全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅶ-89 着物・・時代と共に(その6)
振袖の販売方法、振袖そのものも昔とは違ってきている。販売方法と言えば、振袖だけではなく呉服の販売も昔とはずいぶん違ってきている。
着物は、もともと日本の衣装として日本人皆が一年中、四六時中着ていた。文明国ではどこでも裸で暮らす人はいない。それぞれの国、民族によって様々な衣装が着られていた。衣装(着物)の中には普段に着る着物から寝る時に着る着物、晴の場で着る着物などその場に合った着物がある。その着物を売っていたのが「着物屋」「呉服屋」である。
現代は洋装文化が浸透して日本人の大部分の人が洋服を着ている。洋服は「洋服屋」で売っているが、売る洋服によって様々な「洋服屋」がある。今は、「洋服屋」と言う言葉はあまり使わない。おしゃれな洋服を売る店は「ブティック」と呼ばれる。最近普段着の洋服を売るのはスーパーや大手の洋品屋さんで売っている。洋服の範疇は事細かに分けられていて、店によってその扱う洋服が細かく決められている。
私もブティックを経営したことがあるが、店によって全く違う洋服が扱われている。一般に「フォーマル」「カジュアル」と言う分類がある。またその年代によって「ミッシー」「ミセス」「ジュニア」などに細分化される。それらがデザインによって更に細分化されて、お客様は、縦横に区分された中から自分に合った店の洋服を選んで購入する。
ブティックの商品はブランドによって色分けされ、同じ範疇の商品が店に並べられる。異なった範疇のブランドを並べようものなら「センスのない店」の烙印を押されてしまう。
洋服は、そのように店によって売る商品がまるで違い、お客様は自分に合ったブランドの扱う店で洋服を求める。洋服のセンスにうるさい人であれば、100店の洋服屋があっても出入りするのは自分のセンスに合った1~2店である。
洋服は店が細分化されているが、呉服の場合は皆漠然と「呉服屋」と呼ばれている。一軒の呉服屋で「フォーマル」から「カジュアル」まで、若向きから年配者向けまでそろえられている。
今でこそ「呉服屋」は「呉服屋」だけれども、昔は違っていた。絹物を扱う「呉服屋」、普段着を扱う「太物屋」。「太物」は綿反を表す。反物を見れば分かるが、綿の反物は絹物よりも太い。着物の需要が多かっただけに、高級品店と普段着の店があった。もちろんその中でも富裕な旦那衆の出入りする店や庶民が晴れ着を買う店など呉服屋も格付けされていただろう。
呉服の商売は、戦前と戦後で大きく変ったようだ。
戦前は、多くの地主、旦那衆が呉服屋にとってはとても良いお得意様だった。多くの土地を所有する旦那衆はあちらこちらに居て、地域によって旦那衆の屋敷が集まって集落を創っている。「あそこの集落は〇〇家と××家と△△家」と言う様に。そしてその分家や八百屋、魚屋等の店も集落を形作っていた。当時の呉服屋は、それらの旦那衆の家を廻って商売をしていた。
私の祖父も自転車に商品を積んで7~8km離れた集落に通っていた。7~8kmと言っても、今の様に道路事情は良くない。砂利道のような狭い街道を重い荷物を積んで行くのはさぞ大変だったと思う。
祖父が自慢げに話していたのは、「玄関から入れるのは呉服屋だけ」だったそうだ。八百屋魚屋はじめ呉服屋以外の商人は玄関から入れずに裏口、勝手口から入っていた。
商品を見てもらうのは旦那の奥方。いかに奥方に気に入ってもらえるかが商売のミソだったらしい。買っていただく着物は、旦那、奥方、娘、嫁をはじめ小作人に下賜する着物も選んでいた。「旦那衆の奥方は着物を買うのが仕事」とも祖父は言っていた。
代金の支払いは「盆暮れ勘定」である。12月の暮と8月の盆前の年二回。今の様に振込やカード決済などはなく、年二回の入金で商いができたのだから、余程鷹揚だったのだろう。
集金に行く時は、その半年間に納めた商品の一覧を持参して奥方に請求する。奥方は一覧に書かれた商品を一つ一つチェックして、「この着物は誰に作った着物?」と質問されることもあり、はっきりと答えられない時には、支払からその分を外される事もあったと言う。
父が子供の頃、集金に行かされた事があり、緊張して奥方の前に一覧を提出すると、奥方は何も言わずに全額払ってくれたと言う。相手は子供だから買った反物の事を聞いてもしょうがないと思ったらしい。集金したお金を持って帰ると、祖父に大変褒められたそうだ。全額集金できるのは稀だったのかもしれない。
旦那衆への云わば訪問販売は、終戦とともに急速になくなって行く。財閥解体によって地主は土地や小作人を失い財力を失って行く。
つづく