続続きもの春秋

 2.再考・中国の帯

 きもの春秋の中で「中国の帯」について触れた。中国は今日WTOにも加盟を決め、世界経済に強い影響力を及ぼすようになった。ケ小平氏が改革開放路線を推し進めるまでの中国は共産主義という厚くて高い塀に囲まれ経済的には日本をはじめ西側諸国とは無縁の存在だったといえる。しかし、今やその囲いは取り払われ、地図が赤く染められているのみである。その赤い色さえも良く目をこらして見なければ分からないほどの変化である。 ケ小平氏が改革開放を進めたのは1980年代。それ以来加速度的に中国の経済は成長し、今日のように日本や先進諸国にとっては脅威ともいえる存在になっている。
  私が「きもの春秋」で「中国の帯」を書いたのは1997年。今から4年前の事である。その当時はそのつもりで書いた文章でも、現在の中国の状況は大きく変り、今にしてみれば不適切と思えることも多い。そして、中国の呉服業界に対する影響力も昔とは違った形で大きくなり、様々な問題が起きている。その辺りを踏まえてもう一度中国の帯について考えてみたい。今の中国の状況を考えれば1年後には再再考しなければならないかもしれないが。
  先の「きもの春秋」を書いた当時、まだ私の頭の中には中国製品イコール粗悪品のイメージが強く残っていた。当時としては十分に肯ける事だったと思う。景品などに使われた当時の中国の工業製品は壊れやすく、というよりも初めから使用することを前提としてはいないのではと思えるものばかりだった。刺繍や彫刻などの伝統工芸品にはすばらしい技術と伝統が感じられたが、中国のイメージは粗悪な工業製品という思いを拭い去れなかった。
  しかし、今日中国の工業技術は日に日に成長し、アジアNIES諸国に追い付き先進工業国にも迫ろうという勢いである。先日、ソニーがコンピューターを中国で生産するという新聞記事があった。現代の最先端技術であるIT産業の競争は各国で火花を散らしている。アメリカはソフトとコンピューターの心臓部であるCPUで実権を握り、産業の米と言われる半導体DRAMを長年日本が牛耳ってきた。しかし、韓国が日本に追い討ちを掛け、日本は劣性に立たされ韓国との半導体戦争は採算度返しの消耗戦の観を呈している。そして、数年後には中国が参加するだろうと言われている。
  半導体の主導権はアメリカから日本、韓国、中国へと移ろうとしている。原因は必ずしも高い技術力によるものではなく、人件費の高いところから低いところに移る構図である。半導体という高度な工業製品を例に出すまでもなく、かつて繊維製品や家庭電器は日本のお家芸だった。アメリカの市場に入り込み、アメリカの製品を駆逐する様は集中豪雨的輸出とまで言われ、それを支えたのはアメリカに比べて安い日本の人件費だった。
  そして、日本はジャパンアズナンバーワンと言われる経済大国になったけれども、今度は日本がアメリカにした事と同じことを韓国やアジアNIES、ASEAN諸国にしてやられることになった。アジアNIESやASEAN諸国は安い人件費を背景に日本の市場に深く入り込んだ。そして、次は中国である。アメリカ→日本→NIES→ASEANという経済の構図は子供が親に世話になるのに似て、お互い様ということもできる。けれども中国の場合は事情を異にしている。アメリカは日本を受け入れる十分な素地があった。人口が日本の2倍、国土は25倍。政治的軍事的に世界の主導的な役を担っていたという事情もある。そして、韓国は人口が日本の三分の一強。国内総生産は日本の9.4%。台湾は人口が6分の1、国内総生産は6.6%である。他の目立ったアジアNIESであるシンガポールや香港、マレーシアは国内総生産では日本のわずか2%弱である。しかし、中国の場合はそれらとは比べ物にならない。統計上人口が日本の10倍。ただし中国には統計に表れない無戸籍国民と言われる人が相当数いる。私はその数は1億以上と思っている。国内総生産はまだ日本の4分の1(1999年統計)に過ぎないけれどもその影響は計り知れない。その昔、日本をアメリカという大人におんぶしていた子供に例えれば、今日の中国は日本という子供におんぶする大男なのである。
  きものの話から離れてしまったけれども、中国の帯を理解するためにはこのような経済的背景を理解しなければならない。
  中国が日本の帯の生産を始めたのはいつの事だろうか。「中国の帯」で記したように、私が京都に住んでいた17,8年前(1980年代前半)には、明綴、仙頭刺繍の帯が西陣に出回っていた。当時は高価なもので、総綴の帯に数百万円という値がついていた。もっとも中国の工場出しの値がいくらぐらいだったかは分からない。
  1985年頃には中国の帯が流行になり、明綴、仙頭刺繍、蘇州刺繍がどこの問屋でも扱われ、さかんに展示会が行われていた。目に見えないような細い糸で刺繍する中国の職人の実演が行われ、その出来高は相当なものだったろうと思う。その成功に気を良くしたのか、その後絽刺し刺繍なども加わり、又大手商社も参入して中国の帯の流入は膨らんでいった。 当時、中国で作られたものは明綴、仙頭、蘇州、絽刺しなどの中国伝統の技をきものに応用したものだった。真似のできない細い手作業と安い労働力は、手間という現代日本では最も縁遠い付加価値を日本人に見せ付けてくれた。
 「良くまあ、こんな細かい仕事を。」
 「どれだけ時間がかかるんでしょうね。」
そういう会話が展示会場のあちこちから聞こえたものである。
 しかし、需要に対して供給が増えれば価格が下がるのはアダムスミス以来の経済原則である。中国の帯は次第に価格が下がり始めた。その価格の下がり具合といえばハンパなものではなかった。輸入し始めた時の価格は御祝儀相場としても、その直後の値段の10分の1、あるいはそれ以下に落ちてしまったのである。
何故それほどまでに価格が下がってしまったのだろうか。当初高値で買った人の中には、
 「高い物をつかまされた。」
と、怒っている人もいるかもしれない。
 私は常々商品に関してできるだけ情報を集めるようにしている。問屋、機屋、染屋、その他業界のあらゆる人と接する度に業界で起こっている情報には耳をそばだてている。中国の帯の価格が暴落した背景を業界の人たちから聞いた話を総合すると次のようになるらしい。
 中国で帯を生産し始めた1980年代は、まだ中国は改革開放政策を明確に打ち出してはいなかった。工場は人民公社の下に置かれ、日本人スタッフが技術指導をしていた。
 次に書くのは私が想像したその当時のフィクションである。そのつもりで読んでいただきたい。 『1982年、竹中博は中国広東省深?市の工業団地で帯地の生産の指導にあたっていた。
 中国は文化大革命以来の経済停滞を打開する為に徐々に諸外国に門戸を開き始めていた。竹中は西陣の老舗帯屋の社員で工場の責任者として深?に赴任していた。中国での帯地の生産は当初不安もあったけれども出荷した商品はおおむね評判が良く、今後の展開にも希望を抱いていた。
 ある日、いつものように仕事を終えて帰ろうとすると、工場長の李元芳が追いかけてきた。人民公社の赤レンガの門を出たところで竹中に追いついた李は壁に隠れるように竹中を引っ張って小声で話した。
 「だんな、ちょっとこれを見てください。」
李は深?の北500キロにある紅山村の出身で日本語が話せることから工場長に抜擢されていた。抱えてきた包みを赤レンガの壁のほうに向けて人に見られないように包みを開けた。包みの中には一本の帯が入っていた。いちめんに相良刺繍を施した別に珍しくもない公社で作っている帯に見えた。しかし、公社で生産する帯は国の管理下に置かれ、持ち出しは厳禁であった。竹中の心配そうな顔を見て李が言った。
 「だんな、心配しないで下さい。これは公社で造った帯じゃありません。」
  そう言って誇らしそうに帯を広げて見せた。そして、周りを気にするように帯を包みに仕舞いこむと工場の門から離れるように歩き出して竹中に言った。
 「この帯は私の故郷紅山で織らせたものです。」
  竹中は話をよく飲み込めなかった。中国で帯地の生産をしているのはまだ数社にしか過ぎなかった。それも皆日本の指導を受けた人民公社だった。紅山村で帯地の生産を始めたという話も聞いたことがなかった。竹中の不思議そうな顔を見て李はニヤリと笑って言った。
「実は、国慶節の休みに帰郷した時に土地の者に作らせたんです。悪いとは思ったけれども公社で造った見本を一本拝借してね。」
  李は竹中に何かを期待するふうだったが竹中は李が何を言おうとしているのか分からなかった。竹中が黙っていると李は待ちくたびれたように話し始めた。
 「うちの村じゃこの程度の刺繍をする若い娘はごまんとおりますんで。うちの村に作らせてくれませんかね。」
 李の話は思わぬ内容だった。共産党政権下にある中国でこのような話を聞こうとは思わなかった。 李は続けた。  「公社でだんなんとこに渡す価格は一本○○元でしょう。私んとこなら××元で納められまさぁ。公社の半額ですよ。」
 李はニヤニヤ笑いながら言った。しかし、中国ではまだ外国人が自由に商売はできなかった。
 「しかし、・・・。」
  竹中が李に話そうとすると李がさえぎった。
 「輸出許可の問題でしょう。そいつは大丈夫だ。共産党の幹部にちょいと掴ませる物を掴ませさえすればね。幹部にゃ、そうさなぁ、だんなが日本で帯を一本売るくらい掴ませりゃ何でも通りますぜ。小役人にゃ、まあ夏目漱石さんとやらを一枚つかませりゃ。」
 竹中の戸惑った顔をよそに李は続けた。
 「だんな、いい話でしょう。半額で帯が入りゃ、だんなも大儲けができるってもんだ。」
 竹中にしても悪い話ではなかった。翌日もういちど商品を見せてもらうことにしてその場は別れた。 翌日、カーテンを締め切った工場の一室で李は持ってきた帯を広げて見た。
 「どうです、だんな。いいできでしょう。」
 「うむ、刺繍が少々荒いような気もするけれども決して見劣りはしない。」
 それでも踏ん切りのつかない竹中に李がうながした。
 「だんなの会社がだめだったら、だんなが買ってはくれませんか。半額だったらいくらでも売れるでしょう。千本以上だったらもっと安くしますぜ。書類なんかなんとでもなりますから。」
 商売として悪くはないと思った竹中はとりあえず百本を引き取ることにした。
 一月後、紅山村からトラックで商品が届いた。日本ではすでに廃車になるようなポンコツのトラックが公社の門をくぐったが、何故か一切検閲はされなかった。荷を解く李が竹中に言った。
 「ね、言ったとおりでしょう。商品も検閲も。」
  李は誇らしげに竹中の前に帯を開いて検品した。
 5年後、中国は改革開放が進み、中国に進出する日本企業もその数は加速度的に増えていた。中国国内の経済も自由化が進み、紅山村での帯の生産も公然と行われていた。竹中は西陣の帯屋を退職し大手商社の社員となっていた。中国の帯の成功に目をつけた商社が次々と帯の生産に参入しようとしていた。竹中は中国語と現地の人脈を買われて商社にヘッドハントされていた。商社は大量に安い帯を輸入し始めた。紅山村での帯の生産は日に日に拡大した。李元芳もまた紅山村に戻り紅山刺繍公司の総経理となっていた。
  竹中は度々紅山村を訪れ技術指導をしていた。 ある日、紅山村の宿舎に若い娘が帯を持って訪ねてきた。
 「これは私の故郷で作ったものです。一本□□元でできます。」
  竹中は耳を疑った。深?の半額でできる紅山のさらにその3分の1の値段でできるというのだ。話を聞けばその娘は紅山村よりさらに400キロ西に行った湖南省清江の出身。当地では女工がわずか200元の給料で喜んで働くという。竹中は、もはや西陣の帯屋ではなく、商社マンであった。安い帯が手に入るならばどこまででも行く覚悟ができていた。
  その後竹中は湖南省、四川省さらに雲南省までも足を運び安い帯地生産の拠点を作っていった。 他の商社も負けじと中国沿岸部から人件費の安い内陸部へと向かい、ついには国境を越えてベトナムにまでその拠点を作っていた。しかし、日本の呉服市場では中国刺繍の帯が氾濫し、すでに価格は暴落し始めていた。きちんとした日本の技術指導を受けず見よう見まねで作った帯は一山いくらで取引されていた。日本でいくら暴落しようとも中国内陸部では十分に採算のとれるレベルだったので生産はとまらず、受け取りを拒否する商社とトラブルも起こっていた。
 2000年、竹中は陝西省西安市の郊外に立ち地平線に沈む夕日を眺めていた。黄土高原から吐き出される黄色い砂塵が夕日を黄色く染めていた。そして、その先にもまだまだ中国は続いていた。
  「安い帯を求めてまだ西へ行かなければならないのだろうか。甘粛省、青海省果ては新彊ウイグル、西蔵まで・・・・。果たして自分は何の為に帯を作ってきたのだろう。」
と思いながら。』
 以上はフィクションである。私の想像が多分に入っているので余り信用しないでもらいたいが、中国刺繍の帯は少なからずこのような経過をたどったらしい。
 中国には刺繍の職人はいくらでもいる。それも日本とは比べ物にならない低賃金で請け負うのである。冒頭に記したように中国は日本の十倍以上の人口を抱えている。その労働力が日本をターゲットにしたら小さな呉服業界などひとたまりもないのである。
 さて、フィクションで描いてきたのは初期の中国刺繍の帯についてである。これは中国の帯の第一ステージにしか過ぎない。中国刺繍、明綴などの中国伝統工芸を駆使した帯は価格の暴落とともに話題の中心より遠ざかっていった。しかし、経済は常に利益を求めて動くものである。中国刺繍帯で味をしめた日本のメーカー、商社、中国の工場はさらに次のステージへと登っていくことになる。
 中国刺繍、綴の帯は今でも相当数市場に出回っている。私の店でもかつては扱っていたが最近は余り扱っていない。いや、扱えないと言ったほうが良いかもしれない。問屋がスポットで持ち込む中国の帯の価格はまちまちで、値段の付けようがないのである。相当に安く仕入れたつもりでも他の商社が同じような物をさらに安く持ち込むことがある。いったいいくらが標準の値段なのかを推し量ることさえ難しくなっている。安い値段を付けたつもりでも、他店でさらに安い値がつけられているのではないだろうかと思えば、扱おうとする手が引っ込んでしまう。
 中国刺繍や綴の帯は決してきものの帯として悪いものではない。しかし、あまりに多くの帯が作られ市場を乱してしまったように思える。中国の帯でもきちんと手を掛けて作られた物から粗製乱造の帯までが見受けられる中、それらが「中国の帯」の一言で切り捨てられそうになっているのは残念なことである。
 さて、中国の帯の第二ステージである。中国刺繍、綴の帯は今生産地でどのようになっているかは分からない。どちらにしても、低価格にあまんじているか、又は生産をあきらめるかだろう。しかし、資本主義社会では常に最大効率、最大利益を求めるものである。中国の帯に関わった帯屋、商社、生産者はともに更なる利益を求めていった。  それまでは中国の伝統工芸に頼っていたが、今度は日本の伝統工芸をそのまま中国の職人に学ばせていった。つまり、西陣の帯そのものの生産拠点を賃金の安い中国に移していったのである。綴やすくいはもちろん、絽や紗、羅に至るまで西陣で織られていた帯をそのまま中国で織らせたのである。
 おりしも時はバブル崩壊を迎えていた。高ければ売れるといった悪夢は消え去り、代わって安ければ良い、安い物を供給する者こそ救世主というこれまた悪夢が日本を支配していった。
  日本の消費者はメダカの群れが流れの変化に向きを変えるように一斉に安い物に目が向いていった。日本の消費者心理は恐ろしいものである。石油危機の時にトイレットペーパーに群がった心理と似ていなくもない。そしてそれは国民を団結して戦争に向かわせ、戦後180度転換してアメリカに目を向けた心理と同じかもしれない。
 何はどうあれメーカーは消費者の好みについていかなくてはならない。業界を問わず、安い物を造れとばかりにメーカーの目は中国に向いていった。そして、帯の生産も西陣を離れ中国に移っていった。
 いつ頃から西陣の帯の生産を中国で始めたのかは分からないが、かなり以前から行われていたようである。中国製の安価な絽綴やすくいの帯は早い時期から出回っていた。しかし、それはまだ極一部だったように思う。私が状況の変化に気がついたのは三年位前のことである。展示会で妙に安い帯が出ている。そして、西陣の証紙が張っていないものが目立ってきていた。問屋さんに、
 「向こうで作ったんですか。」
と聞くと、案の定中国の帯だった。中国の技術も進歩したのだろう。西陣の帯とほとんど区別がつかない。そういった帯は最近富に増えてきた。話を聞けば、西陣の機屋は機の台数を減らし、あるいは機を全て止めて中国で織らせているという。もちろん西陣の証紙を貼る事はできず、代わりに私製の「手織り」の証紙が貼ってある。中国の帯は今後益々増えるのだろう。
 私は中国の帯を否定しようとは思わない。しかし、中国の帯が市場を席巻する事に一抹の不安を覚えている。   第一に中国の帯を消費者がどのように受け止めるのだろう。
中国であれどこの国であれ日本の文化を理解し、それに合致した商品をつくりあげることは悪いことではないし、むしろ歓迎することかもしれない。洋服の文化が世界中に広まっても発信源であるヨーロッパではそれを不快とは思っていないだろう。しかしきものの場合、きものナショナリズムという厚い壁があるように思えてならない。きものナショナリズムといえども消費者の消費性向であることはまちがいない。もしも、消費者が中国の帯を否定するのならばそれも成り行きに任せるほかないと思うのだけれども、問題はメーカーや小売屋が消費者に原産地を公表するのをためらった時である。安く輸入された中国の帯を偽って販売したり、偽らないまでも西陣で織られた帯であるかのように販売されれば業界の混乱を招くことになる。消費者は中国の帯を中国産と知らされることなく高値で買わされることにはならないのか。心配である。
 第二に、中国の帯が消費者に認知された場合、安い中国の帯が市場を席巻し、西陣の帯がことごとく駆逐されはしないのか。今の状況では日本と中国の賃金格差はあまりにも大きすぎる。もしも、中国が西陣と同じ技術で同じ帯を作った場合、その価格の差は余りにも大きすぎる。中国製品が日本製品を駆逐する様はアパレル業界を見れば押して知るべしである。長年培ってきた西陣の技術を全て中国に渡してしまうのはどうか、というのは私の心の中のきものナショナリズムである。そのきものナショナリズムを否定したとて将来中国が日本と同じレベルの経済環境になった時、果たして中国は日本の帯を織り続けるのだろうか。いったい誰が技術を受け継ぐのだろうか。
 第三に、安価な帯の氾濫が呉服業界の破壊につながりはしないだろうか。
 この問題は呉服業界に留まらない。すでに他の業界では現実に起こっている。家電やアパレル業界では、中国で生産した安い製品が大量に流入している。日本のメーカーは価格的に対抗するために生産拠点を中国に移し低価格競争に拍車を掛けている。その結果日本の産業の空洞化が起こり大量の失業者を生み出している。安い商品が良いとばかりに飛びついた人達が失業の憂き目に会うと言った皮肉な結果となってしまった。
 仮に中国の帯が消費者に認知され、呉服屋の店頭に堂々と並べばどうなるのだろう。西陣物の五分の一の価格で売られた場合、消費者にとっては喜ばしいことかもしれない。しかし、一本の帯を買う消費者が五分の一の価格で手に入るからと言って五本の帯を買うだろうか。せいぜい二本買ったとして60%の消費の減少である。五軒に三軒の呉服屋は店を閉めることになる。低価格化が呉服の需要喚起につながれば良いが、そうでなければ業界の縮小は免れない。需要の増加に綱けられるかどうかは業界の努力にかかっている。
 @ 中国の帯が消費者に認知されるのか。
 A 西陣の技術を後世に残せるのか。
 B 低価格化がきものの需要の増加につなげられるか。 考えれば考えるほど、頭の痛くなる問題である。
しかし、日本と中国の経済問題は、ある業界に限定して収束できる問題ではなく、もっともっと大きな目で見なくてはならないと思える。