一通りの説明はその時に聞いている。太い幹の菩提樹は枝先からつるが下がり、地面までそのつるが届くとそこに根付くという。奇妙な樹である。
 イオラニ宮殿はバロック風の宮殿で、1882年にハワイ第七代国王カラカウア王によって建てられた。ハワイ王国は1893年リリウオカラニ女王を最後に消滅している。イオラニ宮殿の王宮としての役割はわずか10年足らずであった。
 宮殿というのは王様の住居である。私は小さい時に宮殿と城の違いが良く分からなかった。城は城壁が有り、外敵から守るもので武力を行使する要素がこめられている。一方宮殿は必ずしも武力を伴わない。イオラニ宮殿は城壁もなければ堀もない。王様の住居としての機能しか持っていない。ハワイでは王国以外の外敵というのは想定しにくい。国内事情がどれだけ安定していたのかは知らないけれども、城壁を持つ城など必要なかったのだろう。
 カメハメハ大王は1796年にハワイを統一する。カメハメハ大王がハワイ諸島を統一できたのはヨーロッパからもたらされた近代的な銃火器によるものと云われている。
 その後ハワイは、とりあえず隣接する外敵は無く、ハワイ王国として120年間存続する。
 1874年に即位したカラカウア王は「メリー・モナーク(陽気な君主)」と慕われ、温厚で知的な王様としてハワイに君臨した。王政国家が果たして国民にとって良いのかどうかの議論はさておいて、この頃のハワイ王国は、独立国家として最も円熟した時代だったかもしれない。  カラカウア王の時代にはカメハメハ大王の時代とは違って交通手段も発達し、他国との交渉が激しく、諸外国との距離も著しく近くなっていた。カラカウア王自身世界漫遊の旅に出て、1881年には日本を訪れ明治天皇と会見している。この時カラカウア王は明治天皇の人柄に惚れ込み、カイウラニ王女と山階宮定麿親王(後の東伏見宮依仁親王)の婚姻を申し込んだ。この時、もしもハワイ王室と日本の天皇家が姻戚関係を持っていたならば、歴史はもっと面白い方向に進んだかもしれない。
 日本側が婚姻を拒んだ理由は、表向き「前例が無い」、そして米国の太平洋における勢力範囲を脅かしたくないと云うのが本心だったと言われている。ヨーロッパでは他国の王室と姻戚関係になる事は珍しい事ではなく、政略的に進んで関係を結ぼうとする事もあった。日本は300年もの鎖国の後で、歴史的にも中国、朝鮮以外とは表向き交渉の無かった日本にとってはやはり「前例が無い」というのが本心ではなかったのだろうか。私は明治天皇の人と成りも知らないが、突然の外国からの親王に対する婚姻の申し出には慌てふためいただろう。今の天皇家に外国より婚姻の話を持ち込まれたとしたらどうだろう。明治時代とそう変わらない裁定が下されるように思えるのだが。
 さて、カラカウア王は1891年に亡くなる。そして、妹のリリウオカラニ女王が即位する。当時、ハワイの主要産業は砂糖きび栽培で、日本人移民の多くが砂糖きび農場で働いていた。砂糖きび栽培業者の多くは白人資本で占められていた。リリウオカラニ女王はハワイの独立を保とうとアメリカとの不平等条約を撤廃する。その結果、アメリカとの自由貿易を希望する白人資本家達と対立し、1893年に女王は政権を手放し九五年には退位させられる。120年間続いたハワイ王朝はこれで消滅することになる。
 政権を奪った白人系の臨時政府はアメリカとの併合を画策する。しかし、時のアメリカ大統領クリーブランドは自由を建て前とする米国の意志を反映してか、併合を拒否し、事の正当性を王朝に認め、ハワイ王朝の復帰をも考えている。
 臨時政府の初代大統領となったサンフォード・B・ドールは米国との併合を再三要求したが米国は受け入れなかった。経済的にいくら結びつきが強いといっても、独立して異なった文化を持つ王朝を併合するなど、まともな事では無いと誰しも思う。アメリカは自由、そして民主主義の建て前を守ったかに見えたけれども、歴史の舵取りは自由の女神ではなく自国の利益追及に託された。1898年の米西戦争で、ハワイの戦略的地位が重要視されるのである。当時米国本土からフィリピンへ軍艦を派遣するには必ず寄港地が必要で、ハワイはまさにその絶好の地だった。同年アメリカのマッキンレー大統領はハワイを属領として併合し、後1958年に州に昇格させている。米西戦争はキューバを舞台としたアメリカとスペインの戦争で、4月11日のアメリカ議会における開戦決議から12月10日のパリ条約までわずか数ヶ月で決着のついた戦争だった。その間、延べにして何隻の軍艦がハワイに寄港したかは分からないけれども、アメリカとの併合を画策するハワイの白人達には格好の口実だったようにも思える。当時のアメリカの世論はどのようなものだったのだろう。アメリカの理性はどのように働いたのだろう。背に腹はかえられない、ということだったのだろうか。         
 ハワイにポリネシア系住民が移住して1200年余り、ハワイは独自の文化を保ち、一王国として独立してきた。ハワイがアメリカに併合された意味をどのように考えればよいのだろう。
 そもそも、国家が独立を保つと言うのはどういう事なのだろう。国と国の境は何をもって国の境とするのだろう。
 単一民族国家(と思っている)日本では、国の境は民族の境と思うかも知れない。日本人にとっては民族が一つの国家を形成することは、極あたりまえの事のように思われるけれども、世界を見渡せば民族が自分達の国を形成できないでいる例はたくさん有る。民族が自分の国を造ろうという動きは世界中で起こっている。パレスチナやチェチェン、旧ユーゴスラビア等。しかし、アメリカのような多民族国家も立派に存在している。旧ユーゴスラビアのように多民族が複雑にモザイクの如く入り混じった所では民族間を線引きすることすら難しい。
 民族の他にも国の境となる要素はある。宗教や言語、主義主張を同じくするもの等である。旧パキスタンや中華人民共和国、旧ソビエト連邦がこれにあたる。旧パキスタンは宗教の違いだけでイギリスの植民地をヒンズー教徒のインドとイスラム教徒のパキスタンに分離したために、東西パキスタン分断国家となった。その後民族の違いが絡んで結局東パキスタンは1971年にバングラディシュとして独立した。中国でも社会主義の旗の下に中華人民共和国を建国したけれども、新疆ウイグル自治区やチベットで独立の動きが盛んである。
 一民族が一つの国家を形成する事は異論の無いところで、地理的にも歴史的にも民族間にスパッと境界を設けられれば独立国家は容易に形成されるはずである。しかし、現実には、そのような線引きができないところに問題が有り、世界の紛争の火種になっている。
 ハワイの場合、歴史的にも地理的にも線引きは可能だったはずである。最も近いメキシコまで約3700km。日本までは約5500kmである。隣国との境界争いや領有権問題も起こらない。もしも、ハワイ諸島がキャプテン・クックに発見されずに(そんなことは有ろうはずがないけれども)現代の国際社会に突然仲間入りしたとすれば、独立は安堵されたはずである。
 国際連合などの国際的な調整機関も無く、帝国主義が当然の如く世界を支配していた当時は、小国は大国間の争いにもまれ運命を左右された。
 日本でも戦国時代には、小国は絶えず大国の顔色を窺い、しばしばそれに飲み込まれるのが常だった。ヨーロッパではポーランドが常に東のロシアと西のドイツに翻弄されてきた。帝国主義時代には、イギリスやフランスが世界を席巻し、植民地としてその支配下においたけれども、ナショナリズムの台頭とともに1960年代にほとんどの国が独立している。しかし、ハワイは独立することなく1959年に正式にアメリカ合衆国の州となり、今日まで続いている。
 ハワイが独立せずに今日までアメリカ合衆国の一員としてその地位に留まっているのは幾つかの原因が考えられる。アメリカは多民族の連邦国家であり、原ハワイ人はアメリカにおいて特殊な存在ではない事。ハワイにおける原ハワイ人達は、一時日本人が人口の40%を占めるに至ったように、世界中から多くの移民を受け入れ、数の上でもハワイでメジャーな存在ではなくなってしまった事。そして、第三にハワイは十分に豊かである事である。原ハワイ人達が何を思っているのか、独立を考えているのかどうかは分からない。しかし、ハワイで出会う原ハワイ人達は幸せそうにも見える。そこには、ハワイがアメリカに併合されたきっかけとなった地政学上の戦略的地位と同じように、ハワイが観光・リゾートに適した絶好の地であった事が関わっている。
 ハワイは世界の観光地としてアメリカの下で開発され、世界中の人が訪れその経済を成り立たせている。ハワイの所得水準はアメリカでも上位である。1991年の統計では、年間個人所得は21,190ドルで、全米50州の中で第7位である。数字で見る限り、ハワイはアメリカの中でも裕福で住民も幸せそうに見える。  国の形態がどうであれ、住民、国民が幸せに暮らす事が第一義である。さらに多民族が一つ屋根の下に仲良く暮らせるのであれば、それに越したことはない。
 ハワイ王国の消滅、そしてハワイがアメリカ合衆国の一州となった事はハワイの悲劇と捕えるべきなのか。それとも今後世界の有るべき姿を先取りしているのか。観光客としてハワイを訪れた私には、そこまで結論づける材料をハワイは与えてくれなかった。

 

 22.ハワイアン

 ハワイと云えばフラダンスと伴にハワイアンが連想される。日本でもハワイアンは広く紹介されている。昭和30年代には幾つものハワイアンバンドが結成され流行した。しかし、今はハワイアンは季節商品である。最近はカラオケに押され、余り見かけないけれども、ビアガーデンにハワイアンバンドというのは夏の風物詩だった。私の店でもBGMに夏はハワイアンを流している。日本の夏にハワイアンはうまく溶け込んでいる。同じように十二月になれば、どこからかクリスマスソングが聞こえてくる。ジングルベルやホワイトクリスマスを聞けば、無条件反射のように年の瀬を感じてしまう。それでは、真夏にクリスマスソングを聞いたらどうなるのかと、真夏にクリスマスソングを聞いたことがあった。真に不思議な気分である。いくらクリスマスソングを聞こうとも真夏である事に変わりはないのだけれども、頭の中が年の瀬になってしまう。一度試してみると良い。
 季節や気候と音楽は密接な関係に有る。ハワイで聞くハワイアンはいかばかりかと楽しみにしていた。ハワイアンの本場といっても町中にハワイアンが流れてはいない。しかるべき所でなければハワイアンは聞かれない。手っ取り早いのはホテルである。ホテルのバーでは観光客相手にハワイアンバンドが入っている所が多い。
 子供達がベッドに入ると、部屋を出てホテルのバーに日参した。宿泊したハワイアンリージェントホテルは、一階のオープンスペースがバーになっている。ホテルのバーと云ってもラフな雰囲気である。ホテルの従業員は日系人が多い。バーテンダーも日系人だった。折角ハワイに来たのだからハワイらしい飲物を、と思ってトロピカルドリンクを頼んだ。最近日本ではブルーハワイやマルガリータと云ったカクテルが小瓶に入って売られていて、若者に人気がある。  
「ブルーハワイ プリーズ」
と、頼むと、バーテンは
「わかった」
と、グラスを二つ持ってきた。一つは高さが20cm位。もう一つは高さが30cmもあるような巨大なグラスである。そして、どちらがいいかと言っている。カクテルと云えば、マンハッタンやマティーニぐらいしか飲んだ事がない。どちらもアルコールの強い酒で、小さなカクテルグラスで、ちびちびと飲むものだった。
 大きなグラスは日本で云えば中ジョッキ位の容量がある。そんなに大きいのはいらないと小さなグラスで飲んだ。味は、ジュースにいくらかアルコールの入ったもの。酒を飲み慣れた者にとっては、ジュース同然だった。これではジョッキのようなグラスで出てくるのも当然だった。  さて、生バンドの方は初日はポピュラー、二日目がハワイアンバンドだった。ハワイアン独特の裏声を使った唄が印象的である。日本でもハワイアンは聞かれるけれども、日本でポピュラーなのは、「アロハオエ」や「カイマナヒラ」など極一部で、演奏される曲は知らない曲ばかりだった。それでも雰囲気があり、ハワイの気分を満喫させてくれた。
 帰りの飛行機の中で、座席に備え付けのイヤホーンを通して「カイマナヒラ」が聞こえてきた。わずかばかりのハワイ滞在だったけれども、今まで聞いたものとは違った味わいのカイマナヒラだった。やはり音楽はその国へ行かなければ本当の味は味わえない。

 

 23.デューク カハナモク

 デューク・カハナモクはハワイの英雄である。カハナモクはサーフィンの神様と呼ばれている。水泳では1912年ストックホルムオリンピックでチャールズ・ダニエルスの持つ世界記録を3秒以上上回るタイムで優勝。そして、4年後のアントワープオリンピックでも、さらに自己の持つ世界記録を2秒縮めて優勝している。30歳だったという。
 筋骨たくましいカハナモクは黄金の像となって、カラカウア通りにワイキキビーチを背にして建っている。海で育った彼は、小さい頃から水に親しみ、サーフィンと水泳に天才的な才能を示した。アメリカ代表とは言え、ハワイの人間が世界の檜舞台で活躍することは希だっただろう。それだけに彼はハワイの英雄として今日まで語り継がれているのである。私も水泳をする人間としてカナハモクに拍手を送りたい。
 スポーツ、特に記録に挑戦するスポーツではオリンピックを始め、各種の大会で次々と記録が塗り替えられている。マラソンのような客観的条件、アップダウンや気候、高度、天候に左右される競技は別として、厳格に記録に挑戦する競技は次第に記録更新の巾が狭まっているとはいえ、確実に記録が更新されている。例えば100m自由形の場合、1896年の第一回オリンピックアテネ大会ではハンガリーのA・ハヤージュが1分22秒2。1920年D・カハナモクは1分1秒4。1964年の東京オリンピックで活躍したD・ショランダーは53秒4。1972年のM・スピッツが51秒22。そして1988年のソウル大会ではM・ビオンディが48秒68である。
 しかし、最近の記録更新は、どうも釈然としないものがある。ドーピングの様な薬物による選手の能力開発は論外としても、それに近い様な事が行なわれている。スキーやスケートでは、用具やワックスの開発競争という側面があり、0.01秒記録を縮めたのは、選手の努力によるものなのか、用具の開発技術の勝利なのかは微妙な問題である。
 水泳のような単純とも見える競技でも水着の開発にはしのぎを削っている。より抵抗の少ない水着の開発は、第一線の選手にとっては、メダルを手にできるかどうかが掛かっている。私など、どんな水着を着ようとも、記録にそう違いはないのだけれど。
 私が水泳を始めたのは、中学の時だった。それ以前、小学校でもプールで泳いではいたが、競技としての水泳は中学に入ってからである。その頃はもちろん温水プールなど無く、全て屋外のプールだった。五月の初めから泳ぎ始める。北国山形では、水温は最低で15度位。今の小中学校では20度以下は生徒をプールに入れない。真夏に暑さしのぎにプールに入る時は大体水温は25度以上と思えば良い。15度というのは体が凍ってしまう水温である。そんな中で九月まで泳いだものだった。大学でも水泳をやっていたが、大阪や九州の暖かい地方の大学にはかなわなかったのは気候条件が十分に影響していた。冬の間は泳げず、しかたなく陸上トレーニングをやっていた。
 しかし、最近はいたる所に温水プールができ、競泳を志す者は一年中泳げる環境になった。スイミングクラブができ、レベルは我々の時代とは比べものにならないくらいに向上している。科学的トレーニングと称して、記録を更新する為だけの練習が続けられている。
 それぞれの種目に特化したトレーニングと、ハイテク技術を使って開発された用具。もはや、第一線のスポーツは、一般人のスポーツからは遠く手の届かない所に遠ざかっている。
 カハナモクの時代はどうだったのだろうか。『ハワイの元気の良い青年がいきなり世界の檜舞台で活躍』など現代では考えられない。当時は第一線の選手と云えども、温水プールではなく、浄化槽もないプールや、あるいは海や湖で泳いでいたのだろう。彼らは自然に直面した裸の人間の記録を競い合っていた。
 もしも、カハナモクが現代に生きて
「オリンピックを目指せ」
と言われたら何と答えるだろう。  
「俺は水泳機械じゃないよ!」

 

 24.Smorking Prohibited by Low  

「Smorking Prohibited by Low」
この言葉はハワイの所々で目にする。ホテルのエレベーターの中には、鋳物で作った立派な金看板にこの言葉が掘り込まれていた。直訳すれば、「喫煙は法律で禁止されています」となる。アメリカでは喫煙に対する規制は厳しい。エレベーターや乗物の中、その他レストランやホテルのルームでも禁煙は徹底している。日本でも最近は喫煙に対する目が厳しくなってきたけれども、喫煙所で喫煙するのではなく、禁煙所で禁煙しているのが現状である。つまり日本では断わりが無ければ「喫煙可」である。
 日本で喫煙を規制しようとする時には何と書くだろう。『禁煙』と書く場合が有る。しかし、『禁煙』というのは堅い表現である。ホテルなどでもっと柔らかい表現を使おうと思えば「ここでの喫煙は御遠慮下さい」とでもなるかもしれない。どちらにしても、日本では「法律で」という表現はあまり使われない。
 公的に未成年者の飲酒を禁ずるポスターなどでは法律云々の表現が使われるけれども、民間のサービスの場では見かけない。宿泊したホテルの浴室にも次のような表示があった。
 「ベランダで洗濯物を干す事は法律で禁じられています」
よほどアメリカ人は法律が好きなのだろうか。それとも、日本語のような複雑な湾曲表現は英語にはないのだろうか。

 

25.「アナタハ  ナンサイデスカ」

 ハワイは観光客でいっぱいである。そして、その観光客を相手にする店が軒を連ねている。コンビニエンスストアー「セブンイレブン」もあった。「セブンイレブン」はもともとアメリカ資本の会社で、日本ではイトーヨーカドーがフランチャイズを展開している。ハワイのセブンイレブンは、いわば本家のおひざもとだけれども、イトーヨーカドーが逆に買収してハワイでのフランチャイズを展開している。先日、セブンイレブンが経常利益が1000億円を超えたという話題が紹介されていた。コンビニエンスストアは随分儲かるものだ。
 ここハワイには、セブンイレブンなど霞んでしまうストアーがあった。「ABCストアー」である。ABCストアーはコンビニエンスストアーと観光客相手の土産物屋を合わせたような店である。日用雑貨品から衣類、酒にいたるまで、そしてハワイ土産の数々。そして、それらを廉価で販売している。息子がシーライフパークで一ドルで買ったキーホルダーが85セントで売られていた。息子もめざといもので、ABCストアーでキーホルダーが85セントで売っているのを見かけると、それをたくさん買って友達への土産にしていた。
 ABCストアーはホノルル市内に多店舗展開している。それも並大抵の店舗数ではない。同じABCストアーが向かい合っていたり、一つのビルの表と裏に有ったりと、よくもまあこんなにと思うほど店舗が多い。ワイキキに面したカラカウア通りやクヒオ通りでは、ABCストアーを出て50mも歩かないうちに又ABCストアーの看板が目に入ってくる。こんな近くに同じ店を開いて競合しないものかと思うけれども、やはりABCストアーに入って買い物をしてしまう。ハワイに来る観光客を一網打尽にしようという戦略なのだろう。
 ほとんどのホテルのショッピングアーケードにもABCストアーが入っているようで、私たちが宿泊したハワイアンリージェントホテルにもABCストアーがあった。
 ワイキキで泳ぎ、部屋に戻るときにビールとつまみを買おうとホテルのABCストアーに立ち寄った。店の中は観光客でいっぱい。レジには列をなしている。
 私は外国に行った時には良くスーパーマーケットに入る。そこには土産物とは違った現地の人達のカジュアルな商品が並んでいる。そんな商品を見ながら歩くだけでも楽しい。中には掘り出し物の土産品が見つかる場合もある。ABCストアーは土産物も多いけれども、現地の人達が食べる食品や日用品も多い。ビールの棚には日本では見かけないビールも有る。酒のコーナーの隣には日本人観光客向けの酒のつまみ、「さきいか」や「柿の種」も並んでいるけれども、それらは無視して何か変ったつまみはないかと捜して廻った。  缶ビールを5本、つまみをいくつかカゴにほうり込みレジに並ぶ。列はやや短くなっていたけれども、それでも5人位待たされた。そして、自分の番が来た。缶ビールを入れたカゴをレジの台に載せるとレジの女性が私をチラと見て言った。  
「Anatawa nansaidesuka?」
私は何を聞かれたのかが分からなかった。私が理解しなかったと見て彼女はもう一度言った。  
「アナタハ ナンサイデスカ?」
ようやく意味が分かった。年齢を聞かれたのだ。会話と云うのは話の筋道に従ってこそ会話である。年齢を聞かれようとは思っていない私には、彼女の言葉の意味がすぐに理解できなかったのだ。
 年齢を聞かれたことが理解できると、直感的に彼女は私を未成年と思っていると云うことが頭の中を駆け抜けた。私は落ち着いて答えた。  「Fourty」(四十歳です)
一瞬彼女は驚いたようだったけれども、すぐにニヤリと笑ったので私は続けて
 「Look like eighteen?」(十八歳に見えますか)
彼女は苦笑いした。
 私は未成年に見られたのだ。私の出で立ちは、海で泳ぎシャワーを浴びて洗いざらしの頭。短パンにTシャツ、ゾウリ履きである。確かにスーツを着ている時よりは若く見られる格好かもしれない。それにしても「未成年」は余りである。
 日本人は外国に行けば若く見られる事が多い。欧米人に比べて日本人は十歳は若く見られるかも知れない。ハワイの現地の人達も歳を食ったように見える人が多い。若いはずのトロリーバスのガイドやホテルのボーイなど、ちょっと目にはオッサンに見える。曙関を思えば良い。彼を全く知らない人には彼が何歳に見えるだろうか。私(四十歳)よりも年上に見えてもおかしくない。そこは横綱の貫禄ということも有るだろうけれども、とても二十代には見えない。
 しかし、私が実際より二十歳以上若く見られたこともさることながら、外国人客に酒を売るときに年齢を確認すると云う事にも驚かされる。  ハワイの法律では二十一歳未満は酒を飲むことを禁じている。未成年者の酒を禁じるポスターはホテルの中でも見かけられた。日本でも二十歳未満は酒を禁じられている。しかし、高校を卒業したら、堂々と酒屋で酒を買い飲んでいるのが日本の現実である。私も大学に入ったばかりの十八歳の頃、クラブの先輩に言われて酒屋に酒を買いに行ったことが何度も有る。時には夜も更けて、閉店した酒屋の戸を叩いて酒の買い出しに行ったことも有った。しかし、一度として酒屋のオヤジに年齢を聞かれたことはなかった。
 アメリカも日本も共に法治国家である。法治国家とは、国民が守るべき最低限の事が法律で定められている国のことである。法治国家である限り、当然の事ながら法は厳守されなければならないし、法を犯せば罰則を科せられることになる。
 アメリカの法に対する姿勢は厳格である。「Smorking Prohibited by Low」のように、法律の規定は日常生活に入り込んでいる。私の友人がハワイで車を運転したときに、制限速度をわずかに超えて走っただけで、たちまちパトカーがやってきて停止を命じられた、という話を聞いた。制限速度とは超えてはならない速度である。こんな事は今更言うまでもないけれども、日本の制限速度は
「この速度を超えて車を走らせれば、運が悪ければ違反切符を切られ、罰金をとられる場合がありますよ」
という程度にしか受けとめられていない。見通しの良い道路で制限速度40kmを守って走ろうものなら、たちまち後続の車にパッシングされ、運が悪ければ罵声の一つも浴びることになる。日本では法律とは別の所に守るべきものが有るように思える。
 アメリカが法律の遵守に厳しいといっても、アメリカが治安の良い社会である証にはならない。ご存じの通りアメリカは日本に比べてはるかに治安が悪い。アメリカ国民が皆法律を遵守していれば治安の乱れなど起きるはずが無い。法を守らない人が多い故に法の遵守には厳しいのである。唯でさえ治安の悪いアメリカで、法律のタガを緩めようものならいかなる犯罪が起こるかは分からない。
 日本の場合はどうなのだろう。スピード違反や未成年者の飲酒を例に出すまでもなく、何故日本ではかくも法律のタガが緩いのだろう。そのくせ車の全く通らない赤信号を渡らずに信号が青になるのを行儀良く待っているのはどういう訳だろう。

 

 26.かちかち山     

 「かちかち山」という話を覚えているだろうか。誰しも子供の時に一度は聞いたことがあると思う。紙芝居の題材にもよく取り上げられ、背負った薪に火をつけられ、あわてふためくタヌキの様を面白おかしく描かれた絵を思い出す。
 内容は、悪事をはたらいたタヌキがウサギにこらしめられ、背中の薪に火をつけられるというものである。日本の子供向けの話に良く有る勧善懲悪物である。しかし、何が原因でタヌキは背中に火をつけられたのかと言えば、私ははっきりとは覚えていない。
 「かちかち山」の題名の由来となった、ウサギが火打石でタヌキの背中に火をつける場面ばかりが印象深く、その他はあまり覚えていないのである。どちらにしても、さぞタヌキは背中を火傷して痛かったろうと思う。かく言う私はハワイでかちかち山のタヌキの気分を存分に味わってしまった。
 ハワイは熱帯に属する。常夏の国とはいえ、それほど緯度は低くはない。赤道からはなれ、香港と同じ位の緯度に位置する。日差しが強く暑いけれども、そんなに暑さを感じない。木陰に入れば涼しいし、日本の夏のムッとする暑さが無い。
 現地の人達は皆色が黒い。年中強い日差しにあてられ真っ黒に日焼けしている。シャツを脱ぎ、上半身裸で街を歩いている人も多い。小太りした体型に真っ黒な肌はいかにもハワイである。デューク・カハナモクも真っ黒に日焼けした筋骨たくましい体だったのだろう。
 ワイキキでは甲羅干しをしている人がいる。現地の若い人達や若い観光客が砂浜にマグロを並べたように皆寝そべっているのである。  女房は日焼けしないようにと日焼け止めクリームを塗って外に出ていた。子供達にも日焼けしないようにクリームを塗り、私にも塗るように促す。
 「俺はそんな柔肌じゃない!」
 裸で外を歩いている現地の人や海岸で甲羅干しをする人達が目に焼き付いていたせいも有るかもしれない。今まで日焼け止めクリームなど塗ったことはなかった。中学の時から水泳をやってきた私にとって日焼け止めクリームなど屈辱でしかなかった。
 子供達とワイキキで遊んだ後、今度はホテルのプールで泳ぐ。ほとんど一日陽にあたっていた。
 夕方、熱いシャワーを浴び、バスタブに入ると背中はヒリヒリ。そんな経験は何度もしているし別に珍しい事ではなかった。日焼けをハワイのおみやげにして帰ろうと思っていた私である。 
 ところが今度ばかりは勝手が違っていた。次の朝起きると背中は一面針を刺したように痛む。背中を触っただけで飛び上がる程痛い。鏡に映してみると肩のあたりが一面火ぶくれになっている。バックパック(リュック)を背負うこともできない。
 日本に戻り、薬をつけようと思ったが、手の施しようが無い。夜寝る時にはうつ伏せになって寝た。なかなか寝にくいものである。
 何故私はこんな目に合わなければならないのか。かちかち山のタヌキが何故背中に火をつけられたのかを思い出せないのと同じように、私もその原因がわからない。
 かちかち山のタヌキの気持ちが良く分かった。

 

 27.旅の終わりに

 1997年3月24日より4泊6日でハワイを旅した。義父や子供との家族旅行だった。子供連れで海に行くような気分で海外に行けるとは日本も豊かになったものである。
 子供達にとっては初めての海外旅行。日本と云う一つの文化、言語を有する地域の枠を越えての初めての旅行である。子供達は親が心配するほど外国に違和感を持たずに、そして大人では見えないものを見てきたようにも思える。これから益々世界が狭くなる中で子供達の心の中になにがしかの物が残ればと思う。
 ハワイは冒頭で記したように、私にとってはあまり興味をそそられる所ではなかった。リゾートという言葉が私の旅の好奇心を萎えさせてしまっていた。しかし、ハワイに行ってみれば、そこには歴史と文化が有り、人々が真剣に暮らしているのは、興味深い他のどんな地域とも同じであったことは言うまでもない。
 ハワイはポリネシアの一地域として歴史、文化を持っているけれども、現在はアメリカの一州としてその地位を確立している。そしてそこには欧米の人々、日系人、中国系その他アジア系の人々が共に住まう特殊な地域でもある。それだけに複雑な問題が絡んでいそうにも思える。
 今回は家族旅行と云う事も有り、実質5日間ハワイに滞在したけれども、オアフ島の一部を見ただけでハワイ全体を見たとは到底言えない。しかも観光地を中心に廻り、人々の暮らしを覗くまでには至らなかった。そんなせいも有るかも知れないが、ハワイの日系人達は何を考え暮らしているのか、ハワイのポリネシア文化はどこへ行ったのか、太平洋戦争はハワイに何を残しているのか等、私の疑問には満足に答をくれなかった。そこにはハワイ経済にとって重要な産業である観光・リゾートという余りにも分厚い壁が立ちはだかり、ハワイの本当の姿を見せるのを拒んでいた。
 ハワイの日系人達が私たちに見せる姿は観光客に見せるそれであり、ハワイのポリネシア文化は博物館に閉じ込められてしまっていた。太平洋戦争の痕跡は観光名所として残り、それを観る者観せる者共に観光・リゾートの壁を隔ててしか語り合えない。
 ハワイは十分に豊かであり、自然環境にも恵まれている。外から来る者の目には、ハワイは南国の楽園と映る。観光に来る者は遊びに来たのだから当然そこは楽園に見えるだろう。しかし、観光・リゾートという分厚い殻の中にはいろいろな問題を含んだハワイがある事は他のどんな地域とも同じではないだろうか。
 もし又ハワイを訪れる機会が有れば、観光・リゾートの壁を押し開けてハワイの本当の姿を見てみたいと思う。
 先日、ハワイの日系人観光客が来形し、私の店にも土産物を買いに数人入ってきた。  
「ハワイの方ですか。この三月に私はハワイに行ってきました。」  
「ドコヘ行キマシタカ。島ニハ渡リマシタカ。」  
「いいえ、子供連れだったので、オアフ島だけでした。」  
「今度ユックリ遊ビニイラッシャイ。」
ハワイの日系人達には私達を受け入れる素地が十分に有るように思えたのだが・・・。 
    

・・・・おわり・・・・         

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