全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅶ-67 和の終焉(5)
きものや帯の柄に対して西洋文化が影響した形跡も見受けられる。しかし、それらは一時的な流行りと言う面もあり、きものの形状や帯の締め方などの本質にかかわる部分では影響があったとは思えない。本質的な影響はなかったけれども、きものを着る人の数には大きく影響している。
明治時代には上流の極一部の人達の衣装であった洋服は、昭和に入り「モボ」「モガ」と言われる人達が都市部で増えて来た。そして、その数はじわじわと増え、戦後アメリカの影響を受け急速に増えて来た。
それでも私が子供の頃(昭和30年代)きものを着ているご婦人は珍しくなかった。小学校の授業参観では、私の母を含めてきものを着ているお母さんは三割位いた。街を歩いている人の中にもきもの姿は珍しくなく、何の不自然さもなかった。
しかし、その数は時と共に漸減し、街中でのきもの姿は見られなくなってしまった。時折見かける着物姿は、「お茶会?」「結婚式?」と思われるような特殊なケースが多い。
街中のきもの姿に正比例して、着物や帯、白生地の生産量がここ30年間で激減している。販売量もそれに伴って激減している。これらは、間違いなく和の縮小を反映している。
30年前に比べてある産地のある品種の生産量が1%に減少(99%減)、あるいは消滅したところもある。全体での正確な数字は把握できないけれども、仮に現在の業界規模が30年前の1/10としよう。さて、その10%の中身はどうなっているのだろうか。
先に西洋文化のきものに対する影響について、「本質にかかわる部分では影響があったとは思えない。」と書いたけれども、それは昭和の末期になって変わってくる。
「和の物」である着物は、次第に30年前の10%に収束して行く。私が京都にいた時分からそれはひしひしと感じていた。しかし、そんな中でも、
「最近は和服がブームですね。」
「若い人の間で着物を着る人が増えて、呉服屋さんは良いでしょう。」
等と言われることが幾度かあった。それはその度に「ブーム?」の原因は違っているのだが、その度に少々世間で話題になった。
例えば、「二部式のきもの」が話題になった時があった。「二部式のきもの」は着物が敬遠される要因の一つである、着易さ、帯を締める面倒さを省くもので、きものは上下に分かれている。そして、帯は締めない。下は腰巻の様な巻きスカートを紐で留める。上はいわゆる上っ張りの様に下前と上前を紐で留める。
この「二部式のきもの」は、それを「きもの」と呼べるのかは疑問だけれども一時相当話題になった。百貨店では商品が山積みしてあることもあった。しかし、いつの間にか姿を消して、最後は問屋でもたたき売りにされていた。
この「二部式のきもの」はどのような人がどのような発想で創ったものだろうか。
つづく