全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅶ-55 着物の末路(その2)
着物はどうかと言えば、同じような事を言えるかもしれない。訪問着や付下げなど、式用に仕立てた着物を一度しか着ない人もいる。
「たった一回着る為に訪問着を新調するのはもったいない。」
と思う人もいるかもしれない。
呉服屋として反論させてもらえば、第一に着物を着る機会が少なくなったせいがある。ただし「着物を着る機会が少なく」と言うのは機会が少ないのではなく、着物を着ようとする気持ちが縮小しているのであって、機会が少なくなっている訳ではない。言わば、着ようと思えば、着物を着る機会はまだまだある。訪問着の出番はあるけれども、着ないのが現実である。
第二に、着ないで箪笥に仕舞われている着物は、末路を迎えた訳ではなく、次の登場機会を待っているに過ぎない。洋服は、流行が過ぎれば末路を迎える。着る人の体形が変われば末路を迎える。しかし、着物は、基本的に流行はない。30年前の着物であろうと50年前の着物であろうと着て何もおかしくはない。洋服は30年前のスーツを着る人はいないだろう。そして、少々体形が変わろうとも十分に鷹揚が効く。出番を待っている着物に出番を与えないのは、着物が可哀そうに思える。
さて、先日「これぞ着物の末路」と言えるものに出会った。
自宅の通路に下げてある暖簾が古くなってしまった。新しい暖簾に替えようと思っていると女房が、
「いいものあったよ。」
と言って反物を出してきた。洗い張りをした古い麻の反物である。私の祖母が着た着物で、仕立て返して一時女房が着ていたが、縮んだこともあって反物の幅が狭く洗い張りをしてそのままになっていた。
麻生地で、能登上布や宮古上布のような名品ではないが、しっかりと手を掛けて絣が織られている。幅が狭いとはいえ生地はまだしっかりしている。
まだまだ着られそうなので、
「なんだ、仕立替えして着たらいいんじゃないの。」
と言ったけれども、やはり幅が8寸5分しかなく、裄が出ない。浴衣として着れば、裄は何とか我慢できるかもしれないが、身丈が採れそうにない。しかし、内揚げがありそうだった。(洗い張りをしているので、内揚げなどある訳がないのだが。)
打ち揚げの様に縫ってある所を見ると、内揚げではなく剥ぎ跡だった。
良く見ると、剥ぎ跡は続けざまにあった。二カ所縫い目があったので内揚げと勘違いしてしまったのだ。
身丈を延ばすために、帯に隠れる所を裁って生地を剥いだのかもしれない。
つづく