全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅶ-55 着物の末路
「着物の末路」と言う表題は、あまり適切ではなかったかもしれない。「末路」と言う言葉は、悲劇的な結末を想像させる。例文としては、「悲劇的な末路」「末路は振るわなかった」「哀れな末路」と言うようにネガティブな表現に使われることが多い。
しかし、元々の意味は、「道の終わり」「一生の最後」を意味するもので、それに「悲劇的な」「哀れな」と言うマイナスイメージの修飾を付ける事が多いために「末路」そのものがネガティブに捉えられている。
私が表題とした「着物の末路」とは、決して着物の哀れな結末を意味するのではなく、仕立てられた着物がどのような最後を迎えるのかを意味している。
「形あるものは壊れる」と言われるように物は劣化や損傷により消耗し壊れ、破れ、そして消えて行く。衣料品は着古されてボロボロになり破れて廃棄されるのが自然の末路と思えるけれども、最近はECOの観点から、アパレル業界で新品の売れ残り商品が大量に廃棄されているのが問題視されている。
それに呼応して、衣服の再利用する動きがアパレルメーカーに出てきている。店に回収ボックスを置いて消費者から衣料品を回収し、それを再生する。また売れ残った商品を再生すると言った動きである。
その原点となっているのは、資源の無駄をなくす事と環境への負荷の軽減である。絹糸、綿糸、羊毛、いずれも生産には多くの手間が掛かり、石油系繊維も莫大な石油を消費する。そして、その生産過程では環境に大きな負荷を与えている。
必要な衣料品を必要な数量を生産し、無駄なく消費するのが最もよいと思うけれども、資本主義のサイクルでは、商品のロスが大量に発生する。消費者は自分の好みの衣料品を購入する。誰の好みにも合わず、過剰に生産された商品は廃棄される、と言ったように。
消費者が好みの商品を選択し消費するのは悪い事ではないが、アパレルの場合その消費が問題である。
アパレルの世界では流行が目まぐるしく変わる。消費者の手に渡った衣料品は、末路を迎える前に何度袖に手を通されるのだろう。
私は日常、着物か作務衣で通している。夏場、作務衣を着る時には中はTシャツである。毎日着るので数枚のTシャツを取り換えて来ている。外には目立たないので、黒の作務衣も洗濯を続けて白くなるまで着ている。Tシャツには良い末路を迎えさせていると思っている。
Tシャツの様な普段着であれば良い末路を迎える機会もあると思うが、流行の最先端の衣料品はどうだろうか。高額の衣料品になればなるほど手を通す機会が少ないように思える。同じ服を何時も着ている様に思われたくない、とか流行が変わってしまって着る事ができない、と言った理由で数回しか着ないで末路を迎える洋服は少なくないだろう。
つづく