全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅲ-ⅲ 本当のきもののしきたりとは(その4)
次に、季節のTPO、季節の着物を考えてみよう。
日本の着物は季節に敏感である。古来、日本では季節により着るきものを替えてきた。「六月は単衣、七、八月は薄物、九月は単衣で十月からは袷」と言われている。その通り着物を着ることが本当の着物のしきたりなのだろうか。
言葉通り受け止めれば、「7月1日午前零時をもつて単衣を薄物にかえる」「9月一日午前零時をもつて薄物を単衣にかえる。」「10月1日午前零時をもつて薄物を単衣にかえる」というのが正しい着物のしきたりである。
一年中着物を着ている人の身に成ってみよう。
五月にはいくら暑くても袷を着なくては成らない。五月にも、うだるような暑さを経験している人は多いだろう。六月には冷たい雨が降る日もある。九月の天気も微妙である。
暑かろうが寒かろうが着物は決められたものしか着てはいけないのだろうか。しきたり?に従って着物を着たばかりに「暑い思い」「寒い思い」をした人は多いと思う。
季節はずれの思いがけない気温に出会った時、人はどうするのか。多くの人は洋服に逃げるだろう。
「暑くて袷など着ていられないから洋服にするわ。」という会話はよく聞く。しかし、着物で一年中通す人はどうするのだろう。洋服のなかった昔はどうしたのだろう。
着物は日本の衣装として洋服その他の衣装の力を借りずとも一年中快適に暮らせるはずである。だとすれば、上述したきもののしきたりはどこかおかしい。「暑いのをがまんして」「寒いのをがまんして」というしきたりはないはずである。
季節の着物を着る意味は、見る者に季節感を感じさせる。それは「他人に不快感を与えない」という原則に則り、相手とのコミュニケーションをよりスムーズにするものである。
6月に袷を着た人の、「いやー、今年の梅雨は寒いですね。肌寒くで私はまだ袷を着ていますよ。」という言葉はどのように受け止められるだろう。「6月に袷を着る非常識な奴だ」と思われるだろうか。それとも「なるほど今年の梅雨は寒いな。」と共感を得られるだろうか。
ロドリゲス・ツヅの著述のところで記したように、日本では儀式においては季節感をことのほか重視していたようである。しかし、それは生理的な暑さ寒さには踏み込まない工夫をしていたように思われる。
しきたりにそぐわない?暑さ寒さというのは天候の不順によるものばかりではない。南北に長い日本列島では天候や気温は地域によって大きく違う。五月の北海道と京都では気温がどれだけ違うだろう。沖縄と東北はどれだけ違うだろう。保温、発汗という意味で、日本全国の人が同じ着物を着るのには無理がある。
しかし、日本全国地域によって季節による着物が異なるという話は聞いたことがない。平均的な気温の地域を標準とした場合、それより大きくはずれる地域の人達は我慢しなさい、ということか。そんなはずはない。
着物の季節感を共有しながら「袷の時季は何が何でも袷」「薄物の時季は何が何でも薄物」という枠を越えて、見る者、コミュニケーションの相手に季節を感じさせる工夫こそきもののしきたりに必要なものではないだろうか。