全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅲ-ⅱ きもののしきたりは誰が決めるのか(その4)
私は、現在巷で行われている「きもののしきたり論争」には否定的である。否定的と言うよりも係わりたくないと思っている。
前項までにその論争の題材となるものを否定してきたが、それは決して「着物にはしきたりはない」と言っているのでない。むしろ「着物には厳然たるしきたりが存在する」と言うのが私の持論である。
それでは、私が考える「きもののしきたり」とは何か。
本稿の大題目は「きもののしきたりは誰が決めるのか」である。その答えは「日本人皆」である。「日本人皆」と言うのは今きものを着ている人達だけを指すのではなく、古来日本と言う文化圏が生まれた時から現代に至るまでの日本人全てである。
きもの(着る物)の形は縄文時代から今日に至るまで何度と無く変遷をたどって来た。古墳時代の衣装と平安貴族の衣装は全く違う。江戸時代の着物と現代の着物も違っている。
時代時代で着る物が違っているのならば、現代のきもののしきたりは現代人が決めるべき、と思われるかもしれないがそうではないだろう。
衣装の形は違っていてもその衣装を纏う真髄は、日本の文化と言う一本の鎖のように連関している。一つ一つの鎖は独立しているが、それらは前の世代としっかりと繋がり、たどって行けばはるか昔へと繋がっているのである。
話は抽象的になってしまったが、「日本の衣装のしきたりとは何か」という話に行き着く。
それは、前項の最後で述べたように「何のために着物を着るのか。」「何のために衣装を着るのか。」と言うことから始まる。
それは着る物の形式に係わらず「着る物」の意味に根ざすものである。
どの時代の着物でも晴れの着物があり普段の着物がある。その場その場で着るものを換えるのはどういう意味があるのだろう。
普段に着るものは「何でも良い」のであるが、そこには機能性が求められる。それと同時に消耗品としてのコストパフォーマンスも必要である。安価な素材で動きやすいものである。労働着であれば尚更のこと、機能性が求められる。
「着る物」には機能性や身体を保持する保温性など必然的な役割が求められるが、もう一つ大切な役割がある。それは、人とのコミュニケーションの潤滑油としての役割である。
「裸の付き合い」という言葉はあるが、通常人と合うときは「着る物」を着て言葉を交わす。人とのコミュニケーションは言葉を通して行われる。また、身振り手振りなどがコミュニケーションをスムーズにしてくれる。そして「着る物」はそのコミュニケーションにとってとても大切な役割を果たす。
コミュニケーションと言っても様々な場面がある。暇つぶしのお茶のみ話から商談、お見合いなど様々である。その時々の場面にとって最も相応しい「着る物」がある。
どの場面でどの着物が相応しいか、それが「きもののしきたり」の根源である。
つづく