はしがき

 1996年10月4日、仙台空港より香港に3泊4日の旅に出た。香港は来年7月に中国に返還される。経済的に発展期にある中国が現体制の中で香港をどのように取り込むかは世界の注目の的である。新聞テレビには、連日香港の話題が紹介されている。このような時期に訪港できることは、私にとって歴史の変革期を体験できると云う意味でたいへん興味深い事だった。
 香港を始めとしてアジアの国々は今興隆期にあたり、欧米諸国を追いつき追い越そうとしている。その中には数多くの問題を含んではいるけれども、国際的視野の中では無視できないものになっている。それらの国々の最先端を走るNIESと呼ばれている国(地域)の代表である香港の行く末は、同じアジアの日本では、これからも注視していかなければならない。
 今回の旅行は、七日町商店街青年会35周年の記念事業として行なわれたものだった。私は13年間、青年会に所属し、その間研修旅行として何度も旅行させてもらった。いわば私の卒業旅行として中国返還前の香港に旅させてもらったことは、私にとって一つの節目となり、良い思い出となった。改めて七日町商店街青年会、並びに振興組合、事務局に感謝したい。                        

                                                            平成8年11月   結 城 康 三

 

第T部 香港  

1.三度目の正直

 香港は私にとって、三度目の訪問である。初めて香港を訪れたのは11年前。二度目は2年前である。それぞれ故有っての渡航だけれども、私自身三度も香港を訪れる機会が来ようとは夢想だにしなかった。三度香港を訪れた、と言えばしょっちゅう洋行しているように思われるかもしれないけれども、そんなことはない。私にとっては、たまたまの三度目の訪港である。そして、それら三度の訪港は全て商店街絡みだった。初回は年末大売り出し抽選当選者の添乗員として。前回と今回は青年会の旅行である。2年前に香港を訪問し今年又同じ団体で香港を訪れるというのは部外者から見ればいささか不可解に思えるかもしれない。商店街の中でも
「お前だ、よっぽど香港好ぎなんだな。」
と、皮肉とも呆れとも取れる罵声を浴びせかけてきたのは一人や二人ではなかった。言い訳をするようだが、2年前に旅行に参加した青年会員はほとんどが引退や交代で、前回旅行に参加し今回又参加するのは私と事務局の佐藤氏だけだった。私は研修旅行の行き先が香港ではなくバンコクや大連、ウラジオストクあたりに決まるように内心祈っていたのだが、祈りも空しく香港行きとなってしまった。
 しかし、行き先が香港に決まったことに付いてはそれ相応の訳が有る。会員の希望が相当に強かった。そしてその理由としては、第一に旅程の関係で短期間に旅行できる所と言えば制限されてしまう。仙台発の海外旅行と言うのは時間の無い者にとっては大変重宝である。海外旅行と言えば、昔は羽田空港、今は成田空港と言ったイメージが強いけれども成田へは往復一日を費やすことを覚悟しなければならない。しかし、仙台からの出発であれば時間を無駄にすることもなく海外旅行ができる。今回も山形を早朝の出発となったけれども、昼過ぎには香港に到着し、初日から約半日有効に使うことができた。そんな訳で仙台からの出発を前提に行き先を選択したのだが、仙台空港も整備されたもので、香港だけではなく、ソウル、北京、大連、シンガポール、ハワイ、グアムへも定期便が就航している。しかし、ハワイやグアムでは遊びの要素が強く研修旅行には適さない。経済的役割の強いシンガポールも候補に揚げられるけれども、何と言っても今時香港を選ぶ理由は目前に迫った香港の中国返還である。来年(1997年)7月に香港が中国に返還されても香港経済に急激な変化は起こらない、と言うのが大方の見方だが、やはり返還前に香港に行ってみたいと思う人情は我が青年会だけではないらしい。旅行企画を頼んだJTBでは、いざ正式に申し込んだときには、仙台便は満員だと断られ、他の数社に依頼し、結局「近畿ツーリスト」のパッケージツァーの空き席に潜り込んだこともこの辺の事情を良く物語っている。とは言え、行き先が香港に決まった本当の理由は決定権を持つ青年会研修厚生正、副委員長の富岡氏、山澤氏が香港に行ったことが無かったというのが真相であることに変わりはないのだけれど。
 さて、話は遠回りになってしまったが、私にとって香港は三度目の訪問である。「三」という数字は日本人が好む数字である。「何事三べん」「三度目の正直」「三遍回って・・・」「万歳三唱」「三者鼎立」等々。「三者鼎立」と言うように日本人だけではなく自然の原理に照らし合わせても「三」と言う数字は安定した数字である。「第三者」と言う言葉は有るが、「第四者」と言う言葉はない。「一」が有り「二」が有り、そして「三」が有るのである。前回、そして前々回の香港訪問を踏まえて今回の香港訪問が有る。同じ場所を三度訪問するというのは、考えてみれば中々できないことである。国内でも近くの温泉場や仕事で行く所は何度となく訪問するけれども、遠くの観光地を三度訪問する機会はそう有ったものではない。その行き先がどこであれ、初めて行く時には見るもの聞くものが珍しく、何を見ても感動してしまう。私が初めて海外旅行をしたのは13年前に一人でヨーロッパを旅した時だった。そして初めて異国の地を踏んだのはロンドンへ向かう途中にトランジットで立ち寄ったモスクワのシェレメチェボ空港だった。その時、空港の窓越しに「ΑЭРОФЛОТ(アエロフロート)」の文字が書かれたタンクローリーや荷物運搬車が白樺の森に囲まれた空港をせわしく走っている様を私ははっきりと覚えている。そして初めてロンドンの街に一人放り出され心細く宿を探した思いも心の片隅にはっきりと残っている。初めての経験と言うものは新鮮で感動的では有るけれども、物事を冷静に、そして客観的に見ると言う観点からは少し離れてしまう。そういう意味で今回の香港訪問は私にとって文字通り「三度目の正直」である。香港と言う街がどんな街なのか、今後香港はどのように変わっていくのかを冷静に見ることができるかも知れないと期待している。
 たいして海外に行く機会に恵まれているわけではない私にとって三度目の香港訪問は、そう思うことがせめてもの慰みである。

 

 2.青年会研修旅行

 今回の香港旅行は七日町商店街青年会の研修旅行である。我が「七日町商店街青年会」は七日町商店街に商いする40歳以下の若手の集まりである。40歳を若手と称するか否かについては議論の別れるところであるが、私も今年40才になり青年会の会長と云う重責を賜っているので三度目の香港旅行も不参加と云うわけにはいかなかった。
 青年会の研修旅行は毎年行なわれている。ちなみに昨年は新潟への一泊旅行だった。今年は青年会設立35周年と云うことで、海外旅行を企画した次第である。5年前の30周年には斎野五兵衛会長を頂き、ニューヨークへの三泊五日の旅と云う極めてクレージーな強行軍が決行された。
 では何故30周年、35周年と騒がなければならないのだろうか。節目の年であると云うことで「0」の付く年、「5」の付く年はどこでももてはやされる。私の長男の小学校でも今年創立85周年を迎え、記念行事やら寄付集めが行なわれている。部外者から見ればいささか滑稽、あるいはやり過ぎと思える面も有るのだけれども、それでもやはり日本人は節目を大事にしなければならないらしい。
 では何故「0」や「5」が節目なのかと突き詰めて考えれば、それは十進法に基づいているからに他ならないのだろう。「0」は単位の始まりであり「5」はその中間に位置するからである。もしも、十二進法であれば「5」は節目とはならず、「6」がその任に取って変わったはずである。「10周年」は無視され「12周年」(もっとも十二進法であれば12は「じゅうに」すなわち「10プラス2」と云う表記はなされなかっただろうけれど)が盛大に祝われたはずである。
 それでは何故十進法に人類は固執したのかと云えば、それは人間の手の指が5本、両手合わせて10本と云う事と無縁ではない。人間の指がもしも4本、あるいは6本であったならば、物の数え方も違っていただろうし、あるいは定量的な判断から来る倫理観も現在のそれとは違っていたかも知れない、などと妄想をしてしまう。しかし、何はともあれ35周年を口実に青年会員が集って香港に旅行できる事は有りがたいことである。我が青年会に限らず「○○周年」を祝うことは何かの口実には持って来いである。
 今回は青年会員10名、青年会入会予定者1名、事務局1名、合計12名の旅行となった。旅行と一口に云っても、色々な旅行が有る。修学旅行や社内旅行、一人旅や家族旅行もあれば一生に一度しか味わえない(普通の人にとっては)新婚旅行というのも有る。最近は婚前旅行や不倫旅行等と云うものも有るが、それぞれにそれぞれの旅の味が有る。(私はまだ婚前旅行と不倫旅行を味わったことが無い)いつか女房に
「私と行く旅行と一人で行く旅行でどちらが好き」
と問いつめられたことが有った。その場は何となくお茶を濁したが、私にとってその質問は
「寿司とラーメンどちらが好き」
と聞かれたようなものであった。もしもその質問にイエスかノーで答えを迫られれば
「寿司が好き」
と答えるかも知れない。しかし、それでは寿司だけ食べていれば満足かと云えばそうとも云えない。ラーメンも食べたいし他にも食べたいものはたくさん有る。旅行もそれと同じで色々な旅の楽しみが有る。修学旅行は青春の思い出を残してくれる。社内旅行で煙たい上司や職場の女の子と旅行するのも一興である。もちろん家族の旅行には何にも代えがたいものが有る。
 青年会の研修旅行は他の旅行には無い楽しさが有る。言わば友達同士の旅行だけれども、修学旅行とは違い社会人どうしである。かと言って、社内旅行とは違い上下関係も無ければ気を使うこともない。それでいて学ぶことが多いのである。視察研修という外的に学ぶことも多いけれども、それよりも私にとっては同じ青年会員に学ぶことのほうが多いし、又それが旅の楽しみでもある。青年会と言えども会員が膝を突き合せるのは月に一度か二度しかない。酒を飲み話をする機会は有っても本音で話をする頃になると、すでに門限が近くなってしまうのである。
 海外旅行は現地に着くまでに時間がかかることは前述した通りだけれども、私にとって旅行の楽しみは出発の為に集合したときからすでに始まっている。今回の香港行きは混んでいて仙台発が取れずに、あるいは成田からの出発になる可能性も一時は心配された。しかし、私は「それはそれ」と内心楽しみでもあった。一人で成田までの時間は無駄な時間に他ならないが、皆でチャーターバスを仕立てて行くのであれば話は別である。無駄な時間も無駄では無くなるのである。
 しかし、今回は運良く仙台からの便に乗ることが出来た。我が青年会の日頃の行ないが良かったからではないだろうか。

 

 3.出発前のトラブル

 旅行にはトラブルがつきものである。5年前のニューヨーク旅行の時には搭乗手続きの時にオーバーブッキングで出発便の変更を余儀なくされた。今回のトラブルは旅行代金のトラブルである。金銭に関することなので少々細い数字が出てくるけれども、我慢して読んでいただきたい。
 JTBにふられた我々は近畿日本ツーリストのパック旅行に潜り込んだ。潜り込んだとは言え、メンバーは我々だけなので企画旅行とほとんど変わらない。代金は12万2千円。旅程は次の通り。
     初 日    午前 仙台空港出発       
             午後 香港着、送迎バスでホテルまで、後自由行動    
     第二日    午前 市内観光とショッピング、昼飲茶         
             午後 自由行動  
     第三日    終日 自由行動
     第四日    朝  送迎バスで空港へ、
             午後 仙台着
 今回の旅行の目的に、商業施設の視察研修が有り、又マカオに行きたいと云う希望も多かったので時間を有効に使う為に、初日にヤオハン馬鞍山店を視察することになった。旅行会社のオリエンテーションの際、その旨を伝え、ホテルまでの送迎バスでそのまま視察出来るように頼んだ。旅行会社も了解し、時間が有効に使えると喜んだのだった。ところが出発の一週間前になって旅行代金は14万5千円と言ってきた。初日のバスをチャーターした為に1人2万3千円の追加料金だった。参加者12名分で27万6千円の追加である。わずか半日、正確に言えば手配しているバスを2〜3時間延長するだけで27万6千円の割増し料金と言うのだ。抗議をすると「土産物屋を二、三軒回ればもう少し安くなります。」との答えだった。旅行客を土産物屋に引っ張り回す、というのは香港に限らず有ることだが、余りにも高いバスチャーター料金である。納得できずに旅行社を呼び出し、交渉した。
 旅行社の説明は次のようだった  
「パック旅行ではバスはチャーター出来ないことに成っています。バスをチャーターする場合、航空料金や宿泊代など料金体系が全て別になります。バスのチャーター代金が27万6千円ではありません。」
  旅行社としては騙すつもりも、嘘をついているわけでもないのだろうが、バスをチャーターすれば料金体系が別になる等の説明はいっさい受けていない。我々にしてみればバスのチャーター代金が27万6千円と受けとめる事は極自然なことだった。旅行社の説明不足を指摘し、元のパック旅行の日程に戻してもらうように言った。空港からホテルまで送ってもらい、それから視察に出れば追加料金は必要ない事になる。少々時間が無駄になるが、27万6千円を取り替えすには十分である。旅行社は
「いまさら出来ない。」
と言っていたが交渉の末、結局元のパック旅行の日程に戻し、代金は12万2千円に納まった。
 視察の方はと言うと。Y君の骨折りで別途バスをチャーターし事なきを得たのだった。もし何もしなければ、Y君がチャーターしてくれたバス料金の差し引き25万円が無駄になっていた。
 かかる問題は良く有ることである。私は青年会長として会員から預かった会費を1円も無駄にできなかった。青年会に限らず公的、あるいは任意の公的組織では自分のお金でないからと、余計な出費をしている場合が少なくない。
「事が丸く納まるならば」
とか
「ゴチャゴチャ問題を起こしたくないから」
と筋に合わないお金の使い方がされているのを良く見かける。官々接待や赤字国債など公的機関の金銭に関する問題はこの辺に起因している。住専問題も他人の金を使うのに慣れている官僚出身者が経営者の椅子に座り、在任期間中だけ何とか取り繕い、多額の給料と退職金を掠め取っている。彼らに会社の金は自分の金という意識が少しでもあったならば、あれほどの赤字が出るはずがない。他人の金だからと無駄遣いし、ばらまき行政をするような人間に国庫を預けている限り赤字国債は減らないのだろう。

 

 4.ヤオハン馬鞍山店

 今回の旅行はあくまでも研修旅行であり、香港の商業施設を見学することに有る。ホンコンプレイスやパシフィックプレイスといった大型の商業施設が香港には沢山有る。その中でヤオハンの馬鞍山店を見学することになった。事の次第は会員のY氏の会社が所属する「ニチリュウ」のつてで現地の事務所に話を通してもらったのだった。
 飛行機の到着が遅れ、予定を1
時間程過ぎてしまったが、4時過ぎにホテルを出発、ヤオハン馬鞍山店には5時前に着いた。
 ヤオハン馬鞍山店の概要は次の通り
    開店日   1995年7月16日  時尚廣塲(ファッションタウン)オープン
            1995年10月18日 生活廣塲(リビングプラザ)オープン
    営業時間  午前11時 〜 午後10時
    営業日   旧暦正月を除く年中無休
    面積     時尚廣塲 161、000スクエアーフィート(約15、000 )
            生活廣塲 122、900スクエアーフィート(約11、400 )
    従業員   約370名(内日本人4名)
    駐車場   約690台     商圏人口  約750、000人
    商品種類  スーパー、食品、婦人・紳士・子供服、ファミリー、玩具、スポーツ
            家庭用品、寝具、家具、書籍、電気用品、レコード、文具、レストラン
 店内を見て感じることは、日本のショッピングセンターと同じ造りで違和感の無いことである。アメリカやヨーロッパのショッピングセンターを見ると、日本とは異なった雰囲気が有る。どこが違うのかと言われれば具体的には言いにくいけれども日本とは明らかに違うのだが、ここではそれが感じられない。日本の企業の出店だからかもしれないが、買い物をする人々が日本と同じ雰囲気なのだ。ベンチでおしゃべりをするおばあちゃん達も違和感無く溶け込んでいる。
 商品は日本に比べ格別安いことはなく、日本製品も多い。食品を始め文具、ストッキング等日本製が多く見られた。担当者の話では、
「ここの商圏は高級住宅街を含んでいるので・・・」
との事だった。しかし、いくら高級住宅街でもそれ程価格差があれば日本製品は太刀打ちできないだろう。香港の所得が上がり、日本に近づいてきた証左ではないだろうか。香港製品と日本製品の価格差も縮まり、香港から日本へという一方的な物の流れがそのうちに逆流するかも知れない。
 私はここで米粉(ビーフン)と河粉(ビーフンと同じ米の粉で作った、きしめん状の物)をおみやげ用に8個買った。1個5ドル(約75円)。中国製だったが食料品はさすがに安い。ここにも中国人の食に対するこだわりが見て取れる。

 

 5.朝粥

 私の海外旅行の楽しみは、その土地の人達の生活を体験することにある。観光バスに乗って名所をめぐる旅行など、私にとっては時間の無駄にしか思えず、何の魅力もない。現地の人達の生活に触れ、自分とは違った価値観を知ることこそ私の旅行の楽しみなのである。
 今回の旅行の宿泊はロイヤルパシフィックホテル(皇家太平洋酒店)。旅行社は、「余り良くないホテルですよ。」と言っていたが、私には十分過ぎるほどのホテルだった。ホテルを堪能する旅であれば別だけれども、私にとってホテルは安全に宿泊できればそれで十分なのだ。   ホテルにはもちろん朝食は付いている。早朝に出発しなければならない最終日にホテルの朝食を食べたけれども、大変美味しいバイキングの朝食だった。餃子、小籠包、粥等の中華料理からシリアルまで揃っていて、とても美味しかった。しかし、私はいくら美味しい朝食でも、ホテルの朝食よりは香港の庶民の朝食を味わいたかった。
 朝起きると手当り次第に電話をした。  
「外さ朝飯食いいがねが。」
 引っかかってきたのはO氏、T氏、S氏である。連れだって朝の香港の街に繰り出した。
 入ったのは40坪程の比較的広い大衆粥店。壁一面にメニューが張ってある。よくこれだけ色々な料理を出すものだと感心してしまう。朝食メニューはテーブルに置いてあった。二年前は粥を食べられなかったのでO氏、S氏、そして私は粥を頼んだ。粥はどんぶりの底に汁が有り、その上に白粥が盛ってある。日本の粥とは違いほとんど米粒が溶けるほど煮込んである。さぞ長時間煮込むのだろう。粥をかき混ぜると底から皮蛋(ピータン)が出てきた。塩味が効いてとても美味しい。中国では朝粥に油条という長い揚げパンのようなものを漬けて食べると言う。ものは試しと油条を三つ頼んだ。出てきた油条は15cmぐらいのものが3
本で一人前。とても量が多い。粥も大きなどんぶりにいっぱいである。全部食べたら相当に腹いっぱいになるのではないかと思ったけれども、消化の良い粥なのですぐにお腹が空くのかもしれない。
 粥と油で揚げたパン。この組み合わせは良く理解できなかった。しかし、食べてみると美味しい。粥の微妙な塩味が油条と良く合う。やはり現地の食べものは味わってみないと分からない。
 一生懸命食べたけれども油条が何本か残ってしまった。
 こんな大衆食堂でもこんなに美味しい物を出すとは、さすが「食在広州」である。

 

 6.突然の雨

 香港は北回帰線より南に位置し、亜熱帯地方に属する。香港へ向かう飛行機の機内アナウンスでは「香港の天候は晴れ」と言っていた。しかし、啓徳空港に着いてみると空はどんよりと薄曇り。明るいけれども日本で云う「晴れ」とは違っていた。雨の多い所とは聞いていたので、香港の「晴れ」とはこんなものかと思った。雨が降らなければ「晴れ」なのだろう。
 二日目の夜、マカオから帰った私は大沼氏、広田さんと共にホテルの近くに夕食に出かけた。9時頃だった。庶民の出入りするレストランでビールを飲み腹いっぱい食べて出ようとしたら、外はどしゃぶりの雨だった。天気予報を見ていなかったけれども雨が降る様子は全く無かった。香港の人達も傘を持っている人は少ない。みんなビルの中で雨宿りをしている。私たちは、ホテルまで走って走れない距離ではないのでビルづたいに走ってホテルに戻った。熱帯地方のスコールのようなものなのだろう。なれない私たちはびっくりするけれども香港の人達にとっては珍しくはない事のようだ。
 三日間で雨に出会ったのはこれ一回であった。帰る日の四日目には朝から雨にたたられた。雨の多い香港で雨に邪魔されずに観光できたのは幸いだったのだろう。

 

 7.鮑魚鶏絲雪蛤粥

 三日目の朝も私はホテルの朝食を摂るのを潔しとせずに街に繰り出した。小川氏、富岡氏、はじめ七人だった。昨日入った庶民の粥店とは違い小綺麗な、やや高級な店だった。メニューを渡され開いてみる。二十種類ほどの粥のメニューが並んでいる。一番安い物で35ドル(約500円)一番高いもので90ドル(約1300円)。香港ではかなり高い方である。鮑や燕の巣の粥が最高だと聞いていたのでメニューから「鮑」の文字を拾い揚げた。中華料理の名前には必ず食材名が入るのでこういう場合は重宝する。さすがに鮑の粥は高価で一番上の方に三種類有り、その一つに「鮑魚鶏絲雪蛤粥」があった。「鮑魚」は「あわび」、「鶏」は「とり」、そして「蛤」は「はまぐり」であろうと云うことになり、その粥を頼んだ。我々が話をしているのを聞いて店の人が日本語のメニューを持ってきてくれた。少々くたびれたようなメニューには手書きで日本語が書き添えられている。注文した後に持ってきてもしょうがないだろうと思いながらも粥が出てくるまでの暇潰しと、注文したメニューを確認していた。注文した粥の日本語メニューは次のようであった。
「鮑と鶏肉と蛙の脂肪入り粥」
なんと「蛤」は「はまぐり」ではなく「かえる」であった。そして「雪」は「脂肪」を意味するらしい。一同愕然となった。しかし、粥が出てくると皆「美味しい、美味しい」と食べていた。たった二日間で皆食事の感覚が中国に同化したらしい。味は昨日食べた粥よりもずっと洗練された味だった。誰かが言った
「シチューみだいな味だね。」
なるほど、米粒はほとんど原形を留めないほどに煮込まれ、見た目もシチューのようだ。言われてみればクラムチャウダーのような味だった。
 「蛤」は何故「かえる」なのか、解せない私は日本に帰ってから辞書を引いた。国語辞典では「蛤」は紛れもなく「はまぐり」である。中国語辞典で引くと「蛤」は「ゴー」又は「ハー」と読む。「ゴー」と読めば「はまぐり」、「ハー」と読めば「ひきがえる」である。なんとも中国語は難しい。知ったかぶりしてメニューを読めば何を食わせられるか分かったものではない。ちなみに「蛙」は「ワー」と読み「トノサマガエル」や「アマガエル」を表わすらしい。
 しかし、食材が何であっても美味しいものは美味しいという中国人の味覚には脱帽するばかりだった。 尚、
「せっかくだから今日は5回メシ食うぞ。」
と豪語したY氏はこの時粥の他にラーメンを平らげたのだった。

 

 8.GIORDANO            

 香港のアパレル業界は伸長が著しい。高級品のウォルター・マー、エピソード、ジェシカを始め、カジュアルのボッシーニ、ジョルダーノ、U2など、香港の街には香港ブランドが溢れている。特にボッシーニ、ジョルダーノ、U2、G2000等のカジュアルブランドは多店舗展開しているので、香港の街では良く見かける。
 おみやげついでに市場調査にとジョルダーノの店に入った。ベネトンを思わせるような鮮やかな色のTシャツや綿パンが所狭しと山積みにされている。場所は銅鑼灣の松坂屋の近く。人通りが多く客が次々に入ってくる。商品は山積みにしておかないとすぐに品切れになってしまうのだろう。店に入ると、店員から「ハロー」「グッドモーニング」の声が掛かる。香港では珍しい愛想の良い対応である。欧米式に接客マニュアルがきちんとしているらしい。
 入り口にはスーパーマーケットのようにカゴが置いてある。衣料品店でカゴが置いてあるのはおかしな感じがしたが、幾人かの客はカゴを持って店内をまわっている。靴下やTシャツを無造作にカゴに放り込んでいる。私もおみやげ用にとTシャツを物色した。Tシャツは50ドルから80ドル(日本円で750円から1200円)。ポロシャツでも120ドル位(同1800円)。とても安い。デザインもしゃれたものが有る。これではカゴを持って買い物をしたくなる気持ちも良くわかる。
 商品を一つ一つ見てまわったが、どれもとても安い。商品も悪くはない。一昔前の香港製や中国製のイメージは縫製が悪く、縫目がずれていたり、生地自体が悪く着にくい、と云うものだった。しかし、ここで見る商品は日本製に見劣りするとは思わなかった。
 ジョルダーノは、ほとんどの製品を中国の工場で生産している。中国の生産技術が着実に高まっていることが分かる。ただし、その技術はジョルダーノ等の外国のアパレルメーカーの強力な技術指導のもとで行なわれていることも忘れてはならない。又、ジョルダーノでは日曜日に売れたものを金曜日には店頭に揃えることが出来ると云う。売れ筋をPOSで管理し、5日後には工場から店頭に届いてしまう。いわゆるクイックレスポンスである。日本ではとうていまねの出来ないことである。
 香港のアパレル業界が、中国の生産力を背景に着実に力を付けてきていることが感じられた。
 香港では極力金を使わないようにと、女房からきつく言われていた私は、山形に戻り、ジョルダーノで買ったお土産の50ドルのTシャツを恐る恐る女房に渡した。  
「どうして、もっと買って来なかったの!」  
「×××××・・・・・・・・・・」

 

 9.香港松坂屋訪問

 三日目に香港松坂屋を訪問した。山形松坂屋の社長がFAXでその旨連絡してくれていた。香港松坂屋のS社長と一時間ばかり話をした。  話の内容は主に香港と日本の商習慣の違いについてだった。勤務中に売場で食事をする香港人。サービスに対する感覚の違いなど。その中で興味の有る話が有った。  
「日本では買ったものにキズが有ったりするとすぐに返品、ということに成りますが、香港ではそういうことは有りません。客本人が品物を見て、確認して買ったのだから返品など有りえない。と云うのが香港の商売です。」
  代田社長は少し戸惑っている風だったが、私はなるほどと思った。
 その香港の商習慣を美辞麗句で持ち上げれば、消費者の自己責任を追求する、ということなのだろう。日本ではいささかの難であっても返品を要求してくる場合が少なくない。中には、商品には全く問題がなくても、包装が悪いからとか、気が変わったからと返品してくる客もいる。日本では消費者の自己責任を追求するということは全くない。日本と香港の商習慣は対極に有る、と云っても良い。
 日本の消費者のかかる行動は物価を押し上げる一つの要因になっていると私は常々思っている。過度な品質管理、と云うよりもあらゆる苦情に対応するためにメーカーや流通業者が過度な対策を取り結果的に物価に跳ね返るのである。
 香港のような騙し賺しとも思えるような商売がまかり通る所で、消費者の自己責任を追求すると云うのはおかしな話であるが、日本のような品質管理の徹底しているところで消費者の自己責任が全く追求されないというのもおかしな話である。

 

 10.エアージョーダン捜し

 最近若者の間でスポーツシューズが流行している。アメリカ、ナイキ社のシューズがプレミアム付きで取り引きされていると言う。数年前に発売された限定販売のスポーツシューズが数倍の値段で売られている。私はスポーツシューズには全く興味がないが、その現象には興味が有る。日本で手に入らなければ外国で、と業者が海外へ買い出しに行く姿もテレビで報道されていた。
 バスケットをしている甥に聞くと「エアジョーダン」というスポーツシューズらしい。そして、それは古い順に「エアジョーダン1」から番号が付けられ、「エアジョーダン5」ぐらいまでが値打ちがあるという。一番古い「エアジョーダン1」ならば十万円でも買い手がつくと言う。しかも、サイズは何でも良く、飾っておくのだと言う。私にしてみれば、ばかばかしい話に思えるけれども、折角香港に行くのだから頭の片隅に入れておいた。
 今回訪港のメンバーに、来年入会予定のI君がいた。22歳である。やはり彼も香港に行ったらエアジョーダンを捜そうと思っていたらしい。初日、ヤオハンを見学した際、スポーツ用品売り場にスポーツシューズが並んでいた。現物を見たことがない私はI君にどれがその話題のシューズなのかを聞いた。彼は既に目を付けていた。有ったのは「エアジョーダン11」だった。それより古いものはもう無いという。伊藤君の話では「エアジョーダン11」は日本でも手に入るけれども、二倍位の値段がするという。
 「せっかくだがら買ったらいいべず。」
と言ったが、彼は躊躇していた。  
「こんなに簡単にエアジョーダンが見つかったのだから、少し捜せばまだまだ古いものが見つかるだろう。」
と、彼は思ったらしい。それが間違いの始まりだった。
 翌日はマカオで捜し廻り、その翌日も銅鑼灣の付近を捜し回った。私もI君に付き添ったが、なかなか見つからない。銅鑼灣はショッピング街で、大小の靴屋がたくさん有る。一軒一軒廻ったが、エアジョーダンは見つからなかった。先日ヤオハンで見た「エアジョーダン11」さえも見つからない。どの店でもナイキ社のシューズを扱っているわけではなく、扱っている店が有っても、既に売り切れだった。  
「I君、逃した魚は大きかっただろう。」

 

 11.時代廣塲

 銅鑼灣の東側に時代廣塲(タイムズスクエアー)が有る。伊藤君と靴屋捜しをして銅鑼灣をうろついていると、突然視界が開けた。タイムズスクエアーの前に出た。タイムズスクエアーは二つの高層オフィスビルと巨大な吹き抜けの有るショッピングセンターからなっている。その概観、内装共に近代的なビルである。古い建物、中には貧民街とも思えるような住宅もある銅鑼灣でそこだけが別世界の空間のようである。しかし、そのちぐはぐさが香港らしい。
 中に入ると巨大な吹き抜けに驚かされる。二年前にも一度来たけれどもその新鮮さは変わっていない。集合時間が迫っていたので急ぎ靴屋、スポーツ店を廻った。広いショツピングセンターを走り回る。各階にはいくつかの空き店舗が見られた。ベニヤ板に覆われ、白ペンキを塗り、そこだけが異次元空間のようだった。二年前に来たときには空き店舗など一つもなかった。
 香港の経済は今、曲り角に来ている、という説も有る。その説については、諸説が有り、好況が持続しているという反対の説も有り、私にはどれが本当かわからない。しかし、いくら商圏密度の濃い香港であっても、次々と作られるショッピングセンターの出現に、タイムズスクエアーといえども空き店舗が出てしまうのだろう。
 タイムズスクエアーは文字通り時代を映す時代廣塲である。

 

 12.飲茶

 「飲茶」を食べたい。という会員全員の要望に答えて三日目の昼食は「飲茶」に行くことになった。
 飲茶はお茶を飲みながら点心と云う料理を食べる広東の風習である。メニューで好きな物を頼む方式と、ワゴンで運ばれてくる物を選ぶ方式とがある。前者はどちらかと言うと高級店、後者は大規模な大衆向けの店である。
 中国の飲茶の習慣は唐の時代に興ったという。宋、明、清と時代を経るにつれて盛んになったが、文化大革命で「ブルジョワ的」と糾弾され、中国本土では一時衰退したらしい。しかし、ここ香港では飲茶の習慣が脈々と続いている。
 香港松坂屋のK氏にお願いして、地元の人達が行くような飲茶の店を紹介してもらった。私は軽いつもりでお願いしたのだが、松坂屋の方には大変苦労をかけてしまった。ちょうどその日は土曜日の昼。外食を習慣としている香港の人達にとっては、家族連れで飲茶を楽しむ時間である。予約は受け付けられない、というので、松坂屋のO氏が一人で十数人分の席を体を張って取って置いてくれたのだった。そんな苦労も知らずに買い物に夢中で集合時間に遅れるものがいた。(私も2〜3分遅れた)10分位遅れて松坂屋の近くのビルの五階にある飲茶餐廳(レストラン)に入った。その間の大沢氏の苦労はいかばかりだったのだろうかと思う。順番待ちをする人をよそに大沢氏の取ってくれた席についた。窓際の見晴らしの良い席だった。広い餐廳は人でいっぱい。広東語のざわめきで賑わっている。日本人観光客とおぼしき人はなく、皆現地の人ばかりだった。その間をぬってオバサンが点心を載せ湯気を立てたワゴンを押している。
 ビールをもらい、近づいてきたワゴンから欲しいものを指さして点心を注文する。オバサンは点心を運び、机の上のカードにスタンプを押していく。点心の種類によって値段が数段階有り、スタンプの数で精算するようになっている。点心はいろいろな種類の餃子・焼売、腸粉という米の粉の薄膜で具を包んだものから甘いデザートまで多種多様である。
 十数人の食欲にはすごいものがある。2〜3皿の点心など皆が箸をつければたちまちに無くなってしまう。香港の人達は1〜2皿点心を注文すると、お茶を飲みながらゆっくりと話をしたり新聞を読んだりしている。食事をすると言うよりは文字通り茶を飲むひとときを楽しんでいるようだ。
 気がつくと我々のテーブルはワゴンを押すオバサン達に囲まれていた。ワゴンオバサンにはノルマがあるのか、あるいは売り上げ歩合で給料を貰っているのか分からないけれども、それぞれが別々のスタンプを持っていて売り上げの成績になるらしい。我々のテーブルはオバサン達の格好の標的になった。
「あのテーブルに持っていけば何皿かは取ってくれる。」
という事なのだろう。広い餐廳の中で我々のテーブルだけがワゴンに囲まれ賑わっていた。次から次と点心が皆の胃袋の中に消えていく。広い餐廳の中で我々の丸テーブルは、あたかもアインシュタイン空間の様にワゴンが引き寄せられ、点心が吸い込まれていくのであった。
 「こいず食てみろ、んまいがら。」
 「ほいず何んだや、気持ず悪ぐないが。」  
  「ほんてん、んまいばな。食てみろ。」  
  「ほいず俺食ていいが。」
「んまいごんたら、もっと貰たらいいっだな。」
 「ビールもっと頼んでけろ。」
 「んだげんど、あんまりビール飲むど、あどでしょんべん出っだぐなっど困っずね。」
と、広東語に負けじと山形弁で話をしながら飲茶を楽しんだのであった。      

 

 13.文武廟

 上湾でトラムを降り、山手の方に向かった。このあたりは問屋街である。問屋街というのは商店街とは少し違った雰囲気がある。東京の日本橋や浅草橋のように、荷物を積み降ろしする車で活気があるけれども商店街ほど人はいない。どこも同じだな、と思いながら歩いていた。目的は文武廟である。文武廟は1890年に建てられたとされている香港で最も古い道教寺院で文武の神が祀られている。坂を歩き、階段を上って文武廟についた。
 香港で有数の寺院にしては小さい。1840年と言えば、ちょうどアヘン戦争の年である。当時の香港はまだ小さな漁村にしか過ぎなかった。当時の香港にとっては大きな寺院だったのだろう。廟内にはバケツを逆さまにしたような渦巻き型の大きな線香がいくつも天井からさげてある。参拝する人達は線香を捧げ熱心に祈っていた。
 廟を出て、廟の写真を撮ろうとカメラを構えた。しかし、なかなか絵にならない。後ろの高層アパートが邪魔をしてしまう。場所を変えてみたが同じだった。廟だけを入れようとすれば全体が入らず、全体を入れようとするとアパートの写真になってしまう。何度かアングルを変えるうちに
「これが香港の風景なんだ」
と思った。古いものと新しい物が混在している。狭い土地の中で新しいものは、やむなく空に向かって伸びていく。古いものは相変わらずそこに残り香港の人達の心をつかんで離さない。
 香港の現実を如実に表わしているようだった。

 

 14.荷李活道

 文武廟に到る階段を横切る通りが荷李活道(ハリウッドストリート)である。いわゆる骨董品街である。大小の骨董品屋が軒を連ねている。いかにも信用できそうに見える立派な店から、どうせ偽物を並べているのだろうと思わせるような店まで様々である。それにもまして面白いのが、露天の骨董屋である。質の悪いヒスイや、チベットあたりから持ってきた仏具を並べている。しかし、それらはまだ良いほうで、中にはなぜこんな物を、と思わせるような露店が出ている。錆びた水道の蛇口、壊れた扇風機、トースター、潰れたやかん等々。まるで、廃品回収業者が集めてきたものを並べたと言うふうである。いったいどういう人が何のために買っていくのだろう、と思うものが所狭しと並んでいる。店番のオジサンは暇そうに感度の悪いラジオを聞いている。これも香港の一つの風景なのだろうと思って見ていた。
 しかし、あんな物誰が買うのだろう、と思うと夜も眠れなくなりそうである。

 

 15.トラムに乗って

 香港の名物にトラムが有る。香港の風景写真には必ず登場する二階建ての路面電車である。香港では極庶民的な乗物で広く利用されている。出来るだけその土地の庶民の生活に触れたい私は、そのような乗物に乗ることを楽しみにしている。
 トラムは香港島の北側を約12km幹線道路に沿って走っている。料金は1.2ドル均一。地下鉄が中環から尖沙咀まで海底トンネルを通るとは云え、8.5ドルなのを考えると非常に安い庶民の足である。停留所は約200m毎に有るけれども停車所の名前もない。ましてダイヤなどは無く、中々来ないと思ったら3台連なってくることも有る。いい加減と言えばそうだけれども、庶民の足とはこんなものなのだろう。
 飲茶を食べた後解散し、私は一人でトラムに乗り込んだ。トラムに乗り街を眺めれば香港の人達の生活が良く分かる。まして歩かずに済むのである。銅鑼灣から西に向かい上環あたりまで乗り、折り返して北角まで乗った。二階建てのトラムの二階最前列は私にとってどんな乗物よりもすばらしい特等席だった。  

 

 @.居眠りおじさん

 銅鑼灣でトラムに乗り、上環に向かった。二階最前列に座ろうと、人一人がやっと昇れる狭い階段を駆け上がった。最初、最前列には座れず立っていたが、三つ目の停留所で客が降り、座ることが出来た。トラムの座席は前向きの座席だけれども、二階最前列だけは二席対面の座席になっている。向かいに座っているオジサンは居眠りをしている。灣仔、金鐘道を過ぎてもまだ起きない。中環のあたりで一度目を開けたが、場所を確認することもなく又寝てしまった。トラムが停車する度に車体が揺れる。日本の地下鉄でも居眠りをする人は珍しくないが、停車駅が気になり時々駅名を確認する。しかし、そのオジサンは全く気にする様子が無い。
 上環でトラムは直角にクランクをカーブするが、それでも起きない。私は上環で降りた。あのオジサンはどこまで行くのだろう。
 と、よけいな心配をしてトラムを降りたのだった。   

 A独りぼっちで香港の街に放り出されたら

 トラムの二階から眺めていると香港の人達の生活が良く分かる。スーツを着て足早に歩くビジネスマン。油にまみれて働く自動車整備工。オンボロな車の中を走る高級車。そして高級車を物ともせずに中央車線を走る自転車。自転車の荷台には生肉がむきだしで山積に積んである。肉の重みでふらふらしながらもトラムと自動車の間をぬって走っていく。
 香港の人達は良く働く。効率が良いか悪いかは別として、どんな仕事でも嫌がらずにやっている。もっともこれだけ狭い所に職を求めて大勢の人間が住んでいるのだから仕事を選ぶ余地などないのかも知れない。
 香港では金融等最新ビジネスから地べたで新聞を広げて売る人まで様々な職業が有る。日本ではもはや存在しないような、汚い仕事もたくさん有る。町の自動車整備工場では油で真っ黒になりながら仕事をしていた。生肉を自転車で運ぶ人など日本では見られない。そんな下町の風景を見ながら、
「日本は、やはり進んでいるな。日本に生まれて良かった。」
と思っていた。
 しかし、もしここで自分が香港の街に一人放り出されたら、と考えてみた。日本列島沈没などは起こらないだろうけれども、もし日本に見放されて香港の街に放り出されたら、自分はなんぼの者だろう。
 言葉もろくに話せずに、この街で生きていくとしたら何ができるのだろう。肉を自転車に積んで配達することさえもできないだろう。そんな思いが浮かんでくる。自分は香港の人達の様にしたたかに生きていけるのだろうか。自分はやはり日本で生きているから自分なのだ。そう思う。   

 B 香港上海銀行と中国銀行
 中環は金融街である。その中環には香港上海銀行と中国銀行がヒルトンホテルを挟んで建っている。
 香港上海銀行は香港の経済をリードしてきた香港でナンバー1の銀行である。ナンバー2の恒生銀行を傘下に持ち、チャータード銀行と共に銀行券の発行を認められてきた。 
 中国銀行は中国の対外開放政策にともない経済力が強くなり、中国への香港返還が現実味を帯びてきた頃から香港における影響力を高めてきた。数年前から銀行券の発行も認められている。旧中国銀行ビルは隣にまだ残っているが、三階建て位の古い小さなビルで現在の中国銀行ビルとは比べるべくも無い。
 香港上海銀行、中国銀行とも、そのビルディングはいわくつきの建物である。
 香港上海銀行は下駄ばきビルである。一階は無く、広場になっていてエスカレーターで二階のロビーに昇るようになっている。一階の広場は市民の憩いの広場?になっているらしく、敷物を敷いて弁当を広げている姿も見られた。狭い香港の中にあってこのような空間は市民にとって有りがたいのかも知れない。この一階の広場、下駄ばきの理由は風水が関わっていると言う。風水は香港の占い、八卦である。風水は単なる占いではなく突き詰めていけば、人間が快適に過ごせる科学的根拠も含んでいるとも云うのだが、私は風水の専門家ではないので、ここでは触れない。香港上海銀行の場合も「龍の道を塞がないため」とかなんとか云うことらしい。          
 一方、中国銀行は剣のような奇抜な形をした全面ガラス張りのビルで、最近は香港のシンボル的存在となり、香港の風景の一つになっている。こちらも風水が関わっていると云う。剣の形にしたのは競争相手を「一刀両断に切る」と云う意味が有るらしい。その矛先となった企業は本気で対抗策を講じているとも聞く。
 どちらのビルも香港金融界での覇権を争い、ビルディングの大きさも競い合っている。ビルの高さ、概観、注目度から言って中国銀行に分が有るのは誰の目にも明らかだろう。しかし、これは競争と言うには当たらない。香港上海銀行は1985年に改築され、その5年後に中国銀行ができたのだから競うつもりであれば中国銀行に分が有って当然の事である。まして現在の中国の現状を見るに、香港における中国銀行の地位を確立するためには何がなんでも香港上海銀行に勝る必要が有るのだろう。中国銀行が香港でどれだけの活動をしているかは知らない。中国国務院系企業CITIC(中国国際信託投資公司)始め多くの中国系の企業が香港に進出している。しかし、これ程大きなビルが必要なのだろうか。背伸びした中国銀行のビルを見ていると、香港における中国政府の姿勢そのものに見えてくる。
 香港上海銀行はどうだろうか。香港の中国返還後どのようになるのだろう。香港上海銀行の持株会社HSBC(香港上海銀行コーポレーション・ホールディングス)の投機上の本店所在地はロンドンである。他意は無いのだろうが本店を外国に置いた企業を中国政府がどのように扱うのか注目に値する。香港特別行政区基本法では、香港政庁の職員は返還後も身分を安堵されることになっているが、主要政府職員は、外国籍をもたず香港永住権を有する中国公民に限られている。服従する者のみ重用するという中国政府の姿勢が伺われる。ロンドンに本社を置く香港上海銀行を中国政府がどのように扱うのだろうか。とは言え、香港上海銀行は香港の内外に対する影響力は無視出来ないものが有る。中国政府が香港上海銀行という金の卵をどのように扱うかは、中国政府が香港をどのように扱うかと言うことと無関係ではなさそうだ。   

 C香港の看板

 香港の看板は言うまでもなく漢字の表示がほとんどである。日本と同じ漢字文明圏に属するので親しみ易い感じもするけれども、ちょっと違和感の有る看板に出くわす。「香港文化中心」「時代廣塲」「購物商塲」「大新金融集團」「大都會夜総會」等々。それぞれ日本語(的)に訳せば次のようになる。
        香港文化中心    →   香港文化センター
        時代広塲       →   タイムズ・スクエアー  
        購物商塲        →   ショッピング・アーケード  
        大新金融集團    →   大新金融グループ   
        大都會夜総會    →   クラブ・メトロポリタン
すなわち、「中心」は「センター」、「広場」は「スクエアー」、「商塲」は「アーケード」、「集團」は「グループ」、「夜総會」は「ナイトクラブ」である。言われて見ればそれぞれ英語を漢字に訳したにすぎない。「センター」は「中心」であり、「グループ」は紛れもなく「集團」である。しかし、「○×中心」、「□×集團」と書いてある看板を見ると、日本人にはどうもしっくりこない。明治の文明開化時に英語をむりやり日本語に訳したような、どうも滑稽に思えてしまう。ちなみに、ヤオハンで渡された「ショッピングガイド」は「購物指南」だった。
 日本語には漢字、平かな、カタカナ併記という独特の表記法が有る。外来の言葉は発音を正確に写しているとは言えないけれども、それらしい発音でそのまま表記し、他と区別するためにカタカナが用いられる。複雑では有るが、慣れている日本人にとっては非常に便利である。  日本人が外来語を十分に咀嚼することなく呑み込み、そして消化してしまったことは言葉の範疇にとどまらないように思う。日本は明治維新以来世界の文化を取り入れてきた。富国強兵の為に取り入れた欧米の文化はもちろんのこと、今日までに世界中の文化を大に小に取り入れてきたように思う。食生活をみればよくわかる。フランス料理、イタリア料理をはじめとする洋食、中華料理はもちろんのこと、エスニックと称するアジア、アフリカ系の料理まで取り入れている。私が京都にいたときにはインカ料理の店に行った事が有った。インカ料理と云う範疇があるのかどうか分からないけれどもそれらしい料理がでてきた。嘘か誠かは知らないがその店の主人はインカの文化に付いて一通り講釈をたれていた。大学の時の助手の一人に南米の音楽であるフォルクローレの大家がいた。世界中のどんな小さな目立たない文化でも日本にはその道の研究家や専門家と称する人達がいる。日本が世界中の文化を取り入れられたこと、明治維新以後いち早く近代化(欧米化)できたことは、漢字、平かな、カタカナ文化と無縁ではないように思う。
 しかし、十分に咀嚼することなく簡単に他の文化を取り入れることは果たして本当に良いことなのだろうか。香港の看板を見て滑稽に思う我々は、世界中から滑稽に思われているのではないだろうか、などとも思ってしまうのである。 

  D銅鑼灣の人波 
 香港は何処へ行っても人がいっぱいである。初めて香港を訪れたときも印象は「人人人・・・」だった。香港島の市街地や九龍半島では人の波から逃れることは出来ない。山形に比べれば東京も人が多い。銀座や新宿もメインストリートは人で賑わっている。しかし、一歩裏通りに足を運べば人もまばらになってしまう。しかし、香港の人波は表通りであろうと裏通りであろうと脇道であろうと、絶えることが無い。そんな中で銅鑼灣の人波はひときわ大きい。
 それ程広くない歩道は人でギッシリ。信号が青になれば何処が歩道か車道か分からなくなってしまう。歩く人だけではなく、どの店にも良く人が入っている。こんなに人がいれば何の商売をしても成り立つだろうと思ってしまうが、それはそれで結構競争が激しいのだろう。
 しばらく銅鑼灣を歩いていると人波はそれ程気にならなくなった。習慣とはそんなものだろう。地元の人はストレスも感じてはいないだろうし、苦にもならないのだろう。
 山形に戻り七日町に帰ってきた私は  
「何だこれは!、ゴーストタウンじゃないか。」   

  E北角(バッコク)

 トラムは香港島の市街地を舐めるように走る。西から問屋街の上環(ションワン)、金融街の中環(セントラル)、官庁街の金鐘(アドミラリティ)、灣仔(ワンチャイ)、ショッピング街の銅鑼灣(コーズウェイベイ)、そして庶民の街北角(バッコク)までゆっくりと走った。
 銅鑼灣を過ぎ、ビクトリア公園を横切ってしばらく行くと、トラムはいきなり左に直角に曲がり細い道路に入った。昔私が学生時代を過ごした仙台にも路面電車が走っていたので良く利用したが、トラムの車両の幅は仙台の電車に比べてずっと狭い。真中の通路は人が一人立つのがやっとだった。おまけに二階建てである。角を曲がるときにはトラムは左右に大きく揺すられ倒れてしまうのではないかと思ってしまう。まして私は二階の最前列に座っている。高層ビルで地震に会うように激しく揺れる。よくも倒れずに走っているものだと思う。
 北角の街は庶民の街である。北角は英語でノースポイントと言う。香港島の北側で、やや北に張り出している所からその名が付いたのだろう。狭い通りの両側に市場が並んでいる。上野のアメヤ横町を思えばいい。威勢のいい声で魚を売る魚屋さんや乾物屋さんが並ぶ。狭い通りに買い物客がひしめき、その間をトラムが走る。日本ではこのような通りを路面電車が走ることは無いだろうし、もしも、走れば必ず事故が起こるだろう。
 しかし、北角の人達は文字通りトラムと背中合わせで生活している。線路の両側に車やリヤカーも止まっていたが何故かぎりぎりに停車していてトラムは減速しながらも車やリヤカーを移動させる事なく間を擦り抜けていく。走っているトラムの直前を横断する人もいるが、トラムは減速する様子もなく走っている。人も車も極自然に溶け込んでいるように思う。日本のように安全を図る為に人と車を分け、人と車を疎遠にさせればさせるほど、出会った時には事故が起こりやすくなるのかも知れない。
 トラムは二度右折をして止まった。ここでUターンして又銅鑼灣の方へと戻っていく。私は降りて北角の街を歩いた。沢山の人が買い物をしているが、銅鑼灣とは雰囲気が違う。大きなデパートや高級ブランド物の店は無く、食料品を始めとする生活用品の店ばかりだった。人混みの中を子供がベルを鳴らしながら三輪車に乗っていた。香港の人達の生活はこんなところに有るのだろう。

 

 16.ポケベルおじさん

 クォリーベイから黄大仙に向かう為、地下鉄に乗った。地下鉄觀塘線は香港島のクォリーベイから東側を回り、九龍の油麻地を結ぶ新しい地下鉄である。海底トンネルを潜り抜け藍田を過ぎると地下鉄は地上を走る。車内は空いていて十分に座ることができた。乗客は買い物帰りのおばさんや子供づれ等。土曜日の午後と云うことも有るが、ここは郊外の住宅地である。ビジネス街である金鐘地区や尖沙咀の地下鉄とは雰囲気が違っていた。
 隣の席では労務者風のおじさんが居眠りをしている。身なりで人を判断しては良くないかも知れないが、ホワイトカラーには見えない。
 突然ベルが鳴り響いた。香港の地下鉄も日本と同様にドアが閉まるときにベルが鳴る。一瞬その音かと思ったけれども地下鉄は走っている。居眠りしていた隣のおじさんが起きて、ポケットからポケベルを取り出した。ベルの音は隣のおじさんのポケベルの音だった。おじさんはポケベルの液晶画面で何かを確認すると又目を閉じてしまった。
 労務者風のおじさんとポケットベル。私は不思議な気分に襲われた。組み合わせがアンバランスに思われたのだ。香港に対する偏見も有ったのかも知れないけれども、日本より所得水準が低いはずの香港でこのような光景に出会うとは思ってもいなかったのだ。
 考えてみれば、香港と云うところは非常にアンバランスな所である。物乞いをする人とロールスロイス。貧民街のような中に建つ近代的高層ビル。汚い概観のレストランからは想像できない美味しい中華料理等々。しかし、それらが何食わぬ顔で調和しいるのが香港なのだ。ここでは日本の常識は常識ではなくなる。自分の尺度で他人を計ろうとする事のほうが余程アンバランスな感覚なのかもしれない。

 

 17.道教寺院  黄大仙

 「香港は金儲けの街である。」
  この言葉は私が言ったのではなく、香港でビジネスをした複数の人から聞いた香港と云う街のイメージである。自由貿易港として税金による束縛は余り無く、建築を始めあらゆる法的規制が緩く、金儲けをする下地が十分に有り、そこでは「ルールの無い資本主義経済」が具現されている。日本人から見れば騙し賺し、あるいは詐欺とも云える商法が平気でまかり通っている。成功して金持ちに成れた者は賞賛され、豪邸に住み、ロールスロイスに乗り、純金の便器を作ってその成功の証として誇示する。そのような目で香港を見れば、香港は自由貿易港という、経済最優先で、歴史や伝統文化には拘わらない唯物論だけがまかり通っている所のように思われるかもしれない。しかし、香港を訪れたほとんどの人が感じるように、そこには唯物論とは程遠い雰囲気が満ち満ちている。
 現在の香港が自由貿易港となった切っ掛けを作ったのは1840年に起こったアヘン戦争と言う不幸な出来事だった。それまで香港は、ただの小さな島にしか過ぎず、もしも不幸な戦争が起きなければ、その小さな島が歴史の舞台に登場することは無かったかも知れない。それゆえに香港はイギリスが作ったイギリスの領土というイメージが強い。ユニオンジャックの旗のもと、女王陛下の軍隊と商社が中国の小島を開発し、歴史の舞台に押し上げた、と言うのは事実であるが、そこに住む多くの人々は中国人だった。都から遠く離れた小島であっても、その住人たちはそれぞれに中国四千年の歴史を背負っている。それは現在の香港の人達とて変わらない。ブランド物のスーツを着て携帯電話を片手にビジネスに励もうとも、彼らの背中には唯物論など消し飛んでしまうほどの歴史と伝統と習慣が有るのである。そんな香港の人達の姿を見たくて私は香港一の道教寺院黄大仙(ウォンタイシン)を訪れた。
 地下鉄黄大仙駅で降りて「黄大仙廟」の表示の出口から出ると、すぐ前が参道の入り口だった。参道には線香や供物の飾り物などを売る店が並んでいる。土曜日のせいか人が多い。参門まで来ると人はぎっしりとひしめき、いつのまにか皆30cmもある太い線香を数十本束ねて松明のようにかざしている。警官が要所要所に立ちロープを張り、入場規制をしている。参道からはずれた場所では供物を捧げる人達が座り込み、所狭しと供物を広げている。リンゴに線香を刺したり、ローストチキンを一匹丸ごと並べている人もいる。おみくじのような竹筒を振ってお祈りをしている。どこもここも祈りを捧げる人達でいっぱいだった。私は法隆寺や東大寺を見物するようなつもりでここにやってきたのだった。どんな神が祀られているのか。どんな額が掛けてあるのかなど、つぶさに見てやろうと思ってやってきたのだが、とてもそんな雰囲気ではない。
 警官がロープをはずすと並んでいた人達は一斉に歩き出した。線香の煙で目も開けられない中を本堂に向かって歩いていく。線香の煙と祈りの声とおみくじを振る音。ふと私は自分が場違いの存在であることに気づかされた。香港の人達の信仰心の波にもまれ、あたかも蟻の行列に紛れ込んでしまったキリギリスのように自分の存在を掴めないまま歩いていた。10m位先にいる欧米人が写真を撮っている姿を見て私は何故か救われたような気になっていた。
 参道に足を踏み入れ、後に戻ることもできずに人波に押され、出口から押し出されるまで、わずか15分足らず。その間私は何を見たのだろう。まるでジェットコースターで暗いトンネルに入り、いきなりトンネルを抜け出たような気分だった。
 出口には盲た人や年をとって働けない人達が空缶を手に並んでいる。出口を出るとそこは自動車の行き交う香港の街並だった。
 黄大仙は香港の人達の心の一端を覗かせてくれた。
 道教と云うのは誠に分かり難い宗教である。宗教と言えば日本では仏教やキリスト教、神道が頭に浮かぶ。世の中の数ある宗教を全て同質の物として考えることに付いては、私は疑問を抱かざるをえないけれども、道教は中国では多くの信者を擁する紛れもない宗教である。しかし、その本質は、と言えば私の無知も手伝って掴み所がないのである。小学校の時に先生が道教について説明したことが有った。もっとも、その時は授業の本題ではなく半ば雑談の一つとして話した物で、先生もそれ程詳しく話をするつもりも無かったのだろうけれども、その時の説明は
「孔子の起こした儒教に対して、老子の起こした道教」
と云うものだった。礼を重んじる孔子に対してそれを否定する老子、という対立構図である。孔子や老子を少し噛ってみれば、彼らの教えがそのような単純な構図ではないことは分かることである。
 道教において、老子は「道徳天尊・太上老君」の名で高位の神として祀られてはいるけれども、老子は道教の教祖でもなければ宗祖でもない。彼自身実在の人物か否かについてははっきりしないが、実在の人物であったとしても宗教を起こす気も無かっただろうし、道教の神に祀り上げられるとは夢にも思わなかっただろう。又、孔子は「至聖先師」の名で道教の神々の一人として祀られている。道教と儒教は異なった宗旨を持ちながらも単純な対立構造ではなく、道教的世界観と儒教的道徳観は共に中国人の心の中に混在して現在に至っている。さらに釈迦やキリスト、マホメットなど他の宗教の宗祖や教祖のほとんどが道教の神として祀られている、という話を聞くと、道教というものが益々ややこしくなってくる。
 道教は誰が始めたものでもなく、中国の人達の素朴な願い、幸せ(福)富(禄)長生き(寿)を実現するために育てられてきた宗教のように思われる。
 道教については色々な書物が出ているけれどもどれを読んでも中々理解できない。その中で道教に付いて次のような説明文が有った。      エントロピーを減少させるための方法論
  彼らがなそうとしたのは、自然現象では時間とともに増大していくはずのエントロピーを減少させることである。不老不死はその延長線上にあり、 それを実現した超人は、はるか東方海上の蓬莱・方丈・瀛州の三神山にすんでいるはずであった。         
 私はこの説明文を読み、目からウロコが落ちる思いだった。エントロピーの増大こそ現代社会の最大の問題である。
 エントロピーは熱力学の用語で複雑さの度合いを表わしている。世の中は一方的に複雑になる方へ進み、逆戻りすることはない、と云うのがエントロピーの法則である。現代の多くの問題。公害や核問題、教育問題やその他の社会問題等は全てエントロピーの増大によって発生した問題である。エントロピーの増大そのものを問題として取り上げる学者や政治家はいない。エントロピーは漠然とした概念であり、その増大を否定することは、現代社会、特に資本主義社会を根底から否定することにつながるからである。10年位前に「エントロピーの法則」という本がベストセラーになったことがあった。しかし、その中でも現実的具体的対処方は明示されていなかったように思う。
 エントロピーの増加は人々の生活を便利にし、物質的に豊かにしてきたことは間違いない。しかし、最近の状況を見る限り、エントロピーの増加と人々の幸せが必ずしも比例するとは限らないように思える。自動車やラジオの発明は人々の暮らしを豊かにしてきた。昔はエントロピーが少し増加しただけで、人々の暮らしは格段に良くなってきた。農耕・牧畜により食料の供給は増加し、産業革命により物質的にも数段恵まれるようになったのは、エントロピーの増加と深く関わっている。
 情報化社会と言われる今日、エントロピーは急激に増加している。例えば携帯電話というものが急速に普及してきている。社会の中堅の人達よりも若い人達の間でそれを持つ人が増え、街のあちこちで電話をしている姿が見受けられるようになった。
 私が小さい時、電話はそれ程普及していなかった。我が家には電話は有ったけれども、小学校のクラスの名簿を見ると、三分の一の人達の電話の欄は、空白かそれとも「○○方呼びだし」と云う、今では考えられないような事が書いてあった。その頃は、電話が掛かってくる回数も今ほどでは無かったように思う。エントロピーは今よりははるかに少なかった。
 その後次第に電話が普及し、電話機その物も複雑に(エントロピーが大きく)なってきた。留守番電話や割り込み電話なる、私に言わせれば、非常識な機能の付いた電話が増えてきた。NTTと他の電話会社との競合のためか、○○ホンとか××ホンと云う、様々な機能が考えられ、複雑さの度合いは益々高まるばかりである。
 携帯電話の登場により、エントロピーは飛躍的に増大した。自動車を運転しながら電話をする人や、静かな会議や講演の最中に、いきなり電話の呼びだし音が鳴り響き、苦々しく思った経験のある人は私だけではないと思う。携帯電話の電源を切ることもできるらしいが、電源を切り会議に臨めば、携帯電話を持っていたばかりに、会議の間に自分に重要な連絡がなかったかと心配になってしまうのかもしれない。私は携帯電話は持たないけれども、その様な心配はしたことがない。行き先さえ言っておけば本当に重要な連絡ならば、連絡を貰う手段はいくらでもある。もっともその様な連絡は、数年に一度しかないだろうけれども。携帯電話を持つ人は、小さな用件に振り回されて、さぞ大変だろうと思うのは持てない者の妬みだろうか。
 最近はエントロピーが増大してもそれに見合うだけ生活が豊かになるのかは疑問である。携帯電話の場合のように、便利になるのと同時に、負(マイナス)の面も又大きくなり、差し引きどれだけ豊かになるのかは分からない。
 問題を商店街に移してみよう。単純な貨幣による取り引きから、信用掛売り、商品券、友の会、クレジットカード、プリペイドカード、ポイントカード、通信販売等、あらゆる手段で商売が行なわれている。最近はインターネットによるショッピングが検討されている。インターネットによる商品の紹介は既に行なわれているが、代金の決済方法に未だ問題が有り、直接注文できるまでには到っていないが、盛んに研究されている。コンピューターで直接注文、代金決済するには相当複雑な手続きを要する。利用者はそれ程感じないかも知れないが、それを支えるのは非常に複雑なハードとソフトである。
 ひと昔前(エントロピーが少なかった頃)は、インターネットとは比べものにならない単純な商法である「友の会」という商法を取り入れただけで売上げを増やすことができた。友の会制度を維持する人的物的あるいは精神的負担も軽かった。しかし、インターネットを実現するにはどれだけの負担が必要なのか。複雑になればなるほどコンピューターによる犯罪等の巨悪に対するガードも堅めなければならない。それ程までにして行なうことがどれだけの売上増に繋がるのか、売り上げが増えたとしてもマイナス面と相殺すればどれだけの人間としての実質的利益になるのだろうか。
 インターネットショッピングが実現されても消費者やそれを導入する店ではそれ程負担には感じないかも知れない。お膳立てはすべてソフト会社がやってくれる。いわば金さえ出せば良いのである。しかし、社会のエントロピーは確実に、飛躍的に増加する。  ある学者は「人類情報の氾濫というエントロピーの増加によって滅亡する。」と言っている。核戦争や環境問題、食糧問題などよりははるかに現実的で近未来的だと言うのである。インターネットショッピングを始めとして、コンピューターが益々我々の生活に身近かになってくる。コンピューターが駆使できなければ生活ができない、という社会が来るかも知れない。既に銀行のキャッシュカードなどはその一端を示すものである。膨大な情報を吸収しなければ生活ができない社会にはついていけない人達がでてくる。キャッシュカードの機械の前で戸惑っている老人を見かけることが有る。老人でなくともコンピューターに強い人、弱い人、もっと平たく言えば情報をいち早く理解できる人とできない人がいる。複雑な情報であればある程社会から取り残される人も多くなるのではないだろうか。 情報を理解しやすい人とてその能力は無限に有るわけではない。人間の能力の限界は時間に有る。受験勉強にいくら時間を費やしたとしても1日24時間を超えることはできない。人間にとって生命の維持に最小限必要な睡眠やエネルギーの摂取(食事)に費やす時間を除けば、その限界は自ずから決まってくる。情報を受け入れ、取捨選択し、学習して自分の生活やビジネスに活かす、という過程を考えれば、生活やビジネスの時間よりも情報の収集や学習に費やす時間の方が多くなってくる。携帯電話に振り回され、次々に入る新しい情報を受け入れ学習しなければ社会に付いていけなくなる、というのは正にエントロピーによる圧殺である。                       
 エントロピーが増大するのは自然の法則である。私もそれには逆らえない。商売をする上で、自分の店だけ「クレジットカードは使えません」「インターネットは検討もしません」と言っていたのでは商売にならない。商売を続ける上では最小限エントロピーの増加についていかなければならないのだろうけれども、私は個人の生活では出来るだけエントロピーの少ない生活をしたいと思っている。携帯電話は持たず、クレジットカードは使わない。道教の仙人のような訳にはいかないが、エントロピーによる圧殺からは逃れたいと思っている。
 現代よりはるかにエントロピーの少なかった昔の仙人達がエントロピーという概念を持っていたのかどうかは分からないが、現代の病巣を的確に予言していたのかも知れない。
 アヘン戦争以来、中国の育ててきた道教の精神は全く見過ごされてきたが、今日改めて道教の価値観を学んで見ても良いのではないだろうか。

 

 18.鯉魚門(レイユウムーン)

 レイユウムーンは鯉魚門と書き、ビクトリア湾の東の入り口にあたる。香港島側がショウケイワン大陸側がレイユウムーンである。文字通り鯉魚門は魚の通る道である。
 香港で二つ目の海底トンネルの東区海底隧道ができるまでは、ここから香港島に渡るには九龍半島まで行かなければならず、鯉魚門は交通の便が悪い、小さな漁村に過ぎなかった。
 その小さな漁村が今は観光名所になっている。いけすに泳ぐ魚を選び、レストランに持ち込むと、指定する料理にして出してくれる。初めは地元の人達が利用したのだろうが、次第に観光客を集めるようになった。
 前回の訪港時にも鯉魚門を訪れてみたいと思ったが、行けなかった。日本人が一人で行っても、言葉が通じなくて帰ってくるか、何とか通じたとしても高くぼられるのは分かり切っている。
 今回は、松坂屋のK氏が案内してくれた。鯉魚門のレストランの経営者が松坂屋の取引先と言うことも有り、小林氏は鯉魚門で顔が効くらしい。
 ホテルからタクシーに分乗して鯉魚門に向かった。九龍半島の九龍城あたりを過ぎると、道路はわりとすいていて、約30分位で鯉魚門に着いた。漁港の近くのタクシー乗場で降りる。既に日は沈み、暗くなっている。遠くに香港島の街の灯が見える。小さな港には漁船が係留されているのが分かるけれども、水面は暗くて見えない。小林氏が
「夜で港が見えなくて幸いですよ。港を見たら汚くて、料理は食べられなくなるかもしれません。」
と言っていた。  港の奥の方へ歩いていくと、灯がこうこうと点された市場があった。細い通路の両脇にいけすを並べた魚屋が並んでいる。 「この奥の大きな木が有る店ですから、そこまで行ってください。」
と小林氏に案内され、市場の通路を歩いていった。両側のいけすには色々な魚介類が飼われている。魚の名前は良く分からないが、見たこともない魚や貝が泳いでいた。途中、そちらこちらの店から声が掛けられる。何と言っているのか分からないけれども、客引きである。
 小林氏に案内された店まで行って、早速材料選びである。小さな海老から大きな伊勢海老。帆立、トコブシ、そして20cmもあるシャコなどを注文した。そんなに食べられるかな、と思ったが、店の人が
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
と次々にビニール袋に詰め込む。小さい店の中には所狭しと水槽が並べられ、あたかも小さな水族館の様であった。
 材料選びが終わると、店の人が魚をレストランに運んでくれる。レストランには既にK氏が予約を入れてくれているので、大きな丸テーブルが用意されていた。支配人(風の人)がやってきて、どのような料理にしたらよいのか聞いてくる。詳しい料理法など知る由も無く、k氏に
「おまかせ、おまかせ」。
 出てきた料理は美味しかった。これが中華料理だとすると、日本の中華料理はいったい何なのだろうと思えてくる。いくら食べても飽きることなく、油こさもない。日本の高級中華料理店で食べる中華料理も美味しいけれども、どこか違う。
 ビールを追加し、紹興酒を三本飲んで、1人4000円。大満足だった。  
「香港へ行っても、食べものは美味しくない。」
という人の話を聞いたことが有る。おそらく、旅行社に連れていかれたレストランでしか食事をしなかったのだろうと思う。一度鯉魚門に行って見ると良い。そこには香港の庶民の本当の味が有る。

 

 19.香港のタクシー(ビクトリアピークへ)

 香港の足と言えば、トラム、地下鉄、バス、タクシー等である。鉄道も有るけれども、九広鉄路と云う九龍駅と広州を結ぶ鉄道で、市内の足とは云えない。トラムや地下鉄は便利だけれど、路線が限られている。バスやミニバスは市内を縦横無尽に走っているけれども、外国人の我々が利用するにはちょっと不便である。慣れてしまえば便利なのだろうが、何処を通り、何処へ行くバスなのか、何処で降りれば良いのかが分からない。結局目的地にずばり行くのはタクシーが便利である。
 タクシーは市内中たくさん走っていて、いつでも止められる。しかしこのタクシー、余り評判が良くない。どの観光案内書にも「悪質タクシーに注意」の記事が載っている。犯罪の街ニューヨークでもタクシーだけは安心して乗れる。しかし、香港のタクシーはメーターを操作し、料金をごまかしたり、遠回りしたりすると云う。今回もタクシーを利用する時には、行き先まで大体いくらぐらいかかるのかを確認し、助手席に座ってメーターを監視しながら乗っていた。悪質なタクシーといっても、香港では根からの悪質なドライバーはいないと云う。誤魔化せるものなら誤魔化してやろうという中国商法の延長上にいるに過ぎない。乗客に一目置けば、決して誤魔化したりはしない。
 鯉魚門からタクシーに乗り、ビクトリアピークへ向かった。小林氏が気を回してくれて、ビクトリアピークへはピークトラムで登るようにと、地図をコピーしてきてくれた。言葉が通じない香港では地図を指さして目的地を教えるのが一番良いという。
 一行12名とk氏を含めて全部で13名。香港のタクシーは乗客が五名乗車できるので、タクシーは3台必要である。鯉魚門のタクシー乗場でタクシーをつかまえた。運ちゃんは
「香港島にしか行かない。」
という。香港島のタクシーなのだろう。トラム駅に印のついた地図を渡して「ピークトラム駅」というと、「OK」。四人を先に乗せ、2台目に私、3台目に小林氏が乗った。
 ピークトラム駅は駅舎らしくない建物で、小林氏も初めて来たときは何処が駅だか分からなかったと云う。なるほど、タクシーを降りても駅らしい建物はないけれども、行列ができているので後に並んだ。3台目のタクシーも到着し、一緒に並んだのだが最初に行ったタクシーの人達が見えない。ずっと前に並んでいるのかと思ったが見当たらない。3回トラムの乗車待ちをしたが、それでも到着した様子はない。何処へ行ってしまったのかは知らないけれど、皆子供ではない。それも大の大人が4人乗っているのだ。まかり間違って運ちゃんと喧嘩になっても4対1では勝負にならないだろうという読みが有ったので、  
「ほっとけ、ほっとけ、朝までは帰てくっべがら心配すんな。かまねでおげ。」
と、ピークトラムに乗りビクトリアピークに登った。山頂に着くと、なんと先発隊はそこで待っていた。聞けば、タクシーでビクトリアピークまで来たと言う。  
「ピークトラム駅て言うのに、なして上までタクシーで来たのや。」  
「知ゃねっだな。タクシーでちぇでこらっだんだも。」  
「トラムの駅てゆたんだどれ。」  
「私も、おかしいと思たんだげど、暗くてわがんねんだっけ。」  
「俺は寝ででわがらねっけ。」  
「地図まで渡したんだどれ。」  
「ほだな、見でねっけも。」
と、してもしょうがない議論をした。
 何はともあれ事故でなくて良かった。運ちゃんが分かっていてわざとピークまで来たのか、間違って来たのかは分からない。しかし、来るべき所まで来たのだから、それ程文句を言う事でもなかろう。  

 

 20.ビクトリアピーク  

 何処へ旅行をしても観光名所が有る。その土地で一番有名な所が名所として観光客が群がるのである。初めての訪問地では物珍しさも有り、名所巡りをありがたがるが、二度三度の訪問で同じ場所を引き回されると、時間の無駄としか思えなくなってしまう。有名な名所程思ったよりも大したことが無い、と言うことも有るかも知れない。
 香港で観光バスに乗れば行くところは決まっている。タイガーバームガーデン(現アーブンホウガーデン)、レパルスベイ、アバディーン、そしてビクトリアピークである。それぞれ格別目的が無ければ一度行けば二度行かなくても良い所だけれど、やはり始めて香港に行く人にとっては行かなくてはならないところらしい。  
「せっかぐ行ぐんだがら、見でみっだいね。」  
「おまえ、香港さ行ってほだなのも見でこねの、て言われんのもやんだずね。」
と言う会員の声も有り、ビクトリアピークの夜景を見に行ったのだった。
 ビクトリアピークへの登山電車であるピークトラムの駅までタクシーで行く。土曜日と言うことも有り駅には列が出来ていた。3回待って乗ることが出来た。トラムはほぼ45度の角度で坂道を登っていく。狭い香港ではトラムの線路のすぐ脇まで住宅が建っている。数十階建てのアパートもあるが、それらは皆傾いて建っている。何の事はない。傾いているのは我々の方なのだ。
 中腹まで来ると、視界が開け、右手に夜景が見えてくる。乗客は一斉に右を向き、ため息をつく。 山頂に着き、トラムを降り展望台に向かう。途中で地面におもちゃを広げて売っている人がいた。おもちゃは二年前に来たときと同じおもちゃだった。観光地とは何と進歩の無いところなのだろう。 香港の百万ドルの夜景の感想は、と言えば「まずまず」見れば見たで悪くはない。これが初めてであれば「すばらしい」の感想だったかも知れない。今回は初めての人が多かったので、ほとんどの人は「すばらしい」の感想を持っただろう。見終った彼らに私は一言いいたい。  
「一回見だがら、あど見らんたと、いいびゃあ・・・・・。」

 

 21.酒を飲まない中国人

 今回の旅行はとても面白かった。いや、とても美味しかったと言い直しても良い。前回の時もそうだったけれども、自分の足で歩き、捜して食べた料理は何処もここも美味しかった。ニチリウのエリック氏が連れていってくれたレストラン。マカオのレストラン、ベラ・ビスタ。飲茶料理、鯉魚門の海鮮料理は特に旨かった。
 美味しい料理には酒はつきものである(私にとっては)。旅行と言う開放感も手伝って、昼からビールを飲み、美味しいものを食べ、大満足だった。
 しかし、何処にいっても我々の集団は周りに比べると異様な雰囲気だった。次々にビールを追加し、紹興酒を頼む。気がついてみると、周りの中国人で酒を飲んでいる人は少ない。昼食時は当然と言えば当然かも知れないが、夕食の時でも酒を飲んでいる中国人は少ない。皆お茶(ポーレイ茶やジャスミン茶)や豆乳を飲みながら食事をしている。
「こんな御馳走を前に酒を飲まないなんて、何ともったいない」
と私は思ってしまうのだが、中国人の感覚は違うらしい。
 日本人には晩酌という習慣があるけれども、中国では日本ほどその習慣がないのかも知れない。それとも我々が御馳走と思っている美味しい中華料理も彼らにとっては未だ御馳走の部類に入らないかも知れない等とも思ってしまう。考えてみれば毎日毎日御馳走だと言って酒を飲んでいたら香港では体がいくつ有っても足りない。
 日本人の酒に対する感覚は諸外国とは違っているのは、海外旅行をすると良く感じることである。
 私が初めてヨーロッパを旅行した時、ドイツのハイデルベルクで、現地の青年と知り合いになり夜遅くまで飲んだことがあった。零時を回った頃だろうか、帰路、彼は歩いている人を指差し
「ほら、酔っ払いがいる」
と言う。見ると、その人は足がふらついていた。日本の盛り場では珍しくもない只の酔っ払いである。しかし、彼はその男を、日本で言えばまるで酔い潰れている人を見るような目で見ていた。
 日本には「酒の上の事だから・・・・」という言葉が有る。この「・・・・」に入る言葉は、おそらく「大目に見てやってくれ」という類の言葉が入るのかも知れない。しかし、外国では「酒の上だから・・・」という感覚はないように思える。酒の上の事であっても、犯罪を侵せば犯罪である。当然の事なのだが、日本では少し違う。酒に酔って他人に絡む、酒に酔って物を壊す等の行為は外国では許されない。
 ヨーロッパでドランカーと呼ばれる人たちは完全に社会からはみだした人達である。昼間からワインボトルを片手に、壁に寄りかかっている人をヨーロッパでは何度も見かけたことが有る。彼らは皆社会という枠組みからはずれた人達なのだ。「ドランカー」を「酔っ払い」と訳すとすれば、「酔っ払い」とは社会からはみでた者を意味している。
 日本では何故かくも酒に対して寛容なのだろうか。酒は神聖な物、という考えが有るのかも知れないし、単一民族国家の日本(だと思っている)では、ハメを外すこと、他人に迷惑をかけることには寛容なのかも知れない、とも思う。
 私は酒を飲むことは好きだし、酒を飲むことは悪いことだとも思わない。しかし、日本人の酒の飲み方は国際的な感覚とは少しずれている、ということを頭の片隅に入れておいたほうが良さそうである。

 

 22.香港住宅事情

 香港の街を眺めると、高層ビルの群に驚かされる。啓徳空港に着陸するときにも空からの眺めは一面の高層ビル群である。日本で高層ビルと云えば、新宿副都心がある。遠くから眺める新宿副都心は、広い野原の中で、そこだけが肥沃で陽があたり、竹の子が群れ生えたように見える。しかし、香港では高層ビルは其処比処に建てられ、竹の子畑の様である。そしてそれらのほとんどが住宅用のアパートである。日本で高層アパートと云えば、マンションと呼ばれ金持ちの入る高級住宅である。都心に建てられる高層住宅は、○○プラザとか××シティとか名付けられ、住む人にとってステータスになっている。
 香港の場合は日本とは事情を異にしている。高層アパートの群は市街地だけでなく、郊外まで広がっている。ヤオハン馬鞍山店のある新界沙田地区は市街地から離れた郊外の高級住宅街だけれども、そこにも20階、30階建ての高層アパートが林立している。
 ビクトリアピークから市街地を見下ろしてみると良い。遠くは九龍半島の高層ビル群、香港島の市街地から山の中腹に到るまで高層ビルが迫っているのが良く分かる。これら高層ビルのほとんどが住宅である。土地の狭い香港では住宅地の確保が困難である。自然、住宅は上に向かって広がっていく事になる。
 ニチリウの現地採用社員であるエリック氏は「給料の半分以上を住宅費にまわさなければならない」と言っていたし、香港松坂屋社長の話では「一番の合理化は日本人社員の人員を削減することだ」とも言っていた。住宅家賃の高い香港で外国人ビジネスマンが使用できるアパートはさらに高いと云う。日本人が使用するアパートは、月の家賃が4〜50万円を下らないと云う。
 香港の人達が住宅に費やす出費は相当なものだろう。外食を習慣とする彼らの収入は、住宅費と食費でほとんどが消えるのでは、と思えてしまう。

 

 23.傲慢な日本人(国際社会における日本人について)

 このような表題で書かなければならないことは誠に残念である。まして、我七日街商店街青年会の旅行ではなおさらの事である。しかし、この問題は日本人にとって避けては通れない問題である。 
 日本人が外国、とりわけアジアを旅行するときには、しばしば傲慢な振舞が見受けられる。「旅の恥はかき捨て」と云う日本の諺がわざわいしているのだろうか。日本ではお目に掛からないような振舞が旅行者に見られる。
 昨年、中国に行ったときもそうだった。中国国際航空の飛行機に乗り、スチュワーデスのたどたとしい日本語のアナウンスが流れた。そちらこちらから笑う声が聞こえ、拍手をする者もいた。彼らは自分がやっていることがわかっているのだろうか。
 今回の旅行でも残念なことが有った。
 初日、ニチリウの現地採用社員のエリック氏に、地元の人達が行くようなレストランを紹介してもらった。香港の知識人は中国名と共に英語名を持っている。エリック氏もれっきとした中国人である。無理をお願いして同行してもらう事にしたのだった。ニチリウ香港事務所長の有馬氏にも声を掛けたけれども、多忙で同席できなかった。エリック氏が言うには、有馬氏は地元の人が行くレストランには行きたがらないと言う。
 私は地元の人達が行く余り奇麗ではないレストランを期待したのだが、エリック氏が案内してくれたのはこぎれいなレストランだった。香港の中産階級の人達が行くレストランなのだろう。
 予約を入れてもらい、料理もエリック氏お任せだった。料理は美味しかった。最高とは言えないまでも、日本のちょっと気のきいた中華料理店よりははるかに美味しい。ペキンダックやふかひれスープも出た。良いレストランを紹介してくれたとエリック氏に感謝した。
 事の発端は給仕の女性の態度が悪かったことだった。皿の配り方、料理の出し方、いづれも日本の感覚で云えばサービスが悪く、その女性の態度に腹を立てるのも無理からぬ所が有った。エリック氏も
「あれは本土から来ている出稼ぎ労働者かも知れません。」
とも言っていた。日本のサービス感覚、あるいは高級レストランのサービスに比べれば、その女性だけではなく、他の給仕もサービスが良いとは言えなかった。皆酒に酔ったせいも有るかも知れないが、他の給仕についても「あいつは・・」「こいつは・・・」と批評し始めた。次第に「あいつが悪い」「こいつが悪い」とエスカレートし、話が料理にまで及んだ。ペキンダックが出てきたのを見て、
「なんだ、皮しか出さないのか。」(ペキンダックは皮を食べる料理である。)。
「中国のぜんざい」と言って出てきたデザート「紅豆沙」は香料が入って少し癖の有る味だった。
「こんなのぜんざいでない。」(もともと、これはぜんざいではない。)
 かかる言動に、私はエリック氏を前にして恥ずかしくなった。
 問題を整理してみよう。まずウエイトレスの態度の悪さである。確かに目に余る態度の悪さはあるが、必要であれば正式に抗議をすべきである。言葉が分からないことをいいことに、彼女の一挙一動を笑い物にするのは的外れである。他のウエイトに対しても同じである。言葉の通じない者の前で笑うという事には深い意義が有る。我青年会OBのA氏(ギリシャ人)が私に言ったことが有る。
「日本に来てまだ良く日本語が分からなかった時には、人が笑うと自分が笑われているように思えた。」
と。 給仕のサービスは日本に比べれば悪かったかも知れないが、香港の同クラスのレストランではどうなのだろう。他のテーブルの様子もみていたけれども、庶民の行くレストランではあんなものかも、とも思えるのだが。
 サービスの概念やマナーは国によって違う。香港の大衆食堂では、女性でも食べかすを床に吐き出すと言う。西欧では食事をするときは音をたてると下品だとされている。彼らが日本のそばやラーメンを食べるのに苦労しているとも聞く。日本人がもし西欧人の前でそばやラーメンをすすって食べたら、彼らに笑い物にされるのだろうか。
 百歩譲ってレストランのサービスが現地の常識から考えても、話にならないほど悪かったとしても、我々の言動はエリック氏に対する非礼を免れない。自分の身に置き換えてみれば良い。七日町に海外の視察団が訪れ、料理屋を紹介してくれるよう頼まれ、同席したとしよう。その席で
「この料理屋は態度が悪い。」
「こんなの料理じゃない。」
とあからさまに言われたらどんな感情を抱くだろうか。日本人同士とて同じである。我々が他の商店街に視察に行き、紹介してもらった料理屋でかかる所行に及ぶだろうか。
 エリック氏の好意に対して恩を仇で返したようで申し訳なかった。
 日本人の海外での行動が、何故かくも国内と違ったものになるのか不思議でならない。日本人が海外に行った時には、卑屈になる必要は全く無いが、傲慢になる必要もない。私は日本人の国際化が遅れている原因はここに有ると思っている。国により言葉や習慣は違っても、普段行なっている誠意有る態度で接すれば、何処の国へ行っても通用する。挨拶一つとってみても、お辞儀をする、握手をする、など形態の違いは有っても通じるものである。幕末の訪米使節団がワシントンを訪れたとき、当時の新聞が日本の使節の態度の立派さを書き立てている。当時としては初めて接する日本人の服装や習慣にもかかわらず、礼儀は十分に伝わったのである。
 海外では良くも悪くも特別な事をする必要は全く無い。日本で振舞うようにすれば良いし、日本でしてはならないことはしてはならないのである。
 しかし、普段と変わらぬ態度、と言っても、そこはよその国であることを忘れてはならない。他人の家の奥座敷に入り、いきなりごろりと寝る人がいないように、客としての礼儀をわきまえるべきである。習慣の違いも勉強していければ良いが、そうでなければ習慣の違いが有ることを頭に入れておくべきである。「日本とちがうから」と文句を言うのは、自分が国際人ではないことを身をもって示しているようなものである。  日本の国内において外国人に接するのにも同じことが言える。日本人は外国人と出会うと気が動転してしまうらしい。特別な事をする必要はない。日本の国内なのだから、日本人と接するのと同じことをすれば良いのである。
 私の店には時々外国人の客が入ってくる。店の女の子が応対に出ると、戻ってきて
「社長、だめです。ガイジンです。私英語がわかりません。出てください。」
良く有るパターンである。店の人には外国人であろうと日本語で日本人に接するように応対するように言っている。我々が外国に行き、日本語で応対されるのを期待しないように、彼らも自国語で応対されるとは思っていない。最近は海外でも土産物屋を中心に日本語が通じるところが多くなっているけれども、それは例外と考えなければならない。どこででも日本語が通じると考えているならば、海外など行かないほうが良い。又、日本人は外国人は皆英語を話すと思っている。「ガイジン=英語」である。英語を話せない外国人はたくさんいる。いきなり英語で話しかけるのは、考えようによってはかえって失礼な話である。我々日本人が欧米に行ったときに、いきなり中国語や韓国語で応対されるようなものである。加えて、最近は日本語が堪能な外国人が増えてきた。特に山形を歩いている外国人にその割合が多い。気をきかせたつもりで英語で話しかけると、流暢な日本語が返ってくる場合が少なくない。
 外国の客に接するときには日本語で応対し、通ぜずに相手が困っていたならば自分の分かる範囲の外国語で応対すれば何の失礼もないのである。大事なことは日本人の客に対するのと同じ態度、振舞で接することなのだが、日本人にはこれが難しいらしい。
 日本人の海外での傲慢な振舞は、私が指摘するまでもなく、新聞等でも報道され、心有る者は皆感じている事である。日本は国際社会、とりわけアジアでは多くの問題を抱えている。教科書問題、靖国神社参拝問題、従軍慰安婦問題、尖閣列島や竹島の領有権問題等々。これらの問題一つ一つに付いては反論すべきことも多分に有るけれども、本当の問題は、それぞれの問題のずっと以前の事であろうと思う。現在のような海外での日本人の振舞が続けば、日本は益々アジアの中で孤立することになるだろう。気に食わない人間とは、物事の交渉は始めからうまく行かないのは必定である。
 かかる問題に付いては日本人同士もっともっと議論する必要が有ると思う。大げさな国際シンポジウムや姉妹都市縁組みなどいくらやっても日本の国際化には役にたたない。全て個々人の問題なのだから。
 今年青年会を卒業する私の、今後益々国際化が求められる青年会員諸氏に残す言葉でもある。

 

 24.中国人は贅沢だ

 「中国人は贅沢だ」と云う表題を読んでどのように感じるだろうか。「贅沢」という言葉は日本では余り良い意味では使われない。「あいつは贅沢だ」と云うのは「あいつは分不相応の生活をしている」と云う意味に通じているし、「贅沢は敵だ」と云う言葉は贅沢イコール悪いことを表わしている。 しかし、中国の人達は本当の良い意味で贅沢を知る人達ではないかと思う。それは、食べること、食事に関してである。彼らは実に贅沢な食べ物を食べている。
 「旨い物を食べる」と云えば、日本では「グルメ」等と云う言葉で呼ばれているけれども、日本で流行語のように使われる「グルメ」は私は本当の「グルメ」の意味には使われていないように思う。 日本で云う「グルメ」とは、美味しいレストランを数多く知っていて、食材や料理に講釈を垂れる人と云うイメージである。しかし、美味しいレストランを知っている事、食材や料理にうんちくを垂れる事と、美味しいものを食べることはほとんど無関係である。
 香港での食事はとても美味しい。少し旅慣れた人であれば分かることだけれど、旅行社に連れ廻されるレストランはパスしたほうが良い。そういう店は食事以前に商売が先行している。しかも、中国の商売である。美味しいものは期待しないほうが懸命である。自分の足で歩き、レストランを捜し地元の人が食べているものを食べてみると良い。とても美味しいものばかりである。安ければ安いなりに庶民の味が有り、高ければ高いだけの事が有る。美味しいものがたくさん有る、ということは彼らが美味しいものを欲しているからに他ならない。
 贅沢の話に戻ろう。本当の意味で「食べ物に贅沢だ」と云うのは、高い料理や高価な食材をふんだんに食べる事を意味しない。本当の贅沢は、同じ料理、同じ食材でも手を加え、いかに旨いものを食べるかにある。
 香港は生活程度も高く、食材も豊富だけれども、中国に行ってみればその意味が良く分かる。中国は貧しく、ろくなものを食べていないと誤解している人たちも多い。辺境の貧しい農村では今もそういう事が有るかも知れない。また、使っている汚い(日本に比べれば)食器を見て偏見を持つ人もいるようだけれども、食器が汚かろうと安っぽかろうと、ほとんどの中国人は実に旨いものを食べている。昨年中国に行った時に北京で庶民の食堂で朝食を食べた事が有った。1人分わずか90円だったが、その時食べた餃子と肉饅、肉麺は旨かった。餃子や肉饅は、とても手間の掛かる料理である。日本のように市販の皮があるのではなく、具も皮もその場で作るのである。欧米の朝食と比べてみると良く分かる。パンとミルクか紅茶、おかずは卵やベーコンを焼いただけのもの、とは大きな違いである。
 日本の懐石料理やフランス料理、イタリヤ料理は中国料理に負けず劣らず手の掛かった料理である。しかし、餃子もその他の飲茶の料理も高級料理ではなく、毎日庶民が口にする料理である。レストランや料亭で肩をはって食べる料理とは違う。中国人は食べ物については非常に贅沢である。
 食材を大切にし、無駄なく使うという中国の贅沢を日本人は見習うべきと思う。同じ食材をより美味しく食べると言うのは資源の有効利用である。ファーストフードと称する大量生産の料理を食べ、余ったものは惜しげもなく捨てる、という現代日本の食習慣と比べてみれば良い。いかに現代日本の食習慣が食材を量的にも質的にも無駄にしているかが分かる。
 日本の料亭や外国の高級レストランには、空間を売るという意味が有る。日本の料亭ならば軸物や調度品、庭のしつらえ、又皿や器の食器類に付加価値がある。外国の高級レストランでも同じようなことが言える。それはそれで十分に意味の有ることで、これからも守っていかなければならない文化では有るけれども、そういった意味が分からずに大枚をはたく事だけに意義を感じている「グルメ」達がいることも事実である。一食5万円、10万円という食事をする日本人を見て、中国の人達はどう思うのだろう。10万円といえば中国本土では若い労働者の一年分の給料である。そんな彼らの「グルメ」達をあざけり笑う声が聞こえそうな気がする。  
「そんなに金が有るなら俺の所へこい。一食分で一年中旨いものを食わせてやるぜ。」 

 

 

第二部 マカオ

 

 1.歴史の落とし物

 マカオはポルトガル領である。中国南部珠江の河口、香港の対岸に位置し、半島部と二つの島(タイパ島、コロアネ島)からなる面積わずか15.5平方kmの小さな領土である。
 「ポルトガル」と言う国の名前を聞いたことの無い人はほとんどいないかも知れない。日本史を少し学んだ人であれば、日本が初めて出会った西洋の国であることは頭の片隅に有るのではないだろうか。しかし、現在のポルトガルは、と言えば余り知らない人が多いように思える。同じヨーロッパのイギリスやドイツ、フランス、イタリアと云った国はニュースにもよく登場するけれども、ポルトガルのニュースは余程耳をそばだてなければ聞こえてこない。もしも、歴史を全く知らない人に世界地図を広げ、
「ここがポルトガル。そしてここがポルトガル領のマカオ」と説明したとしたら彼は不思議に思うだろう。世界に余り影響力を持たないユーラシア大陸西端の小国(と言ったらポルトガルの人に怒られるかも知れないが)が何故ユーラシア大陸の東端、極東(極東と言う言葉は西欧中心の命名なので私は余り好きではないけれどもここはポルトガル人に敬意を表して)に領土を持っているのかと疑問を抱かずにはいられないだろう。
 15世紀に入りポルトガルは探検航海に乗り出す。いわゆる大航海時代である。少し出遅れたスペインと共に世界の海を股に掛け、世界中に領土を拡げる。両国の海外領土の獲得競争は1494年のトラデシラス条約でローマ教皇により円満に?調停され世界を両国で分割することとなる。いくらキリスト教世界、とりわけカトリック教国に強い影響力を持つローマ教皇と言えども自分がまだ見たこともない人達が住む土地を勝手に分割するなどとんでもない事と思うのだけれど人間の歴史とはそんなものらしい。
 それ以後ポルトガルとスペインはお互いに干渉することなく世界中に領土を獲得する。フィリピンを除くアジアはポルトガルに与えられ、イギリスやオランダが進出するまで貿易や布教を独占する。日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルもその波に乗ってきた一人である。
 その後、約1世紀遅れて進出してきたイギリスやオランダにその任を取って代わられ、現在ポルトガルが有しているアジアの領土はマカオのみに成ってしまった。
 もともとポルトガルはスペインや後のイギリスやオランダのような領土的野心はそれ程強く無く、貿易の拠点づくりに主眼がおかれていたように思われる。その貿易や布教の拠点となったゴアやカリカット、マラッカなどをポルトガルが、そのまま保持できなかったことの具体的原因については歴史学者に任せるとして、私はそのことは極自然の歴史の流れと受けとめている。
 どのような国でも長い歴史の間には、歴史の檜舞台に立ったり、脇役にまわったりしている。15〜6世紀はポルトガルが歴史の檜舞台に立った時代である。現代では脇役を演じているポルトガルも又主役として登場する機会もあるだろうし、まだ檜舞台を踏んでいない国々も歴史の主役として登場することも考えられるのである。
 主役が檜舞台を去り、そこに残されたマカオは、まさに歴史の落とし物である。その歴史の落とし物も1999年には元の持ち主に返されようとしている。

 

 2.珠江口(アヘン戦争に思う)

 中港城よりマカオ行きのフェリー、ターボキャットに乗り30分余り。ランタオ島を過ぎると珠江口に出る。香港とマカオは珠江口を挟んで対岸に有る。珠江口から100km上流には広州がある。広い珠江口から広州を臨むことはできないが、ここがアヘン戦争の舞台である。アヘン貿易華やかなりしころ、ここから少し上流の伶丁島沖には多くのアヘン母船が停泊していたはずである。
 1740年に始まったアヘン戦争は英国の一方的な不義の戦争であった事に論を待たない。なぜこのような不義の戦争が起き、不義がまかり通ったのだろうか。
 アヘン戦争は欧州文明と中国文明が初めて決着をつけたぶつかりあいだった。欧州文明と中国文明は、昔からシルクロードを通して関わりあって来た。初めて直接に出会ってぶつかったのは、モンゴル帝国のバツによる西方大遠征の時だった。その時、モンゴル軍はワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランド連合軍を破りヨーロッパ中原に雪崩れ込もうとしていたが、オゴタイ汗の死を聞き、途中で引き返し、両文明が決着をつけるまでには到らなかった。その後中国は、  
「天朝ハ豊盈、有ラザル所ナク、原トヨリ、外夷ノ貨物ニ藉ッテモッテ有無ヲ通ゼズ。」 と言う中華思想を貫き通した。一方欧州では産業革命後、資源と市場を必要として、進んで他の文明に接触を図っている。
 アヘン貿易はイギリスにとって正にアヘンだった。その旨味からは逃れられなかった。そして、武力の行使と云う、あってはならない文明同士の衝突に到ってしまった。そして武力に優る英国の勝利という結末に終わった。文明同士のぶつかりあいの決着だった。
 ここで云う決着とは武力的な決着を意味するものではなく、文明と文明が、お互いが、どのようなものであるかをさらけ出し、お互いそれを知らしめた事を意味する。
 清国は自国の軍備、科学技術の稚拙さを知り、その後洋務運動が起こった。英国は清国の帝国としての威信が脆弱である事を知り、東洋における覇権を確信したのだった。しかし、戦勝国イギリス、敗戦国清国という構図にのっとり、あたかも欧州の文明が中国の文明に優っている、と言った錯覚の基に歴史が動いていった事に私は人間の認識の甘さを感じてしまう。
 産業革命で大量生産技術を得た英国は中興の期に入っていたことは言うまでもない。清国もアヘン戦争前の、康煕、雍正、乾隆各皇帝の時代には中興の期にあたる。現代から見れば不合理な点は多々有るかも知れないが、中国の歴史の中では最も繁栄した一時期だった。それがアヘン戦争に負けた事で、中国の価値観は脆くも崩れ去ったかのように思われてしまったのである。戦争の勝ち負けは文明の優劣を意味しない。
 英国の勝利は科学技術の勝利に他ならない。最新の外輪式蒸気船をくりだし、最新式の大砲を積んだ英国の軍艦に清国軍はかなわなかった。清国軍の使用した大砲は200年前の大砲もあったと言われる。英国の艦砲射撃をかわすために道教の力を借り、婦女子の便器を並べてそれに対抗したとも言われている。200年前の大砲と婦女子の便器。駐清商務監督エリオットが「戦えば勝てる」と確信したとしても無理はない。
 英国の技術的勝利は、今日までその価値観が継承されている。現在、英国自身は当時の勢いは無くなってしまったが、英国が走り出した路線に沿ってその後の世界は動いている。中国やその他の文明の価値観は全く存在しないかのように。しかし、今日の世界中の数ある問題は正にその路線によって生み出されたものが多い。
 ケンカで勝った者だけの価値観を是とするのは、公平に見ればいささかおかしいような気がするがどうだろう。
 くり返すけれども、不義は英国に有った。アヘンを没収し処分した欽差大臣林則徐が行なった事、英国に対して言い放った事は、いちいちもっともな事だった。林則徐は、賄賂や接待(今で言えば官々接待になるのか)が当たり前の当時の中国にあって、それらを一切拒否し、清貧を通し、英国に対しては欧米の法律を学び、理論武装して交渉にあたる等、ただ正義感の強いだけではない第一級の人物であったと私は評価している。対して英国のエリオットは利権の擁護のみに走る人間にしか思えない。結果的に英国の勝利となりユニオンジャックが翻った事に付いては
「当時は帝国主義の時代。今とは違ってそんなこともあるだろう。」
と思う人もいるかも知れない。しかし、英国には国会で派兵に反対したジェイムズ・グラハムやグラッドストンの様な人物もいた。グラッドストンは英国の不義を悟り、次のように言っている。  
「・・・その原因がかくも不正な戦争、かくも永続的に不名誉となる戦争を、私はかつて知らないし、読んだこともない。いま私と意見を異にする紳士は、広東において栄光に満ちてひるがえった英国旗について言及された。だが、その旗こそは、悪名高い禁制品の密輸を保護するためにひるがえったのである。」
 グラッドストンも正義感の強いだけの非現実主義者ではなかった。その後グラッドストンは1868年を皮きりに4回首相に選ばれ平和外交を進めている。又、広州へ海軍を派遣する戦費の支出は国会で「賛成271票、反対262票」の僅差で可決されている。帝国主義時代といえども、英国にも正義は十分に有った。もしも、もう少し早くグラッドストンが首相になっていたならば、あるいはグラッドストン全権大使と欽差大臣林則徐との直接交渉というものが実現していたならば、歴史はもっと良い方向に進んだかも知れないと思うのだけれど、歴史はそういう好カードの外交交渉を許しはしない。
 古今東西、政治家は愚民の利権を代表するものが多い(と私は思う)。その中で不義を不義と悟りそれを主張しながら政界を泳ぎ渡るのは至難の技である。ましてその者同士が外交交渉を行なう機会が与えられる確率は非常に小さい。
 現代の外交交渉にも似たようなものが有る。もっとうまくやればいいのに、と素人の目で見ているが、一方が、あるいは両方が役不足である場合が多い。アヘン戦争から現代に至るまで、第二、第三のアヘン戦争が幾度となく繰り返されている。いつまで経っても人類は懲りない面々である。

 

 3.小泣きババア

 水木しげるの漫画「ゲゲゲの鬼太郎」に「小泣きジジイ」というキャラクターが登場する。小泣きジジイは、どこかの地方の伝説に由来する妖怪で、赤ん坊のような風体のジイサンである。かわいそうにとおんぶをしようものなら次第に重くなって押しつぶされてしまう事になるらしい。同じ「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する、小泣きジジイの相棒役とも言うべき妖怪が「砂かけババア」である。こちらも人に砂をかけるのを得意技とする妖怪である。どちらも伝説上あるいはフィクション、漫画上の妖怪だけれども、マカオにはなんと「小泣きババア」がいた。
 マカオのフェリーポートに着いた時の事である。マカオでは終始自由行動なので、個々に香港まで帰れるようにと、全員を集合させて帰りのフェリーの時間を確認に行った。マカオから香港行きのフェリーは、ホテルの有る中港城行と、香港島の上環行が有る。それぞれの出航時刻を確認して皆の所へ戻った。すると皆を前にして泣きわめいているバアサンがいた。Hさんに向かって何事か言いながら(もちろん広東語で)涙を流して泣いている。私は一瞬、誰かがまた何か悪いことをしでかしたのかな、と思ったが、そうではなかった。近づいてきて突然泣き出したと言う。言葉も通じずに泣きつかれて、何ともしようがない。日本で、もしこのような場面に出くわせば、野次馬がたかるか、官憲がやってくるかするものだが、ここでは誰も見向きもせず、フェリーポートの係員も涼しい顔をして通り過ぎていく。外国人観光客(特に日本人観光客が標的かも知れない)相手の乞食商法なのだろうと思い、
「相手にすねで、早くいぐべ」
とその場を立ち去った。
 しかし、そのバアサンの泣く姿は迫真の演技である。日本のどんな名役者でもその演技には叶わないのではないだろうかと思う。台湾や中国には葬式の時に泣いてくれる商売が有ると聞いたことが有る。死者を弔うために出来るだけ多くの人に泣いてもらって野辺の送りにするという。バアサンの演技につられて、かわいそうにとお金をやる観光客もいるのだろう。結構良い商売かも知れない。
 乞食商法の演技だと分かってはいても、
「老人を大切にしましょう」
「昔日本が迷惑をかけた後遺症かも知れない」
等と考えると、全く無視するのも忍びないように思ってしまう。香港やマカオの道教寺院のまわりは乞食がたくさんいる。少しでも、と浄財を渡せばたちまち乞食が集まってくるのは必定である。  
「神様、こういう時はどうしたらいいのでしょうか」

 

 4.ミニバスの客引き

 マカオのフェリーポートに着きイミグレーションを抜け出ると、早速タクシーの客引きがやってきた。ほとんどが白タクなので相手にしないように、と云う情報は行き渡っているはずなのに凝りもせずに客引きがいるところを見ると余程引っかかる人がいるのだろう。
 相手にせずにタクシー乗場に向かうと、我々の人数が多いことを見て取り今度はミニバスの客引きがやってきた。
「ミニバス有ります。どこまでですか。」
としつこく聞いてくる。余りしつこく聞いてくるので、私の広東語が通じるか試そうと
「大三巴牌坊(聖ポール天主堂)」
と言うと
「400ドル」
と言う。それを聞いていたY氏が
「高い、高い」
というので、相手にせずに歩いていくと、
「300ドル」
と言う。タクシーベイに着くと反対側にはミニバスが数台駐車している。
「このバスに乗ってください。」
「このバスがいいですか」
「あのバスがいいですか」
と手当り次第に駐車しているバスを指さしている。
「あなたのバスはいったいどれなんだ。」
と聞きたくなるが、話しかけると又話がややこしくなるので相手にせずにタクシーに交渉した。聖ポール天主堂まではメーターで計算するけれども大体20ドルだと云う。皆が乗るには3台必要だがそれでも60ドル。客引きは余程儲かるのだろう。我々がタクシーと交渉するのを見て、客引きはどこかへいなくなってしまった。
 聖ポール天主堂まではタクシーで17ドルだった。

 

 5.大三巴牌坊(聖ポール天主堂跡)

 マカオの観光案内の写真に必ず登場するのが聖ポール天主堂跡である。広東語で聖ポール天主堂は大三巴牌坊(ダイサムバーハイフォン)と言う。何だか麻雀をしているような気分になるが、日本人にとっては、やはり洋物はカタカナで表わさないとしっくりこない。
 1637年に建てられたが1835年に火災に会い正面の壁だけが残っている。壁だけが残った姿はマカオの歴史をよく知らない人にでも何かしらマカオの秘められた歴史を感じさせるのに十分である。
 マカオでは、観光巡りをしたい人、カジノに行きたい人、食べ歩き買い物をしたい人等さまざまなので日程は全て自由行動だった。しかし、マカオに来た証にと皆で聖ポール天主堂跡の前で写真を撮ってから解散することになった。
 フェリーポートから乗ったタクシーは天主堂の裏手に着いた。正面の威厳有る美しいファサードを臨めると思った私は少々がっかりした。始めにコンクリートと鉄骨で補強された裏側を見てしまったのである。表に回り皆で写真を撮った。今回の旅行で全員で写真を撮ったのはここだけかも知れない。
 聖ポール天主堂に限らず歴史的な遺跡は我々にロマンを感じさせてくれる。しかし、歴史にロマンを期待する余り、歴史の認識が真実を逸脱してしまう事が往々にしてある。
        ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
 ある朝、ギア灯台の番人ヒカルドは水平線から近づいてくる一隻の帆船を認めた。ジョルジュ・アルバレスよりザビエルの訪問、そしてザビエルの乗る船について聞かされていたヒカルドは、それがザビエルの乗った船だとすぐに分かった。ヒカルドは灯台に駆け登り水平線の船を見つめた。マカオには珍しい快晴の空に真っ白な帆がはっきりと見えた。
「ザビエル様の船だ。」
  ヒカルドは灯台の急な階段を飛び降りるように駆け降り、坂を下って聖ポール天主堂に走っていった。
 聖ポール天主堂ではカウルス神父が早朝のミサを捧げているところだった。いきなり入ってきたヒカルドに聖堂の静けさが破られた。カウルス神父は非礼の者を諫めよう振り向こうとしたとき  
「神父様、ザビエル様です。司祭様の船が見えました。」
ヒカルドの声が天主堂に響いた。カウルス神父は驚いて振り向いた。カウルス神父もアルバレスよりザビエルの訪問を聞かされていたが、一週間も先の事と思っていたのだった。半信半疑のままヒカルドの顔を見つめた。しかし、長年灯台守をしているヒカルドの顔はそれが嘘ではない事を物語っていた。カウルス神父は正面の十字架に一礼するとヒカルドと共にモンテの砦に登っていった。
 砦の門を入り一気に急な階段を駆け上がった神父はイエズス会士達に言った。  
「ザビエル様がお出でになった。」
息も切れ切れに言った言葉ははっきりとした言葉にはならなかった。しかし、会士達は「ザビエル」の四文字を聞いただけで神父が何を語ろうとしたかを悟った。ヒカルドは砦中を走り回り、ザビエルの来訪を伝えてまわった。宿舎で休んでいたイエズス会士達もその声を聞き、飛び出してきた。近づく船がオランダの艦船と思って砲門を船に向けようとしていた会士もいたが、その緊張は喜びへと変わっていた。皆が塀に登りザビエルの乗った船を確認しようとした。
 幾人かの留守番を残して会士達はカウルス神父を先頭に港へと向かった。途中、聖ドミンゴ教会、聖ジョゼフ修道院、ペンニャ教会にたちより、ザビエルの来訪を告げた。西望洋山の高台にあるペンニャ教会では、既に船が近づいている事に気がつき、ザビエルの乗った船ではないかと信者達が集まっていた。カウルス神父はペンニャ教会の前庭から海を臨んだ。ザビエルの船は1レグアぐらいの所まで近づき、はっきりとそれが司祭の乗る船であることを確認することができた。高台を下り港に向かう頃には、その数は信徒も含め200人ぐらいになっていた。日はもう高く登り、お昼を過ぎていた。
 ザビエルはヤジローと共に甲板の中程に立ち、マカオを眺めていた。船が港に近づくにつれ、ペンニャ教会の美しい六角錐の鐘楼がはっきりと見えてくる。ザビエルは極東の地マカオに建つ教会を見つめ、改めて深い感激に襲われていた。港にはザビエルを迎えるイエズス会士や信徒達が手を振っているのが見えた。やがて船は港に接岸し、ザビエルはヤジローと共にマカオの地を踏んだのだった。 
「司祭様ようこそいらっしゃいました。一同、心より御待ち申し上げておりました。日本に向かわれる途中と伺いました。どうぞ、ゆっくりお休みください。」
 カウルス神父に迎えられたザビエルは市政廳に向かった。セナド広場にはすでに噂を聞きつけた市民が一目ザビエルを見ようと集まっていた。市政廳ではマカオ総督にポルトガル国王の親書とゴア司教区長ゴンサレスの手紙を手渡し、すぐに聖ポール天主堂に向かった。
 天主堂の前に立ったザビエルはポルトガルからの長い旅路を思った。リスボンを出帆してからすでに七年の歳月が経っていた。そして
「とうとう、ここまでやって来たのだ。」
と。天主堂に入り十字架の前にひざまずいたザビエルは、これから赴くまだ見ぬ異郷の地日本を思い、布教への決意を新たにするのだった。
        ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・  
 以上はフランシスコ・ザビエルとマカオを結びつけたフィクションである。フィクションというよりも三文小説と云った方が良いかも知れない。マカオと聞いてこのようなフィクションを思い浮かべる人は私だけではないだろう。さもありなん、と思う人がいたら私の文才を誉めてほしい。しかし、これはフィクションと言うにも程遠いデタラメである。歴史家がこのような三文小説を読めば、たちまち私は集中砲火を浴びる事になる。  マカオの歴史を羅列すれば次のようになる。
    1513年  ジョルジュ・アルバレス中国南部初航海
      41年  ザビエル、リスボンを出帆  
      47年  ザビエル、ヤジローに会う  
      49年  ザビエル日本到着
      52年  ザビエル上川島で死去
      57年  ポルトガル人マカオに居住権獲得
    1617年  モンテの砦着工
      22年  ペンニャ教会着工
       〃    オランダ艦隊マカオ襲撃
      37年  聖ポール天主堂完成  
    1700年代 聖ジョセフ修道院完成
    1835年  聖ポール天主堂消失
      65年  ギア灯台完成
    1935年  ペンニャ教会再建
 ザビエルが日本に来たのは1549年。ポルトガルがマカオに居住権を得るのはその11年後であり、モンテの砦や教会が出来るのはさらに50年以上たった後の事である。ましてギアの灯台に灯が点るのは、その200年後の19世紀も半ばのことである。当時のマカオは今のような喧噪なマカオではなく、現在のマカオは400年かかって造られた街なのである。
 ザビエルはマカオには立ち寄らなかっただろうし、立ち寄ったとしてもそこは小さな道教寺院があるだけの場所だっただろう。ザビエルが立ち寄ったのはマカオから100キロ南の上川島であり、1552年に日本からの帰路そこで病死している。上川島とてもザビエルの旧友ジョルジュ・アルバレスが建ててくれた粗末な教会堂があるだけで、彼はそこで寂しく息を引き取ったはずである。
 歴史のロマンは我々の錯覚がもたらすものに他ならない。ちょうど遠くの山を見る時に近くの景色がそれを邪魔するように、遠きも近きも一緒に目に入ってしまう。遠くに美しく見える山でも、そこへ行ってみれば寂しい場所である場合が多いのだ。歴史を正確に受けとめると云うことは何と難しいことだと思ってしまう。
 又、反対に歴史の遺物を簡単に見過ごしてしまうことも多い。今は前面の壁しか残っていない聖ポール天主堂を眺めても、歴史の刹那を飾った遺跡にしか思えない。しかし、聖ポール天主堂は、1637年に完成し、1835年の消失まで約200年間その機能を果たしてきたはずである。200年と言う時の長さは現代から過去を振り替えればその長さが計り知れる。200年の間、どれだけの人々がこの天主堂で礼拝したのだろうか。現代の建築技術の粋を集めて造られた鉄筋コンクリートのビルは、火災による消失というアクシデントが無かったとしても、果たして200年間その姿を保てるのだろうか。はなはだ疑問である。
 今話題になっている三内丸山遺跡は1500年間人々が生活した跡だと云う。今から1500年前といえば、「倭の五王」の時代。大化の改新の150年前である。大化の改新を今の日本の国の始まりと考えれば、三内丸山遺跡では、日本ができてから現在まで以上の人々の生活の時が流れた事になる。
 遺跡となってしまった聖ポール天主堂を見ていると、歴史の儚さと共に、歴史の厚みを感じてしまうのである。

 

 6.モンテの砦

 聖ポール天主堂の右手には小高い山がある。モンテの砦である。急な坂を汗だくになりながら登り、門をくぐると大砲が有った。
 モンテの砦は1617年から九年かけてイエズス会信徒によって築かれた要塞である。1622年にオランダ艦隊が襲撃してきた時には現在でも残る22基の大砲で撃退したと云う。黒光りした大砲が海に向かってその砲門を開いてはいるが、今は近代的な高層ビルが建ち並び、海を臨むことはできない。1762年にイエズス会がポルトガル総督から追放されるまでの約150年間、砦として使われていたと云う。往時にはたくさんのイエズス会信徒が大砲を磨きながら東洋におけるカトリックの牙城を守っていたことだろう。
 イエズス会信徒と大砲。私はこの組み合わせに違和感を感じていた。宗教が世俗的権力、軍事力を行使するということは、世界史の中でも珍しいことではない。キリスト教では十字軍、レコンキスタなど異教徒に対する軍事力の行使は数多く有った。イスラム教ではジハード(聖戦)と称し異教徒の征服を行なっていた。日本でも比叡山の僧兵は一大軍事勢力であり宗教と軍事力の結びつきは歴史の中では日常茶飯事と云っても良い。
 しかし、目の前の大砲と宗教者は私の中ではどうしても結びつけることができなかった。僧衣をまとい、十字架を下げたイエズス会士達が、攻め寄せるオランダ軍の艦船に大砲の火蓋を切る様は、私にはフィクション映画の一コマとしか思えないのである。
 時代の背景から云えば、大砲が無ければマカオはプロテスタントや異教徒達にたちまち占領されてしまっていた、と云うことなのかも知れない。
 それでも・・・・・愛を説く宗教に大砲は似合わない。

 

 7.マカオの雑踏

 モンテの砦を降りて解散した。マカオの中心部はすぐ近くに有る。土産物屋の並ぶ道を市街地の方へ歩いていった。
 マカオは面積が約15.5平方km。半島部はその約3分の1。香港に比べればはるかに小さい。地図を見る限り、歩いて廻れるように思える。聖ポール天主堂から市の中心部であるセナド広場までは約300m。半島南部のペンニャ教会でも約1km、ガイドブックによると、セナド広場から歩いて15分である。私は地図の上でマカオの街を綿密に調べ、歩いて廻ろうと考えていた。
 しかし、一歩マカオの街に足を踏み入れると、状況はまるで変わってしまった。香港に比べ、道路が狭く、街は汚い。16世紀にできた街と、19世紀にできた街の違いだろうか。歴史有る街といえば聞こえは良いが、市街地の裏通りに入り込めばどこがどこだか分からなくなってしまう。
 写真で見るマカオの街や市政廳前セナド広場に続く通りは石畳の美しい広々とした街並に思えるけれども、そんな街並はいったいどこに有るのか、と思えてしまう。道路は斜めに交差し、角を幾度か曲がるうちに自分はどの方向に向かって歩いているのかさえも分からなくなってしまうのである。すぐ近くに有るはずのセナド広場さえどこに有るのか皆目検討が付かない。
 中国や香港の街並と比べて、いくらかヨーロッパ中世の香りがするけれども、やはりここは中国なのだと思う。マカオらしい人波と言えば、白いガウンを着た子供たちが歩いていた。カトリック系ミッションスクールの子供達だった。

 

 8.Restaurante「Bela Vista」

 マカオの雑踏に迷った私たちはお腹が空いてきたのに気がついた。既に時刻は12時を回っている。
「結城さん、どこかで食事にしましょう。」
と言うO氏の誘いも有ってレストランを捜した。
 せっかくマカオに来たのだから、美味しいポルトガル料理か、マカオ料理を食べたいと思っていたのだが、適当なレストランが見当たらない。案内の地図を見ればレストランが其処比処に有るように見えるがマカオの街は予想以上に雑然としてどこがどこだか分からない。レストランが見つからないいらだちとは対照的に「折角マカオに来たんだから。」と言う思いが益々強くなってきた。  
「折角だから良いところへ行くか。」
と、O氏、Hさんと共にタクシーに乗った。  
「去、峯景酒店。」(ホテル ベラ・ビスタへお願いします。)  
「ホテル・ベラ・ビスタ(峯景酒店)」は客室数がたったの八室という小さなホテルで、マカオでも有数の高級ホテルである。そして、そのメインダイニングが「レストラン ベラ・ビスタ」である。「ベラ・ビスタ」とはポルトガル語で「美しい眺め」を意味する。はたして予約なしで入れるのかどうか心配だったが、もし入れなければ、その先にはポウサダ・デ・サンチャゴ(聖地牙哥酒店)と云うもう一つの高級ホテルが有る。「折角だから」とタクシーを飛ばした。
 マカオの街は、セナド広場を中心に市街地は人も車も混んでいる。香港とそう変わらないが、マカオ政庁のあたりを過ぎると、そこから南は車もまばらになってくる。海岸通りを走る頃にはもう閑静なリゾート地である。左側に海を見ながら、しばらく行くと右に曲がり坂道を登っていった。ホテルは、やや高台に有るコロニアルな小さな建物だった。ちょっと大きな個人の邸宅と言ってもいいぐらいである。
 ホテルの前にタクシーが止まると、ホテルのドアボーイが寄ってきた。日本のホテルやアメリカンスタイルのホテルのドアボーイは厳めしい感じがする。私の身分が卑しいせいかも知れないが、
「ここはお前の来るところではない」
と言われそうな気がしてしまう。しかし、ここでは満面に笑みを浮かべタクシーの扉を開け、
「ようこそいらっしゃいませ」
と顔中に書いてあるかのようだった。ドアボーイは南方系の東洋人で、これ程気分良くホテルに迎え入れられたのは初めてだった。
 玄関を入ると階段を登り、中二階がロビーになっている。ロビーと言ってもわずか五坪程の踊り場に黒光りするテーブルが置いてあるだけだった。
 ロビーの奥がレストラン「ベラ・ビスタ」である。ドアボーイはここまで案内してくれた。受付の女性に名前を聞かれたが、予約はしていないと言うと、
「外が良いのか、中が良いのか」
と聞かれ、
「アウトサイド」
と言うと、外のテラスに案内された。白いストーンテーブルに座ると海が見える。しかし、海は干拓工事をしていてダンプやプラント施設が目に入ってしまう。昔は眺めが良かったのだろう。それでも雰囲気は十分だった。
 メニューはポルトガル語と英語が併記されている。前菜にはスモークサーモンを頼んだが、メインディッシュに何を頼んで良いのか分からない。給仕の女性にどれが美味しいのかたづねたが、にっこり笑って「I dont know」。なぜかおくゆかしさを感じた。それでもメニューを決めかねている我々をみて魚料理を指さしてくれた。出てきたのは「タラのトマトソース煮」だった。オリーブの実が散らしてありとても美味しい。上品な料理ではないけれども十分にポルトガル料理を味わった。
 天井には大きな羽根の扇風機が回っている。先程の暑さはどこかへ行ってしまったかのようだった。時刻はまだ1時を回ったところ。日は高く、暑いはずなのにどうしたことだろう。部屋の中から漏れてくるクーラーの冷気もいくらかは有るけれども、そればかりではない。自然の風が涼しいのだ。暑いマカオではこのような高台の涼しいところに邸宅やホテルを建てたのだろう。
 現代人は何かといえばすぐに文明の利器に頼ってしまう。暑ければ冷房。湿気が有れば除湿機、というように何でも機械を使おうとする。我が家のマンションでも寒くなればストーブを炊き、湿気が出れば除湿機、と自然に逆らいながら生活をしている。日本の木造住宅は湿気を逃がし、適度に通風するという自然に沿った機能を持っていた。そのような快適な生活を現代人は忘れているのではないだろうか。ホテル「ベラ・ビスタ」はマカオの自然条件の中で最も快適な場所に造られたホテルのように思われる。
 レストラン「ベラ・ビスタ」は自然の中の贅沢さを味わわせてくれた。

 

 9.水の旨さ

 「日本人は水と安全はタダだと思っている。」
とは良く言われる。私も、安全はタダだとは思っていないが、水はタダだと思っている一人である。最近はペットボトルのミネラルウォーターなるものが出回り、若い人を中心に人気を呼んでいる。ペットボトルのミネラルウォーターをこれ見よがしに飲んでいる若者の姿を見ると、
「なにを格好つけて、そんなものに金を使うな」
等と説教したくなるのは私が年をとったせいだろうか。
 ある造り醤油屋の主人に私は次のような事を言われた事が有る。  
「結城さん。醤油は今、スーパーのバーゲンでいくらで売られているか知ってますか。ミネラルウォーターと比べてみてください。大豆を熟成して金利を掛けて造った醤油が水よりも安いんですよ。こんな馬鹿なことがありますか。」
  なるほど、醤油が水よりも安く売られれば醤油屋にとって不名誉である。この醤油屋の主人も水はタダだと思っている一人なのだ。タダより安い醤油には我慢ができないらしい。
 マカオの天気は快晴ではないが晴れていて暑かった。昨日の香港も暑かったが今日程ではない。マカオは香港よりも南に位置するけれども、フェリーで1時間の距離。地理的に香港よりも暑いと言うことはないのだろうが今日は特別に暑い。カジノに入ることも考えて、長ズボンにネクタイをしてきたのが仇になった。聖ポール天主堂からモンテの砦に登るときには特に暑さが身にしみた。途中売店でミネラルウォーターを売っている。ペットボトルを持って歩いている人も見かける。水はタダという感覚を持っている私は
「ミネラルウォーターなど買うものか。喉が渇けば乾くほど、後で飲むビールが旨いさ。」
と自分に言い聞かせた。
 レストラン「ベラ・ビスタ」にたどり着き、とりあえずビールを頼んだ。
「Primeiro cerveja por favor」(先にビールを下さい。)
出てきたビールは香港のサン・ミゲル。缶ビールだけれども、冷えた細長いグラスに注いでくれる。ビアガーデンでジョッキでがぶ飲みする雰囲気ではないけれども、ビールを喉に流し込んだ。
「美味しい。」
暑い中を水を飲まずに我慢して良かったと思った。隣の席には欧米人が食事をしているが、ビールは飲まずにミネラルウォーターのペットボトルが置いてある。香港の人達もそうだったけれども、外国人は日本人のように昼間から酒を飲んだりしない。日本人ほど昼間から酒を飲む人はいないようだ。もう一本ビールを飲みたかったが、料理に合わせてワインをグラスで一杯飲んだ。先程かいた汗のせいでもっと水気がほしい。しかし、これからまた歩くことを思えば余り酔っ払うわけにはいかない。不本意ではあるがミネラルウォーターを頼んだ。ところが、この時飲んだ水は美味しかった。水の入ったペットボトルがワインのボトルのようにも思えたのだった。結局もう一本ミネラルウォーターを追加して3人で2本飲んでしまった。水は有料だということに生まれて始めて納得したのだった。
 しかし、日本に戻ってきた今、やはりミネラルウォーターなど買うのはばからしいと思っている私である。

 

 10.西望洋聖堂(ペンニャ教会)

 マカオの半島部にはいくつかの山(丘)がある。南部に有る山が西望洋山である。ペンニャ教会はその西望洋山の高台に建っている。
 ホテル・ベラ・ビスタを出た私たちは、ペンニャ教会に向かった。ホテルから教会はすぐ近くだけれど、急な坂が続いている。立派でも奇麗でもないけれど、石垣や石畳が昔の面影を感じさせてくれる。往時の跡なのだろう。歩いている人はほとんど無く、市街地の雑踏はここからは想像できない。先程飲んだビールとワインのおかげで足が重い。息を切らしながら教会の門にたどり着いた。ペンニャ教会は1622年にオランダ船から砲撃を受けて沈んだ客船から、マカオに漂着した船員や乗客によって建てられたと云う。現在の建物は1935年に再建されたものだ。
 門を入ると前庭が有り、聖堂の正面に出る。実物はガイドブックの写真で見るより大したことが無い、という経験は良くあるけれども、ここでもその観は否めない。ペンニャ教会にはローマとここにしか無い六角錐の鐘楼が有ると言う。鐘楼を仰ぎ、
「これが六角錐の鐘楼か」
と感動したつもりになっていた。実のところ鐘楼が四角なのか六角なのか見ても分からない。真上から見たり、鐘楼を輪切りにして見れば分かるのだろうけれども、六角錐と聞かされていたからそう思うだけなのだ。四角だろうと六角だろうと、どうでも良い事とと言えば良いことなのだ。旅の好奇心ここに極まれり、である。
 門の前には大型バスが一台止まっていた。案の定観光客の集団がいた。観光客は、香港か台湾か、あるいは中国の人達だった。皆教会をバックに写真を撮っている。日本人の写真好きは有名だが、中国人も写真好きらしい。欧米の人達はカメラを持ち歩いても、お互いの写真を撮り有ったりする姿を余り見たことが無い。東洋と西洋の文化の違いだろうかとも思う。
 聖堂の中は静寂な教会堂である。しかし、観光客があちらこちらで写真を撮り、はしゃいでは警備員に諫められていた。私はどうも教会の中で写真を撮る気にはなれない。私はキリスト教徒でも何でもないけれども、信者にとっては聖なる空間である。他人の奥座敷に土足で上がるような気がしてならない。
 聖堂は再建されて比較的新しく感じられたけれども、屋外の岩をくり抜いて造られた小さな礼拝堂に続く階段は古く、歴史を感じさせる。欄干は細工を施された物だったが、かなりくたびれている。少し手を加えれば良いのに、と思うけれども、この辺にポルトガルの衰退を感じてしまう。

 

 11.観音堂

 高台にあるペンニャ教会を出て坂道を下りてタクシーを拾った。半島の南端に位置するペンニャ教会より、北部にある観音堂までタクシーに乗ろうとした。観音堂。広東語では「クーンイムトン」と言う。運ちゃんに
「クーンイムトン」
と言ったけれども通じない。何度か言い直したが通じないので地図を指さした。運ちゃんは、「分かった」、と言う顔をして
「クーンイムトン」
と言う。私がもう一度
「クーンイムトン」
と言うと、
「違う、クーンイムトン」
だと言う。広東語は発音、抑揚がとても難しい。特にこの「観音堂」はとりわけ難しい発音のようだった。
 観音堂は名前から察すると仏教寺院のように思われる。しかし、行ってみるとそこは道教寺院だった。道教は他の宗教の神様もすべて受け入れてしまうというおおらかさ?が有る。観音と言う名称も仏教から来ているのだろうが、道教ではそんなことは一切お構いなしのようだ。  マカオの風景は土着の道教寺院と外来の強いカトリシズムとが混在している所にその特徴が有る。共に歴史が有り、取って付けたような物ではない重みが双方に有る。この時も観音堂で熱心にお参りする人達の姿が見られた。長い線香を何本も束ねて捧げ持ち、神像の前で数度お辞儀をして線香を捧げ、又次の神像の前でお辞儀をする。数カ所の神像を廻り、同じように線香を捧げていく。その熱心さは日本の神社参りの比ではなかった。このように神像の前で熱心に祈りを捧げる姿がフランシスコ・ザビエルの目には中国人が偶像崇拝教徒として写ったのだろう。

 

 12.国父(孫文)記念館

 マカオには国父記念館という孫文の記念館がある。孫文はマカオと隣合わせの広東省香山県(現在の中山市)に生まれ、ハワイに留学し、後に香港で医学を学び、1892年にマカオで開業した。しかし、評判が良すぎてポルトガルの医師達にねたまれ、数ヶ月で広州に移ったと言う。わずか数カ月間過ごしたマカオの住居が現在記念館になっている。
 孫文は共産中国、国民党政府ともに国父と仰ぐのにふさわしい人物である。ポルトガル領のマカオでも国父として記念館が保存されていてもおかしくはない。
 観音堂より南に15分位歩くと国父記念館がある。ムーア式の建物は古く、周りの風景には良く溶け込み、格別目立たない。それらしく思わせるのは「国父記念館」と書かれた額のみだった。中は良く整備され、黒光りする板張りの床に広い部屋が連なっている。革命家孫文の住居にしては贅沢な気もする。
 記念館の展示物と言えば、孫文の銅像、生前使っていた調度品、若干の写真と手紙などである。記念館と言うには展示物が貧弱だと思うけれども、中国から見れば外国の小さな領土あるマカオではこの程度の資料を集めるのが精一杯なのだろうと思って見ていた。しかし、全館を見学するうちに妙な事に気がついた。孫文の銅像の周りには何本もの晴天白日旗が並んでいる。そして孫文の写真と並んで、蒋介石、蒋経国、李登輝の写真が並んでいる。別室には台湾の風景写真が展示されている。五星紅旗や共産中国を思わせるものは一つもない。この記念館は国民党政府の宣伝に使われているようだった。1999年にマカオが中国に返還された後はこの記念館はどのようになるのだろうか。もし、返還後にマカオを訪れる機会が有ったならばこの記念館を再度見学してみたいと思う。
 しかし、この記念館がどうであれ、孫文の業績には何ら影響するものではない。孫文はハワイで欧米の教育を受け、当時の世界を東洋、西洋の価値観を超えて客観的視点で見ることが出来た数少ない人物ではないだろうか。アヘン戦争に負けた中国は主観的中華思想がその後の世界では通用しないことを悟ったはずである。しかし、洋務運動の中心人物である曾国藩でさえ道教の影響を捨て切れなかった事を考えれば、孫文が現れるまでは客観的な世界観を持つものは少なかっただろう。
 逆に日本は西洋を手本と、富国強兵につき進んでいった。西洋を手本とする余り、将来に渡っての客観的な視野に立つ人物がいなかったのかも知れない。あるいは、いたとしても尽く弾圧によりつぶされたのかも知れない。
 孫文は1895年に日本に亡命したのを皮切りに、革命運動期間の約3分の1にあたる10年間を日本で過ごしている。日本の知識人とも交わり、日本の事情にも精通していた。
 孫文の有名な日本での講演「大アジア主義」の一節は日本人にとって傾聴すべきものだった。
 『あなたがた日本民族は、欧米の覇道の文化を取り入れていると同時に、アジアの王道文化の本質ももっています。日本がこれからのち、世界の文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっているのです。』
 孫文のこの言葉を日本人は良く聞き、そして考えるべきだったとつくづく思うのである。そして、それは現代にも通じ、現代の日本人も良く考えるべきことと思う。

 

 13.聖ジョセフ修道院

 国父記念館を見学した後、タクシーで聖ジョセフ修道院に向かった。運ちゃんは場所が良く分からないようだった。セナド広場を過ぎ、石畳の坂道を上り詰め
「ここでいいんだろう」
と言うふうにタクシーは止まった。地元の人の間ではそれ程有名でもないらしい。観光客は何処にもいない。人通りもない。石畳が続き、最もポルトガルらしい(ポルトガルに行ったことはないので想像の域をでないけれども)雰囲気のある所のようだ。
 聖ジョセフ修道院は18世紀に作られたと云う。セナド広場に近い街中の修道院である。修道院と云えば、人里離れたイメージが有る。函館のトラピスト男子修道院、トラピスチヌ女子修道院などである。いまではセナド広場の雑踏の近くにあるけれども、200年前はもっと静かな中に建っていたのかもしれない。

 

 14.ザビエルとの対話

 マカオと云えばポルトガル。ポルトガルと云えば鉄砲伝来、キリスト教(カトリック)の伝来。そして、キリスト教の伝来と云えばフランシスコ・ザビエルである。何やら連想ゲームをしているようだが、私の頭の中ではマカオとザビエルは結びついてしまう。既述した通りザビエル自身にとってマカオは何の関係もない。そして彼はポルトガル人ではなくスペイン人である。(正確にいえばバスク人である。)頭の中の連想と云うものは事実とかけ離れてしまう事があるけれども、それらは全く根拠のないものでもない。日本で歴史の教育を受けた者の中には私と同じような連想をする者もいるだろうと思う。
 マカオには聖フランシスコ・ザビエル教会がある。上川島で病死したザビエルの遺骨の一部を日本が受け入れを拒否したため、一時この教会に保管されていたと云う。教会が有るのはコロアネ島の西端である。今回時間があれば訪れてみたかったが、マカオの中心部からは最も遠い所に有り、行けなかった。遠いと云っても、せいぜい10km位だけれども、格別ザビエルに興味のない連れを誘っていくには忍びなかった。
 歴史に登場する人物は沢山いる。偉人と云われる人も数多くいるが、歴史に名を残した人が必ずしも偉人とは限らない。「偉人」と云うのを国語辞典で引けば「偉い人」である。その篩いにかければ歴史に登場する大半の人達は「偉人」とは云えないように思える。中国の歴史で云えば秦の始皇帝や漢の武帝など歴史の重要人物ではあるけれども、はたして彼らが「偉い」のかどうか、議論の分かれるところだと思う。しかし、歴史上「偉人」は少ないながら存在するのも事実である。そして、その「偉人」の中に「聖人」と呼ばれる人達もいることは否めないだろう。フランシスコ・ザビエルもその一人ではないかと思う。
 私は常々歴史上の人達と会話をしてみたいと思っている。それが、秦の始皇帝であろうと、林則徐であろうと、思うことを徹底的に問い正してみたいのである。時を超えて話をすることは、常々時間を共有している人たちと話をしている自分にとっては全くの異次元体験だろう。かつて、友人と議論をした時に、
「徳川家康は普通選挙制をしかなかったから悪い奴だ」

という話を聞いた事があった。
「当時の価値観に普通選挙制などあるのか?」
と思ったけれども、
其の時代に生きている人の価値観はその時代の人でなければ真に理解できない。過去の人間と話が出来たらさぞ面白かろう。
 フランシスコ・ザビエルについては後にゆっくりと考えてみたい。

 

 15.だるまさんがころんだ

 ホテル リスボアに向かう途中学校が有った。日本で云えば小学校か中学校程度の学校なのだろう。わりと広いグラウンドでは子供たちがサッカーをしている。サッカーと云えば、ポルトガルはアトランタオリンピックでは大活躍だった。そんな影響も有ってマカオではサッカーが盛んなのかも知れない等と思いながら見ていた。校門の前では小さな子供たちが遊んでいる。何をしているのかと思えば、なんと彼らのしている遊びは「だるまさんがころんだ」だった。
  一人の子供が壁に顔を押しつけて何事か言っている。その間に他の子供たちはその子供に向かって近づいていく。昔遊んだ「だるまさんがころんだ」である。日本では「だるまさんがころんだ」をする子供たちの姿は見られなくなってしまった。素朴な遊びに興じる子供たちに何故か新鮮さを感じていた。
 しかし、「だるまさんがころんだ」と言うのは日本のオリジナルの遊びではないのだろうか。誰か日本人がマカオの子供たちに教えたのだろうか。それとも、その起源はもともと日本ではなくどこかから伝わったものなのだろうか。誰か「だるまさんがころんだ」の起源を知っている人がいたら教えてほしい。

 

 16.カジノ「ホテル リスボア」

  マカオは観光地である。歴史的観光資源にも恵まれ、リゾート環境も十分である。しかし、マカオを観光地としている要素の一つに「カジノ」がある。マカオでは何時からカジノが開かれているかは知らない。ギャンブルは世界中何処でもネガティブなイメージが有り規制されている。日本のパチンコはギャンブルの最たる物だと思うけれども、日本の伝統的大衆文化としておめこぼしされているのかも知れない。
 カジノと云えば真っ先に連想するのは、アメリカのラスベガスである。最近は当部のアトランティックシティーも有名だけれども、何と云ってもラスベガスが横綱である。ヨーロッパのモナコも有名だが、日本人がカジノに行くとなると、ちょっと遠い。やはり日本人が行くのはラスベガスかソウル、マカオと言うことになるのだろう。
 聖ポール天主堂で分かれた仲間の中には、折角マカオに来たのだからと早々とカジノに向かったグループもいたが、我々は一通りマカオを歩いた後、カジノ「ホテル・リスボア」に向かった。マカオの中心街、アルメイダ・リベイロ通りの東端に有るホテル・リスボアは、屋根の上に千成瓢箪のような飾りの有る、けばけばしい建物だった。
 私は7年前にラスベガスに行ったことが有る。カジノと言えばそのイメージが有ったので、期待してリスボアの扉を開けた。荷物預かり所が有りそこで大きな荷物を預ける。「ネクタイ着用」の表示は有るけれども誰もネクタイなどしていない。さすがに半ズボンで入ろうとした人は注意されていた。カジノに入ると人々のざわめきが耳に入る。壁にはスロットマシンが並び、「バカラ」や「大小」をする人たちが台を囲んでいる。ルーレットの台を捜したけれども見つからない。マカオではルーレットは余りスタンダードではないらしい。「バカラ」や「大小」はルールが良く分からないので、スロットマシンで勝負した。スロットマシンはラスベガスでもしたけれども結局負けてしまう。一時は勝つけれども、引き時が読み切れない。パチンコと同じである。マカオのスロットマシンは2ドルの香港ドル硬貨を使い、勝てばそのまま現金が出てくる。百ドルを換金し、一時は300ドルまで勝ったが、Hさんを待つ間に結局負けてしまった。
 マカオのカジノはそれ程面白くなかった。ルーレットが無かったせいもあるが、雰囲気がラスベガスとは全然違うのである。ラスベガスはネクタイとスーツが良く似合い、勝っても負けてもリッチな気分になれる。目の前にチップを高く積み上げ、飲物を持ってきてくれた女性にチップを渡す気分は最高だった。しかし、マカオではそんな気分はとても味わえそうもないのである。ギャンブル台を囲む人たちは殺気立っている。とても間に割って入る気にはなれない。ラスベガスでは紳士そのもののギャンブルを主催するディーラーの中には大声を出す者もいる。ここは「カジノ」ではなく「博打場」なのだ。土曜、日曜は香港の人達が押し寄せもっと喧噪な雰囲気になるという。
 「カジノ」というのは東洋人には向かない社交文化なのかも知れない。

 

 17.日本円が通じない

 最近海外旅行、特にアジアを旅行するときには余り外貨を準備しなくなった。一昔前は、海外旅行と言えば外貨である米ドルを用意したものだった。盗難に備えてドル建てのトラベラーズチェックを用意し、日本円は国内交通費用に少し持つ程度だった。12年前にヨーロッパを旅行したときは、円も持っていったが、現地での交換レートは米ドルに比べてはるかに悪かったのを覚えている。最近は何処でも円が通用し中国や東南アジアの旅行客相手の店では直接円が通用し、お釣りを現地の貨幣でくれる場合が少なくない。場所によっては円の硬貨さえ通用するところが有る。それもこれも日本の経済力のおかげかもしれない。
 マカオの街を一緒に巡ったO氏が、お土産にポートワインを買いたいと言い出した。O氏は造り酒屋の主人。酒の専門家である。ポートワインについて一通りうんちくを聞いた後、案内書を頼りに専門店に入った。とても奇麗なお店で、私は値打ちが良く分からないが、ポートワインのビンテージ物が並んでいる。酒に詳しいO氏はあれやこれやと選品し、3本選んだ。しめて数百ドルだった。O氏は米ドル建てのトラベラーズチェックで払おうとしたが拒絶された。マカオのような観光地で、それも外国人が出入りしそうな店でトラベラーズチェックが使えないとは思いもよらなかった。私も、一緒にいたHさんも香港ドルの持合せが無く、日本円で払うことになった。しかし、現金の日本円でも扱わないと言う。現金であれば日本円は通じるだろうと思っていたが、その期待は破られた。両替所は何処か、と聞くと、ホテル・リスボアに有ると言う。しかたなくO氏はホテル・リスボアで両替して目当てのポートワインを手に入れたのだった。
 マカオから香港に戻るときにフェリーポートの免税店で、私はマカオのTシャツを買おうとした。カジノで負けた私は香港ドルが少しかなく、日本円で払おうとした。しかし、ここでも日本円は拒絶された。免税店でまで日本円が拒絶されるとは思わなかった。
 何故マカオでは日本円が通じなかったのだろう。日本円を換金する手段が無い訳ではないし、それ程日本円の信用が無いとも思えない。しかし、何故マカオで日本円が通じないのかと疑問を投げかける前に、どこでも日本円が通じるだろうと云う考えがおこがましいとと考えるべきかも知れない。マカオには本来パタカという通貨があるが、1パタカ=1香港ドルで通用している。現地の人はパタカよりも香港ドルの方が有り難がるとも聞く。しかし、マカオはマカオであり香港は香港である。日本円の強さはどういう意味を持っているのかをもう一度考えてみる必要が有るように思える。

 

 18.ポルトガル人がいないポルトガル領

 私にとってマカオはポルトガルのイメージが強かった。日本に一番近い西洋は、と聞かれればウラジオストクかマカオと私は思っていた。ウラジオストクは中国系や朝鮮系、土着の東洋系の民族がいるけれども白系ロシア人が主流である。(まだ行ったことが無いので想像の域を出ないけれども)マカオもポルトガル人が主流とは言わないまでも、相当数のポルトガル人がいるものと思っていた。しかし、マカオに滞在する間ポルトガル人と思われる人は数人しか会わなかった。入国審査をはじめ、官憲は全て中国系。ペンニャ教会や聖ジョゼフ修道院に掲示してあった神父の写真も中国系だった。ホテル・ベラ・ビスタでも支配人と思われる人以外は中国系か南方系の人達だった。
 折角マカオに行くからと、公用語であるポルトガル語も少しは覚えていったがほとんど使う機会がなかった。レストラン・ベラ・ビスタでポルトガル語で注文したが、南方系のウェイターは英語で答えてきた。タクシーの中の約款は広東語にポルトガル語と英語が併記されている。ポルトガル語の約款を指さして、運転手に
「あなたはこれが分かりますか。」
と質問した。運転手は肩をすくめて
「分からないよ。」
 マカオにおけるポルトガルの影と云えば、通りの名前を示すポルトガル語の陶板ぐらいだった。
 マカオはポルトガルの植民地である。植民地というのはそんなものかも知れない。19世紀から20世紀にかけて大英帝国は世界を席巻した。アフリカしかり、中東しかり、南アジアしかりである。しかし、いくら大英帝国がこれらの地域を支配したとしても、人口的には英国人は極わずかであり、支配される人達のほうが圧倒的に多かっただろう。極小数の人間が多数の人間を支配していたのが植民地である。マカオを見て植民地という意味が良く分かった。そのような植民地ならば、やはり元の持ち主に返されて然るべき、と思う。ただし、今のマカオと中国のギャップを考えればマカオの住民が可哀想、という気もするけれども・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・。

 

 旅の終わりに

 1996年10月4日、仙台空港から3泊4日の香港の旅に出かけた。実質わずか2日半の旅だったが、とても楽しく有効な研修旅行だった。最近は3泊程度で海外旅行ができるようになった。若い女性が気軽に海外旅行を楽しむ時代になった。我々が子供の時は、海外旅行等、夢の又夢だった。子供だったからではない。当時は未だ円は安く(1ドル=360円)外貨の持ち出し規正もあり、観光に海外に行くことなど庶民には程遠かった。私が小学校の時、父が初めてヨーロッパに旅したことがあった。子供心に「たいしたものだ」と思っていたが、父はそのための手続きや金策に相当苦労したことを後で知った。
 今日こうして海外に旅行できることは大変有りがたいことだと思う。それだけに旅行は見の有るものにしたいと思っている。そういう意味では今回の旅行は、私だけでなく青年会員全員にとって大変意義の有る、印象に残った旅ではなかったかと思う。短い旅だったけれども、全て手作りの旅となったことは大きな意味が有る。旅行社に連れ回されるだけの旅行ではなく、全て自分で考え、自分の足で歩いた旅だった。その陰には山形松坂屋のS社長、青年会員であるY君の御尽力が有ったことも幸いだった。深く感謝したい。
 旅行は初めて、香港は初めてと言う人も多くいたけれども、皆国内を旅行するのと同じように海外を香港を見つめられたと思う。観光バスに乗って観光地を回りおみやげだけが残る旅とは違ったはずである。本文中に記した様に、私にとっては残念なことも有ったけれども、それはそれで話のタネになってくれれば、この旅の意味は十分である。
 今後、益々海外との結びつきや旅行が増える中で、七日町商店街青年会が少しでも海外が身近になってくれれば良いと思う。古い頭の人間には、「海外旅行=遊び」としか映らない人達もいる。しかし、外国はもう既に身近にあり、商売にも直結している時代である。青年会のみならず、商店街の人間全てが、いち早く日本と外国の壁を取り払ってもらいたいものと思う。

・ ・ ・ お わ り ・ ・ ・

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