全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅶ-91 現代白生地事情
先日、丹後の白生地の織屋さんと話す機会があった。山形の知り合いの仏具屋さんが招いたので、一緒に飲まないかとの誘いであった。
白生地の織屋と言うのは、いわば業界の最上流、源泉とも言える。私たち小売屋は、最も下流の位置にある。私は前売問屋さんや地方問屋さん、西陣の織屋さん染屋さんとは会う機会があり、できるだけ話をすることにしている。商品について、業界について情報を収集するためである。
しかし、白生地の織屋さんとは接触する機会はほとんどない。仕入れのために京都に行くと、会場に織屋さんや染屋さんが出向いていて話をする機会がある。しかし、白生地の織屋さんとなると接触する機会は中々ない。小売屋が白生地を仕入れることはほとんどないし、仕入の展示会でも、白生地を展示することはまずない。
白生地屋さんに会う事はあるけれども、その白生地屋さんはメーカーではなく、白生地を卸す問屋さんである。
白生地の産地と言えば京都の丹後と滋賀県の長浜である。他に福井や石川県の小松もあるが、何と言っても丹後が横綱である。
私が室町にいた時(約40年前)、研修のために一度丹後に行ったことがある。当時は室町には呉服関係の問屋が星の数ほどあり、数台のバスに乗って丹後に行った。
その時は縮緬の制作工程を詳しく見せて解説してくれた。それはとても勉強になった。精練する前の縮緬生地が、まるで使い古した雑巾の様にゴワゴワしていて驚いたが、精練の工程を経て出てきた縮緬地は宝石の様に輝いていたのが印象的であった。
縮緬工場も去ることながら、織屋の社長さんの家に招かれた。総勢60名程の人達が招かれたのである。60名の客を家に招くというのは通常考えられない。
その家は板塀が4~50m位あったと思う。大きな扉を開けて中に入ると広大な良く手入れされた庭があった。五葉松、池があり20m位の縁側のある屋敷があった。縁側に面する戸を全て開けて、「どうぞお入りください。」と招かれたが、一同あっけにとられて家に上がる者は誰もいなかったように思う。
私が丹後に行ったのは昭和58年頃だったと思う。丹後の白生地生産のピークは昭和48年に約1000万反である。その十年後の昭和58年頃は丹後の白生地にも陰りが見えてきたころであるが、それでも5~600万反は織っていたのだろう。当時の白生地産地としての丹後の繁栄が感じられる家構えだった。
ちなみに現在の生産単数は激減している。丹後の織屋さんと会うと言うので下調べをして行った。現在の丹後の白生地生産反数は約25万反だった。しかし、織屋さんに会って、
「丹後の白生地は今25万反位ですか。」
と聞くと、驚いた答えが返ってきた。
つづく