全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅲ-ⅲ 本当のきもののしきたりとは(その7)
しきたりや常識は、誰が創って来たものでもない。日本のしきたりや常識は日本人が長い年月を掛けて積み重ねてきたもので、様々なしきたりは麻縄の如く日本の文化に一体となって絡み付いているものである。それは複雑で、とても言葉に表していいきれるようなものではないことはお分かりいただけたと思う。
とても複雑なしきたりを理解しきれずに、または単純化して捉えようとしてクダラナイしきたり論争が生じていることは否めない。
そのしきたり論争に混乱を生じさせているもう一つの原因は業界にある。
業界が、いわば勝手にしきたりを喧伝して消費者に吹き込み、混乱を生じさせている。
ここ数十年呉服業界は下り坂だった。生産量、販売額ともに転げ落ちるように減少してきた。その中にあって、業界では、それまでに無かった商品を次々に開発し、販売額の減少に歯止めを掛けようとしてきた。その努力は必要だし、大変な労苦を伴ったと思う。しかし、それが結果的に業界というよりも着物の文化を混乱させる原因となってきた。
いくつかの例を挙げると、「紬の訪問着(絵羽)」「結城紬の留袖」「大人の振袖」「ゆかたの比翼」等々。いずれも、それまでには無かった需要を掘り起こそうと創られた商品である。
紬の訪問着については何度も書いてきたが、「いつ着たらよいですか」の声が絶えない。消費者は紬の訪問着をいつ着たら良いのか分からない。メーカーや売り手は「結婚式でも着れます」とか「普段でも着れます」とか説明するけれども、その根拠がはっきりしない。というよりも根拠等ない。私には、ただ売らんが為の説明にしか聞こえない。
紬の訪問着を創ることは悪いことではない。しかし、それはいかなる場で着るべきか決めるのはメーカーでもなく、呉服の問屋でもない、まして呉服屋が決めるなどおこがましい。
日本人が日本の文化と向き合いながら決めてゆくことである。それぞれが勝手にしきたりを決め付けてしまうことに問題がある。
ある業界の本に、着物の専門家と称する人が記事を載せていた。現代は着物を着る機会も少なく、着る人も少なくなった。だから着物を着ることそのものが晴れであるから、小紋であろうと紬であろうと晴れの場に着ても構わない、と言う趣旨だった。
長い年月を掛けて創り上げてきたきものの文化、しきたりを個人が勝手に変えられるものと思っているのだろうか。私はその記事をみてあきれ果てるのを通り越して憤りさえ覚えていた。
確かに着物を着る人は減少し、着物の生産数自体も激減している。しかし、着物は日本の文化であり、いくら縮小して標本のようになったとしても、そこには晴れの着物、普段着のきものがあり、慶事の着物、弔辞のきものが厳然として存在し、またそれを守るのが我々の務めではないだろうか。
メーカーや問屋、呉服屋をはじめ着物の専門家と称する人達がありもしない着物のしきたりを吹聴コントロールすることによって益々きもののしきたり論争は混乱の渦に巻き込まれることだろう。