213.日本人の信仰について 
「新きもの春秋1.宗教戦争ときもののTPO」に対する投稿です
 もしかしたら、ゆうきくんさんは無神論者なのかもしれません。 だからといって、日本人が皆、信仰心がないと一方的に決めるのは、いかがなものかと思います。
  確かに、日本歴史最大の宗教弾圧である信長公の比叡山焼き討ちや一向一揆壊滅などは、政治的戦略であります。また、蘇我氏物部氏の仏教を受け入れるか否かをめぐっての争いも仏教という新しい考えを周辺の文化を含めて受容するか否か、どちらが覇権を取るかの争いであって、宗教戦争ではない、と言えるかもしれません。
  しかし、現在の宗教戦争も宗教という集団の御旗の違いを掲げてはいますが、政治的にどちらが覇者になるか、の争いであって、純粋な「宗教」の争いであるとはいえないのではないでしょうか。もちろん、信仰のために自爆する人は、信仰ゆえにの行動であるかもしれません。しかし、それとて、貧困からの脱出、現世では得られない神の国で安らかな生活を望んでの行動であるという側面も否定できないと思います。
  キリスト教やイスラム教、ユダヤ教は一神教で、かつ、他者(異端者という言葉もあります)は正義ではないという考えがあります。よって、他者への寛容に欠けるきらいがあるかとは思います。しかし、日本人は基本的に神道的な考えを持っていた(現在、都会に住む方々は違うかもしれませんが)。その考えは、「先端的」なキリスト教などの体裁を整えた宗教から見れば、原始的であるのでしょう。経典を持たず、教祖もなく、一神教などの宗教から見れば、宗教の体裁を持っていない。これは事実です。
  しかし、キリスト教やイスラム教のような形式を整えた宗教だけが宗教であるとは、私は考えません。キリスト教ですらone of themとして取り込む度量のあるのは日本人の信仰心ではないでしょうか。たとえば、日本でのクリスマス。私自身はクリスマスをやったことはないので、本当のところは分かっていないのかもしれませんが、少なくとも、私がヨーロッパやアメリカで見た敬虔なキリスト教徒のクリスマスとは違うのは分かります。特別な食べ物(ケーキ)を皆で食べ、贈り物をして騒ぐ。まさに、「祭」そのものではないかなと、それこそが日本人の信仰心ではないかなと思います。(一神教のキリスト教徒から見れば、日本人のクリスマスの祝い方は理解しがたいでしょう)
  八百万の森羅万物に神を感じ、自然に畏敬の念を持ち、祖先に感謝・礼拝し、他の神を受容する(つまりは他者への尊敬につながる)。日本の良いところ、それは信仰のひとつの形態だと思います。決して、日本人には信仰心がないとは思いません。
  他のお考えには賛成ですが、信仰心の部分は納得できないので、ご意見をさしあげるしだいであります。

 仰るように私は無神論者なのかもしれません。と言うよりも、触れてはならない話題に触れてしまったようです。
「そもそも宗教とは何か」という議論に踏み込んでしまいそうですが、私はそれい対抗するだけの知識を持ち合わせていません。
「森羅万物に神を感じ、自然に畏敬の念を持ち、祖先に感謝・礼拝し、他の神を受容する(つまりは他者への尊敬につながる)。」日本人・・・まさにその通りだと思います。それ故に、他者へ寛容なはずの日本人が、きもののTPOに関しては、他者への疎外感を露にする今のきもの事情に警鐘を鳴らしたかったのです。

 基本的には神道は根っこに持っているかもしれません。 が、昨今の日本においては、仏教の方が強く影響しているのではないかと思われます。
  歴史的に大きな宗教戦争はなかったかもしれません。 が、一方、同じ仏教の何宗なのかで、ご近所同士でシカトがあったようです。 婚姻に際して「両家が同じ宗派もしくは不都合のない宗派同士かどうか」はかなり大きな問題とされています。その裏には「別宗派の嫁が婚家の仏壇を捨てた」という実例もあったとかで、私の婚姻の際にも、先祖の宗派が別でしかも私当人はクリスチャンでしたので、その旨聞かれました。
  私としては、家の仏壇にあるのは「釈迦」でなく「先祖」だと思っておりましたから、逆に思いもよらない質問でした。 それでも「不都合のある宗派だったら結婚の許可はしなかった」と聞くに及んで、もうビックリ仰天でございました。 幸いにも祖先の宗派は「婚家の宗派とは差し支えのない宗派」でしたので問題なく。 同じ釈迦を祖とする仏教ですらこうです。ユダヤ教とキリスト教とイスラム教が説くの神は同じです。個人的には釈迦がたどり着いた世界の奥義もまたユダヤ教の神と同じなのではないかと思っています。
  その「同じ起源」を持つ同士が枝葉末枝の差異を言い立てて民族の単位で、国の単位で、家の単位で、更に家のウチの家人同士で争う。 個人的には「同じ宗派でも土地が違えば微妙に違う」のも体験しています。
  着物のTPOもそういう意味では似ているなと思います。 お公家さんがいて、お武家さんがいて、商家や町人がいて、農民がいて。しかも、どこの土地に住んでいるか(祖先の住んでた土地はとか)で同じ括りの人でも違う。 更にお武家さんも大名から足軽がいるし、商人も大店から行商人まで。農民も庄屋から小作人まで。一つの括りに更に区分けがあって、差異がある。 更に、そういった「祖先の習慣」を今でも維持してるのか、とっくの昔にホカしてしまってるかという個別の家の事情もある。
  これが、「某企業に就職した営業職予備軍の新人」という一括りの中にゴチャゴチャに入っているなんて昨今では、至極普通のことでしょう。 祖先の宗教もバラバラなら、いざ着物を着ようといった際のTPOがバラバラなのも至極当然なのだと思います、 実例です。夫の実家では「普段には木綿であっても長着は着るものではない」となっています。
  着物というのは、冠婚葬祭のときのみに着用するものなんだそうです。 袴を穿いて良いのは、本家の当主か結婚式の新郎のみ。女性の袴は巫女さんのみ。 これらの習慣は江戸時代からの農家であるということに起因します。本百姓で苗字帯刀を許されていた本家は必要の時には袴を穿くことができました。 一般庶民に礼装時に袴の着用が許されるのは明治10年の法令以降です。 男女共に野良で働きますので普段は野良着。長着を着ることはありませんでした。 女児と女教師の女袴は昭和初期迄はありましたが、今は当然廃れました。 逆に集落内の結婚披露宴に招かれたら、訪問着を着て出るのは当然で、「相応しい色柄がない」だの「そもそも着物や帯がない」などは非常識とされています。 「それは、江戸時代の農村の話でしょ」と思いそうですが、今でも、頑とこう思っている集落があったりするわけです。 宗教も着物のシキタリもホントに千差万別と思う次第です。
 優妃讃良さん、今晩は。 (このお話は、sevenさんとゆうきさんの書き込みを拝見すると、 お二人の間で終わっているかと思います。 私には、他人が口を出す事では無いと思えるのですが…如何で しょうか?)

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