全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅲ-ⅱ きもののしきたりは誰が決めるのか(その3)
紗袷、紬の絵羽、どちらも巷で言われているしきたりは、販売の売り口上としてそれぞれがそれぞれに説いている程度のものである。そのような口上を真に受けて他人の着ている様を云々するのは滑稽としか言いようが無い。
果たして着物のしきたりは誰が創っているのか、よく考えてみなければならない。
着物の初心者の立場に立てば、まるで分からない着物のしきたりを誰かに教えてもらわなければ着物を着るのが不安でならない。それを教えてもらうのは、着物の着付け教室だったり、着物の指南本であったり、近所の着物に詳しい人だったりする。また呉服屋さんということもあるだろう。
そこで聞いたきもののしきたりは絶対に守るべききまりと捉え、それに反する着方はしきたりに違反する間違った着方だと思ってしまう。いや、それに従うしかないのだろう。
それでは、着付教室や指南本、呉服屋は正しいしきたりを伝えているのだろうか。私はそれらは決して間違っているとは思わない。しかし、それぞれが説いているしきたりは必ずしも統一しているとは言いがたいのである。
紗袷や紬の絵羽についての見解が違うように、それぞれが説くしきたりは微妙に違っている。それは地方による違いもあるし、それぞれが学んだ前の世代の人たちも見解を異にしていたせいでもある。
これをどのように捉えたらよいのだろうか。
着物の着付けに流派はないが、茶道や華道、踊りの世界には流派がある。流派の頂点には家元がいて家元の言うことが絶対である。その流派の人たちにとっては、家元の意向こそが絶対に守るべき物である。そしてその守るべき物は流派によってと異なっている。
例えば茶道の場合、茶道の流派はたくさんあるが、表千家と裏千家を比べてみよう。お手前の作法は両者微妙に違っている。袱紗の塵打ちでは表千家では音をたてるが裏千家では音をたてない。茶杓の茶を払う時、表千家は二度茶杓を茶碗に打ち付けるが、裏千家は一度である。他にも細かい点で流派の作法が微妙に違う。四十にものぼると言う茶道の流派にはそれぞれがそれぞれの作法がある。
さて、違った流派の茶人がお茶会で同席した場合どうなるのだろう。他の流派のお手前を見て、自分が習った手前と違うことをさして「あのお手前は間違っている」と言うだろうか。また言うことは許されるだろうか。
きもののしきたりもこれに似たようなところがある。
その場にあったきものを着てきた人達が、それぞれが習った着方と違うからとお互いに「その着方は間違っている」とののしりあう。そのことにどんな意味があるのだろうか。そしてそれよりも、そんな事が許されるのだろうかとさえ思えてくる。
本当の茶人は他の流派の作法も受け入れ、決して他の流派の手前を貶すような事はないだろう。そして、些細な作法は違っていても、もっと大きなもっと広い意味でのお茶の作法と言うものを共有しているに違いない。
「何のためにお茶をするのか。」「何のために着物を着るのか。」その原点に戻れば本当のしきたりが見えてくるような気がする。
つづく