全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅶ-78 呉服屋の居場所(その3)
和裁を習う生徒が授業で使う浴衣地を買いに来たことがあった。和裁の生徒さんの場合、仕立の練習で使うのだから普通は安い捺染の浴衣地を買って行く。しかし、その方は母親同伴で来店され、折角だからと注染の浴衣地を買って帰られた。
後日、その生徒さんが、その浴衣地をもって来店された。聞けば、和裁の先生に「その浴衣地は欠陥商品だ」と言われたという。浴衣地を広げてよくよく話を聞くと、注染の折り返しにできるわずかな「泣き」を指摘して「これは欠陥商品だ」と言われたという。
注染は、一型毎に折り返し糊を置き、生地を折って繰り返し重ねた上で染料を注ぐ。折り返したところが線状に跡が付く。その跡が付かないように職人は細心の注意を払って染料を注ぐけれども柄によってはどうしても跡(泣き)が付いてしまう。余りにも目立つ場合は、B級品として廃棄するが、若干の泣きは正反とされる。従来注染では難とみなされない物を「難物だ」と指摘される。その事を染屋に話すと、
「そこまで言われると、我々仕事になりませんよ。」
と嘆く。
注染の「泣き」に限らず、「紬の節」も難物として呉服屋のみならず織屋までクレームが行く場合があるという。「注染の泣き」も「紬の節」も手造りならではの産物であり、その程度が正反であるか難物であるかは染屋織屋のフィルターを通して市場に出ている。
着物の丸洗いも祝着の揚げも、また袴の仕立て、浴衣の染についても呉服屋は十分な経験と知識を持ってお客様に説明し、あるいは説明する事ができる。疑問と点があれば事の次第を説明し、もしもお客様がその説明に納得しなければそれに対応する事もできる。
しかし、現在消費者が呉服を買い、または仕立てて不都合と感じる事(本当は不都合ではない場合が多いのだが)があれば、「それは呉服屋のせい」即ち呉服屋のいい加減な仕立、対応、難物を売りつけた等と思われているふしがある。何故か?
現代、消費者、着物を着る人の最も身近にいる人は、着付師であり、美容師であり、また着物の好きな友人や年上の着物好事家であったりする。またお茶の先生や自分が着物を着るシーンに居合わせる人達である。
着物を着る人、特に初心者はそれらり人達の言う事に耳を貸さなくてはならない。その人達に指摘されることは真実であり、それに違う事があれば、それは着物を売った呉服屋、仕立てた呉服屋のせいと言う事になるらしい。
呉服屋の説明よりも、「〇〇さんがこう言っていた」と言うのが真実と捉えられている。
「祝着の紐の位置の必然性を着付師は理解しているのだろうか。紐の位置を変えた場合、きちんと着付けができるのだろうか。」
「和裁の先生は注染と捺染の違いを知っているのだろうか。注染よりも捺染の方が泣きが出ないので、より良い染色法だと思っているのだろうか。」
そんな疑問が湧いてくる。
着物を着る時には呉服屋は幕の外、と言う疎外感が感じられる。呉服屋の居場所がないのである。昔は違っていたように思う。何故そうなってしまったのだろう。
つづく