はしがき       
 平成7年9月22日より9月29日までの8日間、北京、敦煌、西安、上海を訪れる機会に恵まれた。中国は 戦後27年間日本とは国交が無く、また国家体制の違いから日本の観光客に門戸を閉ざしていたが1972年の日 中国交正常化以来その門戸が解放された。改革開放路線により観光客の受け入れ体制も日に日に充実し、安心して日 本人が旅行できるようになった。
 中国は歴史的に日本の文化形成の先生としての役を担ってきたが、明治維新以来の不幸な両国関係は長い日中の歴 史の中で汚点と言わざるを得ない。
 日本の文化と密接な関わりを持つ中国を旅行するのは、他の諸外国を旅行するのとは違った感慨が有る。漢字や仏 教、儒教、道教から食文化まで日本の源流と言われるものがそこには有る。この度、本覚寺H住職の御尽力によ り山形空港よりチャーター便にて中国を旅することができた。北京の紫禁城、萬里の長城、敦煌の莫高窟、西安の兵 馬俑坑そして上海の街を見学し、日本と中国の結びつきの深さを改めて考えさせられ、中国の躍動を肌で感じること ができた。中国と云う広い国を見るには8日間という短い期間だったけれども考えさせられることはいろいろと有り、 手前味噌な紀行文を書き留めた。
 最後に、すばらしい旅行を企画していただいた本覚寺住職H氏並びにいっしょに旅していただいた方々に 御礼申し上げます。

  1..中国国際航空CH1092
 
海外への旅は、空港から始まる。海に囲まれた島国の日本を離れ外国に渡るには、海路か空路によるしかない。船 に乗り港を離れ、色とりどりのテープで見送られる風景は遠い過去の物となってしまった。今はほとんどの場合、空 港から飛行機で海外に出ることになる。船で渡れるのは余程の暇人か、もしくは余程の金持ちの道楽事になってしま った。空港も昔は羽田空港など極限られた空港からの渡航だったが、今は仙台をはじめとして国際空港の数も増え地 方にとっては便利な時代になったものだ。今回の中国への旅は、我が山形空港からの出発だった。国際空港ではない 山形空港からはチヤーター便という形式になるが山形の人間にとっては至極有りがたい。成田空港からでは空港まで 半日、帰りにまた半日とられてしまう。時間的なロスもさることながら往きも帰りも疲れてしまい旅の楽しみも半減 してしまう。
 さて、今回のチャーター便は、中国国際航空CH1092便。中国の飛行機と云うと、どうも印象が悪い。飛行機 はツポレフやイリューシンと云ったロシアの旧式の飛行機を連想してしまう。
「型式が古いんじゃないか」
「整備はき ちんとされているのか。」
という思いにさいなまれ、
「中国の飛行機で大丈夫か」
と不安を覚えたのは私だけではなか ったようだ。しかし、今回の旅を通じて中国の飛行機に対する印象はかなり改善された。CH1092便の機種はボ ーイングB737型機。以前から良く聞かれた「中国民航」と云う名称は最後まで聞かなかった。「中国国際航空」 の他、「中国西北航空」「中国北方航空」「中国南西航空」「四川航空」等々、中国にも相当数の航空会社が有るらしい。 おそらくは国鉄が分割民営化されたように中国民航が分社化されたのだろう。その目的は、云わずと知れた「社会主 義市場経済の導入」である。社名だけではなく使用されている飛行機も新型機ばかりだった。我々が乗った飛行機は ボーイングB737型機、ブリティッシュエアロスペースBAe146型機、エアバスA300−600型機。その 他にもダグラスDC−10型機、ボーイングB747型機等、中古機と云う噂もあるが、いわゆる西側の新鋭機ばか りである。ロシアのイリューシンИЛ62M型機も何度か見かけたがそれ以上古い飛行機は現役をしりぞいているら しい。それでも「整備は大丈夫か」と云う不安は残ったものの、中国の航空会社については近代化が着実に進んでい るらしい事は感じさせられた。

  2.上海到着

 山形空港を離陸して約3時間で上海上空に着いた。日本時間午後6時半、中国とは時差が1時間あるので現地時間 午後5時半。どんよりとした雲がかかり、もう薄暗くなっている。窓から長江の河口が見える。眼下に農村や工場が 見える。矩形に仕切られた田圃に運河が縦横に走り、所々に一戸建て住宅、工場、集合住宅、プールの有る学校、高 速道路が見える。一見豊かそうで日本とは変わらない風景だが、高度を落して近づいてくると雰囲気が何かおかしい。 住宅や建物の窓から灯かりが漏れてこない。工場からはいくつか光が見えるが住宅はまるで人が住んでいないかのよ うにひっそりとしている。上海空港にトランジットの為着陸。ここでもターミナルビルは雰囲気が暗い。ターミナル へ乗客を運ぶバスも車内灯が消されている。人口の多い国だけに節電には相当に気を使っているのかも知れない。

  3.萬里の長城

 北京より北へ約2時間、バスを走らせると萬里の長城「八達嶺」に着く。萬里の長城は全長6000キロメートル 余り。長城を見学すると云っても僅かにその「点」を見るにしかすぎない。
 平野部を過ぎ、山路を走っていくと長城が見えてきた。
「見えた。見えた。」
と、思いきや。見えたのは目的の「八 達嶺」ではなく、その手前に有る漢の時代の長城だった。漢代の長城も立派なもので修復工事の甲斐も有り漢の時代 の中国の国力を感じさせるに足る物だった。さらに山路を走ると「八達嶺」が見えてきた。しかし、観光客のバスや タクシーが多く、中々近づけない。ようやく駐車場に入り、歩いて長城の入口まで。風が強く帽子が飛ばされそうだ。 長城の入口を入ると当然のことながら左右に長城が広がっている。右側は比較的緩やかな坂で登り易く、大半の人が そちらを登っていく。左側は急な坂が続き余り人が登らない。私は自称「若い者」の先陣をきって左の坂を登った。 途中ほぼ直角とも言えるような階段を登り見張り台、狼煙台に着いた。見張り台からの眺めは絶景である。北を望め ば遠くに湖が見える。昔人は遥か北方から攻め寄せる夷狄に対してここで監視を怠らなかったのだろう。左右には遥 か遠くまで長城が続いている。我々が登ったのとは反対側の坂には蟻の行列のように人が登っている。後で聞くと、 右側の坂は入場制限をしていたという。左側の坂を登り正解であった。
 
私が初めて「萬里の長城」を知ったのは小学校の三年生位だったと思う。
「萬里の長城は月からも見えるんだよ。」
と教えられて、
「へーえ、大した物だな。」
と思ったものだが、実は「萬里 のちょうじょう」は「萬里の長城」ではなく「萬里の頂上」だと思っていた。それが何なのかは分からないが、とて つもなく大きな物という意識しか無かった。「萬里のちょうじょう」が「萬里の長城」であると知ったのはずっと後の事だったと思う。これは私の無知のせいでしかないが、あえて反論させてもらえば、これは私の無知のせいとばかりは言えない。そもそも日本には「長城」(長い城)という概念はないのだ。日本で言う「城」とは「殿様」を守る もので「砦」を意味する。戦になれば両軍「城」の攻め合い。すなわち「殿様」どうしの戦いである。とばっちりを 受ける市民や農民は多くいたけれども抵抗しない市民や農民が殺戮の直接の対象になることはほとんどなかった。し かし、中国での戦は民族どうし、または都市間の争いとなって都市や民族の総力戦となり、城は町を囲う城壁を持ち、 長城と云うものが必然的にできたのだろう。萬里の長城の上に立つ時、中国の昔人がどれほど異民族に対し畏怖の念 を抱いたのかがよく伝わってくる。
 日本にも長城に類するものがまったくなかったのかと云えばそうではない。日本にも異民族に対する長城と云える ものは有った。太宰府の水城と博多湾の防塁である。
 水城は664年白村江の戦いで新羅に破れた天智天皇が作ったもので、太宰府の北側に全長1.2km、高さ約13m、基底部幅約80mの長大な防塁だ。博多湾に上陸した新羅軍の南進を阻むためのもので異民族に対する長城といえる。
 博多湾の防塁は元寇防塁と呼ばれ、今津から香椎までの約20kmの砂丘の上に構築されている。上底2m、下底3m、 高さ3mの防塁で1267年の春から秋にかけて短期間で造られた、いわば長城である。異民族との攻防に慣れていない日本ではこの程度が限度だったのだろう。現代も日本は異民族との(政治的、経済的)攻防に慣れていないのは 変わっていないようだ。
 幼少の私が「萬里の長城」を理解できなかった事を正当化しようとは思わないが、少なくとも「萬里の長城」とは 日本人の常識をはるかに超えたものであることは確かだった。

    4.長城の落書き

 名所旧跡に落書きはつきものである。我が山形城の城門も白木で再建されたが、たちまち落書きの標的にされたこ とは記憶に新しい。萬里の長城は焼いた煉瓦で作られているので自然石よりは柔らかく傷つけ易いらしい。長城に登 るやいなや、両側の壁には一面に彫られた落書きが目に飛び込んでくる。落書きと云っても日本のような「愛々傘」 や「バカ、アホ、マヌケ」の類ではなく、ほとんどが人の名前である。『○○省○○○○』や『××市××××』と 云ったような、言わば登城記念に書いていった物なのだろう。世界的遺産とも云える文化財に落書きを、まして消え ないような彫りものをするとはけしからん、とは思うけれども、翻って考えれば、後世に自分の名を残したいと思う のは今も昔も変わらない人の気持ちである。秦の始皇帝や漢の武帝、隋の煬帝と云った時の権力者が行なってきたこ との動機は長城に落書きすることとそう変わりはしない。長城の落書きを見て「けしからん」と思っている私は始皇 帝や武帝、煬帝のような偉い人?にはなれないのだろう。

   5.李自成の像

 北京飯店から北へ向かい郊外に出る手前のロータリーに馬に股がった青年の像が建っていた。ガイドの王さんが
「あれは李自成の像です。」
と説明してくれた。
「はて、李自成って誰だっけ。」
と一瞬思った。確か歴史で習った名前では有るけれども。何時の時代の誰なのかは浮かんでこない。だいたい中国には李姓を名のる人が多過ぎる。今回の旅でも敦煌のガイドさんも李さんなら、西安のガイドさんも李さんだった。中国では石を投げれば李さんに当たる のではと思えるほどである。歴史上の李さんを揚げれば、李広利、李淵、李自珍、李元昊、李世民、李白、李鴻章等々。 揚げればきりがない。これらの李さんがいつの時代の誰なのかを即座に云える人はよほどの中国通である。
 さて、李自成とは農民を率いて、腐敗した明朝を倒した英雄である。1606年に陝西省米脂に生まれ羊の牧童を していたが、反乱軍に加わり1644年西安で「闖王」を称え国号を「大順」とした。同年北京を開城し毅宗崇禎帝 を自殺せしめ、明朝を滅ぼし自ら帝位につくが、わずか一年で呉三桂の誘いを受けた清軍に追われて滅ぼされる。享年三十九歳である。最後は九宮山という小さな村に逃げ、食料を求めて山中をさまよっていたときに農民に殺された と言う。天下を手中にしながら追手に追われ農民に殺される、と言う運命は明智光秀を彷彿 とさせる。      
 中国の革命は農民の反乱がきっかけとなっている場合が多い。秦を倒し漢を興した劉邦も農民出身。後漢滅亡の引 き金となった黄巾の乱も農民の反乱である。以来幾多の農民の反乱が直接、間接の革命のきっかけになってきた。そ して、今日の中華人民共和国の成立も農民の力におうところが大 きい。
 歴史上の人物の像はどこの国でも見られるけれども、中国では余り見られない。毛沢東の像もいくつかの大学の構内には見られたがロシアのレーニン像のような運命をたどっているらしい。李自成は中国四千年の歴史から見ればそ れほどの功績とも思えない。なぜ李自成の像が他の歴史上の人物 をさておいて建てられているのか。それはやはり農民の代表、権力に立ち向かう庶民の味方と評価されているのだろ う。李自成は酒色を好まず、精白しない玄米や粗末な食べ物をとり、部下と甘苦を共にした、とも伝えられている。 個人の権力を極端に嫌う共産主義も手伝って李自成は庶民の英雄としてその像を北京に残している。李自成自身の本 意がどうであったかは分からないが三十九歳で果てた彼にとっては本望かも知れない。
 ところで、私も今年三十九歳。李自成に比べれば、なんとのんびりした人生を送っていることか。

    6.四川料理  

   二日目の昼は四川飯店にて四川料理を味わった。四川飯店は飯店とは言うもののホテルではなく文字通りレストラ ンである。昔の皇族の別荘を改造した建物はいかにも中国的。中庭に面した個室に通され丸テーブルに付く。既に五 種類の前菜が並べられている。料理はいずれも辛くておいしい。激辛と云う程ではないが、何を食べても辛い。ただ し、途中で口直しのために甘いものが出される。これもおいしく沢山食べる為の工夫なのだろう。
 日本で中華料理と云えば餃子もラーメンも麻婆豆腐も一色単にしてしまうが、広い中国ではさまざまな料理が有る ことがよくわかる。四川料理は辛く、日本で云う中華料理のイメージに最も近いかも知れない。上海料理は甘く砂糖 を使っている。北京料理もそれ程辛いものはない。日本の中華料理店のようにラー油や豆辨醤がテーブルに並べられ ていると云うことは余りない。
 ビールと紹興酒を飲み、話をしながらゆっくりと食事をする。これが中華料理の醍醐味である。中華料理は一人で 味わうものではない。これだけの料理を一人分で出してもらったら作るほうも効率が悪いし、食べるほうも大変だ。 味もさることながら中華料理はコミュニケーションをはかる場として発達してきたのだろう。
 旅行社に一言。こんなすばらしい料理を1時間たらずで食べさせようと言うのは、なんとももったいない。せめて 2時間は必要だ。
      

   7.紫禁城

 北京は戦国時代や五代十国時代にそれぞれ燕や遼の都となり、その後、金の「中都」となったことは有るけれども、 統一中国の国都となったのは1271年元の都「大都」となってからだ。明の太祖が都を金陵(南京)に置いたのを 成祖永楽帝が1406年に自分の勢力範囲である北京に都を移しその時に紫禁城が造営された。その後1924年に ラストエンペラー溥義が去るまでの間紫禁城は明、清の王宮として使われてきた。紫禁城といえば映画「ラストエン ペラー」で太和殿の前庭で数千人の家臣が幼い皇帝にひざまづくシーンが連想される。紫禁城は近世中国の権力の象 徴ともなっている。
 その紫禁城は東西約750m、南北約1km、周囲は高さ10mの城壁に囲まれ、幅52mの堀を巡らせている。 建築物700余、部屋数が99999有ると言う。ゆっくり見たら一日かかるコースだけれど、我々は南の午門よ り入り太和門をくぐり太和殿、保和殿、乾清宮を見て真っ直ぐ北門である神武門から抜けた。その広さと大きさには 中華帝国の壮大さが感じられる。しかし、一方で何かもの寂しさが感じられる。城壁に囲まれ、樹木が生えていない 広場。太和殿の寒々とした雰囲気の中にある玉座。皇帝の寝室など。自分がもし皇帝でここに住んでいたならばと考 えると、決して羨ましいと言う気はしない。社会とは隔絶した中で宦官や後宮の美女達に傅かれるが友達もなく暮ら さなければならない。皇帝などという職業はなんと寂しいものだろう。

   8.天安門広場

 紫禁城の最も南に有る門が天安門である。北京随一の大通り、東長安街を挟んで天安門広場が広がっている。天安門に向い、右に革命博物館、左には人民大会堂がある。天安門広場と云えば1989年の「天安門事件」が思い出さ れる。「天安門事件」は私にとってはなんとも不可解な事件に思われた。改革開放をすすめるテン・シァオピンが民 主化を求める学生、労働者を押さえつけるといった図式である。自ら放流した川の水の流れが速すぎると云って自ら 塞き止めたようなものである。この事に関し詳述は後にゆずるとして、歴史の舞台である「天安門」に立った感慨は またひとしおであった。世界一広いと云われる広場を前にして天安門の上に立ち1949年に中華人民共和国の成立 を宣言した毛沢東の思いはいかばかりか。その後も文化大革命をはじめとして事有るごとに数十万人もの群集を目の 前にして天安門の上に立った中国の為政者の気持ちはいかばかりだったろう。自分の一挙一動、一言一言に数十万の 大群集が歓声を揚げる。まさに異様な光景ではないか。中国の為政者が「世界を動かせる」と確信したとしても不思 議はない。大きな自信が大きな過ちに結びつかなければ良いと思う。小さな自信しか持てない首相のいる国の方がま だ幸せかも知れない。

    9.輪タクとの交渉

 広い天安門広場を一巡りした後、天壇公園に行く事になった。地図で見ればそれ程遠くには思えない。せっかく中国に来たのだから風情有る輪タクに乗ろうと輪タクを探した。A君とH兄弟、私と合わせて4人。輪タクは乗 客が2人乗れるので2台頼まなければならない。輪タクは外国人に対しては法外な料金をふっかけると云うので料金 の交渉ははっきりとしなければならない。しかし、相場がどのくらいか分からないのでやりずらい。1台の輪タクを つかまえて交渉した。車夫は50歳位のオジサン。
「我想去天壇公園。両个人坐。一共多小銭。」 (天壇公園まで行きたい。二人で乗って全部でいくらか?)
天壇公園と聞いて一瞬とまどったようすだったが、
「20元!」
20元と聞いて私はびっくりしてしまった。後で考えれば20元は日本円で240円余り。相場より高いか安いかは 別として大した金額ではない。それも割り勘だとすると1人120円。しかし、中国の「元」に慣れてくると20元 は相当の金額に思えてくる。ふっかけられているかもしれないと云う思いも手伝って
「不要」(いらないよ)
タクシーにしようとタクシーを捜していると、輪タクのオジサンは我々が4人なのを見て取り、仲間の輪タクを1台 連れてやってきた。さかんに身振り手振りで「乗れ」と云っている。
「太貴、少算一点」(高いよ、すこしまけろ)
困った顔をしながらも15元にするから乗れと云う。相場は分からなかったが私は10元位と踏んでいたので 
「太貴、太貴」
オジサンはさらに熱弁を振るう。その時は分からなかったが後で思えば
「天壇公園は遠いんだ。15元で行く奴はいないよ。」
と云うようなことを言っていたらしい。
 結局、輪タクに乗らずにタクシーで行った。行ってみると地図で見るよりも天壇公園ははるかに遠い。あんなオジサンにこんな遠くまで輪タクをこがせようとした私が悪かった。オジサンごめんなさい。
 それにしても北京は地図で見るよりもはるかに広い。実感だった。

   10.タクシー料金

 輪タクをあきらめた我々はタクシーを拾うことにした。タクシーといっても油断はできない。物騒なニューヨーク でもタクシーだけは安心して乗れるけれども北京ではそうはいかない。
 赤いセダンタクシーを拾った。北京には4人乗りのセダンタクシー、3人乗りのシャレードタクシー、庶民の足の面包タクシーがある。運ちゃんは若くて人が悪そうではないが信用するわけにはいかない。私が助手席に乗り3人が 後ろに乗った。わざと遠回りすることも有ると言うので地図を見ながら乗っていた。メーターが動いていないのに気 がつく。騙そうとしているのではないかと思い、策を弄する。天壇公園に着くやいなや少なめに料金を出した。10元。 運ちゃんは怒り出した。30元だと言う。観光案内書に書いてある料金よりは高い。地図を見せて、そんなに走って いないと抗議すると、メーターの電源を入れて距離を表示し、ジグザグに走っているから距離は走っていると言う。 メーターを指差し、
「今頃メーターを入れて何だ。」
と日本語で言うと、相手も中国語で何事か言い返してきた。その 時後ろから
「結城さん、いいですよ30元有りますから。」
とA君が30元差し出した。運ちゃんはそれを受け取り 我々は、車を降りた。
 30元が妥当な金額であったかどうかは分からない。妥当な金額だったとすると、よほどケチな日本人と思われた だろう。ふっかけられたとすれば、300円位の事とは言えおもしろくない。事の真相は全く分からないが、どちら にしてもお互い不快な思いをした。しかし、私が悪いのではない。安心して利用できないようなタクシーを走らせて いる中国政府が悪いのだ。
 後でガイドの王さんに天安門広場から天壇公園まで30元であったことを話した。
 「少し高いかもしれません・・・・。」         

   11.天壇公園

 タクシーを降り、不愉快な気分で天壇公園に入る。ここでは入場料がとられる。入場券売り場には「中国人0.5 元 、外国人30元」とある。外国人の入場料は中国人の実に60倍である。100円と6000円の違いだ。なん と極端な二重価格であることか。H君がすたすたと窓口に行き1元出したが、30元と言われて戻ってきた。当然のことだが「やっぱり30元か」と思い、4人分120元を持って窓口に行き、
「四个人」(4人分)
と言うと、今度は2元で良いと言って120元を返された。あらためて2元出して4人分。私の下手な中国語が通じ たらしい。その後中国語で何か言われたが、
「我不明白」(わかりません)
急いで入場する。
「120元もうかったね。」
先程のタクシーでいくらぼられていたとしても中国政府を許す気になっ た。窓口のオバサンは北京語のよく話せない地方の少数民族とでも思ったのだろう。
 120元儲かって気をよくし て公園に入ったが、世の中は良いことばかりが続くものではない。 
 天壇公園のシンボルである祈念殿を捜した。 祈念殿は三層の丸い建物で、高さ38m、直径32.7m、1420年に明の永楽帝によって造られた。明、清 の皇帝が五穀の豊穣を天に祈ったという場所である。祈念殿の瑠璃色に輝く丸い屋根が見えるので近づいていくと壁 に囲われている。壁をつたって入り口らしい所に行ったが、雰囲気がおかしい。入ろうとすると止められ何事か言わ れた。何を言っているのか分からないが入れないらしい。別に入場券が必要なのかとも思ったが、入場券売り場らし い所には人もいない。諦めてその場を離れ、時計を見ると5時20分。おそらく5時で閉館したのだろうと言うこと になった。遠くから壁ごしに祈念殿の屋根先だけを眺めて帰ることにした。

   12.崇文区磁器口北街市場

 夕食は6時半なので歩いてぶらぶらとホテルのほうへ向かった。途中大通りから胡同に入る。胡同というのは日本 の路地、裏通りにあたり、庶民が暮らしている昔からの町並である。経済発展を象徴するようなにぎやかな大通りと は対照的に静かな雰囲気だ。煉瓦造りで崩れかかっているような家も有り、日本の感覚で言えば、本当に人が住んで いるのかとも思ってしまう。余り人は通らないが仕事が終わった人たちが時折自転車で走っている。T字路にいくつ も突き当たりながら歩いていくと、市場の通りに出た。狭い通りの両側にぎっしりと出店がたっている。生け簀に魚 を入れた魚屋さん。大きな肉をぶら下げている肉屋さん。揚げたて、焼きたてのパンを売るパン屋さん。八百屋さん、 たばこ屋さん、等々。一昔前のアメ横のように生活品が売られている。しかし、やはり日本人から見ればとてもきた ない。公衆便所も有り、そのすぐ前でぶらさげた肉を切っている肉屋さんもいる。中国の公衆便所は水洗 ではなく、その匂いが回りに漂っている。日本人にはとても買い物をする気にはなれない。日本人などが足を踏み入 れる所ではなく中国人の庶民の場なのだ。我々が歩いていても場違いな感じがして時々視線を感じるようなことも有った。彼ら庶民の生活の場を面白半分覗き見するのは良くないかも知れない。

   13.食パン(面包)タクシー

 前述したように、北京のタクシーには、セダンタクシー、シャレードタクシー、面包タクシーが有る。面包タクシ ーは黄色のワンボックスのタクシーで料金も安く、庶民の足として利用されている。面包とは食パンの事で、形が似 ていることからそう呼ばれている。
 市場を出て大通りに出た私たちはタクシーでホテルに帰ることにした。バス亭のそばにはタクシー乗場が有る。待 っているとシャレードタクシーが止まったがシャレードタクシーは3人乗り。みんな乗れないのでキャンセル。セダ ンタクシーはなかなか止まってくれない。面包タクシーが止まったので、物は試しと乗ることにした。
 まず料金の 交渉である。メモに、
「北京飯店 四个人坐 多少銭」(北京飯店まで、4人、いくらですか。)
「20元」
来るときに天壇公園まではセダンタクシーで30元。そんな物だろうと思い。乗り込んだ。乗り込むと簡易ベンチの 様な座席が二列並んでいる。シー トが破れていてとても汚い。ドアの内張りが剥がれていてもいっこうに気にしないようだ。坐面が高いので天井が低 く、少しかがみながら乗らなければならない。走り出すと天井に頭がぶつかってしまう。サスペンションのスプリン グがほとんど効いていない。運転が荒い事もあり、しっかり掴まっていないと体が揺すられてしまう。割り込み、追 い抜きを繰り返し恐い思いをしながらようやく北京飯店についた。
「ここでいいんだろう。」
とホテルを指差しながら、 ホテルの向かい側に車を止めた。20元渡しタクシーを降り、いつもの習慣で横断歩道を捜そうとキョロキョロと見渡していると、
「ホテルはあっちだ」
と運転手が指を指している。片側四車線、更にその両側に自転車通行帯の有る北京一の大通り、東長安街を横断しろと言っている。もっとも信号などは見当たらない。東長安街には信号はなく、 はるか遠くに横断用地下通路が有るだけだった。信号の無い大通りを渡るのは北京の常識。郷にいては郷に従え、と 我々も果敢に東長安街を渡ったのであった。
 しかし、何故タクシーはホテルの玄関に付けてくれなかったのだろう。この後シャレードタクシーでホテルに戻っ たときは道路を横断して玄関に付けてくれた。運転手が面倒臭かったのか。あるいは考えすぎかも知れないが、面包 タクシーは汚いので高級ホテルは立ち入り禁止なのかも知れない。

   14.窓を拭こうとしない中国人

 北京の印象はと言うと「日本にくらべると汚い」と言うのが忌憚のない所だろう。遠くから眺める紫禁城、天安門、 東長安街などはとても奇麗だけれど、タクシーやバスに乗ると、とてもきたない。
 タクシーもバスも車を洗ったり 窓を拭いたりすることがないらしい。日本の乗用車の様にピカピカに磨けとは言わないがせめて窓くらい拭いてほし い。まして観光バスとなれば日本では窓はチリ一つ無いぐらいに奇麗にしてくれるが、中国ではそういったデリカシ ーはないようだ。
 西安で街を歩いたときもそうだった。西安の銀座ともいえる東大街、解放路に並ぶ店の窓も皆汚れている。パリの ブティックでショーウィンドゥをさわってガラスに油をつけただけでも店の人が飛んでくるのとは大違いだ。窓を拭 こうとしないのは中国人の性格なのか、それとも生活に余裕が無いからなのかは分からない。ただ一つだけひいきめ に考えれば黄土高原をひかえている中国では常に黄砂が舞っている。窓をいくら拭いてもたちまち黄砂が窓を汚して しまうのかも知れない。

   15.朝の北京駅

 早起きをして朝の散歩に繰り出した。H一家、A君、I先生と私の七人。北京駅は中々の名所だという。 東長安街を東に二ブロック行き、南に突き当たったところが北京駅である。地図で見れば近そうだけれども歩いてみ ると遠いのは何度も経験したが、やはり遠い。一度行ったことの有るH氏が「こっちだ、こっちだ。」と右に曲 がったが、まだそこは一つ目の角だった。途中中国人の男女に声を掛けられた。とても上手な日本語を話し、何事か 言ってきたが、あぶない、あぶない。相手にせずにやりすごす。東長安街は広く、街路樹も良く整備され朝日に美し い。出勤する人達が自転車で走っている。連結バスもせわしく走り朝の活気が感じられる。二つ目の角まで来て交差 点を渡ろうとしたとき、信号が青にも拘らず後ろから来たバスがクラクションを鳴らしながら猛然と右折してきた。 減速する様子など全くない。危うく退かれそうになったが身を翻して難を免れた。北京の交通ルールはどうなってい るのか。 
 角を曲がり駅に向かうとそこは駅前通り。引っ切りなしに上下線を走るタクシー。新聞や雑誌を売る、キヨスクの ような店。大きな荷物を抱えて歩く「おのぼりさん」達。北京駅は地方から仕事を求めてやってくる人たちでごった がえしていると聞く。スリに気をつけながら北京駅に着く。人は多いが噂に聞いたほどではない。紙に何事か書いた ものを手に何か叫んでいる人が沢山いる。仕事を捜しているか、ポンビキかどちらかだろう。三年前に来たというH氏は三年前との様変わりに驚いていた。前に来たときはもっと人が多く殺気だった雰囲気だったと言う。それで も駅前広場には大きな荷物にもたれて寝ている人や座っている人たちでいっぱいだった。地方から出てきた人と北京の人では服装が違い一目でそれと分かる。北京の人たちの服装はこぎれいで、いわゆる人民服を着ている人はほとん ど見かけない。
  ホテルで朝食が用意されているけれど普通のバイキングなのでここらで食べていくことになった。ど この駅前にでも有りそうな大衆食堂。店を覗いていると入ってこいと手招きする。社会主義国とは思えない程商売気が有る。表通りに面した食堂に入る。中国語が良く分からないことを伝え、メニューを見せてもらう。メニューを見 ても良く分からないのでまわりで食べている人を指差して同じものを頼む。ギョウザ、包子、肉麺、粥。量が分から ないので二つづつ頼んだ。コーラと水も貰い、7人で食べたが食べ切れない。ギョウザはゆでた物を皿盛りにして持 って来る。ひとりで食べればそれだけで腹一杯に成ってしまう。肉饅はやや小振りだがやはり皿に山盛りに持って来 る。肉麺は日本のかけ蕎麦とラーメンを合わせたような物に香葉が散らしてありエキゾチックな味がする。粥は玄米を使っているのか醤油を混ぜたような茶色の粥で玄米御飯にお湯をかけたようなものだった。汚い食器をものともせずに食べていると、今北京に着いたばかりと言うふうな荷物を抱えた中国人が4〜5人入ってきた。身なりから言っ ていかにも地方から出てきたばかり。店内を見回しながら店の主人と何事か話をしていたが、喧嘩をするように捨てセリフを残して出ていってしまった。メニューが気に入らなかったのか料金が気に入らなかったのか、はてまた主人の態度が気に入らなかったのかはわからない。日本人とは違う中国人の一面を見たようだった。
 7人で一生懸命食べたけれど肉麺と粥が残った。特に粥はその色と奇麗ではない椀のせいで食欲をそそらない。た らふく食べた後で  
 「銭算帳」(御勘定!)
  現地の食堂では外国人と見ると倍くらいの料金を請求することがあると聞いていた。メニューからざっと計算すると 60〜70元位なので100元位は覚悟していたが請求されたのは52元(約600円)。安い。H氏が
「こ こは私が全部もつ。」
と言って大盤振舞?。結局1人90円余り。ぼられもしなかった。店を出てもう一度店の看板 を見ると、「国営」と書いてあった。「国営」が国で営業しているのを意味するのかどうかは分からないが、いわゆる 「国営」なので勘定はきちんとしていたのかも知れない。

   16.蘭州空港トランジット

 敦煌に向かった飛行機はトランジットのために蘭州空港に降りた。
 蘭州市は甘粛省の省会(省都)で周辺もふくめて人口約200万。200万都市といえば名古屋市くらいである。 その割りには空港は貧弱である。待合室も狭いしトイレも汚い。待合室にはエンジと黄色の衣を身に付けたチベット 僧が何人か座っていた。蘭州は中国の東西のほぼ中心に位置する。北京とは違い、中国にはいろいろな民族がいるこ とを実感させられる。  
    17.バッタの群れ

 8日間中国を旅する間、あちらこちらでバッタの群れに遭遇した。バッタの群れとは云っても昆虫のバッタの事で はない。日本人観光客の群れである。何処へ行っても日本人観光客にであう。中国人とは顔形が似ていなくはないが、 その出で立ち、振舞いで区別がついてしまう。
 服装は決してセンスが良いとは言えないが、中国の人達よりは小綺麗な格好をしている。みんなカメラやビデオを 片手に写真を撮りまくりながら歩いている。スリ、カッパライには格好の標的である。スリやカッパライに対して全く無防備かと言えばそうでもない。大金やパスポートなどの超貴重品は腹巻や特殊な入れ物にいれて、しっかりと身 に付けている。日本では恥ずかしくて普段は身に付けないような物を安全の為とばかりに身に付けているが、お互いがそうなのでここでは決して他人の出で立ちを笑うものがいない。ウエストポーチなるものもその一つ。国内では殆 ど見かけないけれど当地の日本人には多数それを所持する物が見かけられる。まさに「お腰につけたキビダンゴ」で ある。乞食がよってきて「一つ私に下さいな」と言われたとしても無理はない。 
 バッタの群れの特徴はその姿形もさることながら、その行動に特徴が顕著に現れる。群れを離れ一匹で行動するバ ッタはまれで、殆どが群れをなして行動する。特に観光地と土産物屋ではその総合力を遺憾なく発揮する。バッタの先頭集団が土産物屋に取り付くと後に続くバッタ達は遅れまいと金子を携えて殺到する。何を選んで買うのかを端か ら観察すると、その判断は決して冷静な物とは思えない。彼らの判断は、『人の買おうとするものを我先に買おうと する。』『値段は高いか安いかではなく、いくらまけさせたかによる。』土産の品よりもいくらまけさせたかの話の方が 彼らにとっては貴重な土産(話)なのである。バッタの群れの飛び去った土産物屋は食い荒らされた畑の如くである が、畑の主は札束を数えて微笑んでいる。
 又、バッタは群れで行動するのに慣れているため、イナゴさんやカマキリさんに出会っても決してイナゴ語を使っ たりカマキリ語を使ったりすることもなく全てバッタ流で通してしまう。その凄さに圧倒され、鎌を振り上げたカマキリさんは自分もバッタの仲間だったかなと錯覚して首をかしげ、鎌をしまってしまうこともあるらしい。
  酒が入るとその傾向は ますますひどくなる。バッタさんの常識とイナゴさんの常識が違うことなど頭の片隅にも無くなってしまう。(始め からその常識が分からないバッタさんの方が多いけれど。)同じ飛行機に乗り合わせたバッタさんチームの中には、 酒が入り、宴席を空手の道場と思い違いをして武勇を馳せた者もいたと言う。さすがに過去を悔いる気持ちは有るら しく、次の日のそのバッタさんチームは冬を迎えるバッタの如く神妙であった。
 バッタの群れの功罪はいろいろと取り沙汰されるが、金子をばらまくバッタ軍団は、外貨を欲しがる諸外国にとっては重宝がられる存在であるかも知れない。しかし、余りにも奇異なその姿と行動が世界の人々に異端視され、ばらまく金子が無くなったとき、一網打尽に佃煮にされることを心配せずにはいられない。
 以上が中国を旅したバッタが見たバッタの群れの行状である。

   18.敦煌空港

 蘭州を出て2時間。敦煌空港に着陸のアナウンス。窓の外は不毛の地が続いているが眼下に緑が目立ってきた。敦煌のオアシス地帯が近づいてきたのだろう。敦煌ではポプラの防砂林がオアシスを守るので市民1人が年に3本の苗木を植える事が義務付けられているという。 
 空港に降り立った。砂漠の中の何もない空港で見渡す限りゴビの砂漠。粗い土壁を塗ったような小さなターミナル ビルが建っている。このターミナルビルは玉門関を摸したものと言う。北京とはまるで違った風景に、あらためて敦煌までやってきたんだと言う思いがする。日差しが強くとても暑いけれど、乾燥しているので日陰に入るととても涼 しく感じられる。 敦煌空港は3年前にできたと言うが利用者のほとんどは外国人の旅行者、それも日本人が多いらしい。帰りに空港を利用したときは時間が有ったので喫茶室に入った。
「どうぞ休んでください。」
と日本語で応対してくれる。コーヒー、 紅茶やジュースが20〜40元。日本円で240円から480円。日本では当たり前の値段だが現地の人間にはとても利用できる代物ではない。中国に来て5日目。元に慣れてくると20元はとても高いものに思われてくる。メニュ ーの中には得体の知れないものも有る。メニューは中国語と英語で併記してあるが、中国語のみのメニューがあった。
「これなんだ。」
と聞くと、
「豆のジュースです。」
細梅氏が物は試しと注文した。出てきたのは灰色のジュース。
「な んだこれ、灰水(あぐみず)んねが。」
と飲んでみた。味を聞くと小豆を絞ったような味だと言う。これで30元。 ここの喫茶室は余程儲かるだろう。 空港から市内までは約20分。ポプラの防砂林に囲まれた綿花畑が続く。綿花は敦煌の重要な農産物で繊維が細くて 長い良質のトルファン綿が獲れる。後ろにあふれんばかりの綿花を積み、ガタゴトと市内に向かうトラクターをバス がクラクションを鳴らしながら追い越していく。のどかな風景ではあるが、農民の住居は煉瓦と藁で造られた質素そ のものだった。崩れかけている納屋もあり決して豊かではない生活が伺い知れた。

   19.敦煌の佐川急便

 敦煌空港のターミナルを出て私は自分の目を疑った。我々のカバンを積み込んでいるトラックは、何と「佐川急便」 なのだ。佐川急便がとうとう中国まで進出したのかと一瞬思った。添乗員が
「皆さんの荷物は佐川急便でホテルまで 運びます。」
と言っていたが、これは冗談。佐川急便の中古車が中国に出回っているらしい。敦煌市内では「羽田空 港行き」のバスも走っていた。西安市内でも佐川急便を見掛けた。日本の中古のバス、トラックが相当数中国を走り 回っているらしい。これを日本の経済的優位を示すものと単純に受け取って良いのだろうか。それよりも、まだまだ 使えるバスやトラックをいとも簡単に中国に送り出す事は異常と受け止めるべきだろう。日本では車検制度などの規 制があることや車両の価格自体が安いこともあり、古い車を直して使うよりも新車を買ったほうが良いのかも知れな い。中国では北京や西安、上海でも30年も前の物かと思われる車が走っている。簡単に新車が手に入らない事情も 有るだろうが使える物は直して使うという姿勢は日本人が忘れている事のように思う。

   20.鳴沙山、月牙泉

 敦煌で最も歴史の有るホテル「敦煌賓館」に入り荷物を待った。敦煌には3年前に空港ができて以来観光客が増え、 新しいホテルが次々と建っている。「敦煌賓館」は新館も有るけれども我々は旧館の方だった。新しくはないし、こ ぎれいでもないけれども歴史は感じられる。ロビーの丸天井には莫高窟の模写絵が描いてあり間接照明がそれを照ら している。
 ところで荷物が来ない。すでに6時近くになっている。夕食を後回しにして鳴沙山、月牙泉に先に行くというので 気がもめる。空港からホテル迄は20分足らず。幾ら遅くてももう着いてもおかしくない。さんざん待って、ようや く荷物が届いたので、荷物を部屋にほうりこみホテルを発つ。
 小さな敦煌の町を出ると鳴沙山が見えてきた。日が傾きかけていたので山は夕日に照らされ金色に輝いている。浅草の仲見世通りのような土産
物店街を過ぎると入り口が見えてきた。バスを降り入り口を入ると駱駝が沢山いる。観 光客を乗せる観光用の駱駝だった。30元払って駱駝に乗り鳴沙山の麓を月牙泉に向かう。50元追加料金を払うと 鳴沙山の頂上まで登ることができたが、50元がえらく高く感じられた事と時間が無かったので月牙泉に向かった。 良く考えれば50元は600円足らず。時間さえ有れば頂上まで行きたかった。
  駱駝に揺られて出発。駱駝を引くのは近くの農家の人達。農家の人達にとっては現金収入の良いアルバイトなのだろ う。駱駝は乗りにくいとか、駱駝酔いするとか言われるけれどそんな事はなく快適だった。駱駝を引きながら駱駝に付ける鈴を出して「買え」と言うが断わった。値引きして鈴を買った人もいたが、H氏は断わった途端、乗って いる駱駝を走らせられていた。 月牙泉が見えるところまで来た。私は少々がっかりした。砂漠の中にひっそりとその姿を見せる物と思っていたが、 泉の回りには柵が作られ、そばには建物が有る。柵は観光客に泉を汚されないように、建物は風向きの関係で無けれ ば泉が消滅する為と言う。私も月牙泉の水を持ち帰ろうと瓶を持ってきた一人だった。
 A君と鳴沙山に登る。観光客用に階段も付けてあるがそちらは登るのに10元取られる。折角の鳴沙山、階段な どを登るものではない。まともに直登した。砂が細い上に急勾配なので足が砂にめりこみ滑ってしまう。3歩歩いて も2歩分しか進まない。さすがに若いA君はどんどん登っていく。頂上まであと3分の1
位の所(に思えたけれど 実際にはそれほど登っていなかったかも知れない。)で時間も無くなりギブアップ。下を見下ろしながら持ってきた ビールを飲む。用意してきた瓶におみやげ用に砂をつめた。甲子園球児の気持ちが良く分かる。鳴沙山はただの砂山 の様に見えるけれども良く見ると三センチ位の草が所々に生えている。砂を10センチ位掘ると湿った砂が出てくる。
 下りは一気に走って降りた。靴が砂にめりこみ靴に砂が入り段々重くなってくる。砂山を登るも下るも骨が折れる。 砂漠で迷子になったらまず助からないだろう。  
 帰りも駱駝に揺られた。もう夕日は沈んでいる。シルクロードを行った隊商達もこのようにして砂漠を渡ったのだと思う。駱駝の歩く速さは人間のそれと同じ位。ゆっくりゆっくり砂漠を渡ったのだろう。何を考えながら駱駝の背に揺られていたのか。現代のようなせわしい世の中では考えられない。数年かけて一つの仕事を成し終えるという時間の尺度は現代人には考えられないことだけれども、現代人の忘れている事でもあるように思う。

   21.駱駝のぬいぐるみ

  鳴沙山にも御多分に漏れず土産物店がある。大したものを売っているわけではないが一くさり見てまわりバスに戻った。近くの露店で土産物を売っているオバサンが駆け寄ってきた。らくだのぬいぐるみを持ってきて「買え」と言 う。小さいのが20元、大きいのが30元。冷やかし半分に
「太貴了、少算」(高い、まけろ)
というと、買うのか と思って一生懸命に値段を言ってくる。A君が甥子におみやげに買おうかというので私もおみやげにと思い2個で いくらになるか交渉した。結局大きいぬいぐるみを2つで45元。1つ22.5元、約270円である。日本で 買ったと思えば安い買物だった。しかし、後になって色々と思うことが有った。30元を22.5元に、7.5元ま けさせたわけだけれど、7.5元と言えば日本円にして約90円。日本人はまるでゲーム感覚で値段の交渉をして大 して必要でもないものを買っていく。僅か90円まけさせて得意になっている。しかし、土産物店のオバサンにして みれば90円まけるかどうかは生活の掛かっている問題だ。原価がいくらかとか、いくら儲けているかという事は別問題として、1個30元で買ってやったとしたらどれほど喜んだ事だろうか。ふっかけられた値段だったかも知れな いが日本人が90円損することより彼女等が90円手にする喜びのほうが数倍いや数十倍大きいかも知れない。     
 H氏は、始皇帝陵でざくろを1つ2元でいくつか買ってやったとき、農家の人が手にした10元足らずの御札 を嬉しそうに何度も何度も数えている姿が忘れられないという。現地で売る値段の数倍で買わされたのかも知れない が、彼女らの嬉しそうな顔はそれを許して余り有るという。狡猾な中国商法に憤りを感じる事もあるが、時として経済大国日本の立場もわきまえなくてはならないようにも思う。

   22.「寒い」「危ない」旅行社の対応

「敦煌は砂漠ですので気温差が有ります。厚手の上着を持ってきてください。」
「砂が飛びますので砂が目に入らな いようにゴーグルを用意してください。」
「髪が汚れますので頬かむりすると良いですよ。」
「カメラは砂が詰まり壊れ ますので使い捨てが便利です。」
「夜は危険ですから一人で出歩かないように。出る場合は二人以上でどこへ行くか断 わってから出かけてください。」
 旅行社の実に決めの細い配慮である。旅行者が事故の無いように、そして快適に旅 行ができるようにと言う気遣いは良く分かる。しかし、である。旅行社のきめの細い配慮は旅行者を旅行から遠ざけ ているように思えて成らない。
 鳴沙山で頬かむりにゴーグル、防寒服を纏った一団は現地の人から見れば百鬼夜行以外の何物でもない。現地の人達は寒さには気を使っているもののゴーグルや頬かむり等する人は一人もいない。たまたま天気がそうだったからかも知れないが、ゴーグルや頬かむりなど必要なかった。現地の人達がどのような生活をしているのかを知るには現地の人達と同じレベルで行動しなければ分からない。鳴沙山に行く途中でTシャツ姿の欧米人がどこから借りたのか自転車で鳴沙山から帰る姿を何人も見掛けた。現地人の目線で観光している彼等が羨ましく思った。
 危機管理についても然りである。旅行者が危険な目に会わないようにという気遣いはよく分かる。しかし、現地社会を危険なものと決めつけ、旅行者を現地の社会と隔絶した状態におこうとするのはいかがなものか。バスの窓越しに見る観光などテレビを見るも同じこと。外国人を猛獣に例える気はないが、サファリパークの中をバスに乗って見て廻るようなものである。恐いと思ってライオンの頭を撫でたらとてもやさしい猫だった。という経験をする機会を奪われてしまう。恐ろしいライオンや豹から身を護るのは自分の責任である。危険だと思えばバスに逃げ込めば良い。 私もサファリパークを丸腰で歩く勇気は無いが、外国人は猛獣ではない。同じ人間である。 
 私は外国の街を訪れたときは出来るだけ自分の足で庶民の街を歩くことにしている。そこが危険な街か否かは自分の判断、危機を回避するのも自分の能力である。今回も機会は少なかったが、北京、敦煌、西安で街を歩いた。乞食 に付け回された事もあったが、自分の身にどんな危険が迫る可能性があるのかを常に考えて行動すれば危険も自ずか ら薄れてゆく。 
 旅行者が何の事故にもあわないようにバスに押し込め、旗の基に歩かせるのは旅行の意味を取り違えているように思えるが、旅行社ばかりが悪いとは言えない。事故に会えば、旅行社の対応がまずいとか、旅行社の説明不足だとか文句を言う旅行者もいるのだろう。自分の責任を自分でとれない日本人の像が見えてくる。バッタの群れの如く集団 で行動し現地の事情もわきまえず傍若無人に振舞い、現地の社会とは触れあおうとしない旅行者がいる限り、日本人 の隔絶的団体旅行は無くならないし、旅行社の旅行者を商品としか見ない態度も改まらないのだろう。日本人が旅行 のみならず国際社会で認知されるには外国人と同じ目線で考え行動できるか否かにかかっていると思う。

   23.夜まで働く敦煌の人

 鳴沙山から戻り夕食を終えるともう10時近くなっていた。街に出て戻ると11時だった。ホテルでは増築工事をし ていてまだ働いている人がいる。宿泊客に迷惑だとも思うが随分働きものだと思う。そう言えば、まだトラクターが 街を走り回っている。日中は暑いので日が陰ってから働くのかも知れないが決して敦煌の人達は怠け者ではなさそう だ。次の日の朝も、目が覚めると列車が走っているような音がする。
「敦煌には鉄道が通っていたっけ?」
と思い、 外に出てみると大型のトラクターが建築資材を積んでけたたましい音を出しながら走っている。しかし、彼らが働い ているところを見ると決して生産性が高いとは言えない。1人がブロックを積んでいると3人がまわりでそれを眺め ていると言ったふうだった。それでも一生懸命働いていることには変わりが無い。

   24.莫高窟

 莫高窟は敦煌市の東南25kmに有り、南北1600mにわたり上下五層に石窟が掘られている。 366年前秦時代に開鑿され元の時代までに1000余りの石窟が作られたが現在残っているのは 429。45000平方mの壁画と2415体の彩色塑像がある。
 莫高窟の見学は今回の旅の最大の目的のひとつだった。敦煌市内を離れて30分ばかりバスで走 ると周りはゴビ 砂漠。遠くに鳴沙山と祁連山が見える。莫高窟は鳴沙山の麓の絶壁に有り、祁連山 はそこで採れる玉石が夜光杯の素材となる事で有名である。ゴビの砂漠は砂と言うよりも、砂利を砕いたような粗い 砂の砂漠だ。道路の脇に広がる砂漠には所々砂を盛り上げたような物が沢山見える。飛行機からもそれが見られたが、 ガイドの話でそれが墓であることがわかった。敦煌の人達は死んだらゴビの砂漠に葬られる。場所はどこでも自由に 決められる。日本人から見れば墓標もなくこんなところに、と思うけれども敦煌の人達にとっては敦煌は故郷であり、 ゴビの砂漠は昔から慣れ親しんできた心休まる土地なのだろう。


 砂だらけの山だと思っていた鳴沙山の麓に崖が見えてきた。近づいていくと断崖にいくつもの穴が掘られているの が見えてくる。莫高窟である。莫高窟のあたりは少し木々が生い茂っている。やはりここもオアシスなのだろう。い くら宗教的情熱とは言え、水のない所で人は生活できない。昔人も人里離れた中でも比較的水の得やすい所を選んだ のだろう。
 バスを降り、窟に向かう。途中に敦煌文書を発見した王円録道士の墓が有った。水の無い河の橋を渡り入口に到る。 窟内では写真を撮れないのでカメラをガイドの王さんに預ける。懐中電灯を持って敦煌文物研究所のガイドさんと入 る。莫高窟の外観は断崖がコンクリートで固めてあり、窟の入口のアルミの扉は鍵が掛けられ、上部の窟にも登れる ように階段が造られ廊下が巡らされている。昔のままの姿とは違った姿を見せている。しかし、これも文化財保護の為のやむを得ない措置なのだろう。バスの中から見た窟は石窟を造った人達の住居用の窟であると言う。
 石窟の中に入ると薄暗いが、目がなれてくると壁一面の壁画が目に入る。懐中電灯で照らしながら壁に描かれた仏画を一つづつ見て回る。ただ何となく見て回ればそんなものかと思ってしまうが、ひとつひとつの仏画や塑像に込められた作者の情熱を思えば、いくら時間を掛けても見飽きることはない。今は色が褪せ、金箔が剥がれている仏画も 作者がどれだけの情熱をかたむけたものかと思う。前秦の時代から元の時代までの1000年もの間何代にも渡り、 一つの目的の為に崖を穿ち洞窟を堀り、仏画、塑像を作り続けた。驚くべき事である。日本で言えば平安時代から現代まで一つの物を作り続けたようなものである。1000年間続いた人々の情熱は決して気紛れや個人的な趣味によ って起こった物ではない。その情熱は誰の心の片隅にでも有るものなのだろう。現代の世の中、その心の片隅に有る 情熱はどこに行ってしまったのか。
 王円録道士が4万点にも及ぶ、いわゆる敦煌文書を発見した第17窟を見学した。4万点もの経典が納められたに しては小さな洞窟だった。さぞぎっしりと詰まっていたのだろう。あるいは詰まるだけ詰め、本当はもっと隠すべき 文書が有ったのかも知れない、等と思ってしまう。開鑿された石窟は1000余り。現在まで残っているのはその半分足らず。そしてその一カ所に4万点の文書が隠してあった。それが発見されたのは偶然中の偶然と言わなければな らない。それとも他にも蔵経洞があるのだろうか。文書を隠した人達はどんな思いで、何の為に、何を期待して蔵経洞に納めたのだろう。
  納められた文書は経典も多いけれどそれ以外の文書も納められている。敦煌博物館に発見された文書が展示してあっ た。オリジナルの文書だったがとても良く保存されていて、つい数十年前に書かれた物の様にも思われた。内容は天 気予報についてで、絵が描かれ説明文が付いている。「夕焼けは晴れ」「朝焼けは雨」と言った類の文書らしい。ガイ ドの説明では軍事上の機密文書だという。いつの時代も天気は戦略上の重要な情報には変わりがないが、過酷な砂漠 地帯では尚更だったのだろう。経典や機密文書を隠した人達はそれらの文書が後世の敦煌の人達の役にたつように願 っていたのだろう。しかし、それらの文書がイギリスやフランス、日本に持ち出され一部は散逸してしまったことは 彼らにとっては不本意であったと思う。彼らの努力は敦煌の名を世界中に広めるには十分であった。日本をはじめ世 界中から観光客が訪れ第17窟を見学していく。彼らがもし生きていたらどのように思うのだろう。

   25.チベットの水瓶

 莫高窟の見学が終わり出口から出ると、直系2m位の銅製の水瓶が置いてあった。中を覗くと周囲にチベット文字 が書いてある。
  チベットのチソン・デツェン王による787年の敦煌陥落以来、848年に張議潮が再征服し帰義軍 節度使に任命されるまでの60年間、敦煌はチベットの支配のもとに置かれている。水瓶がその時の遺物であろうと思い、私は鬼の首でも取ったように、案内してくれたガイドさんに質問した。しかし意外にも答えは違っていた。こ の水瓶は文化大革命の時にチベットから持ってきた物だと言う。文化大革命の時、チベットの寺院はガンデン僧院をはじめとして徹底的に破壊された。寺院に有る財産は悉く略奪され各地に運び去られた。この水瓶もその時の物だと 言う。説明するガイドの表情には複雑なものが有った。ガイドの女性は敦煌文物研究所の所員である。文化財の大切さと文化の尊さを知りそれを研究し、保護する立場の者が自国の行なった文化に対する野蛮な行為を説明しなければ ならない複雑な心境だったろう事は想像に堅くない。立場が逆であったならば莫高窟も破壊されていたかも知れない。

   26.敦煌古城

 井上靖氏原作の映画「敦煌」の撮影用に建設された野外セットが「敦煌古城」として観光地になっている。映画の セットなので完全に昔の敦煌城を再現したものではなく、カメラの方向によっては、あたかも往年の敦煌の様子が再現されると言った程度のものである。
 まず、一番に驚いたことは、セットとはいえ城壁は本物の日干し煉瓦を積みかさねて造っていることだ。セットと 言うので城壁はベニヤ板を立ててその上に煉瓦が積んであるかのような化粧を施しているものと思ったが、さにあら ず。本物の日干し煉瓦を使い、正面だけではあるが城壁の上も歩けるようになっている。これだけのセットを造るの には相当の資金も時間もかかっただろう。それと同時にこれだけの物を造ったことは敦煌には相当の経済波及効果が 有っただろう等と思いながら感心して見ていた。
 敦煌の町が出来たのは紀元前1世紀頃、漢の時代と言われているがそれ以来東西貿易の中継点として栄えてきた。 唐の時代には人口も4万人を数え、絶頂期となった。しかし、その頃の敦煌は現在の場所とは異なり、その痕跡もほとんど残っていない。その頃の敦煌城は映画のセットとは違って焼き煉瓦の堅牢な城壁を誇ったものだろう。簡単に 風化する日干し煉瓦とは違い、廃虚の跡ぐらいは残っていそうな物であるが何も残っていない。日々の生活に追われ る人達にとって歴史の痕跡など何の魅力も無いし、残す必要もないものなのである。主もなく廃虚となった敦煌城は 住民の格好の煉瓦の採取場になったに違いない。ローマの代表的な遺跡であるコロッセオも使われなくなってからは 建築石材用の石切り場となり現在もその無惨な姿をさらしている。その昔、シルクロードの要衝として砂漠の中に威 容を誇った敦煌城の城壁を築いていた煉瓦は、今はひょっとして付近の農家の礎となって現在の敦煌の人達の生活を 支えているのかも知れない。

   27.絨緞作りのおねえさん

 中国では何処の都市に言っても「日中友好」をしなければならない。「日中友好」とは観光バス指定の土産物屋に付き合うことだ。
  ここ敦煌でも「日中友好」の為、夜光杯工場と絨緞工場に立ち寄ることになった。絨緞工場では10人位の若い女性の職工さん達が働いている。垂直に立った縦糸に向いながら糸を織り込んでいく。大きな絨緞は二人掛かりで仕上げていく。20歳前後の若い職工が複雑な模様の絨緞を黙々と織り揚げていく様は見ていてもすばらしい。しかし、こんなに技術持っていても勤勉に働いていても経済的な生活程度は日本人のそれとは比べものにならない事に複雑な気持ちになった。彼女らが日本で日本人として働いたならば単純な労働でも経済的にははるかに恵まれることだろう。日本の経済成長とは何なのか、我々が彼女らよりも経済的に数段恵まれているのはいったい何のお陰 なのか。もっとも彼女らが経済的には恵まれても日本人の生活を幸せと感じるかどうかは別問題であるが。

   28.香料売りのおにいさん

 莫高窟、敦煌古城、博物館を見学した後、自由時間が有ったのでH一家、A君といっしょに敦煌の町に出た。 時間は午後4時を過ぎ、これから市民のくつろぎの時間が始まろうと言う時だった。
 自由市場には露天が立ち並ぶ。 衣料品や生活用品を売る店は、そろそろ店仕舞いの所も出てくる。反対に、食料品や屋台料理の店は活気づいてくる。 娯楽の少ない敦煌の人達にとってビリヤードは楽しみの一つのようだ。屋台店の並ぶ広場にはビリヤードの台がいく つも並べられ興じている。近づいてみるとビリヤードの台のラシャは所々破れ擦り切れている。日本のビリヤード店ではとても使える代物ではない。見ているとすぐさま店の人が寄ってきて「やれ」と言う。庶民の生活に触れられて ビリヤードもしてみたかったが時間が無いので市場を廻った。屋台店では羊肉の串焼き、寛粉と呼ばれるくずきりの 様な麺、等美味しそうな、不思議な食べ物が並んでいる。食べてみたかったが今宵は敦煌の名物料理が用意されてい る。いくらがんばってみても食べられる量は決まっている。後ろ髪を引かれる思いで市場に向かった。
 ハミウリや特産の細長い葡萄を売る果物店。大きなピーマンや見たことのない野菜が売られている。香料を売る店もあった。胡椒、八角、などお馴染みの香料に混じって始めてみる香料も有る。売っているのは未だ二十歳にもなら ない男の子だった。いろいろと説明してくれた。なんとなく日本人ぽく、人なつこいかんじがする。胡椒を買った。20gで5元。秤に移し「このぐらいか?」と聞く。「もっともっと」と言って80g、20元分買う。ポリ袋に入 れてくれた。中国のポリ袋は日本の物とは比べものにならない程薄く作ってある。安く作るためなのか資源の節約な のかは分からないが、重い箱を入れるとその角が袋を破ってしまう。先程買った酒を入れていた袋が破れそうになっ たのを見て、おにいさんは大きな袋をくれた。なんとなく嬉しかった。
 「可以照相口馬」(写真を摂ってもいいですか。)     
いっしょに写真をパチリ。

   29.敦煌の星空(夏のオリオン)

 今回の旅行で私は一つ楽しみが有った。敦煌では満天の星空を仰げると期待したのだった。
  今、日本では「満天の 星空」と言う言葉は死語になってしまった。街の中ではもちろん、近くの山に入っても街の明かりが夜空のスクリー ンを白けさせてしまう。余程の山奥にわけ入らなければ満天の星は仰げない。まして東京では星を見ることさえ難し くなっている。都会で生まれ育った人には本当の星空を見たことが無い人さえいるのではないだろうか。私は小学校五年の時に月山に登り山小屋で見た星空が忘れられない。「星が降る」と言う表現が有るけれども私には「星が刺さ る」ように思えた。満天の星空の中、人工衛星が地平線から頭の上を通りゆっくりと横切り地平線に消えたのを今も 覚えている。
 さて敦煌の星空は、と言えば私の期待は裏切られた。敦煌は年間降雨量わずか30mm。ほとんど晴天が続いている。 しかし、常に細い埃が舞い地平線は霞がかかったように煙っている。昼間も南の彼方にはチベットの山並が臨めるか とも期待したが、何も見えなかった。さらに夜の敦煌は意外と明る い。観光地化してきたせいかホテルのネオンの明るさも手伝い、思ったほど良く星は見えなかった。敦煌では電力不 足の為に時々停電が起きると言う。停電が起こることも実は期待していたのだったがそれも期待外れに終わった。
 中国は東西に約5000km、経度にすれば65度の広い国だけれども時間は北京標準時に統一されている。北京 より西に1600km離れた敦煌では実質2時間程度の時差が有り、夜は10時頃まで明るく、朝は中々夜が明けない。 朝7時に目が覚めた私はまだ暗いのでホテルのネオンも消され、ひょっとして満天の星が・・・と期待してカーテン を開け空を仰いだ。なんと目の前にはオリオン座が見えた。冬の星座であるオリオンを九月に見たのは初めてだった。 夏の星座であるさそり座と年中追いかけっこをしているオリオン座である。
「そういえば、先日北京でさそりの揚げ ものを食べたっけ。」
等と思いながら夏のオリオンを眺めていた。
 塵が舞う敦煌でもほとんど晴天なので星は毎日見ることができる。砂漠を行く隊商たちも夜になれば星空を仰いだ ことだろう。何の目印もない砂漠を行く人達にとって星空は格好の羅針盤であっただろう。星の位置を知りそれを観測することは砂漠や海を行く者には必要不可欠のものだった。また季節ごとにその姿を変える星座は作物の種を蒔く 季節を告げ台風の到来を示唆する天の声だった。世界中の古代遺跡の中には天体観測所と思われるものが数多く存在 する。マヤのチツェン・イッツァー、イギリスのドルメンを始めとして古代に文明が栄えたところには必ずと言っていいほどその存在が確認されている。日本でも奈良、飛鳥の酒船石は間違いなく天体観測器で有ると私は思っている。
 天体観測と言うと超近代的な事と思ってしまうけれども、それは星空が遠のいた現代人の妄想でしかない。夜になれば否応なしに目に飛び込んでくる星空は昔人にとってはみじかなものであり無視できないものであっただろう。時間でその位置を変える星々、季節でその姿を表わす星座達、自由に大空を動き回る惑星。その法則を知るために昔人達が躍起になったとしても不思議はない。
 星空は、私にとって幼い頃聞いた神話やおとぎ話と、最新科学技術に対する憧れとの正反対のロマンを同時に感じ させてくれる不思議な存在である。

    思えば思うほど 我が心を  
     驚きと畏怖の いや増す気持ちで満たす二つもの  
    天上の 星散りばめたる大空と       
    我が内なる道徳法則

 ドイツの大哲学者イマヌエル・カントの墓碑銘である。
 古より大空に輝く星々と心の内なる問題は人間の永遠の謎であるらしい。
 私もそう思う。

 

   30.メチャクチャな値段

 北京に着いて以来、中国のメチャクチャな商売には悩まされ続けてきた。土産物屋では本当の値段が何処に有るのかは皆目検討がつかない。例えば夜光杯の場合は、小さなペアの夜光杯がホテルでは35元。連れていかれた夜光杯工場では120元。敦煌市内の土産物店では50〜60元。ホテルが一番安いので30元に値切って買ったが、市内の庶民が利用する店では20元の値段を付けていた。交渉すれば更に値引きをするようだった。後日、上海の土産 物屋で見たときには一つ170元の値が付いている。産地と都会の違いは有ろうがその差は同じ国内でざっと十倍以上である。もっとも日本に来れば5〜6000円にはなるだろうが。
 メチャクチャな値段については毛皮の帽子や玉器など例を揚げればきりが無い。お土産品はすべて定価など始めから宛にしないほうが良い。さらに驚いたことには土産物ならいざ知らず、生活品までも値段がいい加減なのである。H川氏の奥さんが夜光杯工場の隣の雑貨屋で土産用にと中国タバコ「敦煌」を買った。1つ20元。さらに「敦煌」 と言う酒も有るので1本買った。50元。日本円にすればタバコは240円。酒は600円。嗜好品は割高だと割り切っていた。庶民の出入りする小さなデパート(と言うより商店が沢山入った雑居ビル)でタバコ「敦煌」を売って いるので値段を聞くと、8元!。酒も有ったので聞くと、「敦煌」は20元!。いずれも先程の店は2.5倍。もっと 驚いた事には同じビルの同じフロアーで別の店がタバコを扱っている。試しにそちらで「敦煌」の値段を聞くと10 元!。なんのこっちゃ!
 果たして、外国人と見て値段をふっかけているのだろうか。同じ場所でそんなに値段が違 えば商売はできないと思うが中国人の商売は我々とは原理を異にするらしい。不可解な中国商法に対しては旅行者の心得として一つの不文律があることに気がついた。それは、
   一つの店では絶対品定めをしないこと。      
   徹底的に値引き交渉をすること
   買い焦らないこと                  
ここまでは当然のことで、ここからが大切である。        
  ここが一番安いと思って買ったら、もう他の店で同じものを見かけても絶対に値段を聞かないこと。
この原則を忠実に守ることが中国を旅する上で精神衛生上最も良いことだと思う。

   31.敦煌の人達

 わずか二泊の敦煌滞在だったけれど、敦煌の人達の生活を肌で感じさせてもらった。敦煌は西域の入口というイメ ージでエキゾチックな感じがする。しかし、思ったほど田舎ではなく小さな繁華街もあり、そこには北京と同じよう な物が並べられている。これも中央政府の努力とも思えるが、考えてみれば蘭州以西は砂漠地帯。都市は点々と存在 するだけである。こんな広い地域に物資を供給するのは大変だと思ってしまうが、実際は点々と物資を供給するだけで事足りるのであろう。 敦煌の人たちの生活は北京や、西安、上海の人たちに比べてゆったりとしている。日本で言えば東京と山形の違いになるだろうけれど、時間がゆっくりと流れているように思える。着ているものや住居は決して立派とは言えないけれども幸せそうな顔をしている人は少なくない。できれば一カ月位敦煌に滞在してみたいとも思う。そうすれば人生の 過ごし方について敦煌の人達に学ぶものも多いように思える。

   32.西夏と西夏文字

 莫高窟の蔵経洞に敦煌文書が隠されたのは、西夏の来襲に備えたものだと言われている。井上靖氏の小説「敦煌」 でも西夏の攻撃を受けている最中に主人公趙行徳らが敦煌城内から経典等の書物を運び出したことになっている。
  西夏という国は私にとっては何かしら良い印象がある。私が西夏と云う国を初めて知ったのは、高校の歴史の授業である。その時の歴史の先生の言葉が印象的だった。
「西夏という国は、西(にし)の夏(なつ)と書きますが、私 はさわやかな感じがしてとても好きな名前です。」
学校の先生の影響力というのは恐ろしいものである。西夏という 国がどのような国なのかを良く理解することなく、西夏という国のイメージができてしまった。さらに、印象に残っ たのは井上靖氏原作の映画「敦煌」である。ここでは西夏は敦煌に攻め入る敵の設定だったが、渡瀬恒彦扮する西夏の皇太子、李元昊がまた好印象であった。漢族の支配が中心の中国の歴史の中でタングート族の建てた西夏は大企業の狭間にあるベンチャー企業。そして李元昊はバイタリティーの有る創業経営者のように思えたのだ。マスコミの影響もまた恐ろしいものである。
 西夏は漢族の文化に対抗して独自の文化を創っている。西夏文字である。西夏文字は1036年に李元昊が制定したもので、漢字を真似て、冠、偏、旁など300種類の要素を組み合わせて造られている。莫高窟の第65窟と第444窟には西夏文字が見られると云うので期待していたが、今回は見ることができなかった。第444窟の南門柱に は西夏の年号で「天賜礼盛国慶二年」(1072年)の記載があるという。これらの記載資料から西夏の敦煌支配は1072年以降という説も有ると云う。そうだとすれば李元昊が敦煌を攻めたという映画のストーリーは史実とは異 なることになる。もっとも映画は映画で面白いけれど。       
 西夏の国号は正しくは「大夏」と云う。李元昊自信は国号を「大夏」とし独立宣言をしたが、中国一流の中華思想 により中国では(当時は宋)西に有る夏州の国、と云う意味で「西夏」と呼び習わしてきた。高等学校の教科書の中 には「西夏」とは書かずに「大夏」と書いて有るものもある。よその国の国号を勝手にねじまげて呼ぶのは如何かと は思うけれど、「北京(ベイジン)」を「ペキン」と勝手に呼んでいる国の人間としては何とも言えない。
 西夏の都、興慶府は今の銀川市にあたり、宋の使者も中には入ることは許されなかったと言う。銀川市は現在の中国の行政区分では寧夏回族自治区に属している。この寧夏回族自治区というのは地理的に西夏の領土と一致するので、 西夏王国の名残りであると私は思っていたが実はそうではなった。回族はトルコ、イラン、アラブ系の人種でイスラ ム教を信仰し、チベット系のタングート族とは系統を異にしている。現在の中国には60余りの少数民族がいるが「タ ングート(党項)族」の名前は見当たらない。西夏の子孫は何処へ行ってしまったのか。1226年にモンゴル帝国 により滅ぼされたときに西夏王国は徹底的に破壊され一人残らず殺されたとも言う。「一人残らず」と言う表現はオ ーバーであるかも知れないが、西夏を継承する人達が散り散りになったことは間違いないだろう。このような壮絶な争いを思えば「長城」を造る中国人の気持ちも見える様な気がする。 
 寧夏回族自治区に回族がいつ入って来のかは分からないが、住んでいる地域の民族が民族ごといれ代るというのは中国では良く有る事だ。しかし、これも日本人には中々理解しがたい。敦煌でも1524年に明が嘉峪関を閉ざした とき住民は全て酒泉に移住させられている。
 今は全くその痕跡を留めない歴史上の国は沢山有るけれど、西夏は1038年から1226年までの約200年間確かに存在した。この間西夏は遼と宋との間で小競り合いを繰り返す。李元昊は殺され、後をついだ諒祚はわずか2 歳で即位。彼も21歳でなくなり7歳の秉常が継ぐ。秉常も16歳でなくなり3歳の乾順がその後を継ぐ。と言う ように御家事情も決して安泰な治世ではなかった。しかし、西夏国が建国した後に生まれ、滅亡する前に死んでいった人達にとっては西夏は未来永劫に続く祖国であり、その都「興慶府」は永遠の都であっただろう。
 私も日本はいつまでも日本であり、山形は永遠の故郷だと思っているのである。

   33.日本の歌謡曲

 中国を旅する間、度々日本の歌謡曲を耳にした。バスの中、土産物屋、ホテルで。日本人がよく行く所だから日本の歌謡曲を流してくれていたのかも知れないが、そうばかりではないらしい。A君が買ったCDはテレサ・テンの物だったが(本人は気がつかずに買った)その中にも日本の歌謡曲が何曲も収録されていた。中国では日本の歌謡曲 が相当に聞かれているらしい。日本でビートルズやその他の欧米の音楽が聞かれているのと同じ現象なのだろう。
 思うに何故大衆芸能は一方通行なのだろう。欧米諸国で日本の歌謡曲は殆ど聞かれず、欧米の曲が一方的に日本に 入り込んでくる。日本で中国や東南アジアの音楽は殆ど聞かれず日本の歌謡曲が一方的に中国や東南アジア諸国に流れていく。経済の手本としている国と、される国との関係が密接に関わっているらしい。もっと大衆文化がお互いに 紹介されれば国際的相互理解の近道になると思うのだが。

   34.西の城門

 西安咸陽国際空港は1991年にできたばかりの新しい空港だが西安市内までは70kmも離れている。1時間程バ スにゆられ西安市内に入る。始めに訪れたのは西の城門、安定門である。中国の城壁は日本のそれと違い、街全体を 囲う城壁で城門は市内に入る入口にあたる。城門は二重構造になっていて城門を一つ突破しても中庭のようなところ に出てさらにもう一つの城門が有り、回りから矢を射かけられる「亀城」という構造になっている。前門と後門の上 に楼閣が建ち、威容を誇っている。城壁は高さ12m、基底部は厚さ15〜18m、最上部でも12〜14mの幅が有り上部を歩いて旧市の廻りを一巡り出来る。焼煉瓦で造られた城壁は堅牢そのもので西安市の防護壁となっている。 完全な形で都市型の城壁が残っているのはここ西安だけと言う。北京にも城壁が有ったが、解放後に取り壊され道路 になっている。
 西安はシルクロードの中国の起点でこの西の城門がその出発点であると言う。城門の楼閣は旅券の発給所、出入国審査所の役を果たしていた。ガイドの説明に思わず、ここから遠くペルシャやローマを目指す駱駝の隊商や天竺に経 典を求めて出発する学僧たちの姿を思い浮かべそうになるが、果たしてそうだろうか。私は疑問に思った。今有る城 壁は明の時代に造られたもので、唐代の長安城は二回りも大きく当時の西の城門はもっとずっと西に有った。
 城壁が造られたのは14世紀末。河西回廊がシルクロードの要衝としてその役を果たしていたのは西夏の時代まで で12世紀頃には寂れ始める。モンゴル帝国が興ってからは天山山脈の北を通る天山北路のさらに北方を迂回してモ ンゴル帝国の首都カラコルムへ到るコースが整備されてその商業的権益は半減している。13世紀末にシルクロード を旅したマルコ・ポーロはサマルカンド、カシュガル、敦煌、武威を経て元の都大都に至っている。昔からの天山南路の南道を通っているが往時の様子とは違っていただろう。河西回廊がシルクロードとしての役割を果たした末期にあたる。そしてその目的地は長安ではなく元の都大都だった。西安の城壁ができたのはさらにその100年後。 明は対外的に発展したが、その関心は北方のタタール、東北の金、朝鮮、南方の陳、チベット、ネパールに注がれ、 西域への関心は唐の時代程ではなかった。1372年に嘉峪関城を築き、1405年には敦煌に沙州衛を創設するが 1524年には嘉峪関を閉ざしている。明の時代には嘉峪関を最西の関門としたが、漢や唐の時代にはもっと西にあ る玉門関、陽関をその関門としており明の西域経営が後退しているのが伺われる。また、1405年に鄭和による南 海大遠征が行なわれ所謂「海のシルクロード」が整備されつつあり、長安を起点とするシルクロードが東西を結ぶ唯一本の糸でなくなりつつあったことは確かだ。
 シルクロードと云えば我々の頭の中には喜多郎の音楽とともに砂漠を渡る駱駝の隊商を思い浮かべる。それらは漢から唐の時代のイメージではなかろうか。一口に「シルクロード」と云っても張騫の大月氏派遣から明が嘉峪関を閉 ざすまではざっと1600年。中国の歴史は長すぎてなかなか把握できない。明が嘉峪関を閉ざしたのは日本で云えば室町時代末期である。シルクロード華やかなりし盛唐の時代はそれより800年時代を遡ることになる。日本で云えば平城京ができたころ。大化の改新が終わりようやく統一国家として踏み出すところである。張騫の時代は更に800年時代を遡る。日本の年表はもはや空白の時代である。明の永楽帝が唐の玄宗皇帝を見る目は現代の日本人が平 清盛を見る目と同じである。玄宗皇帝が張騫を見る目もそれと同じ位の時間の隔たりがある。過去の歴史を思うとき 「シルクロード」という一つのイメージで考えてしまうけれど中国の歴史は一つのイメージでは把握できないくらい 長いのである。

   35.交通違反

 西の城門の見学が終わりホテルに向かう途中の事である。交差点に進入したバスは突然車体を激しく叩かれた。西 安に限らず中国では自動車と自転車が入り乱れ、日本の感覚で云えば交通ルールは有って無きが如くである。自転車を引っかけたか、血の気の多い自転車が文句を云っているのだろうと思ったが、バスを叩いていたのは警察官であった。我々が載ったバ スが交通違反だと云う。交差点を過ぎたところでバスを右側に止め(中国では車は右側通行)バスの運転手何さんは交差点の真中に有る交番所に走っていった。
「交通違反をしたようです。」
と云うガイドの李さんの説明である。
「運 転手はどうなるんですか。」
との質問に、
「罰金20元くらいですが領収書がいらなければ半額です。」
と云う説明が中国らしい。中国では領収書がいらなければ警察官が罰金を着服するという。
「面倒くさいから警察に金を掴ませるか。 だけど癖になると悪いからな。」
というH氏の発言も有ったが、程なく何さんが戻ってきた。
「罰金は取られたの ですか」
と言う質問に
「没有、没有」(何ともない)。
  一同何故か拍手をした。詳しく理由を聞くと、容疑は信号無視、 交差点不法進入と云うことだった。何さんは前のバスについて行ったので信号が見えなかったと言い張り無罪放免になったと云う。良かった。良かった。
 しかし、前の車で信号が見えなかったと云うのは信号無視の言い訳になるのだろうか?。
 変なの!

   36.碑林

 さすが漢字の国である。碑林は石碑や墓誌を集めているもので、有名な書家の石碑を一同に見ることが出来る。私は碑林は最近になって各地の石碑を集めて造った西安の観光名所だと思っていた。しかし、碑林は11世紀末、北宋 の時代に造られたと言う。ここには顔真卿の廟碑をはじめ、懐素、張旭等一流の書家の碑を目にすることが出来る。 書道好きには一日中見ていても退屈しない所である。
 ガイドの李さんに西夏文字の碑は無いのかと尋ねると、隣の 建物を指さして。
「向こうの建物は全部西夏文字の碑です。だけど今は白い幕がかけられて一般には公開していませ ん。」
と言う。残念だった。それにしても何故西夏の碑は公開されていないのだろう。今でも漢族は征服王朝の支配 に懸念を抱いているのか・・・と言うのは考え過ぎか。

  37.「外国語を話す」と云うこと

 北京から上海まで旅行をして一様に驚かされるのは、行く先々で日本語で応対されることである。ホテルや売店、 レストラン等日本人の良く行く所であれば何処ででも日本語が聞かれる。経済大国日本の旅行者が旅行するのであるから日本語が通じるようになるのは当然、と思っている日本人も少なくないようだけれど、けしてそんなことで片付けられることではない。
 日本ではほとんどの国民が6年間英語を習っている事になってはいるが、外国人の前で一言も英語を話せない日本人がいかに多いことか。中国旅行社のガイドやホテルのクローク等は正規の日本語教育を受けているのだろうが、レ ストランや喫茶店のメイド、売店や土産物店の人達はとてもそうは思えない。
 島国の日本では外国人と接することはほとんどない。外国語を学ぶと言うことはすべて教科書の上での話。実際に外国人と話す機会はないし、まして必要に迫られて話をすることなど皆無である。英語が出来る人とは英語の単語や 文法を数多く知っていて、どんな日本文でも正確に英文に訳すことが出来る。そんなイメージではなかろうか。日本の外国語教育の盲点は正にそこに有るように思う。全て完璧に話せなければならないと思う気持ちがかえってみじかな言葉を話す勇気を奪ってしまっている。土産物屋の人達は日本人の話に何でもついて行けるわけではない。自分の商売にとって必要な話を繰り返ししながら少しずつその範囲を広げているのではないかと思う。
 私は昨年香港に、この度は中国を旅する機会に恵まれ、それぞれ広東語と北京語を少々齧ったが、外国語の勉強の仕方(ではなく覚え方)が少し分かってきたように思う。旅行で話す会話は極限られた会話ばかりだ。丸暗記しても 大した量ではない。どんな会話が必要なのかは旅行を仮想してみれば良い。買い物をするとき。食事をするとき。タ クシーを利用するとき等々。それぞれいくつかの場面を想定すれば必要な会話はおのずから決まってくる。
「・・・ を下さい。」「まけてください。」「・・・が欲しい。」「・・・へ行きたい。」
等々。あとは丸暗記。暗記してしまえば 単語を増やし話せる言葉はどんどん広がっていく。この度の旅行でも必要最小限の会話は通じた。中国語は漢字なので覚えやすく、話して通じなければ筆談すれば通じる。
 私が外国語を正規に学んだのは英語が8年間、ロシア語が2年間であるが、出発直前忙しい中で3ヶ月間で覚えた中国語のほうがはるかに実践に役にたった。英語で話そうとすると「文の組立」や「文法」ばかりが頭の中を交錯しすぐには口から出てこない。もしも、旅行の為の語学勉強に学生時代ぐらい時間をかけられたらまだまだ話せるようになれたと思う。しかし、いくら話せるようになってもテストを受ければ間違いなく不合格。日本の語学教育の欠陥が良く分かる。 
 中国で日本語を話す人達も必要に迫られ、必要最小限の会話を実践することから始め、少しづつ話せるようになっ たのだろう。
 日本人の行く観光地は何処でも日本語が通じて当然とばかりに海外を旅行する日本人が増えれば益々日本は国際社会に乗り遅れそうな気が・・・・。

  38.フィットネスクラブ

 西安での宿泊は西安凱悦(阿房宮)賓館だった。ハイアットホテルの経営で中国と言う感じはまるでしない快適そのもののホテルだった。
 H氏がサウナに入ると言うので一緒にフィットネスクラブに行った。サウナは男女共通で水着がなければ入れ ない。水着をもっていなかった私はトレーニングルームで汗を流すことにした。フィットネスクラブの受付にはイン ストラクターのような姿の若い女性がいる。トレーニングルームにはテレビが有り香港の音楽ビデオが流されていた。 誰も利用していなかったが私が入ると女性はビデオの音量を高くしてくれた。私には耳障りだったがサービスをして くれているのだろう。(若者の音楽を耳障りと感じるのは年のせいかもしれない。)外資系のホテルとは言え、ここは 中国であることを全く忘れてしまう。女性の服装やビデオを見ていると「ここは中国か」「ここは社会主義国か」と 疑問を感じてしまうのである。
 ところで、昨日より私はお腹の調子が余り良くなかった。食あたりをおこして下痢をしたわけでもない。下痢の様に感じるのでトイレにいくとそうでもない。トレーニングルームで一時間半程自転車を漕いでいたら、途端にお腹の調子が良くなってきた。途中一度トイレに行ったら爽快そのもの。お陰でその晩の豪勢な料理も美味しく食べること が出来た。結局運動不足であったようだ。
 人間やはり、食べてはバスに乗り観光し、又食べて寝る、と言うパターンは不自然であるらしい。

   39.ざくろ売り

 西安市内から華清池に行く途中は一面ざくろと柿の畑である。華清池の先には秦始皇帝陵、その先には兵馬俑博物館が有る。観光客が多いためか、道路は良く整備されている。道路の両脇には近くの農家の人達がざくろや柿を並べて売っている。始皇帝陵が良く見える所や、華清池では観光客を相手にしているが、そうでない所にもたくさんの「ざ くろ売り」がいる。いったいこんなに沢山の人がざくろ売りをして買い手は何処にいるのか。一日に何個売れるのだ ろう、などといらぬ心配をしてしまう。しかし、いくらかでも売れるから商売しているのだろう。それが我々日本人にしてみれば話にならないほど生産性が低くとも、人口が多く生産性の低い中国では十分にワークシェアリングの意味を果たしているのだろう。      

  40.華清池  

 ホテルを出て30分位で華清池に着く。入口の周りは露店の土産物屋だらけである。バスを降りて歩くと、そちらこちらから声がかかる。ガイドの李さんが
「余り相手にしないでください。私が彼らの商売の邪魔をするわけにはいきませんから。」
道理である。彼らは彼らの商売のルールに従って商売をしている。だまされて、高いものを掴まされる のは、掴まされた観光客の責任である。
 入口を入ると玄宗皇帝と楊貴妃が遊んだという池が有った。しかし、池の大きさも当時のものとは違い、建物も解放後に造られたものだと言う。華清池といえば玄宗皇帝と楊貴妃のイメージが強く、私は玄宗皇帝が楊貴妃の為に華清池を造ったものと思っていた。しかし、ここは歴代の唐の皇帝達の保養所であり、その中で一番足繁く通ったのが 玄宗皇帝だったと言う。楊貴妃の入った風呂や皇帝の入った風呂が残されている。建物は再建されたものだが、風呂の石組は当時のままだと言う。
 楊貴妃と言えば、か細い美人のイメージだけれど、実際の楊貴妃は体重80sであったという。おまけに当時の中国の風習で纏足をしていた。イメージとは大分違う楊貴妃像であるが、洋服の流行が変わるように、女性の審美感も時代と伴に変わる。
 楊貴妃は中国の四大美人に数えられるけれども中国では日本ほど美人の代名詞としては取り上げられないと言う。 四大美人とは『西施』『王昭君』『貂嬋』『楊貴妃』の四人である。
 西施は紀元前五世紀の春秋越の美人。越王句賤が呉を滅ぼすために呉王夫差に献じられ、夫差は西施の容色を溺愛 した。
 王昭君は漢代の美人で紀元前33年元帝の命により匈奴の呼韓邪単于に嫁した。その逸話は有名である。
 貂嬋は後漢末の戦乱の世に翻弄された悲劇の美女である。他の3人は日本でも紹介されているが、貂嬋だけは何故かどの書物にも出てこない。日本と中国の審美感の違いだろうか。
 4人の美しさは次のように形容されている。
   沈魚  落雁    閉月  羞花
  『西施』はその美しさの為、魚が沈み、『王昭君』は雁が落ち、『貂嬋』は月が隠れ『楊貴妃』は花が恥ずかしがり萎んでしまったと言う例えである。彼女らがどのような美人だったかは写真の無い時代のこと、知る由もない。しかし 4人を合せた様な美人がいたとすれば、魚は獲れなくなり鳥も住めず、夜は真暗で花も咲かない世の中になってしま う。やはりこれこそ傾国の美女と言うのだろう。

   41.秦始皇帝陵

 自分の死後大きな墓を造り、名前を後世に残したいと云うのは世界中の権力者の共通した望みらしい。エジプトの ピラミッドを始め日本にも応神、仁徳陵等大小あわせて数多くの古墳が造られている。西安空港から市内に向かう道路の両側にも土を盛った古墳がいくつも見られた。漢代の皇帝陵だという。皇帝陵の隣には后の墓が有り、その廻りには家臣の墓が有るのが一般的だと云う。
 秦始皇帝陵は西安市内から東に約30km、華清池の先数キロ走った所に有る。良く整備された広い道路が続き視野 が開けている。ガイドさんの
「はい、始皇帝陵が見えてきました。ここで降りてください。」
という案内でバスを降 りた。一面ざくろ畑で遠くに三角の丘の様な皇帝陵が見える。ここが一番始皇帝陵を良く見ることが出来る場所だと言う。始皇帝陵は周囲が25kmにも及び、近くから見ても全体像が分からない。最大70万人が35年かかって造 った陵は唯の小山にしか見えない。しかし、地下には地下宮殿が有り、あらゆる仕掛けがなされていると言う。墓は見せるための物ではなく死者自身の死後の世界のために造った物で、見て面白いものではないのは当然だろう。
 バスを降りたところは何もない道路端で華清池の入口の様に土産物の屋台が沢山並んでいるわけでもない。しかし、 近くの農家の人達がざくろや柿を売っている。陵を見渡すのに都合の良い場所ともあってバスが良く止まるのだろう。 ざくろや柿を持って農家の人達がやってくる。ざくろ1個2元。柿1籠5元。農家の人達にとっては貴重な現金収入 なのだろう。土産物を手にして駆け寄ってくる人もいる。兵馬俑の小さな模型が3体入った網をかざして
「10元、10 元」
と言ってやってくる。バスに乗り込み出発する頃になると、バスに近づき今度は「五元、五元」と叫んでいる。 中国の農家の貧しさを見るようだった。
  さて、我身に翻って考えると日本では墓地の問題は深刻である。特に都会では深刻な問題になっている。我が家では 菩提寺は自宅から歩いて三分と非常に恵まれている。都会では遠くでも墓地を確保することすら難しいと言う。大き な墓を造り後世に名を残したい等と言う望みは持つべくもないが、始皇帝陵とまではいかなくとも、他人より大きな 墓を造る方法はないわけではない。寺の檀家総代となることである。誰でも彼でもがなれるわけではないが、檀家総代となり大きな墓を手に入れたとしても自分の子や子孫が末代まで多額の御布施に窮すると思えば、私はとてもそん な気にはなれない。私は始皇帝に比べてなんと人間が小さいのであろうか。

   42.もしも中国人だったら

 観光バスに揺られ北京、敦煌、西安と中国を旅し中国の人達の生活を見てきた。商売に精を出す都市の住民、貧し そうな農家の人達をバスの窓越しに、いわば外国人として客観的に見てきた。しかし、中国人自身はどんな思いで生活し、またバスの窓越しに自分たちを見つめている日本人をどのように思っているのだろう。
 ひなたぼっこをしている老人達。日本との悲惨な過去を知っている老人が平然と歩いている。50年前、日中戦争に勝利し中華人民共和国を建国し国造りに励んできたはずだった。気がつくと戦争に負けたはずの日本人が札束を抱えて中国を旅行している。中国人は土産物を売り、わずかな収入を得ている。戦後中国が歩んできた道は誤りだった のだろうかと思わずにはいられないだろう。   

   43.兵馬俑坑

 始皇帝陵の東側に兵馬俑坑が有る。兵馬俑坑は中国の世界的遺産である。兵馬俑坑の入口に続く道には土産物店や包子を売る店、ラーメンを打って食べさせる店が並んでいる。観光バスが次々に訪れ兵馬俑を一目見んと沢山の外国人が歩いている。
 農民が1974年に井戸掘りをしていて偶然に発見したのが兵馬俑1号坑である。もともとここは周りと同じ柿畑 であった。古くから「土の中に悪魔がいる」と言う云い伝えが有り、穴を掘ってその「悪魔」を見たものもいたが、 自分の土地から「悪魔」が出てくることは凶事なので他言しなかったと云う。発見された当時は人民公社が組織され、 当地は「晏寨人民公社下河大隊西楊生産隊」と呼ばれていた。共産主義が兵馬俑坑の発見を早めたと云ってもいいかも知れない。
 1号坑は蒲鉾型の建物に覆われている。中は兵馬俑を見下ろすように見学者用順路が巡らされている。半分以上は 未だ土に埋もれたままだけれど、修復された陶俑は整然と並んている。なぜこんな物を、という疑問が自然に沸いて くる。一人の人間のわがままの為にどれだけの技術と労力を要したことか。
 陶俑は歴史的財産として中国政府が大切に管理している。アメリカの金持ちが一体1億ドルで購入を申し出てきた が断ったと云う。また陶俑の頭部を二つ盗んで売りさばこうとした中国人が香港で捕まり死刑になったそうである。
 兵馬俑坑は1号坑の他に2号坑、3号坑が有る。1号坑より規模は小さいが建物は立派だった。1号坑ができて観光収入が増えたので立派な建物を造ることが出来たと云う。兵馬俑坑には実は4号坑が有る。しかし4号坑は版築の 痕跡だけで陶俑は見つからなかった。建設の途中で放棄したものだろう。四号坑は埋め戻され坑の境界を示す石碑だ けが地上にその痕跡を留めている。兵馬俑坑は計画半ばにして建設が中止されたのはあきらかで、ひょっとすると始皇帝陵の西側、あるいは北側や南側にも同じものを建設する予定だったのかも知れない。
 入場料は外国人が1人30元。約360円。年間数十万人の見学者が訪れれば中国としては莫大な収入となる。お陰で西安から兵馬俑坑に通じる道路は整備されている。公的に潤っているばかりでなく土産物店や食堂に落とされる金も相当なものだろう。今までざくろと柿の畑だった村は一変して世界中から注目される村となった。
  秦の始皇帝は何故兵馬俑坑を造ったのかと云うことについてはいろいろと取り沙汰されている。ひょっとして始皇帝は後世の中国の人達が金儲けできるようにと考えて造ったのかも知れない。広く整備された道路や外国人の人並みを見ているとそ のようにも思えてくる。人の行為は善意に解釈すべきである。                                      

   44.西安ビール

 兵馬俑博物館から戻った私たちは、とあるホテルのレストランで昼食を摂った。その時の会話である。
 ガイド 「喉が渇いたでしょう。ビールをもらいます。飲まれる方何人ですか。」
  私  「西安のビールは有りますか。」
 ガイド 「有りますけれど、美味しく有りません。青島ビールの生が有りますから、それをもらいます。」  
   私  「私は西安のビールにしてください。」  
 ガイド 「他に西安ビール飲まれる方いらっしゃいますか。」
 
結局西安のビールをもらったのは私だけだった。食事中に向いのHU氏に
  「結城さん、なして、ほだなの飲むのや。」
と聞かれた。私にしてみれば
 「なして青島ビールなど飲まんなねのや。」
と言いたいところである。なぜなら、第一 にガイドの言葉を真に受けて何故西安のビールを不味いと決めつけるのか。うまい、不味いは自分の舌が決めること。 ガイドが不味いと言っても、十人中十人が不味いと言っても好みの違いも有り、美味しいかも知れない。第二に折角 西安に来て、わざわざ青島ビールを飲むこともない。青島ビールは中国のナショナルブランド。中国では何処に言っ ても飲めるし、必要であれば日本でも手に入る。しかし、西安のビールは西安でしか飲めない。そんな貴重な機会に 何故好んで青島ビールを飲むのか。
 私はその旅行先でしか体験できないことをするのが旅行の楽しみだと思っている。そこでしか味わえない物であれば、美味しかった思い出も思い出なら、美味しくなかった思い出も思い出である。旅はいろいろな経験をしてこそ旅だと思う。

   45.大雁塔

 キント雲に乗り空を飛び廻る孫悟空。豚のバケモノ猪八戒、沙悟浄、そして、三蔵法師。彼等の登場する物語は言うまでもなく「西遊記」である。この物語を初めて聞いて、これが本当に有った話だと思う人はいない。なるほど「西遊記」はフィクションである。しかし、三蔵法師が実在した人物であると聞かされ驚いた記憶があるのは私だけでは ないだろう。幼稚園の時から物語として聞いてきたものが歴史の教科書で突然現実の物となってくる。その三蔵法師が建てた寺が西安に有る。滋恩寺である。
 三蔵法師は正しくは玄奘三蔵と言い、 「三蔵」は尊称である。627年(一説では629年)に国禁を破り西行の途に登り、天竺に向かう。天山北路を通 りアフガニスタンを経由してインドに入りナーランダ学院に学び645年に長安に帰着している。帰朝した玄奘が高宗の庇護のもとに建てた寺が滋恩寺である。
 滋恩寺は西安の南門を出て3km先に有る。唐の時代は長安城内に有ったが、明の時代の城壁の外側になってしまっ た。滋恩寺の境内も唐の時代には現在の十倍の敷地が有ったと言う。その滋恩寺の境内に玄奘三蔵が仏像、経典を納 めるために建てたという大雁塔が建っている。大雁塔は高さ65m、底部の一辺が約45m。当初五層の塔だったが 701年に七層に、766年には十層に改められたがその後戦火に合い、8〜10層が破壊され現在の7層になった。 
 さて、大雁塔に登るのは有料である。中国では当然の事ながら中国人と外国人では料金が違う。天壇公園で味をしめた私は中国人で通そうとしたがだめだった。20元!。私の中国語が通じなかった訳ではないが、日本人の行列に加わったのが間違いだった。
 塔の各層には四方に窓が有る。一層登るごとに外を眺めながら登る。階段は次第に狭く急になってくる。最上階七 層の眺めは絶景である。少し雲がかかっていたこともあるが、御多分に漏れず細い黄砂が舞っているようで遠くは霞 んでいる。これが中国の風景かと思う。2000年以上の歴史を持つ西安だが、唐の時代から残る建築物はこの大雁塔と 薦福寺の小雁塔しかない。大雁塔からの唐代の眺めはどのようなものだったのだろう。
 大雁塔は玄奘自身がもっこを担ぎ、その建設にあたったと言う。65mもの高さに積み上げるには相当の技術と労 力を費やしただろう。この高い塔を見上げていると、キント雲に乗った孫悟空や猪八戒、沙悟浄達が手伝ったのでは ないかと思えてくる。

   46.古文化街

 西安の南の城門である永寧門をくぐって市内に入るとすぐ右側に古文化街がある。いわゆる書画骨董品街である。
  大雁塔を見学し市内に戻り、後は夕食までは自由時間なので、I先生、AK氏と永寧門をくぐった所で降ろしても らった。
「ここは駐停車禁止ですので早く降りてください」
と、李さんに促されてバスを降りる。すぐ前は古文化街の 入口だった。
 文房四宝店、書画店、玉器店等が並んでいて奇麗な町並だ。観光案内書には観光用の街、と書いてあったが日本人や他の外国人はほとんど見かけない。人だまりが有るので行ってみると、露店で書家が実演販売をしている。取り巻 いて見ているのは中国人ばかり。 
 漢方薬店が有ったのでAK氏が入っていった。AK氏は友人に頼まれた生薬を探していた。薄暗い店には4〜50才位の夫婦が店番をしている。壁面の小さく区切られた薬箪笥がいかにも漢方薬店の雰囲気である。AK氏は何に効 く薬が欲しいのかを紙に書いて主人に見せた。主人はちょっと戸惑った様子だったので、I先生が横文字で書いて見せた。(I先生は東京医科大学の元学長である。)しかし、近代医学の知識は皆無らしく全く通じなかった。主人は漢方薬の虎の巻を持ってきて開いて見せた。薬の名前、効能、服用方法等が書いてある。漢字なので大体の意味は 分かる。IK氏が「これだ、これだ」と指を指すと薬箪笥から生薬を出してくれた。その生薬を100元買うと、主人は良い客だと思ったのだろう。他の漢方薬を持ってきて勧める。それも買うと今度は奥さんが別の生薬を持ってく る。AK氏はよほどの金持ちと思われたらしい。気がつくと主婦らしい中国人が店に入っていたが店主夫婦はそちらに目もくれずにAK氏に生薬を勧めている。私が気を使ってそちらの客も相手してくれと言ってようやく注文を聞いていたが、気持ちは赤松氏の方に有るのが手に取るように分かり、見ていて面白い。結局AK氏は日本円で2〜3000円分買った。その量からいってとても安かったと思う。
 筆屋の前で若い人が筆を作っている。客引きのために実演している訳ではなく、場所が無いから仕方なく道路で作 っているという風だった。誰もそれを見物している人などいないが一生懸命に作っている。店に入ると筆、墨、硯、 紙、いわゆる文房四宝が並べてある。店番のオバサンに
「ここの筆は彼が作っているのか。」
と聞くと、嬉しそうに
「そうだ」
と言って筆を見せてくれた。その表情から彼女は筆を作っている男性の母親ではないかと思った。筆を2 本買った。I先生も筆と硯の小さなセットを買った。35元。とても安い。 
 筆屋を出ると露店の拓本売りがいた。見せてくれと言うと喜んで開いて見せてくれた。それを見て私は目を疑った。 昨日碑林で見た懐素の石碑の拓本である。こんなところでこんなものが売られている。一体いくらなのかと思って聞 いてみると、35元。400円余り。そんなに安いのかと思い又びっくりする。他のも見せてもらったが偽物である と思えばそう思えないこともないが、偽物でも安い買い物だ。顔真卿廟碑の拓本を40元で買う。懐素の拓本も買え と云うので2枚でいくらにするか聞いたけれども値引きには応じなかった。
 後でガイドの李さんに聞くと、
「偽物でしょう。本物だったら20万元します」
 偽物は本物の拓本を見本に木の板に彫り、それから拓本を取ると言う。 偽物だから40元と単純に思うけれども、木の板に刻書して拓本をとって1枚500円では日本では採算の取れる話ではない。お土産としては安い買い物と納得した。
 古文化街では色々な店に入り中国の人達と接し、話すことが出来た。北京に着いて以来、観光地を廻り現地の人達 とも接してきたけれどもここでは今までとは違った中国の雰囲気を味わった。漢方薬店では、商売熱心で薬を勧めてくれたが「高く売りつけよう」とか「だましてやろう」と云う気持ちはまるで感じられなかった。筆屋でも同じく誠意の感じられる応対だった。値段も適正と思われるものが多く、その適正な値段と紳士的な応対に値引きを要求する という中国旅行の常識も萎えてしまった。実際に上海の土産物店では同じものが4〜5倍の値段で売られていた。拓 本屋で値引きを拒絶されてもそれ以上突っ込む気にも慣れなかった。中国人の狡猾な商売は外国人相手の時だけで中 国内部では紳士的な商売が行なわれているのではないか、等と錯覚してしまったが、経験の浅い私には真相は分から ない。

   47.乞食につけまわされて

 古文化街を出てから時間が有るのでホテルまでぶらぶらと歩いて帰った。東大街まで出る間は庶民の街。住宅地の中に食堂や雑貨屋、小さな本屋などが有る。西安市民の生活が感じられる。私は外国に来るとこういう街を好んで歩 くことにしている。日向ぼっこをしている老人。夕方の商売に励んでいる肉屋さん。市民の生活そのものである。
 東大街に出る少し前、みすぼらしい母子がつきまとっているのに気がつく。みすぼらしいと云ってもそれほど汚い わけではない。子供が片手を出して何事か云いながらついてきた。
「金を恵んでください。」
とでも云っている様子だ。 相手にしないのが一番と、気にせずに歩いていった。東大街に入っても未だついてくる。次第にずうずうしくなり赤 松氏の体に触れてきた。叱責したが動じない。スリ、カッパライされるのを警戒して、I先生、AM氏を先にやり私が二人を見張って後からついていった。時折AM氏の体に触れるので(AM氏が一番金持ちに見えるらしい)体に触れる度に叱責し、牽制していたが中々諦めない。彼女らの行く手を遮り、叱責して注意を私にそらせて。伊藤先生 と赤松氏を先にやった。うまい具合に私についてきたので蒔いてやろうと思い反対に歩いたり走ったり、近くの商店 に入ったりしたがしつこく待っている。早足で歩いて諦めさせようとしたが、先に行くAM氏を見つけ、又AM氏に 取り付いてしまった。(よほどAM氏が金持ちに見えたらしい。)近くにあったレストランに入りやり過ごした。レス トランのロビーで5分位待っているとやっと行ってしまった。
 乞食がいないはずの社会主義国中国に乞食がいる。 それもかなりの慣れたプロの乞食である。彼女らが本当に生活に困った乞食なのか、それとも働くより実入りが良い から乞食をしているのかはわからない。上海でも豫園の近くでY氏が寝た子を抱いた乞食に付け回されていた。後 ろで糸を引くシンジケートが有ることは想像に堅くない。「何でも有り」の中国の社会、何がでてきても驚くには値 しないようだ。

   48.餃子の味

 西安での名物料理は餃子だった。西安で一番美味しいという餃子の店、鼓楼餃子店。一番美味しい店といっても日本の観光客が押しかけるところではなく、地元の人達が美味しいと太鼓判を押している店だった。そう言う店に行けたのもH氏の事前の根回しのおかげだった。(H氏の情報ネットワークは相当のものだ。)店の中は殆ど地元の人ばかりである。日本人観光客に慣れてない証拠に欠けたコップが出てきた。
 中国の餃子は水餃子、蒸し餃子、 茹で餃子で、日本で云う焼き餃子は鍋貼(クォティエ)と言う。この店では24種類の餃子が出た。変わった物で は餡入り餃子、パイン入り餃子等。最後には小指の先程の餃子の入ったスープが出た。途中で「氷糖銀耳」という白きくらげを氷砂糖で煮込んだ椀物が出た。中華料理では何故か途中で甘いものが出てくる。餡やパインの入った餃子 もそうだけれど、餡を挟んだカステラの様なお菓子や甘い饅頭が出てくる。これらは皆口直しなのだ。種類は違っても餃子ばかりを食べていたのでは食い飽きしてしまう。しかし甘い白きくらげを一片口に含めば、たちまち味覚は戻 ってしまう。長い時間をかけてゆっくりと沢山食べるための工夫なのだろう。さすが中国四千年の知恵である。
 他の中華料理もそうだったが、にんにく臭い油ぎった、からいラー油をつけて食べる餃子という感じはまるでしな い。日本の餃子とは全く違った食べ物に思えた。現地の味は現地でしか味わえない。  

   49.上海の街

 「人、人、人・・・人、人、人」
 上海の第一印象はそれに尽きる。私が初めて香港を訪れたときも同じ印象だった が、上海は香港よりもさらに上手である。
 上海と云えば欧州建築の建ち並ぶ、上海租界を思い浮かべる。共産主義中国の中に有って洋風化された町並と改革開放による近代的な町並を思い浮かべてしまう。写真や絵葉書で見る上海はエキゾチックなしゃれた街に見える。しかし、一歩市内に足を踏み入れると、そこは雑踏とゴミの街である。街が奇麗でないのは北京や西安も同じだけれど、 上海の街はことさら人が多く、活気が有るだけ汚さも増幅されている。 バスの窓からぼんやり街を眺めていると交差点の新聞売りが見えた。小さなテーブルを出し新聞を並べている。新聞を買う人、信号待ちをする人が重なってみえる。すると突然空から水が降ってきた。雨が降ってきたわけではない。 新聞売りや交差点で立っている人の服が濡れ、新聞にも水がかかった。上を見るとビルの窓が開いている。ビルの窓から雑巾バケツの水でも捨てたのだろう。被害に有った人は空を見上げ、2〜3人がビルを指差して走っていった。 私は人事のように笑ってしまった。「さもありなん」と言うところである。上海という所は街も汚いが人々のマナー も相当に悪いところのようだ。宿泊したホテルが郊外に有ったこともあるが、さすがに私も一人で上海の街を歩く気にはなれなかった。

   50.上海雑技団

 「一芸に秀でる」と云う言葉は彼らのために有る。
 上海料理を味わった後、上海雑技団の芸を見に行った。近代的なホテルの中に有るホールが彼らの常設演技場であ る。途中からしか見れなかったが、その演技はすばらしいものだった。
 若い団員が芸をする。コロの上に板を載せ、その上に乗って足に載せたドンブリを蹴り上げ頭に載せる芸だった。 不安定な板の上でふらふらしながら片足で立つのも難しい。渡されたドンブリを片足に載せて蹴り上げた。ドンブリは回転しながら頭の上に見事に載った。満場の拍手である。今度はドンブリを2つ足に載せる。1つは上向き、1つ は下向きである。蹴り上げられた2つのドンブリはあたかも連絡を取り合っているかのように回転しながら頭の上の ドンブリの上に納まった。会場から拍手が起こる。これで終わりかと思うと今度はドンブリが3つである。そんなこ とができるのかと思いながら見ていると、案の定失敗した。しかし、会場からは笑う声は聞こえない。もう一度挑戦 して今度は見事に3つのドンブリは頭の上に。そして次は4つのドンブリに挑戦する。4つのドンブリを互い違いに 足に載せることすら並大抵のことではない。しかも不安定な板の上である。会場は静りかえっている。蹴り上げると 1つのドンブリは頭の上に、ほかの3つは外してしまった。会場からは拍手が起こる。再度挑戦する。今度も2つは 頭に載るが2つは落ちてしまう。「もうわかった。」と会場の人達は若い団員に拍手を贈る。しかし、若い団員は諦めずに三度目に挑戦する。会場は静まり返っている。今度は蹴り上げられた4つのドンブリは命を吹き込まれたかのよ うに弧を描きながら頭の上に載った。フィルムの逆転を見ているようである。私は思わず立ち上がって拍手をしてし まった。隣で見ていたAB氏とMM氏は拍手をすることすら忘れて呆然と見ていた。満場の拍手である。若い団員は自分でも満足したように下手に消えていった。
 何度失敗しようと、自分の完全な芸を見てもらうまでは何度でも挑戦する。「失敗は許されない世界」と云う言葉が有るが、彼らはそのはるか上の世界で芸をしている。人生何事も何度失敗しても諦めてはいけない、と教えられた ような気がする。

   51.包子の味

 上海に着いた日の昼食は豫園の近くの包子店、「南翔饅頭店」だった。上海の包子は小籠包と呼ばれる一口サイズ の包子である。西安の餃子と同じように色々な具の入った包子が出てくる。南翔饅頭店は上海で人気の店。旅行案内 書にも紹介はされているが、日本人は誰もいない。中国人が行列を作っている。一階はテイクアウトの店。二階が食堂である。二階の予約席に入る。普通は予約できないが、これもH氏のネットワークのお陰である。二階も順番待ちの中国人でいっぱいである。順番待ちをする人は食べている席の前に立っている。誰がどんな順番で席待してい るのかまるで分からない。日本人が一人でこの店に来ても順番の待ち方さえも分からないだろう。それにしても食べ るほうも大変だ。隣に順番待ちの人に立たれて平然と食べている。日本人なら食べた気がしないが、やはり上海人の感覚は日本人と相当に異なる。 
 ビールを注文すると缶ビールにストローが付いてきた。小籠包は酢と醤油に生姜を千切りにしたものを付けて食べ る。日本の様にラー油を使ったりしない。ただし酢も醤油も日本のとは大分違う。見たところ同じような色をして区別がつかない。酢はいわゆる黒酢を使っている。醤油も日本のものとは違い匂いがする。途中でやはり甘い包子が出てくる。包子が小さいせいもあっていくらでも食べられそうな気がする。種類が色々有るとは言え包子だけをもくもくと食べている。日本の懐石料理では考えられない食べ方だけれども飽きずに美味しく沢山食べることができる。世界中の食文化は多種多様で美味しいものはまだまだ有ると痛感した。こんなに食べても夜は夜で食べることができた。

   52.上海土産物店

 上海でも「日中友好」に付き合わされた。広いフロアーには繊維製品、絨緞、家具、漢方薬、文房四宝その他中国 の土産物なら何でもそろっていた。しかし、買い物をした者は殆どいなかった。買わなかった理由は「高い」「値引 きしない」だった。
 旅行社に連れていかれる土産物屋の値段が高いことは上海に限った事ではない。どこでも市中価格の3倍から10倍 程度の値段がついている。それでも団体旅行よろしく市中価格等つんぼさじきにおかれた人達の中には買っていく人 もいるのだろう。それにしても上海は値段が高いのが目についた。刺繍の帯も売っていたが日本でも十分に売れる値 段だった。「値引き」については北京や西安とはまるで違っていた。半額値引きは当たり前、時には10分の1に値引 き、等という事を経験してきたバッタ軍団にとって上海の商売は受け入れられるものではなかった。値引きを要求し てもせいぜい5%程度。値引きに慣れてきたバッタ軍団にとっては憤慨するのも無理はなかった。ほとんど買い物を せず形ばかりの「日中友好」を終えて土産物店を離れたのだった。
 しかし、上海の土産物店は何故他の都市とは違った強気の商売をするのだろうか。中国に比べて日本の物価が高い のと同じように、中国々内では上海その他沿岸の開放地域は生活程度が高く物価も高い。加えて経済基盤のしっかり している上海では値引きなどしなくとも十分に商売が成り立つという事だろう。それでは、それ程上海の経済は評価 出来るものなのだろうか。
 中国の経済は今高度成長期にある。高度経済成長と云っても沿岸部の経済特区を中心としたもので敦煌などの内陸 部とは差が有ることはよく分かる。最も貧しいチベットや甘肅省と上海では年間所得が10倍以上違うと云う。高度経 済成長の原動力は「安い労働力」と「有利な立地条件」「中国式の何でもありの経済」である。
 「安い労働力」は云うまでもなく中国の膨大な人口を背景とするもので、海外から進出する企業にとってはこの上 ない魅力である。経済特区を初めとした沿岸部の労働賃金が年々上がっているとは言え、中国内陸部にはまだまだ余 剰労働力が有り、改革解放に載って内陸部へ行けば、まだしばらくは「安い労働力」の確保は可能である。砂山をい くら掘っても、次々に砂山が崩れて来るようなものである。韓国のように賃金の上昇と伴に海外に企業が出ていく事 はまだしばらくの間はないように思える。
 「有利な立地条件」は中国政府が海外の投資を促進するために行なっている。改革解放、社会主義市場経済とは云 え社会主義国であることには変わりがない。企業を誘致するにあたっては必ずしも自由経済の原理に従っているとは 云えない面が有る。いわば資本主義の「あぶらしこ」としての側面が有ることは否定できない。中国が本当に経済的 に発展して他の自由主義国と同じ土俵に立った時その真価が問われるのだろう。  「中国式の何でもありの経済」は既に自由主義を実践している香港やニューヨークのチャイナタウンを訪れると強 く感じられる。「何をやっても自由」「騙されるのは騙されたほうが悪い」という経済には我々日本人にはついていけ ないところが有る。日本人だけではなく欧米の企業にも感覚の違いに戸惑っているところも少なくはない。中国式の 自由主義経済が世界に受け入れられるのかどうか。それとも中国が世界の自由主義のルールを取り入れていくのか。 上海の経済が本当に強いものになるかどうかはその辺りにかかっているように思われる。

   53.洋館の並ぶ街

 上海が歴史に重要な位置を占めるようになったのは欧米列強が本格的に進出してきた19世紀の事だ。従って上海 の歴史的な建築物は19世紀以後に建てられたの西洋建築が多い。
 上海は今開発ブームで旧市内の里弄と呼ばれる住宅地は次々と取り壊され近代的なビルにその姿を変えている。高 架道路から眺める上海市街地は近代的なビルディングとそれに比べれば貧民窟とでも言えるような里弄が混在して いる。今残っている里弄もそのうちに壊され開発されて行くのだろう。そんな町並の中にそれ程立派でも大きくもな いけれど洋館がしばしば見受けられる。一戸建てもあれば三階建てぐらいの集合住宅も有る。壁が剥がれていたり塀 が壊れていたり、また無造作に洗濯物が干してあったりしてとても奇麗だとは言えない。しかし、それらの壁を塗り 替え、塀を直し修復すればとても洒落た洋館になるように思われる。もしこの洋館が東京の青山にでもあったなら間 違いなく憧れの住宅になるだろうと思われるものも少なくない。窓ガラスを拭き、整頓するだけでもだいぶ違うのに な、と思うけれど、まだ上海の人達にそんなデリカシーを要求するのは無理かなと思ってしまうのである。

   54.人口問題と無戸籍国民

 中国の人口は約12億人。中国の人口問題はつとに話題にのぼる。産児制限をして人口を抑制しようとしている事 は周知の如くである。一人っ子は大切にされ「小皇帝」と呼ばれている。婚期は出来るだけ遅くするように奨励され、 人口の増加に歯止めがかけられようとしている。しかし、中国の人口問題はその量的な問題のみならず、もっと深刻 な後世に悔いを残すような問題が実は起きつつある。 ガイドの王さんの話では12億人の人口の他に約2億人の 「無戸籍国民」がいると云う。一人っ子政策の網の目を潜った人達など、生まれても出生を届けない人達である。そ の人達も成人となり結婚適齢期となっている。その人達同士、またはその人達と戸籍を持った人達の間に生まれた子 供たちも「無戸籍国民」となり、その数は徐々に増えている。
 無戸籍国民は税金は不用だけれども、社会的保障は全く無く、教育は受けられず、正業にもつけず単純な肉体労働 にしか従事できない。中国の戸籍には都市戸籍と農業戸籍が有り、農業戸籍の人間は勝手に農業を離れる事ができな い。人民解放軍に志願すれば都市戸籍を取得する道が開かれているが、無戸籍国民には戸籍を手にする手段は全く無 い。中国で結婚をするときに始めに問題になるのは、その結婚相手が戸籍を持っているかどうかだと言う。日本では 結婚相手が家を持っているか、とか親と同居か、はてまた「背が高く」「高収入で」「高学歴か」などを問題にするが、 中国の場合はその問題の深刻さは日本の比ではない。
 無国籍国民といえども労働をして収入を得て暮らしており、中国経済の歯車に成っていることにかわりはない。そ の中から頭角を現わす者も出てくるであろうし、「何でも有り」の中国社会では表には出られなくとも実業に成功す るものも出てくるだろう。無国籍国民は量的にも質的にも、決して無視することのできない存在になるはずである。 その時中国政府はどのように対処するのだろうか。政府の法的な対処はどのようにでも出来るけれども、問題がもっ と根深い物になることが懸念される。ガイドの王さんの「はっきり言って彼らは国民では無いですから。」という言 葉は事実を単純に述べたともとれるけれど、その裏に偏見や差別が生まれる可能性を含んでいる事も否定できない。 偏見や差別が固定化した時、法的な対処では遺憾ともしがたい問題になるだろう。何の罪も無い生まれ来る子供たち が偏見や差別を受ける社会を作ってはならない。人口爆発の問題と無戸籍国民の問題は中国政府のジレンマとして重 くのしかかってくるだろう。

  55.中国の公害問題

 中国の公害問題が日々深刻になりつつある事は周知の通りである。山形を経ち上海の上空にさしかかると、スモッ グのように空がよどんでいるのが見えた。今回の旅行では深刻な公害に直接遭遇する事はなかった。しかし、中国人 の生活を見ていると公害問題は深刻の度を増すであろう事は容易に想像できた。
 中国々内には魚の住めない川も有ると言う。国土が広く人口も多い中国の公害問題は一国の問題として片付けられ ない。
 昭和40年代の日本の公害問題は深刻だった。水俣や阿賀野川の水銀中毒、四日市喘息などの公害病は実に悲惨で あり、直接に被害を被った人たちにとっては悲劇以外の何物でも無く、決して起こしてはならない過ちだった。しか し、これから起こるであろう中国の公害問題に比べればまだ小規模だったと言えるかも知れない。日本では産業一辺 倒の政策が生み出した公害への反省から公害防止技術に取り組み、それ以後は生産技術と公害防止技術が車の両輪の ように発達し、公害を防止しながら産業を発展させてきた。昭和50年以降は、問題をかかえつつも比較的うまく公 害に対処してきたと言える。
 中国の場合はどうであろうか。現在の中国は消費社会の浦島太郎と言える。中華人民共和国成立以来鎖国に近い状 態で近年に到っている。その間毛沢東は人海戦術で鉄鋼を生産しようとしたりしたが質の悪い粗鋼ができるばかりで 西側に対抗できるものではなかった。最近になって、改革開放路線にそって最新の生産技術を取り入れた中国は技術 的に急速に発展している。最新の生産技術は最新の公害排出技術と諸刃の剣である。公害防止を怠り、最新技術を取 り入れることは浦島太郎が玉手箱を開けてしまう様なものである。加えて「なんでも有り」の中国社会がそれに拍車 を掛ける。今の中国はどちらを向いても「金、金、金・・・」。いかにして金儲けをするか、という事しか頭に無い ように見える。公害に対する認識の不足、と言う事も有ろうが誰も自ら進んで公害問題に取り組もうとはしない。政 府がその任を果たすのかといえばそれも期待薄であろう。社会主義的官僚主義に慣れた高官たちは自らの地位を掛け てまで公害問題に取り組むとは思えない。さらに、改革開放路線にともない「何でもありの官僚主義」という最悪の パターンに陥ることも懸念される。既に巨額の賄賂を受け取る汚職事件が度々報道されている。公害を垂れ流す事業 主が官僚に賄賂を送り、監督すべき官庁はそれに目をつぶる、という構図は容易に想像される。
 中国の広域かつ大規模な公害問題は中国だけの問題に留まらず、地球的な規模に発展する。大気汚染は近隣諸国に 酸性雨を降らせ、黄河や長江から流れ出す汚染された水は渤海湾、東シナ海のみならず、日本海や太平洋にまで及ぶ。 十数億の人口を養ってきた山河が汚染されれば世界的な食料問題に影響を与えるのは必定である。なんとか浦島太郎 に玉手箱を開けさせない方法はないものかと思う。
 中国にはいつまでも奇麗な山河が有り、いつでも美味しい中華 料理を食べさせてくれる所であってほしい。

    56.中国は共産主義国家か?

 中国が共産主義国家であることを知らない人はいない。しかし、中国を旅した人の中には中国が本当に共産主義国 家なのかと疑問を持つ人も少なくはないのも事実だろう。北京や西安、上海の街を歩けば客引きに声を掛けられ、乞 食が寄って来る。共産主義ではいないはずの輩に御目に掛かる。一元でも高く売ろうと言う商魂は見上げたもので、 その商売上手には脱帽する。中国が共産国家である証は、政府の建物に翻る五星紅旗と時折見かける厳めしい軍服の 人民解放軍の兵士の姿ぐらいである。現在中国は改革開放路線に従って経済的にその力を急速に強めつつある。社会 主義市場経済を旗印にしているが、改革開放路線、社会主義市場経済と言うのははたして社会主義に合致するものな のか。甚だ疑問である。
 科学的社会主義の実践と言う人類の壮大な実験は1989年のベルリンの壁の崩壊、それに続くソビエト連邦の崩 壊で実質的に終わりを告げたと言える。科学的社会主義の実験は決して人類にとって無駄だったとは思わないが、少 なくとも現段階では人類が十分にその真価を発揮できなかったことは残念ながら事実であった。
 人類の歴史は、原始共産社会に始まり、封建社会や絶対主義、市民革命を経て全体主義、自由主義へと発展してき た。人類の大きな流れは長江の流れの様に誰も止められない大きな流れとなって今日に到っている。大きな流れの中 でも淀みができるように歴史の流れに逆らう動きがなかったわけではない。例えば二十世紀半ばにファシズム国家が 崩壊していく中で、スペインはフランコ総統の基、ファシズム国家として存続した。存続できた理由はイギリスやフ ランスの帝国主義とナチスドイツのファシズムとの駆け引きの狭間に起こった歴史的偶然と言える。しかし、その歴 史的偶然で生まれた全体主義国家スペインも以後民主主義国家の世の中で次第にファシズムの色が薄れ、フランコの 死と伴に民主主義国家に同化してしまう。
 資本主義と共産主義のイデオロギーの対立が本格的になったのは戦後、1945年以降である。あたかも長江の流 れが真っ二つに分かれたかのようであった。現在に到ってその流れは又一つに戻りつつある。中国やベトナム、キュ ーバなど未だに共産主義を旗印にしている国は少なくはないが、実質的には世界の大きな流れに沿った動きを見せて いる。中国の改革開放路線やベトナムのドイモイなどいづれも市場経済を取り入れた社会主義とは相反する政策をと っている。先頃ベトナムとアメリカが正式に国交を樹立した。かつてベトナム戦争でイデオロギーを掛けて血みどろ の戦いをした先勝国が負けた国のイデオロギーを取り入れようとしている。ベトナム戦争で戦った旧北ベトナムや民 族解放戦線の兵士達は複雑な気持ちだろう。共産主義国家の中で最も強行に、頑なに資本主義国家との関係を拒絶し ている北朝鮮も最近は北部、ロシアとの国境地帯、豆満江河口の「先鋒」「羅津」を自由経済貿易地域として開発す る構想が進んでいる。歴史の大きな流れには逆らえない。
 中国が共産主義を建て前としながらも歴史の流れに乗ろうとしている事は否めない。加えて中国人は生来商売の上 手な国民である。香港や台湾の繁栄、東南アジアの華僑の活躍を見れば押して知るべしである。商売上手な中国の人 たちが社会主義と言う足かせをはめられていたのが解き放たれたと言える。今後益々中国の改革開放は進むであろう し、社会主義の建て前は形骸化するだろう。ただ、その過程で余りにも多くの深刻な問題が生ずる可能性が有る事は 否定できない。
 ところで、中国が共産主義国家か否かを云々している我が国はどうだろう。西側自由主義陣営の一員として戦後歩 んできた。しかし、先頃の大和銀行の事件や信用組合の問題を見ていると果たして日本は資本主義国家なのかと疑問 に思ってしまう。損をしても当事者が責任を取ることもなく政府や日銀が何とかしてくれる。欧米の識者の中には自 由主義陣営の中で日本が異質であると指摘するものもいる。落ちこぼれのでない日本こそ最も共産主義に近いのでは ないかとも思えてくる。もっとも共産主義だ、資本主義だと言う議論はもはや通用しないし、必要の無いものなのか も知れない。資本主義自体が既に行き詰まりにきているのだから。

   57.中国はどこまで発展できるのか

 中国は今経済の発展、生活の向上に全力を上げている。八日間の旅の中でもその気概はひしひしと感じることがで きた。しかし、中国はこの先どこまで発展できるのだろう。
 12億の人口(実際は15億)を擁する大国が経済的に発展することは世界経済にとって大きな影響が有ることは 云うまでもないことである。将来の中国経済の世界経済に対する影響力はいろいろな経済研究所からその試算が試み られている。しかし、半世紀前であればそういった試算も成り立ったとは思うけれど、中国が経済的に発展できるか 否かについてはもっと大きな問題が横たわっているように思える。
 資本主義の経済は既に行き詰まりに来ている。資本主義社会に乗り遅れた中国は今西側諸国に追いつこうとしてい る。例えてみれば満員電車に乗り込もうとしているような物である。電車が空いていれば努力次第で乗ることはでき るが、電車は既に満員である。電車に乗るにはお互いに寿司詰めを覚悟で乗り込むか、あるいは既に乗っている人を 引き摺り下ろすしかないようだ。
 資本主義は「人類の生活空間である地球が開かれた空間である」と言う事を大前提としている。生産のために必要 な原料、エネルギーは努力しさえすれば無限に手に入る、という原則なくして資本主義は成り立たない。鉄鉱石、石 炭、石油が必要であれば未開の地に出かけ探査し開発すれば今までは手に入れることができた。19世紀初頭イギリ スでは国内で鉄鉱石や石炭を調達したがその後に資源を植民地に求めるようになった。イギリスにとっては海外に進 出し開発すれば地下資源や綿花などの原料は容易に手にすることができた。公害問題もしかりである。当時のイギリ ス国内に公害問題もなかったわけではないがイギリス全体、地球全体からすれば何ほどのこともなかった。排出され た公害も散らされてしまい、長江に小便をするようなものだった。あたかも地球は開かれた空間であるかのように自 然に対する人類の影響力は微々たるものだった。
 しかし、今日の世界は地球は閉じた空間であることを認識せざるを得ないほど人類の地球環境に対する影響力は増 大している。石油の枯渇、木材資源の減少、クジラやその他生物の絶滅の危機、オゾン層の破壊、温暖化等々、資源 や環境問題について、もはや人類はその限界を知る所にまできている。日本や欧米先進諸国では文化的な消費生活が 行なわれている。中国の12億の人達だけでなくアジアやアフリカをはじめとして、新興国と呼ばれる国の全ての人 達が努力次第で我々と同じ消費生活ができるかと言えば、答えは である。我々が海外旅行をしているように世界中 の人達が日本人並みに海外旅行をするとすれば約2万機のジャンボジェットが始終世界の空を飛び回らなければな らないと云う。世界中の人が日本人と同じように自動車を乗り回すとすれば70億台の自動車が必要であると云う。 飛行機や自動車の生産、それに伴う資源やエネルギーの調達、排出される排気ガスによる大気汚染やオゾン層の破壊 等どれをとってみても、地球環境のキャパシティーを越えているのは明らかだ。   中国が満員電車に乗り込むことは 地球のキャパシティーオーバーを意味する。穀物輸出国だった中国が今年から輸入国に転じたことなどもその象徴的 なことだと云える。中国が公害問題に何の対処もせずに産業発展を推し進めることは満員電車に着膨れした人達が大 きな荷物をかかえて乗り込もうとしているようなものである。
 満員電車に乗り込もうとしている中国に「乗るな」と言う権利は誰にもない。日本や欧米先進諸国の人達だけが過 大な消費生活をすることは許されない。人類が築いてきたバベルの塔は青天井であれば知恵と努力次第でいくらでも 高くすることができるが、空は青天井ではないことに人類は気がつくべきである。このまま塔を積み上げることは、 既に登っている人を蹴落とすか、あるいは天井に突き当たりバベルの塔が一気に崩壊するカタストロフィーを迎える ことになるだろう。中国の経済発展は地球規模で考えるべき問題で、先に電車に乗り込んだ我々日本人は隣人として もその問題解決の為の責任は大きいと言える。着膨れした服を脱がせ、いらない荷物を棄てさせて席を譲りながら電 車に迎い入れるのか、それとも皆で電車を降りて別の乗物に乗り換えるのかは日本人中国人を問わず、人類全体の問 題であると思う。

   58.雑感

 八日間中国を旅して、中国の歴史と文化に触れることができた。萬里の長城、兵馬俑坑を見てもその歴史の長さと 壮大さが感じられ、日本とは比べるべくもない。
 世界中には様々な文化が有り、国が有る。長い歴史の中でそれぞれが直接、間接に影響を及ぼしあって今日に到っ ている。日本も文化が芽生えたときから中国の強い影響を受けてきた。今日では世界中が電波で結ばれお互いの影響 力は日に日に増している。沢山の川が一つの流れになろうとしているようにも思える。イギリスの産業革命以来、世 界の流れはヨーロッパ文明の流れに合流しようとしているように見える。しかし、歴史を遡ればヨーロッパ文明は唯 一つの本流ではなく、歴史の本流となるべき文明が幾つか存在した。中国文明もその一つである。独立して発達して きた文明の中でヨーロッパ文明が産業革命を背景として物質的優位に立ち世界を席巻してきたと云える。今日、我々が物質的に恵まれた中にいるのはヨーロッパ文明のお陰だと云えるけれど、その弊害も少なくはない。今日あるい は、今後起こるであろう人類の問題の中にはヨーロッパ文明の価値観に根差す物が少なくない。
 中国はヨーロッパ の契約社会とは全く違った文化を築きあげ日本にも大きく影響してきた。もしも、中国文明がヨーロッパ文明に代わ って世界を席巻していたとすれば、今日どのような世界になっていただろうか。私にはとても興味深い思考実験であ る。
 中国文明とヨーロッパ文明が最初に直接出会ったのは13世紀、モンゴル帝国のバツによる西方大遠征である。1241年にポーランドのワールシュタットでモンゴル軍はドイツ、ポーランド連合軍に勝利している。その後ハンガ リーに進入したがオゴタイ汗の死を聞き引き上げている。歴史に「もしも」は有りえないが、その時バツのモンゴル 軍がヨーロッパ中原になだれ込んでいたら、あるいはオゴタイ汗の死があと数年先だったら世界の歴史は大きく変わ っていたかもしれない。モンゴルが一時的にでもヨーロッパを支配し、儒教や道教、モンゴルの国教であるチベット 仏教の価値観がヨーロッパに流入していたら今日の世界はだいぶ違っていただろうと思うのである。そのままヨーロ ッパを中国文明が支配していたとしても、一時的だったにしても今日のヨーロッパ文明の弊害はいくらかでも緩和さ れただろう。
 世界にはヨーロッパや中国だけでなく沢山の文明、文化が有る。文明、文化と言っても所詮人間が造ったもの、良 い面も有れば悪い面も有る。それぞれの文化の良い面をお互いに取り入れれば良いとは思うけれど、現代はヨーロッ パの文化に偏りすぎている。今からでも遅くはないから中国の東洋的な良い文化を世界に広げてもらいたいと思う。 しかし、中国の人達を見ていると、世界一ヨーロッパ文明の悪い面に毒されている人達のように思えてならない。中 国の人達がかつての中華帝国の誇りを取り戻し、現代の世界の病巣を取り除くのに一役買ってもらいたいと願うので ある。

   59.漢詩によせて

 中国の文化を語るとき漢詩は欠かせない。中国の旅情も又、漢詩を抜きにしては具の無い餃子である。漢詩は和歌 や短歌、俳句とともに日本の文学の一遇を照らしてきた。今回中国を旅し、幾つかの漢詩を肌で感じる事ができた。
 

  涼州詩     王斡
     葡 萄 美 酒 夜 光 杯      葡萄の美酒夜光の杯
     欲 飲 琵 琶 馬 上 催     飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す 
     醉 臥 沙 場 君 莫 笑     酔うて沙場に臥すとも君笑うこと莫れ
     古 來 征 戦 幾 人 囘     古来征戦幾人か回る

 夜光杯を土産に買った事は既に述べた。今敦煌や酒泉で造られている夜光杯は祁連山の玉石で作った物だけれど、 ここで歌われている夜光杯はペルシャより伝わったガラスの杯であるという。「葡萄」「夜光杯」「琵琶」と言う中国 人にとってはエキゾチックな言葉が都を遠く離れた異境の地を思わせる。日本人にとっては玉石の夜光杯でも十分に エキゾチックである。当地にとってこの詩は土産物の売上を倍増させるのに貢献しているだろう。
 敦煌古城を訪れたとき、周りは一面ゴビの砂漠。遠くに鳴沙山が見える。「酔うて沙場に臥す」とはこのような場 所であるのかと思った。遠く故郷を離れ辺境に赴いた兵士の気持ちが少しは分かるような気がする。

  送元二使安西  王維
     渭 城 朝 雨 潤 輕 塵    渭城の朝雨輕塵をうるおし
     客 舎 青 青 柳 色 新    客舎青青柳色新なり
     勸 君 更 盡 一 杯 酒    君に勧む更に尽せ一杯の酒
     西 出 陽 關 無 故 人    西のかた陽関出れば故人無からん(潤は当て字を 使う)

 渭城は長安の北方にあり当時西域に旅立つ人をここまで見送るのが習わしであったと云う。輕塵は細かい土埃を意 味する。日本でも雨上がりに木々の緑が鮮やかになる、ということは経験するが、中国の場合は趣を異にする。「窓 をふこうとしない中国人」で既述したように背後に黄土高原をかかえる中国では細い黄砂が常に舞っている。その埃 の細さは日本の比ではない。風が強く天気の良い日が長く続けば木々の葉っぱは火山灰をかぶった様になるのだろう。 雨が降り洗い流された緑はその様相を一変するに違いない。「柳色新なり」は日本人が感じる以上のものだろう。  長安を出て河西回廊を西に進めば、陽関に到る。現在の安西は敦煌市の東北隣に有り、陽関より東に有る。しかし、 当時の安西都護府ははるか西の庫車に有ったと云う。敦煌、陽関よりさらに1000km西にある。当時西域に赴くこ とは生涯の別れを意味したのだろう。西安と敦煌を比べても紀行風土はまるで違う。江戸の人間が箱根を越えて上方 へ、白河の関を越えて陸奥へ行くのとは訳が違うのである。漢詩に著わされた「別れ」とは日本よりは遙にスケール の大きな「別れ」であることが良く分かる。

  哭晁卿衡    李白
    日 本 晁 衡 辭 帝 都    日本の晁衡帝都を辭す
    征 帆 一 片 遶 蓬 壺    征帆一片蓬壺を遶る
    明 月 不 歸 沈 碧 海    明月帰らず碧海に沈み
    白 雲 愁 色 滿 蒼 梧    白雲愁色蒼梧に満つ

 晁衡とは阿倍仲麻呂の中国名である。阿倍仲麻呂は716年、留学生として入唐、玄宗皇帝に仕えた。753年に 帰国しようとしたが暴風に会い、安南(ベトナム)に漂着する。李白は晁衡が遭難して死んだと噂を聞き、この詩を 残している。仲麻呂は唐朝に仕える中で文人とも交わり、李白の他にも王維が仲麻呂を日本へ送る送別の詩を書いて いる。仲麻呂は安南から長安に戻り再び唐朝に仕え、安南都護を命ぜられハノイに赴いている。767年に長安に戻 り770年に亡くなっている。
 その当時、中国に渡ることは命がけである。我々の中国旅行とは目的も違えば覚悟も違う。それだけに仲麻呂が日 本に帰りたい気持ちいかばかりだったろう。仲麻呂が唐朝に立派に仕え、ベトナムにまで赴任しその勤めを果たして いる。その国際感覚は大したものだと思う。いつ帰れるか分からない異国の地で骨を埋める。数年で戻ってくる現代 の商社マンとは訳が違う。阿倍仲麻呂や山田長政などの国際人が過去の日本にいたことに私は何故か安心感を覚える のである。
 仲麻呂の国際感覚も去ることながら、中国が日本人阿倍仲麻呂を高官として徴用したことに驚きを禁じえない。唐 朝に限らず元朝ではマルコ・ポーロやチベット人パスパを徴用している。異民族や異人種でも能力が有り、国の為に なる人物は進んで徴用する懐の深さが中国にはある。しかるに我国ではどうだろうか。

  長恨歌(抜粋) 白居易
    漢 皇 重 色 思 傾 国  漢皇色を重んじて傾国を思う
    御 宇 多 年 求 不 得  御宇多年求むれども得ず
    楊 家 有 女 初 長 成  楊家に女有り初めて長成す
       ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
    天 生 麗 質 難 自 棄  天生の麗質自ら棄て難く
    一 朝 選 在 君 王 側  一朝選ばれて君王の側に在り
       ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・  
    春 寒 賜 浴 華 清 池  春寒くして浴を賜う華清の池
    温 泉 水 滑 洗 凝 脂  温泉水滑らかにして凝脂を洗う
       ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
    春 従 春 遊 夜 専 夜  春は春遊に従い夜は夜を専らにす
    後 宮 佳 麗 三 千 人  後宮の佳麗三千人
    三 千 寵 愛 在 一 身  三千の寵愛一身に在り
       ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
    遂 令 天 下 父 母 心  遂に天下の父母の心をして
    不 重 生 男 重 生 女  男を生むを重んぜず女を生むを重んぜしむ
    西 出 都 門 百 余 里  西のかた都門をいずる事百余里
    六 軍 不 発 無 奈 何  六軍発せず奈何ともする無く
    宛 転 蛾 眉 馬 前 死  宛転たる蛾眉馬前に死す
       ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
    在 天 願 作 比 翼 鳥   天に在りては願わくは比翼の鳥となり              
    在 地 願 為 連 理 枝  地に在りては願わくは連理の枝と為らんと            
    天 長 地 久 有 時 尽   天長く地久しきも時有りて尽く                  
    此 恨 綿 綿 無 尽 期  此の恨み綿々 として尽くる期無からん

 長恨歌は百二十句からなる長編詩である。内容は言うまでもなく玄宗皇帝と楊貴妃を詠った詩である。楊貴妃の美 しさが遺憾なく表現されている。華清池で遊ぶ二人の様子が思い浮かべられるが、「凝脂」とは「固まった脂肪」を あらわし転じて「白い肌」を意味すると言う。体重80kgの楊貴妃に似つかわしい表現に思える。
 「不重生男重生女」の部分は白居易が現代の中国をあてこすったように思えて面白い。一人っ子政策がすすむ中国 では「不重生女重生男」である。

   60.旅の終わりに

 忙しい現代の世の中、8日間の旅に出ることはなかなか難しい。今の日本の人たちにとって8日間仕事を離れて自 分の時間を作ることは余程の覚悟が必要だ。今回私が旅行に参加できたことは周囲の人達の協力が有ってのことで、 そう言う立場にある自分は幸せであり、周囲の人達に感謝したい。しかし、このような日本は異常とも思う。張騫が13年かかってシルクロードを渡り武帝の命を果たしたこと。シルクロードの隊商が数年かかって砂漠を渡り東西の 文化を繋いだことを考えれば現代の世の中は何ともせちがない世の中だと思う。人類が生まれて現代に至るまで数え切れない人達が生まれては死んできたが、現代のような忙しい世の中に生活しているのはその極々小数の人間である と云うことを考え合わせると、張騫を驚きの目で見ている我々は、実は驚きの目で見られる立場ではないかと思えて くる。敦煌の人達の生活を評するに「経済的に貧しい」と片づけるのは余りにも短絡が過ぎる。我々日本人とは違っ た価値観を持った世界中の多くの人に「日本人は○○的に貧しい」と一言で切り捨てられるに等しい。海外を旅行する と自分とは違った価値観を持った人々に逢え、自分を見つめ直すことができる。機会があれば又海外を旅したいと思 うが時間が取れるか分からない・・・と云っている自分はやはり日本人なのだろう。
 今回の旅で中国の発展を目の当りにし、アジアの一員としての中国への期待感とともに余りにも多くの問題を含ん でいることも感じさせられた。  再び中国を訪れる機会があるかどうかは分からないがもし、又中国を旅行することが あれば、その時は今回旅先で出会った人達が幸せな顔で迎えてくれることを祈りたい。それと同時に世界の一員とし て中国も、立ちはだかる世界の諸問題の解決に尽力してもらいたいと思う。           

            ・・・・おわり・・・・

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