全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅶ-89 着物・・時代と共に(その12)
そんな展示会も時代と共に変わって行った。
初期の展示会は実に素朴なものであった。「商品を沢山展示してお客様に見て戴く」もので、消費者の選択肢を広げて購買意欲を誘おうというものだった。
最初は会場も店内で行っていた。店内の椅子やテーブルを片付けて、毛氈を敷き衣桁や橦木を並べて着物を展示していた。地べたに毛氈を敷くのは子供の目には奇異に見えた。幼稚園の頃、その毛氈に寝転んでいる私の写真が残っている。今から見ればたわいもないことであったが、そんな展示会もその頃にはお客様にも好評であった。
他所の会場を借りだしたのは、展示会の規模が大きくなったからである。問屋さんが持ち込む商品の数も多くなり、店内の展示会ではとても展示しきれなくなっていた。もちろん消費者の購買力、購買意欲も高まり売り上げも増えていった事が背景にあるのは言うまでもない。
会場を借りて展示会を催して数年すると、来店されたお客様にお土産を差し上げるようになった。菓子類などの些細な土産だった。当時の子供の目にはそれがとても美味しそうなものに見えた。そして、「余ったら口に入らないかな。」とも思っていた。
その後、「○○呉服屋では展示会で弁当を出しているらしい。」と言う話も聞こえてきて、展示会で食事を出すところも出てきていた。展示会でのお土産はすでに常識となっていた。
その辺りで私の呉服屋事情の記憶は途切れてしまう。小学校の時には店に出入りすることもあり、呉服屋に触れる機会もあった。しかし、中学校に入ると店に行くことはなくなり、関心もなくなっていた。そして、その後呉服業界に入るまで15年の空白期を経て再び業界に関わる事となった。
呉服業界に入っても呉服の事は全く分からない。ただ15年前までの記憶があるだけである。かすかな記憶だけが頭の片隅にある。周りで交わされる言葉は聞いた事のある物だった。
「小紋」「付下げ」「八掛」「胴裏」「絵羽織」等々、知らない人には全く聞いたことのない言葉だったが、私はそれらの言葉が懐かしくも思えた。とは言え、その言葉が何を指しているのかは分からない。それでも他の人よりは早く業界の言葉を覚えられたのは幸いだった。
さて、業界の言葉はさて置いて、呉服の世界は私が覚えていたのとは全く違う世界になっていた。
京都の問屋には、織屋や染屋から商品が持ち込まれる。私は最初その商品を受け入れる部署に配属された。「早く呉服の商品を覚えられるように」と言う私に対する配慮だったろう。
持ち込まれる商品は様々だった。総合問屋だったのであらゆる商品、ピンキリの商品が持ち込まれた。お陰で呉服に関する知識はある程度容易に得る事ができた。
ある日、染屋さんが沢山の商品を持ち込んできた。点数にして4~50反くらいだろうか。反物を井桁に積んで二山ほどあった。そして染屋さんが、積まれた反物の間に伝票を挟んで行った。
伝票を見ると、「〇〇小紋、・・反」としか書いていなかった。積まれた反物を広げて見ると、全て同じ柄の型染小紋が三色。つまり、色も柄も同じ小紋が15~20反ずつ、合計4~50反納品されていた。
私が反物を見ていると、先輩社員が、
「ああ、それは××呉服店に納める奴だから、そのままにしていてくれ。」
私は驚いて、
「えっ、全部ですか。これ全部××呉服店に納めるんですか?」
さて、どんな呉服屋にこの反物を納めるのだろうか、と思った。
つづく