全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅶ-49 時代の転換点・商売の転換点(その3)
呉服の需要は、昭和50年前後を境に減少し始める。丹後の白生地や西陣の織物生産量を見ればよく分かる。昭和50年前後と言えば、ドルショック、石油ショックと時代が重なる。
ドルショックや石油ショックが呉服の需要減少の原因とは言えないが、当時生地代が高騰した。月に一度来店する問屋が持ってくる襦袢地の値段は、前月に買った襦袢地の上代(店で付けている売値)を越えるほど高騰したと言う。ドルショックや石油ショックが呉服の需要減少の引き金にはなっていたかもしれない。
昭和50年以前の展示会は、言わば「健全な展示会」であった。より多くの商品から着物を選びたいと言う消費者の希望に応えるもので、消費者の健全な需要に応えるものだった。
しかし、昭和50年以降呉服の需要が減少するのに伴って展示会の来場者、売上が減少して行った。
私が山形に戻った昭和50年代後半には、展示会の来場者が少なくなったとはいえ、まだ私の店でも展示会を行っていた。しかし、この頃が一つの大きな商売の転換点だった。
昭和30年代に行っていた展示会は、集会場のような場所を借りていたが、次第に高級になりホテルや料亭で行われるようになっていた。展示会開催の経費は膨らんでいったが、売上の方は萎んでいった。それでも呉服屋にとって、通常の店頭売り上げも減少する中で展示会での売上は大きかった。
展示会の売上が減少して行くこの大きな商売の転換点でどのように店の舵取りをするのか、呉服屋にとって呉服業界にとってとても大きな分かれ道であった。
展示会の在り方は、私が京都にいた当時から変わり始めていた。それまでは、店の常連さんに案内を出し、お客様は必要があれば展示会を訪れていた。しかし、売上の減少を穴埋めする為にあらゆる手を尽くしてお客様を展示会に誘うようになっていた。
来場者に豪華な土産を用意したり、食事など過度な接待を行う。展示会への勧誘は常連さんだけではなく、のべつ幕無しに家を周って集客する、と言った方法である。後には、「確約品」と称して高級(に見える)商品を格安で提供すると言って先に代金を受け取り展示会場でその商品を渡す、と言った集客も行われた。
需要の減少する呉服の売上を維持する為にあの手この手の勧誘を行うのも商売と言えるかもしれないが、需要とのバランスは何時崩れるのか先が見えた商法だった。
平成に入り、私の店では展示会をやめた。他の呉服屋とは真逆の選択をしたのである。理由は、展示会の採算性が悪くなっていた事であるが、さりとてあの手この手の集客をするのを潔しとしなかったからである。
つづく