明治00年創業 呉服と小物の店 特選呉服 結城屋

全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題

Ⅶ-89 着物・・時代と共に(その9)

ゆうきくんの言いたい放題

 売り手と買い手の立場が逆転していたのは、商品が少なかったからに他ならない。欲しい人がいるのに商品が少ない。欲しい人も決して裕福ではなかった。

 しかし、戦後10年もすると、日本は独立し経済も復興した。朝鮮戦争の特需のお陰もあり日本経済は着実に復興しその後の高度経済成長に繋がる。生産力も向上し、庶民の消費も活発になって行った。

 昭和30年代に入ると着物を求める人は格段に増えていた。戦後着物を食料と交換したり、戦災で焼いてしまった人もいるだろう。(山形は戦災に遭わなかった。)

 高度経済成長に入り、経済的余裕ができると着物の需要は増えた。当時着物を着ている人は多かった。特に年配の女性は、三人に一人は日常着物を着ていたのではなかろうか。私も小学校の時、授業参観に来る母親の中にもきもの姿の人は何人もいたし、卒業式、入学式ともなれば着物姿の母親の方が多かった。

 入卒と言えば、当時は制服の様に皆「黒の絵羽織」を着ていた。今は「黒の絵羽織」姿は見かけないし、問屋でも見かけない。流行のない様に思える和服だけれども、時代によって微妙に変化している。私が京都の問屋に居た時(昭和50年代)、商品は売り場に山積みされていたが、黒の絵羽織の反物が10反程度片隅に積んであったのを見かけたのが最後だったように思う。

 入卒で黒絵羽(黒の絵羽織)を着ていた時、長着は何を着ていたのだろう。子どもの時は着物の知識もないので記憶には無いが、色無地か付下げ、小紋を着ていた人もいたかもしれない。母の話では、戦前は「黒絵羽に縞御召」が女性の礼装だったと言う。御召を礼装として着るのも今ではない感覚である。

 当時の着物の需要は若い人達も旺盛だった。本人が着物を着たいと言う欲求もあったかもしれないが、娘には親が買って仕立ててくれていた。

 若い女性は子供の頃から着物を着させられていた。「させられた」と言うのは語弊があるが、宮参り、七五三、正月、雛祭と折々に着物を着ていた。男性の私はそのような事はなかったが、やはり娘に着物を着せたいと言う親心なのだろう。

 小学校の頃、私の姉は定期的に(月に2~3回?)祖母に着物を着せられてどこかに行っていた。後で聞けば、お茶を習いに行っていたと言う。

 大人になれば振袖をつくり、嫁入り道具として着物を誂える人も多かった。

 当時の嫁入り道具の着物と言えば、地方によって家によっても異なるけれども一枚や二枚ではなかった。

 礼装(留袖、訪問着)、紋付(色無地、黒紋付)、普段着(小紋、紬)等々、家によって揃える着物は違ったが、今とは比べ物にならない程用意していた。

 私が小学校の時(昭和30年代)、お店にいると娘を連れたお客様が来店され嫁入りの着物を選ぶこともあった。子供の私は、お客様がいらっしゃるとお店には出られない。奥の狭い勝手にいるのだが、お客様はなかなか帰られない。店を除くと、沢山の着物を出して見ていた。祖父や祖母は、一つ決まればまた別の着物を出してお客様にお目に掛けている。

 お客様が帰られるまで3時間はかかっただろうと思う。その間子供の私は退屈していたのを覚えている。

つづく

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