全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅴ ⅰ 衣替えについて(その5)
色々と書いてきたけれども、衣替えについて私の思うことを要約すれば次のようである。
1.日本の着物は季節感を大切にする。日本は温帯に位置し、四季がとりわけはっきりとしているのが季節を文化に取り入れた原因である。着物を着る者としてこれは大切にしなければならない。
2.衣替えは昔から行われてきた。その時期は暦の上で決められた特定の日をもって行われた。ただし、その暦とは旧暦(太陰暦)であり、現代の暦とは齟齬が生じている。
3.現在の衣替えの特定の日(6月1日、7月1日等々)は、だれが決めたかは知らないが、昔から定められた日ではない。しかし、コンセンサスをもって特定したならばそれは守らなければならないが、その成り立ちは歴史的な根拠がないことは覚えておいてもよさそうである。
4.季節によって着るべききものの種類は、現代のそれとは完全にはオーバーラップしない。麻が着物の素材の主流であった時代から、綿や絹が多用される時代とは当然着る物も違ってくる。また、着物の形態も昔とは異なり(綿入れなど)、現代の着物にそのまま比定するのは無理がある。
5.着る物の第一義の目的は暑さ寒さから体を保持する為であり、装飾性や季節感は第二義的なものである。
6.昔は、礼を尽くす場(晴れの場)では、季節感は厳格に守られ、その季節に着るべき着物をまとったが、第一義的な意味でそれがそぐわない場合は、最低限表に着る物だけ季節の着物を着ていた。
以上のような分析から、私は着物の季節感、衣替えについては次のように考えるべきと思う。
着物を日本人の衣装として今後とも伝えて行きたいと思うのであれば、衣装本来の目的を失ってはならない。つまり、暑い時には涼しく、寒い時には暖かく着れる環境でなければ誰も普段着物を着ようとは思わないだろう。
季節感は大切にしなければならない。その意味で私は、現在の衣替えのタイムテーブルを否定しようとは思わない。しかし、そこには暑さ寒さをコントロールする工夫が必要である。昔は武士が袷の時期には羽織だけでも袷を着た、というような本当の季節感の意味を考えなければならない。
晴れの場やお茶会など礼を尽くす場では、見た目袷を着ても涼しく着る工夫をしてもかまわない。襦袢には元々袷も単衣もあったけれども、袷で襦袢を仕立てる人は、今はほとんどいない。「袖無双」という袖口のところだけ袷に見せかける仕立てが一般的である。同じように着物にも胴抜きという胴裏を使わない仕立てもある。余り一般的ではないけれども袷の時期を涼しく過ごす一つの工夫である。もう一歩進んで、「袖無双」のような着物も仕立てられるかもしれない。
また、下着を薄くする工夫もできる。私は5月に着物を着る時には麻襦袢を着ることがある。袷の時期ではあるが、単衣襦袢でも暑い、メリンス襦袢ではもっと暑い。しかたなく麻襦袢を着ている。式服として着る場合は半襟を変える。あたかも無双の襦袢を着ているかのように。
絽の色無地を仕立てた際、お客様から「絽の袖を着物に縫い付けてください」と言われたことがあった。襦袢は着ずに半襟を付けた広襟の肌着を着るのだそうだ。なるほどこれも涼しく着る工夫である。
日本の季節感を壊さずに快適に着る工夫を考えてはいかがだろうか。
さて、以上は式服(礼を尽くす場)の場合である。普段着においては、現代のしきたりは著しく着物を着る気持ちを萎えさせている。
そもそも普段着こそ衣装の本来の目的を追求しなければならない。冬には「着物は暖かくてよいですね。」夏には「着物って涼しいよね。」という言葉が出てこなければ着物を着ようとする人の増加は見込めない。
昔の庶民は普段間違いなく、暑ければ単衣、寒ければ袷を着ていただろう。それは自然なことである。いくら暑くとも「今は袷の時期だから」と言って汗だくになって袷を着ているのは滑稽以外の何物でもない。
「このところ暑くて、もう単衣を着ちゃいましたよ。」「今年は冬が早く来そうで、寒がりの私は先日袷を出して着ています。」そんな会話が飛び交っても何もおかしくはない。
ただし、日本の着物である以上季節感を忘れてはならない。着物の身だしなみの基本は「他人に不快感を与えない着方」をすることである。不快感を与えないだけではなく、それとなく季節を感じさせるような着方が大切である。季節外れ(現代のしきたりはずれ)の袷、単衣はどのような着こなしをしたらよいのか、考えるのもまた着物のきこなしの楽しみ方ではないだろうか。