全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅶ-66 呉服屋さん
私の店は「呉服屋さん」である。創業以来120年間呉服を商ってきた。「呉服屋さん」あるいは「きもの屋さん」と呼ばれている。
この「呉服屋さん」、昔は沢山あった。もともと日本人はきものを着ていた。洋服が無かった時代には、日本人全員がきものを着ていた。当時の「呉服屋さん」は衣料品店の全てであった。
きものは、衣食住の「衣」にあたる。人間の生活の必需品である「衣」の全てが「きもの」だったのだから、「呉服屋さん」はそこかしこに店を開いていて当然である。
当時の「呉服屋さん」は、現在の呉服屋と違って、ある程度棲み分けがあった。絹物を扱う店、太物と呼ばれる普段着の綿反を扱う店等である。丁度現在の洋服屋さんが、ヤング、ミッシー、ミセスと年代で棲み分けされ、カジュアル、フォーマルと品ぞろえを違えているのと同じである。ただし、さすがに現代のブティックの様にブランドごとの店舗と言うほど細分化はされていなかっただろう。
きものが洋服に取って代わられ、普段のきものが次第に姿を消し、「呉服屋さん」は、フォーマルを中心に、特別な時の衣装を売る店になっていった。
それでも30年位前までは、商店街で「呉服屋さん」は存在感があった。大きな商店街では、数件の「呉服屋さん」が店を構え、中には隣り合わせで店を開いているところもあった。店頭には、大きなショーウィンドウがあり、振袖をはじめ見栄えのするきものや帯が道行く人の目を楽しませてくれていた。
しかし昨今、その「呉服屋さん」の数が激減している。呉服の販売量から考えると、30年前の10分の1にまで減少しているのだから、それもやむを得ないかもしれない。私の店の周囲を見渡してもかつての「呉服屋さん」は、五本の指では数えきれないほど店を閉めている。
私が京都にいた40年前には、各町々の名店があった。東京銀座では〇〇呉服店、大阪心斎橋では××呉服店、仙台一番町では△△呉服店と言うように。全国を周っている問屋の出張員は、それぞれの担当地域の一番店は何処かと言うのが話題にもなった。当時、私はそう言う呉服店になりたいとも思っていた。
しかし、その各地の一番店が次々と姿を消している。京都からやって来る出張員に、
「〇〇町の××呉服店は、今はどうしていますか。」
と尋ねると、
「ああ、あそこは、大分前に店を閉めています。」
とか、
「やっていることはやっていますが、店は直ぐ近くの裏通りの小さな店に移っています。」
と言うような答えが返って来る。
地域一番店と言わずとも、日本の衣料品の供給に携わってきた草の根の「呉服屋さん」も激減というよりも、ほとんど姿を消している。
都市部を離れ、郡部を車で走っていると「〇〇呉服店」と言う看板をよく目にする。しかし、店内を見ると商品は洋服で、たまに申し訳程度のきものが飾ってあったりする。中には学生服を前面に出している「呉服屋さん」も多い。
中心商店街では、呉服屋の看板で洋服や学生服を売るのははばかられるが、郡部では自店の看板を頑なに守っている店も多い。しかし、扱っている商品からいっては「呉服屋さん」ではなくなっている呉服店が多い。
つづく