きもの春秋3
 「羽織は着ない」への疑問

 「 今は羽織を着ませんから。」
と云う話を良く聞く。羽尺と云う言葉も商品も最近ではほとんど無くなってしまったが、私の母は今でも羽織を着用している。女性のきもの、羽織姿は実に良いものである。しかし、お客様に羽織を勧めようものなら、冒頭の、
「今は羽織を着ませんから」
「羽織は着るところが無いので」
という言葉が返ってくる。私の母が羽織を着ているように昔は皆羽織を着ていたし、入学、卒業式で父兄(母親)の黒の絵羽織姿は制服のようになっていた時期もあった。では何故羽織は着なくなってしまったのだろう。 「羽織は着ない」 というお客様の話を総合すると、
「羽織は着ないと聞いたから」
と云うことらしい。普段あまりきものに縁の無い人達が他人から、
「羽織は着ないものだ」
と教えられればそれをうのみにしてしまう。きものが一般的な衣装でなくなった現代を象徴する出来事であるとも云える。きものの知識の無い人が他人の言に惑わされている面もあるけれども「羽織は着ない」という根拠が全く無いのかと云えばそうでもない。第一に女性にとって羽織姿は正装ではない。きものを着る機会と云えば晴れの場が多い今日のきもの事情を考えれば、羽織を着る機会が少ないと云うことは云える。第二に着物を着る人口に占めるお茶をする人の割合が増えている事もその一因にあげられる。お茶では羽織を着用しない。従ってお茶をする人達にとっては羽織は必要ないと云うことが「羽織は着ない」に通じているように思える。  私が小さい頃、祖母や母がお客様にきものを勧める時には、きもの一枚に帯と羽尺(羽織)を必ずセットで勧めていたように思う。着尺と羽尺と帯は一つのアンサンブルを成す組み合わせだった。昔は(と云っても大昔ではない)着ていた羽織が、今日「羽織は着ない」の一言で抹殺されつつある事に私はきもの文化の衰退を感じずにはいられない。
 「巽やよいとこ」という小唄に次のような行が有る。

   巽やよいとこ 素足があるく
          羽織ゃお江戸のほこりもの

巽芸者の意気を唄ったもので普通芸者は着用しない羽織を、海風にさらされる巽の芸者は羽織を着て座敷に上がり、それを誇りにしていたという文句である。
 羽織はおしゃれの要素と供に寒さを防ぎ、きものを汚れから守ると云う実用性も合わせて持っている。葬式の喪服には昔黒の羽織がつきものだった。冬の寒い葬式に参列すると羽織を着ないで震えている人達の姿を良く見かける。最近のお寺でも広い本堂ではストーブがいくつか置かれ、参列者はその周りにたむろしているケースが多い。葬式にきもので参列する人も少なくなってしまったが、黒の羽織を着れば良いのにと人事ながら思ってしまう。黒の羽織を持っていないのか、それとも「羽織は着ない」の言葉に惑わされ、持っていても着ないのか分からないけれど、年配者程礼儀正しく寒さを堪えている姿は見ていても痛々しいのである。私は葬式に参列する場合は男の正装として紋付羽織袴を着用しているので冬の葬式でも寒さに震えたことはない。
 実用的で女性の美しさを引き立てる羽織を「着ない」あるいは「着てはいけない」とする理由は差し当たって私には見当たらない。羽織を着ない(着てはいけない)と言う正当な理由を知っている人がいれば教えてほしい。