全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅶ.きものつれづれ 43.これからの呉服屋に求められるもの(その2)
昭和30年頃の呉服屋は良く売れていた。10年遡る終戦時には日本経済は破綻し、着物の生産どころではない。着物を持っている人はそれを食料に替えて生活していた。着物(洋服も含めて)に費やすお金よりも、食料の確保が先決で、それまで持っていた着物は、この時点で清算、在庫整理といって良い状況だった。
しかし、日本経済は不死鳥の如く徐々に復活し国民の財布には余裕が出て来る。一度清算された着物は復活し、着物を持っていない人達が着物を求め始めた。もちろんその背景には、まだ多くの人が普段に着物を着、慶弔の場では着物を着るといった風潮が色濃く残っていたのも呉服業界には良い材料だった。
当時の呉服業界は健全?だった。生産者が創った着物や帯は問屋に買い取られ、小売屋へと流れて行った。染屋や織屋が良い商品を創れば、それらはたちまち小売屋へと伝わり、消費者に響いた。消費者の嗜好はフィードバックされて生産者に響く。生産者は更に消費者の嗜好に合わせた商品創りをする。
それらは、どの業界に限らず極当たり前のことだけれども、現代の呉服業界から見れば健全に見えるのは、やはり現代の呉服業界は病んでいると思わざるを得ない。
当時の呉服屋がやるべきことは、
「良い商品を安く仕入れて消費者に渡すこと」
である。そして、生産者は、
「消費者の嗜好に合わせた良い商品を創る事」
だった。
八百屋さんでも魚屋さんでも市場に行って、より新鮮でより良い魚屋野菜をできるだけ安く競り落とす。商売にとっては基本中の基本であるが、これを上手く熟すには、その業界のプロでなければならない。とても難しい事であるが、商売をする者にとっては、そうして消費者に喜んでもらう事が商売冥利に尽きるのである。
そういう意味で、当時の呉服業界は、ある意味健全であった。今とは交通、流通事情のまるで違う当時は、問屋さんは京都から全国各地に沢山の商品を持って夜行電車で回って商売をしなければならなかった。呉服屋も仕入れに行くときは数日掛かりで行かなければならなかった。
また、車が一般的でなかった時代に、お客様に仕立物を届けるのは、一日掛かりの仕事となることもあったが、呉服屋のやるべきことは、はっきりとレールが敷かれていたとも言える。そして、そのレールと言うのは、生産者、問屋、小売屋、消費者それぞれの利益に合致したものだった。
さて、昭和30年代になると少々事情が変わって来る。日本は高度経済成長を迎え日に日に裕福になって行った。それに伴い呉服業界も更に好況を呈して行った。
裕福になった消費者は、より高級な嗜好へと移って行く。洋服が次第に和服を駆逐していた事もあり、それまで普段着主体だった着物の消費が高級なフォーマル物へと変化して行く。もっとも現代と比べればまだまだ普段着の需要は多かった。ウールや紬アンサンブル等普段着の反物は店頭に山積みされていた。
しょうざんウールや村山大島のアンサンブルなどは、この後もまだまだ呉服屋の店頭を飾っていた。夏場の浴衣を誂える人も多く、今は7月にならないと本格的に動かない浴衣だけれども、当時は4月から新柄の浴衣が山積みにされ飛ぶように売れたと言う。
つづく