全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅶ-89 着物・・時代と共に(その7)
終戦直後の商売は大変だったらしい。山形は空襲も受けずに東京のような焼け野原にはならなかった。しかし、商売をしようにも物が入らない。
戦後と言えば物のない時代である。私が子供の頃、昭和30年代も今に比べれば遥かに物のない時代だったけれども、戦後は比べ物にならないほど物不足だった。
当時の商売人の苦労と言えば、仕入れと税金だと父は言っていた。
税金は、どういう体形になっていたのかは知らないが、「売った以上の金額を税金として取られる人がいた。だからごまかさなくては生きていけなかった。」と父は言っていた。
そんなことは無かろうと思うし、父の誇張だったのだろうと思うけれども、税金の徴収は今ほど画一化され平等に徴収されていたのではなかったのだろう。それに加えて税吏の個別判断もあった事と思う。商売人全員が過酷に取り立てられていたわけではないだろうが、運悪く酷吏にあたった者の悲運だったかもしれない。
話は反れるけれども、戦後物流、食糧が統制されていた。特にコメがなく、コメの調達に皆駆け回っていた。知り合いの農家に行き、着物と交換にコメや野菜を貰ったと言う話をよく聞く。
コメを勝手に流通するのは違法で、例え知り合いの農家から譲ってもらったコメも取り締まりの対象になったと言う。取り締まりは、経済警察と言う人達が担い、不当な流通品(ヤミ米)を没収する。
列車で食糧を仕入れに行く人は多く、列車にはコメや食糧を携えた人たちが多く乗車していた。列車が駅に着くと経済警察が乗り込んできてヤミ米を摘発していった。摘発されたコメは全て没収。一か所に集められた。父は、そう言う現場に何度も遭遇したと言う。
列車が駅に着き、経済警察が乗り込んでくると、慣れた人たちはコメや野菜の入った袋を窓から外に放り投げた。外では仲間が待ち受けて、それを拾って逃げて行く。運悪く警察に摘発された人は没収である。何の事情も知らない純粋な人達は一網打尽である。
父は、それを見ていて腹立たしく思ったと言う。「どうせコメはあいつ等が食べているんだ。」とウソかマコトか知らないけれども、皆そう思ったと言う。そして一矢報いるために次のような事をやったと言う。
袋に砂を詰め込んで列車に乗る。経済警察に見つかり摘発され尋問を受ける。
「これは何だ。」
「砂です。」
「嘘つくな、触ってみれば分かる。これはコメだろう。」
「いいえ、砂を運んでいるんです。」
「うるさい、こちらへ来い。」
そう言われて、袋を持って集積しているところに連れて行かれる。
「ほら、ここにコメを出せ。」
「いいえ、これはコメじゃありません、砂です。」
「いいから出せ。」
そこで、摘発されたに袋から砂を積まれたコメの上に。警察は慌てて、
「こらやめろ。」
時すでに遅しで、コメの山が砂の山に。
「だから砂だと言ったでしょ。」
この話は父が度々話していたが、本当にやったのかどうか分からない。フィクションかも知れない。しかし当時は物がないうえに流通に関してはとても不自由だった。
呉服の世界でもそうだったらしい。
つづく