全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅶ-89 着物・・時代と共に(その11)
昭和30年代は、お店にお客様が次々と来店されていた。「次々」と言う言葉は適切ではないかもしれないが、着物は実に良く売れていた。そして、その頃呉服屋では「展示会」を行うようになっていた。
「展示会」は、広い会場を借りて沢山の商品を展示して、お客様に案内状を出してお出でいただく催しである。私の店では、「春の結城屋展」「秋の結城屋展」と称して年に二回行われていた。何時から始まったのかは分からないが昭和30年代中頃と思う。
展示会を開くようになったのは、多くの商品の中から着物を選びたいと言うお客様からの要望、展示会をきっかけに多くのお客様に来ていただくと言う店の事情があったのだろう。
昔は今よりも多くの商品を在庫として店に用意してはいたが、それ以上の多くの商品を見たいと言う消費者の要望があったのだろう。展示会は次の様にして開かれた。
店の着物の在庫が100点あったとすると、お客様には100点しかお目に掛けられない。そこで取引している問屋さんに頼んで展示会の数日だけ商品を貸してもらう。取引している問屋さんが5社あれば、各社から100点借りれば、在庫と合わせて600点になる。より豊富な商品をお客様にお目に掛けられるのである。展示会の準備にはそれらの問屋さんが商品を持って駆け付け、準備を手伝ってくれた。問屋さんの商品が売れれば、その商品を店で買い取るので問屋さんにもメリットがあった。
当時の展示会場は、今とは違い普通の貸会場だった。冷房もなく夏に行われる展示会はとても暑かった。会場に氷柱を立てて涼を演出した。小学生だった私は姉と二人で氷柱で冷やしたおしぼりをお客様に提供する役を担っていた。
「おしぼりをどうぞ。」
とお客様に差し出すと、
「あら、ありがとう感心ですね!」
と褒められるのがうれしかった。
沢山の商品が会場に並べられ、3日間開かれた。今の様に警備保障もなく不用心なので、会場に問屋さんが雑魚寝して泊まっていた。夜は、父がビールを差入してマージャンをしながら夜を過ごしていたようだった。今とは違ってとてもおおらかだった。
展示会には多くのお客さんが来ていた。案内状は3,000通くらい出していた。3,000通の宛名を書き、切手を貼って郵便局に持ち込んでいた。
ある時、案内状が重量オーバーだったらしい。郵便局に案内状を持ち込んで料金が足らずにもう1枚切手を貼ることになった。郵便局は私の通う小学校と店の間にある。学校帰りに店に向かって歩いていると私は店の店員さんに捕まった。
「やっちゃん、こっちに来い。」(「やっちゃん」は私の愛称)
そう言って郵便局に連れ込まれた。そして、
「切手貼るから手伝え。」
そう言って切手貼りをやらされたのを覚えている。
当時は案内状を出すのも一苦労だったが、それなりにお客様が来てくれた。売上もあったのだろう。良い時代と言えばよい時代である。
つづく