全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅱ.きものの販売手法 Ⅱ-ⅰ 呉服屋という商売
呉服の商売は昔からある。昔と言うのは何時ごろまで遡るのかは知らない。しかし、呉服とは日本人の衣装なので、衣食住という言葉が示すように日本人の生活にはなくてはならない物なので、呉服が売買されたと言うのは遠い昔からだろう事は想像にかたくない。
江戸時代に大きな呉服屋は沢山あった。三越百貨店は三井越後屋呉服店、松坂屋百貨店はいとう呉服店、いずれも1600年代に創業している。因みに伊勢丹百貨店は明治時代創業の呉服店である。呉服の商売が経済的に大きな位置を占めていたのは間違いない。
その頃どのような商売をしていたのかは分からないが、当社は明治34年の創業と言うことになっている。明治34年は西暦で1901年である。1901年は二代目である私の祖父が生まれた年である。祖父が生まれた時には呉服屋を始めたと言うのは分かっているので1901年創業としているが、実はその数年前から嫁いできた私の曾祖母が呉服屋を始めたらしい。
私が昔の呉服屋の商売を知ることができるのはこの辺りからである。私が生まれた時曾祖母は亡くなっていたが、祖父より昔の商売について聞かされたことがある。
明治から昭和初期には、呉服屋は沢山有った。今で言うブティック、洋服屋であろうか。いわば衣料品店である。呉服屋には絹物を扱う店から「太物屋」と呼ばれる綿反をはじめ普段着を売る店まで差別化されていたらしい。
私の店では店頭で販売すると共に祖父は遠くまで自転車で商いに回っていたという。お客様は地主の旦那様である。特定の決まった旦那様を回っていた。
地主を相手とする呉服屋にはテリトリーがあったらしい。〇〇地区の地主は××呉服店というように。祖父は北部のT地区を回っていたが、自転車で1時間くらいのところである。今よりも道が悪く重い反物を積んで行けばもっと掛かったかもしれない。
相手をするのは地主の大奥様。地主の奥様は旦那様や自分の着物、息子や娘、嫁の着物をはじめ小作人に与える着物も選んでいたと言う。「地主の奥様は着物を買うのが仕事のようだった。」と祖父は言っていた。
地主の支払いは盆暮れ払いである。帳面に貯まった売り掛けを盆と暮れにまとめて払ってくれる。支払いの時、帳面を奥様に見せると目を通した上で、「この着物は誰の着物でしたっけ。」と聞かれることがあったと言う。そして、はっきり答えられないとその分は除いて支払われたと言う。父が子供の頃、集金に行かされた時は子供だったので地主の奥様は何も言わずに全て支払ってくれた。父は集金した金を持って帰ると全額集金したのを見てたいそう父をほめてくれたと言う。
地主との商売は、現在で言う訪問販売であるが、一般庶民は必要な時に店にやってきて着物を買って行った。当時は今で言う一般庶民の訪問販売も展示会もなかった。
戦後、財閥解体となり戦前の地主は土地や小作人を失い、往時の財力はなくなっていた。戦前は地主との取引に頼っていた呉服屋も方針を変えねば成らなかった。朝鮮戦争後日本のは高度成長期を向かえ、市民の購買力も揚がってきていた。終戦で物の無かった時代から這い上がり、購買力がつけば自ずから景気は良くなる。私の店も鍛治町と呼ばれた自宅を離れて商店街に出店した。当時の商店街は花盛りである。ほぼ全県から人が集まり買い物をして行った。私の店の名簿には未だに県内遠い市町村の顧客も載っている。今では郊外店が其処此処にあり、遠くの市町村からわざわざやってくる必要もなくなっている。
昭和30年代には着物は本当に良く売れたと言う。「着物は皆が欲しがるもの」というイメージである。
昭和30年代と言えば私の子供の頃である。子供の頃の「泥棒」のイメージは、人のいない留守中に家に忍び込みタンスを開ける姿だった。当時の泥棒は、衣類をはじめ物を盗んでいた。しかし、現代の「泥棒」は金、貴金属、情報を盗むというイメージではなかろうか。
時代は変ったものである。
昭和30年代から40年代に掛けて良く売れた着物も、その後販売量は次第に減少して行く。
業界は減少する着物の需要を指を加えてみている訳には行かない。あらゆる試みで需要の回復を狙っていた。
落ち込んだ需要を回復する手立てはいろいろある。「新製品の開発」「新分野の需要の発掘」など建設的な方法もあるが、呉服業界が選んだ道は、「販売方法」の工夫だった。
「訪問販売」「展示会販売」「消費者セール」「無料着付教室」など様々な販売法を用いて需要の減少を最小限に食い止めた様に見えるけれども、私はこの選択は呉服業界の誤った道であったと思う。売上が縮小しながらも健全に業界を保つべきであったが、それらの販売法によって呉服業界はあってはならない姿になってしまっている。
次回から、呉服業界ではどのような販売が行われ、それらはどのような仕組みになっているのかを解明したい。