続きもの春秋14 
 『良いもの』と『高いもの』

「あの人はいつも良い物ばかり着ていますね。」
 そういう言葉を聞くことがある。普段でも結婚式や祝賀会など晴れの場でも、誰が見てもいつも、
「ああ、ステキだな。」
と思わせるきもの姿の人は周囲にいるものである。さて、万人の目に映る『良い物』とは何なのだろうか。
 万人の目とは言っても様々なので一概に、こうとは決めつけられない。しかし、『良い物』の言葉の裏には『高い物』『高価な物』という意味を多分に含んでいるように思われるのである。
 「良い物を着ている人」という言葉の裏には金持ちに対する嫉妬心を感じる事もある。『良い物』と『高い物』は全くイコールで結ぶことができるのだろうか。
 私の店は老舗である(という事になっている)。創業百年足らずで老舗といえるのかどうか分からないけれども、山形の呉服屋では最も古い店に属するのだろう。それにも増して老舗と呼ばれるのは、先代、先々代が決して『悪い物』を売らなかったからだろうと思うのである。
 『良い物』が『高い物』だとすると、『安い物』は『悪い物』という事になるのか。そうとばかりは限らない。実は、『老舗』イコール『良い物』イコール『高い物』という短絡的図式が私の悩みの種の一つである。  店の表のウインドウを見ている人に声を掛けると、
「お宅の店は老舗で高級品ばかりだから・・・。」
という言葉を頂戴することが度々有る。その客の口ぶりからは、
「お宅の店には高い物しかないのでしょう。」
という表情が見て取れる。そう言う場合、私は次のように応えることにしている。
「ええ、私の店は高級品ばかりですが、高額品は置いておりません。」
 だいたいの人は、少し戸惑った後、私の言わんとする意味を理解してくれる。もっとも理解してくれたからと言って即販売に結びつく事にはならないのだけれども。
 さて「良いものは高いもの」というのは基本的には成り立つ方程式である。それは誰しも直感的に理解することができる。付加価値を付ければ良くなり、付加価値のついた物は高くなる、という単純な方程式である。反対に「安くて良いもの」というのは余りピンと来ないかも知れない。しかし、その原則は現在崩れてきているようにも思われる。
 物が売れない昨今、商品そのものの付加価値以外の付加価値が付けられ商品の価格に跳ね返っている事が少なくない。呉服業界においては「○○をサービス」とか「××御招待」といったようなものから、異常ともいえる販促活動にともなう経費の上載せなど商品の価値はなおざりにされているケースが見受けられるのである。消費者がサービスに満足して消費するのだから構わないという考え方もあるかも知れない、私は消費者に商品そのものの価値を正しく判断してもらう事を期待している。
 消費者に「高いものは良いもの」という意識が先行すれば、良いものを安く創るという生産者の意識を萎えさせてしまうかも知れない。小売店も高いものは良いと喧伝しかねない。
 私のブティックの店頭にはワゴンが置いてある。いわゆるワゴン商品を売るためで、そこに並べられているのは4〜5千円の安価なセーターの類である。そのセーターを造っているメーカーは大量生産薄利を貫き急成長している。商品は確かに良く価格も安いので当社でも自信を持って並べている。多くの消費者は値段と商品に満足して買っていくが、
「このセーターの元値はいくらですか。安くなっているのですか。」
と聞く人がいる。
 このような商品の場合二重価格、すなわち4900円のセーターを黒札で7900円と付け赤札で4900円と付けている店も多くあることも知っている。先頃大手スーパーが牛肉の価格に二重価格を付けていたと問題になったことがあったけれども、こうした二重価格が横行しているのも事実である。消費者は二重に付けられた価格を見て、
「これは安くなっているんだな。」
と判断するのを期待しているわけである。
 私はこのように聞いてくる客には次のように応えている。
「物を見て判断してください。私の店ではその商品の価格以上の値段は付けておりません。」
 しかし、ほとんどの場合このように聞いてくる客のほとんどは買わずに立ち去ってしまう。
「なんだ、安くなっていないのか。」
という判断があるのだろう。二重価格にしたら「安くなっている」と喜んで買っていったかも知れない。  あらゆる商品が市場に氾濫して、消費者の判断はプライスカードに頼るしかなくなっているのかも知れない。高い値段が付いていれば良いもの、赤札であればお買い得というように。私は消費者がプライスカードに振り回されることなく価格判断をしてもらえれば良いと思っている。赤札であろうと黒札であろうと、その商品は自分にとってその価格に見合うものなのかどうかを適切に判断して貰えれば、メーカー小売店ともに安くて良いものを並べる努力に向かうはずだから。
 付加価値の判断しにくい呉服に至ってはなおさらである。もともと皆がきものを着ていた時分にはきものの付加価値の判断もそう難しいことではなかったはずである。しかし、普段きものを着なくなり、きものに縁遠くなった現代はきものの付加価値を計るのが難しくなっている。
「手描きも型染も区別がつかない。」
「緯総絣(よこそうがすり)の大島紬も九マルキの大島紬も説明されないと分からない。」
というのが大方の消費者の正直な声である。手描きと型染の違い、大島紬の緯総、五マルキ、九マルキの見分け方など少し説明すれば簡単に理解できることなのだけれども、消費者がその努力を怠っているのか、小売屋が理解させる努力を怠っているのか、そのどちらもあるのだろうけれども、その背景にはきものが縁遠くなったという事情がある。
 きものに関する知識が希薄になり、購買意欲もない消費者にきものを売るためにあの手この手の販売活動が行なわれ、きものの価格を押し上げる要因にもなっている。
 消費者は高いきものを買うのを余儀なくされ、業界は益々きもの離れを招くというように消費者、業界ともに自分の首を締めているように思えるのである。
 消費者のきものを見る目が無くなった、と先に書いたけれども、本当の所は冷静な消費者は良いものを見分ける目を持っている。きものを買いに来たお客様に、高いもの(良いもの)と安いものを黙って見せると、ほとんどのお客様は、高い方の商品に目を向ける。高いものが気に入るのだけれども、その価格の差を知って迷ってしまうという事が良くある。何の雑音も聞かせずに、消費者判断を求めれば、消費者は型染よりも手描き、横そうよりも九マルキの大島紬を見分ける目を持っているのである。余りにも氾濫する情報や宣伝、勧誘によって消費者の見る目が曇らされているというのが本当かもしれない。
 消費者が交錯した情報に惑わされることなく冷静な目で商品と価格を判断することは、消費者にとっては良い物を安く買うために必要なことであり、小売屋は適切な助言をするべきである。消費者に冷静な判断を仰ぐことは、長期的に見れば業界にとってきものの文化を長く残すという意味では有用である。
 もっとも、きものを金儲けの媒体としか考えないような業者であれば無理かとも思えるけれども。