きもの春秋14
  平服について

 結婚披露宴や、その他の宴席に招待されるときに「平服でおいでください」と案内を貰う事が有る。ホテルや結婚式場では出席者への案内状に儀礼的に、と云うよりは機械的に使っているところもあるように見受けられる。しかし、案内状を貰う側にとっては、この「平服」と云う言葉に悩まされることが往々にしてある。先日もお客様に相談されたことが有った。「平服で云々」と案内を貰ったけれども、果たして何を着ていったら良いのかが分からないと云う。このような相談は最近良く耳にするし、私自身も経験するところである。
 「平服」とは、辞典で引けば「普段着、平常着の衣服」とある。その言葉通りに受けとめれば、晴れ着に対する普段着、平服と云うことになるのだろうけれども、それでは結婚披露宴に普段着で出席して良いものであろうか、と思うのは誰しも同じである。
 「平服で云々」の案内を貰って出席したところ、ほとんどの人が訪問着等の晴れ着を着て、主賓の人間がスーツを着て恥ずかしそうだった、という話を聞いたことが有った。又、「平服で云々」の席に出たところ、紋付を着ている人、普段着のワンピースを着ている人などさまざまで異様な雰囲気だったという話も聞いたことが有る。「平服で」とはいったいどのように解釈したら良いのだろうか。
  日本語の会話は非常に曖昧だ、とは良く言われる。表現が曖昧であったり、応答が曖昧であったり、あるいは意とする所とは反対の表現を使ったりで、魑魅魍魎としている。普段日本語を使っている我々には、それ程不便を感じないけれども、外国人に言わせると、曖昧でまだるっこしい会話と思われるらしい。今日の諸外国との経済摩擦もその辺に起因するようにも思われるが、私は日本の会話は、日本のすばらしい文化を代表する一面が有ると思っている。
 日本の会話では、結論をはっきりとは言わずに、お互いを理解しなければならない。まだるっこしい様に思えるかも知れないが、始終このルールにのっとり会話するものにとってはそれ程難しいことではないし、結論を言うことなしにお互いが理解し会えれば、はっきりと結論を伝えるよりも、その効果は数倍するのである。「御心配なく」あるいは「御気づかいなく」という言葉は「かまわないでくれ」という意味ではない。その言葉の裏の意味を解さなくてはならないのである。
 それでは、「平服云々」の裏にはどのような意味があるのだろうか。私は、
「平服でおいで下さい」
と言うのは、
「私は大した宴を催すことができませんので、服装には気を使わないでおいでください」
の意ではないかと思う。
「大した宴を催すことはできない。」
というのは日本の美徳である、謙遜・謙譲である。自分がへりくだり、相手には気を使わないようにという気遣いが感じられる。受ける側では「平服」を真に受け、普段着で出席して良い訳ではない。あくまでも主催者に対して、
「大した宴ではない、とはとんでもない。そのような立派な席には、私などは晴れ着を着て出席させていただきます。」
と敬意を表して晴れ着で出席すべきではないかと思う。まだるっこしいようだけれど、お互いがへりくだり、相手を揚げようとする、日本の大切な精神文化が感じられるように思われる。
 現実にはどうなのだろうか。「平服云々」を発信する側、受信する側が、そのような日本伝統のルールに則して発信、受信しているのだろうか。ほとんどの場合、発信側は機械的に「平服云々」を使っているように思われる。「平服云々」の案内状を貰ったので、紋付は避け、小紋や紋のない色無地を着ていったところ、主催者は揃って第一礼装で迎えた、という話も聞いたことが有る。主催者が、客に恥をかかせる様なことがあってはならない。お互い、「平服云々」は儀礼的な物で、礼装を暗黙の了解とされるのであれば主催者が礼装でも良いだろうけれども、昨今の状況を見るに、「平服」の二文字に心を悩ませ、普段着に近い服装で出席する者がいる事を考え合わせれば、「平服云々」の案内状を出した以上、主催者が第一礼装で出席者を迎え、出席者に恥をかかせるような事は避けるべきと思う。
 それではどうしたらよいのだろうか。日本伝統の謙譲のコンセンサスが失われてしまっているとしたら、むやみに「平服云々」の案内は差し控えたほうが良さそうである。また「平服云々」の案内状を貰ったら、やはり普段着で行くのはやめたほうが良い。発信者は機械的に使っている場合が多いのだから。そしてその場に合った服装を一段落として着ていったらどうだろうか。もしも、訪問着を着ていくべき所であれば付下げか紋の入った色無地。付下げであれば、上質の小紋と云うように。  きもの文化の衰退は、そのまま日本文化の衰退を映しているように思える。