全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅶ-79 きものの価値・物の価値(その10)
物の良さの一つとして手作りによる微妙な誤差を指摘してきた。豆絞りやガラスの徳利をその例として挙げて来た。これらは、機械で作ったものと比べた時に如実に分かるものである。
それとは別に手作りの良さとして、その作者の表現創作がある。友禅だけではなく、絵画においても作者が表現を創作している。
絵画は風景や静物、人や動物を描くものである。どのように描くのか? それは、見る人にとってその物がその物と分かるように描くのである。
子供の時、学校で絵を描かせられた。「描かせられた」と言うのは、私は絵が得意でなく被害者意識の故である。「お父さんの顔」や「お母さんの顔」など描かせられたが、自分が描いた絵は父や母に全然似ていない。似ても似つかぬ絵であった。
学校でその絵を描かせた動機は、「お母さんの絵展」など懸賞に応募する為である。私の絵などもちろん応募作品には選ばれない。数人が選ばれて応募されていた。その数人の絵は先生方が見て上手だと思った絵なのだろう。
それらの絵は県内から集められデパートで展示された。そして、その中に「県知事賞」や「最優秀賞」の金の折り紙が添付された作品が並んでいた。
それらの絵を見に行った(見に行かされた)が、果たしてその優秀な作品は、どれを見ても「お母さんの顔」には見えなかった。
金の折り紙の添付された作品であれば、その人のお母さんそっくりに描いていると思ったのだがそうではなかった。
「こんな顔のお母さんがいるのか。」
「こんな変な顔のお母さんがいるのなら見てみたい。」
私はひねくれていたのかもしれないが、金の折り紙の意味が全く理解できなかった。
しかし今、子供の絵画展を見れば、金の折り紙の意味がよく分かる。上手い作品はやはり上手いのである。それらの絵を見て、改めて子供の頃の自分の絵はなんと下手くそであったと良く理解できる。
絵画に写実性を求めるのは一つの方向かも知れない。19世紀にヨーロッパで起こった写実主義(レアリスム)は、それでそれは意味があるのだろう。しかし、「素晴らしい」と言われる(実際に素晴らしい)絵画を見ると、必ずしもと言うよりも、写実主義からは大きく離れているのがよく分かる。
ゴッホ、ピカソ、シャガール、モネ、クリムト等それぞれに特徴があり、他の画風とは全く違うが写実主義からは離れ、それぞれの作家が独自の表現を創作している。
日本の絵画の世界では尚更である。
長谷川等伯の「松林図」は水墨画である。その松林は白黒写真で撮ったようであるが、白黒写真では絶対に撮れない風景だろう。写真に写る様な写実ではないが、見る者にとって心に写実以上に写実に移るのである。
「お母さんの絵」も写実ではないが写真以上に、お母さんのやさしさや我が子への愛情が深く表現されているのである。
絵画は作者が独自の表現を創作し、見る者の心に写実以上の写実を描いているのである。
さて、友禅染に話を戻そう。
つづく