全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅳ-ⅰ 職人の後継者不足(その3)
博多献上帯を例に採ったが、そのような例はいくらでもある。例えば浴衣地。今の浴衣地は捺染、プリントが主流である。昔ながらの型染や注染でも染められているが、量的には圧倒的に捺染、プリントが多い。捺染やプリントでは型染や注染の味は出せない。染を良く知る人であればプリントの出来は評価できない。
しかし、型染や注染ではどうしても若干の染めムラができる。軽微なものであれば、それが型染や注染の特徴であり、味でもあるのだが、プリントを見慣れた人達にはそれが難と映ってしまう。
注染の浴衣地のわずかな泣き(型の折り返しで生ずるムラ)を難物として返品してくる例が後を絶たないという。
染織職人が今後生き残り育ってくれるのかは、それを評価する人達に掛かっている。コンピューターの仕事をありがたがり、手仕事の妙を難物としか評価しないのでは職人の生きる道はない。
今の世の中で、染織にしろ陶芸にしろ本物に接する機会はなくなっている。多彩に染められたプリントの浴衣を好む若者は、染織の妙が分からないのではなく、知らないといってよい。昔に比べれば、経済的には遥かに裕になっているのだが、文化的には退歩しているように思えるのは残念である。
さて、何が悪いかにが悪いと言ったところで問題は解決しない。これからも職人が育ってくれること、牽いては伝統的な染織技術が後世に受け継がれるにはどうしたらよいのだろう。
それには消費者が理解してくれることが前提となる。消費者に一番近いのは小売屋である。着物を商う小売屋である呉服屋が消費者に対して染織の正しい知識を伝えるべきだと思う。
商売は利益を目的とする。その為には売れる商品を揃えなければならないし、価格的にも消費者が受け入れられるものでなければ売れない。商品を選ぶのは消費者であり、安いものを選ぶのも消費者の判断である。呉服屋がすばらしい染織品を消費者に奨めたとて消費者に買ってもらえなければ商売にはならない。
しかし、消費者が好むもの、売れる物を追求してきた故に、安価な商品が市場を席巻し職人達の居場所を奪ってきたように思える。
呉服屋は無理に職人が創った物を消費者に押し付ける必要はまるでない。ただ、消費者には染織品を扱うプロとして正しい知識を消費者に伝える必要があるのではないだろうか。まして、捺染の染物を「手描きです。」とか、ただの型染のきものを「人間国宝の作品です。」などと消費者に説明するのは言語道断である。
消費者には、高価であれば何故高いのか、安価であれば何故安いのかをきちんと説明して販売することが寛容である。そして、次第に消費者の理解が得られれば消費者の好みも職人技の妙を洗濯するようになり、商売としても為に成るのではないかと思う。