全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅳ ⅴ 日本の染織の将来(その6)
きものは、技術革新や手間を省くといった手法で安くなっている。それは工業製品が安くなるのとはわけが違う。工業製品は、技術の革新、大量生産によって同じものがコストダウンで安くなっている。車や電気製品は昔に比べればはるかに良質の物が安価に売られている。かつて昭和30年代、テレビはサラリーマンの月収の数か月分と言われていたが、現在はハイビジョン、液晶、大画面のテレビがわずか数万円で買うことができる。
工業製品のコストダウンは我々の生活を豊かにしてくれている。きものの場合はどうだろうか。きものが安くなったことは我々にどのような影響があるのだろうか。
染織の歴史は太古の稚拙な技術から今日に至るまで創意工夫を重ね、多種多様で高度な染織品を数多く生み出してきた。染物では、天平の三纐と呼ばれる稚拙にして非常に高度な染物(変な表現だけれども私にはそう思える)から友禅染にいたるまで。織物では、単純な平織りに始まり多種多様な織物が生み出されてきた。それは技術の積み重ねであり、日本の歴史の積み重ねでもある。その歴史を集積したような日本の染織が今退歩しているように思えてならない。
生産は需要が伴わなければ成り立たない。どんな高度で精緻な技術で造られた物でも需要がなければ生産する意味もない。
さて現在、日本人が長年積み上げてきた染織の数々は需要が伴っているのだろうか。熟練職人の技を凝縮したような染織品の需要がないとしたら日本の染織はこの先次第に退歩してゆくのだろうか。
市場は安価なものを求めている。それは間違いない。それ故に織屋は安価な帯を織り、加賀友禅作家は柄の軽い訪問着を染める。しかし、それは消費者が本当に望んでいるものなのだろうか。日本の染織技術の逸品を望んではいないのだろうか。
もちろん手織りの帯は高価だし、手描きの逸品は高価である。所得水準の低下がきものの需要に陰を落としているとも言えるかもしれない。しかし、繰り返すが着物の価格は小売屋が決める。プリントを型染めと偽って高額で販売する例も聞こえてくる。機械織を手機と言って売っている例も聞く。着物は高いものだとは言われるが、正規のルートで常識的な価格設定であればそれほど高いものではない。
問題は、同じ商品であっても高安混在するきものの業界にあって、消費者が本当に良い商品を見分けられなくなっているからに他ならない。価格に惑わされて着物の価値判断が育たなくなっている。
捺染の小紋が30万円で売られる。一方で良心的な呉服屋は本型染、手描きの小紋を20万円で売る。これでは、消費者は何が良くて何が安いのか判断できなくなってしまう。消費者が本物を見分ける目を持ち、また呉服屋は正当な価格を設定するならば着物はそれ程高くはならないし、商品は淘汰され日本の染織も良い方向へとゆく思うのだが。
つづく