全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅶ-89 着物・・時代と共に(その10)
当時、呉服屋さんは街中にあった。私の覚えているだけでも私の店の周り(商店街)には6~7軒あったと思う。父や母に聞けば、それ以前は更に3~4店舗あったらしい。
着物は当時の生活必需品、現在の洋服屋と同じである。現代の洋服屋は、高級なブティックから普段着を扱う店、全国に展開するユニクロやしまむら、西松屋まで世の中にあふれている。呉服屋も昔はそう言った感覚で沢山あったのだろう。
元々呉服屋は、今の洋服屋と同じように高級品店、普段着の店があった。普段着の着物は「太物」とも呼ばれ、それを扱う店は「太物屋」とも称していた。「太物」とは地の厚い綿反を指していたらしい。「呉服」は高級絹物を指し、「太物」は綿反をはじめとする普段着を表していたらしい。今でも呉服屋の中には「呉服、太物、〇〇屋」と言う看板を掲げているところもある。
しかし、普段着の着物は次第に洋服に取って代わられる事となった。現代では、普段着のほぼ100%が洋服と言っても良いかもしれない。普段着の着物需要が無くなれば、「太物屋」は廃業するか「呉服屋」へと代わって行く。
「太物屋」もそうだけれども、着物の需要が盛んなりし頃、「染物屋」と言われる店が各地に有った。京都の所謂「染屋」とは違い、創作するのではなくあらゆる染を請け負う染屋である。山形にも「〇〇染屋」の看板を掲げている店が沢山あった。それらは染を生業にしていた。手拭いを染めたり、暖簾を染めたり、また絹物も染めていた。
昔は、そう言った「染」の需要は豊富だったのだろう。注文するのは消費者である。着物の染替や名入りの手拭を染めたり、と言った需要に支えられて「染物屋」は成り立っていた。
しかし、着物特に普段着の需要が無くなり、暖簾や手拭いと言った日本の文化慣習が西洋に取って代わられると「染物屋」の需要、注文は減って行った。
「染物屋」は「太物屋」と同じく、需要の減によって廃業または「呉服屋」へと変身していった。私が業界に入った頃(昭和50年代)、「〇〇染物」あるいは「〇〇染物店」と言う呉服屋が沢山あった。事情を知らない私は「染物」「染物店」が呉服屋の屋号なのか不思議に思っていた。
時代は、洋装の流入により呉服の需要、特に普段着の需要が減ることにより、それに従事していた人達がはじき出された。また着物需要はフォーマル、高級品に特化する事になり、普段着からはじき出された人達は「呉服屋」へと転身した。
昭和30~40年代は呉服(高級着物)の需要はまだまだあり、それらの参入を許してもあまりある物だった。しかし、このあたりから呉服(業界)は変化し始めたように思う。
つづく