新きもの春秋

2.二つの大型呉服店の倒産について

 過日二つの大型呉服店が倒産した。大阪の愛染蔵と京都のたけうちである。
  わずか二つの呉服店の倒産により、京都室町の問屋筋は混乱の渦中にある。 愛染蔵は支払いが現金払いを原則としていたので問屋への直接の影響は数億円程度で留まっているらしいが、たけうちは負債総額が200億円を超え、呉服問屋への負債も数十億円規模だと言う。
  直接的な負債も然ることながら、二店あわせて700億円の市場が消えると言われ、今後の業界への影響は計り知れないと報道されている。呉服業界にとっては大口のお客様が二人続けて失うという事になり大きな痛手であることは間違いない。
  ここまでのニュースの経緯を聞いていると、二つの大型店を失うのは損失であり、呉服業界としては何とか生き延びてもらいたかった、と受け取れる。しかし、私はそのような報道に疑問を感じている。
  「二つの呉服店」と書いてしまったけれども、私はこの二店を「呉服店」と呼ぶのに嫌悪感を抱いている。 呉服店とは何か?…「呉服を扱う店は呉服店」という定義もできよう。しかし、私は、全国の数多くの呉服店とこの二店は性質を全く異にすると思っている。 呉服店に限らず、物を商う者は自分が商う商品に責任を持たなければならない。その商品についての扱い方、使用法あるいは料理法など、商品だけでなくそれに付随するノウハウをお客様に提供するのが商売である。そして、それは小売りに限らない。
  私の友人で商社マンがいる。今は偉くなってしまったが、彼は若い時にはエビを担当していた。世界中のエビの産地、銘柄、生産量等エビについてのあらゆる知識が頭に入っている。魚屋やスーパーの店先に並ぶエビを見れば、名前はもちろん、どこから輸入されたのかが即座に分かるといった具合だった。
  商売人の商品知識は必然的に備わるものである。自分が商う商品に責任を持たない商人は消費者の指示を得られないからである。
  電気製品を売った電気屋さんが商品を購入したお客様からその使い方を尋ねられ、「分かりません」では話にならない。もしそうであれば、その電気屋さんは二度と相手にされないだろう。 花屋さんは花のアレンジができなくてはならない。肉屋さんはロースとサーロインの区別がつかなくてはならない。ブティックの店員は洋服のコーディネィトが出来なくてはならない。そんなことは言うまでもないが、物を商う基本である。
  呉服を扱う者は、商品について、又そのTPOについてお客様に説明責任がある。そして、それができるのが呉服屋である。しかし、前述の倒産した二店をはじめ「呉服屋」の名に値しない業者(あえて呉服店ではなくこう呼ばせていただく)が増えている。
  私の店に出入りする問屋の話である。
  「ある大手の呉服店(業者)の展示会に付き合わされて出品したんですが驚きましたよ。社員がお客様を展示会場に連れてくるんですが、販売は会場にいるマネキンさんに任せっきり。自分はただ付いて歩いて口から出る言葉は「お買い得ですよ」「お似合いですよ」「安いですよ」の三言だけなんです。」
  社員はきものの知識が全くなく、反物を巻くことすらままならない者もいると言う。
  自分が商う呉服に対して責任が持てず、展示会と称して客を集め法外な値段できものを売る。何故このような業者がはびこるのだろうか。 どのような手練手管を用いても原価の十倍もの価格を付けて急成長する八百屋はないだろう。消費者の意識はそれ程甘いものではない。お客様は野菜の相場はわきまえている。その野菜は相場をかけ離れているかどうかは容易に判断できる。
  彼等業者にとって呉服は扱い易い商品なのだろう。呉服は高価である(と信じ込ませ易い)。商品価値、相場が消費者に分かり難い。文化的であり、消費者の心理を利用し易い。などがその原因だろう。すなわち、業者にとって呉服は消費者を釣る恰好の餌なのである。
  報道によれば、倒産した二社は価格が原価の十倍、ただの商品を人間国宝の商品だと言って売る。監禁、恐喝まがいの商売が行われていたと言う。そして、それを覆い隠しているのは豪華な展示会や招待など呉服とは関係のないあの手この手である。
  私は何故消費者がこのような商法に惑わされるかと常々思っていた。しかし、今回のこの二店倒産で消費者が目覚めてくれれば良いと思っている。
  倒産した二店について書いてきたけれども、両社に対する非難声明と受け取られたかもしれない。しかし、ここまでは前置きで、私が本当に訴えたいのはここから後である。
  前述した二店のような倒産は今回が初めてではない。十年程前にも「友禅の館」と称する業者が倒産し、「急成長した呉服屋の大型倒産」として話題になった。そして、今回の倒産劇である。さらに、次の大型倒産の予備軍として噂されている業者も幾つかある。
  今回の倒産劇で十億円以上の損害を被った商社もあり、連鎖倒産した商社、連鎖倒産の噂がある商社も数多い。小額の負債を被った商社も含めれば、相撲の番付の如く多くの商社の名が挙がっている。
 
それらの商社は今日の事態を予測できなかったのだろうか。
  私も含めて業界の多くの人達が今日の事態を予測していたと思う。
  「あんな商売を続けられたら大したもんだ。」
  そう言う声は前々から聞こえていた。
  私の店に出入りする商社も何社か債権者に名を連ねていた。その中の一つの商社の出張員に聞いてみた。
  「大した金額じゃなかったけれども、御社も大変でしたね。しかし、よく取引したものですね。倒産するのは予測できなかったですか。」
  冗談混じりに私が言うと、出張員は困った(と言うよりもあきれた)表情で言った。
  「いや、分かってましたよ。取引すると言う話が出た時には社員皆が反対したんです。あんなところ潰れるからやめとけってね。だけどトップが決めちゃったんです。」
  業界の多くの人間はまともでない商売をする業者は続かないと思っていたようだ。
  今回倒産した二つの業者、また「友禅の館」も売上を急成長させてきた。そして、業界ではマスコミも加わって褒めちぎり、呉服業界の救世主のようにもてはやしていた。それらの業者が販売の現場で行っていた事を知ればまともに続かない事は分からなかったのだろうか。業界紙の中には、それら業者の商売法を手本として紹介までされていた。息長く業界の発展につながる商売ではなく、花火の如く急成長しはじけてしまう業者を何故もてはやすのか、疑問である。
 もて囃していたのは業界のみならず、大げさに言えば日本経済が持て囃していた。大手の経済誌は「呉服業界のユニクロ」と持ち上げ、「社員にやる気をおこさせる分社制」と大々的に喧伝していた。
  しかし、現場で行われていたのは、売り方上手な人間をトップに抜擢する売上至上主義だった。店長となった人間の中には、きものの畳み方さえも知らない者がいたと言う。そこにあるのは、会社を発展させる原動力『金』だけで人を評価する世界である。手段を選ばずきものを買わせる力のあるものが、というよりも(きものでなくても何でも良い)物を売りつける力のみが評価される世界である。
  大手経済誌の記者はそこまで見抜いていたのだろうか。それとも経済誌が評価するのはやはり手段を選ばず金を儲けること、それが経済だと言うのだろうか。
  信用ある経済誌が本気でそれらの業者を評価し日本経済の鑑であるとしたのなら、経済とは何かと言う事をもう一度考えなければならない。
  金の論理だけが経済、そしてそれが唯一の真実とすれば、その金を得る手段である各業界をどのように考えればよいのだろうか。
  きものは金を得るための媒体にしか過ぎないのか。染屋機屋の物づくりの苦労などどうでもよい、見せ掛けの商品で消費者を騙せればよいというのだろうか。呉服に携わるものとして余りにも悲しい。
  今回の倒産劇で呉服業界はしばらく混乱するのは必定である。 いくつかの商社が連鎖倒産し、その影響で仲間問屋、染屋、織屋が連鎖倒産する。倒産をまぬがれた染屋、織屋も納品先を失い売上が激減する。
  我々小売り屋にも影響がある。染屋、織屋、問屋の倒産で商品が思うように入らなくなってしまう。その影響は計り知れないものがある。   しかし、その原因を創ったのは業界自身であることに気が付くべきである。健全な呉服の需要を育てようとせず、目先の売上、巧妙な売り方だけに頼る業者を育て、呉服市場を水ぶくれさせて、それが今はじけているのだから。