続きもの春秋3
 紬の絵羽(訪問着)について

 最近は紬の絵羽物を良く見かけるようになった。絵羽とは、縫目にまたがって柄の合うきもので、従来、留袖や訪問着、付下、振袖などの晴れ着として使われた形式である。着ているきものが、一つの屏風のようになってきものならではの雰囲気をかもしだす。どんなに軽い絵羽模様であっても普段着としては着られないのが従来の習慣である。
 一方、紬は普段着の代表格である。普段着と云えば、小紋もあるけれども、ちりめんの染物である小紋は汚れ易く、日常生活にはそぐわず、おしゃれの域を出ない。ちりめんの小紋は言わば、あらたまった普段着である。そんな訳で、日常のお三どんには紬のきものが着られる。
 では何故、紬が普段着なのかと云えば、ちりめんとは違って紬糸を使うため、少々の水に対して縮んだりすることがない。また糸は先染めされているので、染めが堅牢である事などが揚げられる。また、その起りが、生糸を作ることのできない人々が着ていたという歴史的な事実もあるように思えます。  普段着の紬と晴れ着の絵羽というのは本来相容れないものである。しかし最近は、大島紬や結城紬をはじめとして紬の訪問着が創られている。展示会では相当の量が出品されるので、余り驚かなくなったけれども、先日大島紬の振袖が展示してあったのには驚いてしまった。
 紬や絵羽の意味を知る者にとって、紬の絵羽は奇異に感じられる。そして、彼らが初めて紬の絵羽を見た時には異口同音に
「どういう時に着るのですか」
という質問がされるのである。
 その答えは様々である。普段着と晴れ着を足して二で割って「普段着は着ないそこそこの場所」と言葉を濁す人もいれば
、「式には出られませんが、およばれなどのパーティに」
という人もいる。又、
「結婚式に出てもかまいませんよ」
と紬の絵羽を晴れ着として勧める人もいる。私も織屋さんや問屋さんが紬の絵羽物を広げる度に、その質問をするのだけれども、統一した答えは返ってこない。紬の絵羽が作られ、売られている以上、それを買って仕立てている人もいるはずである。買って仕立てている人達はもちろん何時、どんな所で着るべきものかをわきまえているはずだろうけれども、どうもそのコンセンサスはまだ得れていないような気がする。紬の絵羽は、いったいどのように考えたらよいのだろう。
 紬の絵羽を晴れ着と解釈するのであれば、紬の普段着性を否定することである。反対に、紬の絵羽が普段着であるとするならば、絵羽の晴れ着性を否定することになる。いろいろな話を聞いてみると、後者すなわち「紬の絵羽は普段着である」という説は余り聞かない。聞かれるのは「紬の絵羽は晴れ着である」(進歩派)という説と、「紬の絵羽は常識外」(保守派)と否定する人がいる。ただし、進歩派の中でもどの程度の晴れ着か、結婚式に出られるのか(急進派)、パーティ程度なのか(穏健派)に別れるのである。
 急進派の主張は、
「今では、きものを着る事自体が晴れの場であり、普段着のきものの意味が薄れている。従って紬は晴れ着であり、まして絵羽物であれば十分に晴れ着として通用する」
というものである。最近は確かにきものを着る人が少なくなり、たまにきものを着るのは晴れの場に限られている。しかし、紬を晴れ着として、というのに私は抵抗を感じている。
 紬は洋服に例えればGパンのデニムの生地にあたる。紬で絵羽物を作ることは、デニムでドレスを作るようなものである。洋服におけるデニムの位置と、きものにおける紬の位置とを全く同じに考える事には無理があるかもしれないけれども、本質的にはそういうことになる。          
「紬の絵羽」と一口に言うけれども、さらに分析すれば紬の絵羽も二種類に分かれる。一つは紬特有の織柄で絵羽を構成しているもの。これは大島紬のかすり柄や、すくい織で絵羽を構成しているものである。もう一つは紬の白生地に後染めをしたもので、結城紬や牛首紬、生紬に友禅を施したものである。両者とも紬生地には違いないけれども、前者は織物、後者は染物と言うことができる。
 一般に染物(後染め)は格が高く(高額品を意味しない)、織物(先染め)は格が低い(低額品を意味しない)きものの中にあって、後者(後染めの絵羽)は前者(織物の絵羽)よりも格が高いと言えるかもしれない。
 私の少ない知識を持ってすれば、絵羽の訪問着は次のように格付けをすることも可能である。
 縮緬の訪問着→紬生地の染めの訪問着→織り柄の訪問着
 紬の絵羽物について、あれやこれやと結論を引き出そうとしたけれども、一向に結論らしい結論には行き当たらない。
 とどのつまり、紬の訪問着は、先の需要が見込めない紬業界にあって、新しい需要を喚起するために創られたものと、素直に受けとめるのが良さそうである。
 紬の絵羽物が社会で受け入れられるものなのかどうかは、それを着る人たちの今後に掛かっている。しかし、余りにも細った呉服業界が、それを着る人々の声を聞く余裕もなく走り、伝統的な文化がどこか変な方向に行きはしないかと私は心配しているのである。