明治00年創業 呉服と小物の店 特選呉服 結城屋

全日本きもの研究会 きもの春秋終論

Ⅲ きものの常識・きもののしきたり ⅲ本当のきもののしきたりとは

きもの春秋終論

 日本の着物では、格付け(晴れ着、普段着)と季節によるTPOがあると先に書いた。まず、格付けについて考えてみよう。

 人は他人とコミュニケーションをとるのに何故「着る物」を選ばなければならないのか。

 結婚式場にTシャツ、サンダル姿で出席したらどうだろうか。葬式に赤いワンピースで参列したらどうだろうか。ほとんどの人は違和感を感じるに違いない。具体的なことは別にして、そこには守らなければならないしきたりが存する事は否めない。

 結婚式に出席する際の着る物に求められるのは何だろうか。葬式に参列する人に求められるのは何だろうか。結婚式に出席する人であれば、結婚する二人に対する祝福の意、葬式であれば故人に対する弔意が他人に感じられなくては成らない。

 それば着る物だけではなく、表情や振る舞い、また具体的な物によっても著される。着る物はそれらと同じ出席する人の心を代弁するものでなくては成らない。

 では、何が(どんな着物が)その場の意を代弁するものなのか。それは、日本の着物であれば日本人が長い間かかって築いてきたものである。具体的な着物の種類以前に形而上的な決まり、しきたりと言うものが日本人の中には脈々と受け継がれ育っている。着物の形式が変れども、その真髄は同じ物である。そして、その真髄に合致する着物を着ることこそが日本の着物のTPOであると私は信じて疑わない。

 その真髄とは何か。それは誤解を恐れずに言えば「他人に不快感を与えない」事であろう。

 結婚式で皆が新郎新婦を祝福しようとするときに、それに反する着物を着ている人がいたとしたならばどうであろうか。葬式で弔意を表す着る物(一般には黒)を着た人の中に赤いワンピースを着た人がいたらどうだろう。

「着る物」は着る人の意を代弁するものであり、それに相応しい着る物を着ることこそがTPOである。

 では、「他人に不快感を与えない」着物とは何を指すのだろう。これを説明するにはは単純な着物の指南を超えた日本の文化にも言及していかなければならない。 

「他人に不快感を与えない」と言うことは、不快感を与える人と与えられる人がいる。すなわち着物を着る人とそれを取り巻く人である。通常この二者は分けられるものではなく、着る人イコール取り巻く人でもある場合が多い。お互いがお互い着物を着ているからである。

 きもののマナーは、ひとり何の着物を着れば良いのかという単純なものではない。着物を着る人とそれを受け入れる人とのコミュニケーションが巧く行くことが大切である。それを理解しないことには、巷で交わされているような論争が繰り返されるのであろう。

 何時どんな着物を着るべきか、それには一元的な回答はない。この問題に迷っている人は常に一元的な解答を期待している。

 きものTPO早見表なるものも出回っている。それを見れば何時何を着れば良いかが即座に分かるという。しかし、これこそきもののしきたりに混乱を与えている。

「結婚披露宴に出席する時は何を着るか」早見表を見ればその回答が書いてある。訪問着や色留袖、付下げ、色無地など、個々の早見表によって内容が異なっているのも問題だが、果たしてその通りに着物を選べば正しいのだろうか。

「結婚披露宴」と言っても一元的ではない。最近は特にその傾向が強い。古式ゆかしい披露宴から、仲人のいないレストランでの披露宴。居酒屋での披露宴もある。それらの披露宴にはそれに相応しい衣装で臨まなくてはならない。

 また披露宴におけるその人の立場もある。速見表に「紋が付いていれば色無地でも可」と書いてあったとしよう。その通り色無地で披露宴に出席するのは良いが、主賓であった場合はどうだろう。主賓としてスピーチをする立場であれば色無地と言うわけにはいかないと思うがどうだろうか。

 結婚披露宴だけではなく、慶事弔辞あらゆる場合において、その場その場のシチュエーション、自分の立場で着るものを考えなくてはならない。

 以前、きもの春秋に書いたけれども、私は結婚披露宴に浴衣で出席したことがある。友人の息子さんの結婚披露宴だったが、それは私の本意ではなく友人(新郎の父親)のたっての頼みだった。我々の属する会の会服となっている浴衣を着て来て欲しいということで仲間数人と共に浴衣での出席となった。

 浴衣で結構披露宴はどんな指南書を見てもご法度であろう。しかし、出席者は事情をよく飲み込み、披露宴は盛り上がった。

「他人に不快感を与えない着物を着る」という原則に当てはめれば、その場で着るべき着物は見えてくる。むしろ巷でしきたりを一元的に決めようとする論争がそれを阻んでいる。

 早見表の功罪はまだある。着物用語の定義の曖昧さである。着物の用語は非常に曖昧に使われる。「付下げ」と言う着物の形式は統一されているだろうか。「袋帯」「名古屋帯」はどれも同じだろうか。

「付下げ」を着ていったつもりが、「それは付下げではありませんよ。」といわれる可能性は十分にある。「袋帯」と言っても様々な袋帯がある。「留袖には袋帯」と言う言葉に従い紬の袋帯を締めたらどうなるだろうか。「名古屋帯」にはフォーマル物から洒落物もある。更に名古屋帯には染帯、織帯がある。

 早見表に挙げられる着物や帯の種類は特定されているとは言えない。着物を十分に分かっている人であれば、「その場合は名古屋帯と言ってもフォーマル物を指している」と察することはできるが、初心者が早見表に頼ろうとすればそれもおぼつかない。

 きもののしきたりは、早見表等一元的に言い表せるものではないことを覚えておかなくてはならない。

 きもののしきたりの本質は、早見表を知ることでもなく、画一的な着物を着ることでもない。守るべきことは、その場の人達に不快感を与えない着物を着ることにある。その着物とは、大方早見表に沿ってはいるし、着付け教室や呉服屋が指南する着物とほぼ一致するといってよい。しかしそれらはしきたりの本質に完全に一致していないことを知らない人間が多い。

 きものを着る場、シチュエーションは同じ場であってもその性格は微妙に異なる。結婚式であれば荘厳な結婚式から、ごくカジュアルな結婚式まである。葬式でも身内だけで行うものもあれば社葬などもある。同窓会といってもお世話になった先生方をお呼びしてホテルなどで行う同窓会から飲み会のような同窓会まである。それぞれの催す性格によって着てゆく着物は変ってくる。

「○○の場では××を着る。」と言う早見表の「○○」の部分がまず変数となる。「○○」がはっきりと定まっていなければ「××を着る。」という命題は成立しないはずなのだが、それを鵜呑みにしている人達が多い。

 また、「××を着る。」というのは、以前お話したように地域、地方、家によってそのしきたりは微妙に異なる。加えて前述したように「××」の定義が定まっていない。

 従ってそれらを無理やり一つの命題に押し込めるのは無理がある。

 帰するところ、きものしきたりは何かといえば「他人に不快感を与えないきもの」を着ることである。

 それはそう難しいことではないのだけれども、問題を複雑にしているのはきものを着る人達の意識である。次のような場面を考えてみよう。

 結婚披露宴に招かれた人達が着物で出席する。その人達はそれぞれに自分が結婚披露宴に相応しいと思う着物姿で出席する。ある人は昔から着てきたものを着る。ある人は着付け教室で教えてもらった着物を着てゆく。またある人は着物早見表を見て着て行く。

 集まった人達の着てきた着物と言えば、訪問着であったり、色留袖、付下げ、また色無地一つ紋付であったりする。さて、それらの内誰が正解で誰がしきたり違反だろうか。

 私は全て正解、しきたりに合致していると思う。しかし、こういう場で引き起こされるのは、他人の着物に対する批評合戦である。

「ここでは色留袖はおかしい。」「色無地じゃちょっと失礼じゃない。」「あの人付下げ着ているけど名古屋帯じゃおかしいんじゃない。」などと批評しあうのである。

 これこそが「きもののしきたり違反」の最たるものである。自分の知識に照らし合わせて他人を批評しようとする。それは「他人に不快感を与える」行為なのである。

 訪問着を着た人と色無地を着た人、それぞれが「他人に不快感を与えない」礼儀として、「立派なお着物でお出でいただき新郎新婦もお喜びでしょう。」「わざわざ着物でお越しいただきましてありがとうございます。」そういった会話が何故出てこないのだろうか。

 着物を着る意味は他人とのコミュニケーションをより良くするためである。着物を着たばかりにコミュニケーションが悪くなるとすればそれは着物を着る意味がない。

 次に、季節のTPO、季節の着物を考えてみよう。

 日本の着物は季節に敏感である。古来、日本では季節により着るきものを替えてきた。「六月は単衣、七、八月は薄物、九月は単衣で十月からは袷」と言われている。その通り着物を着ることが本当の着物のしきたりなのだろうか。

 言葉通り受け止めれば、「7月1日午前零時をもつて単衣を薄物にかえる」「9月一日午前零時をもつて薄物を単衣にかえる。」「10月1日午前零時をもつて薄物を単衣にかえる」というのが正しい着物のしきたりである。

 一年中着物を着ている人の身に成ってみよう。

 五月にはいくら暑くても袷を着なくては成らない。五月にも、うだるような暑さを経験している人は多いだろう。六月には冷たい雨が降る日もある。九月の天気も微妙である。

 暑かろうが寒かろうが着物は決められたものしか着てはいけないのだろうか。しきたり?に従って着物を着たばかりに「暑い思い」「寒い思い」をした人は多いと思う。

 季節はずれの思いがけない気温に出会った時、人はどうするのか。多くの人は洋服に逃げるだろう。

「暑くて袷など着ていられないから洋服にするわ。」という会話はよく聞く。しかし、着物で一年中通す人はどうするのだろう。洋服のなかった昔はどうしたのだろう。

 着物は日本の衣装として洋服その他の衣装の力を借りずとも一年中快適に暮らせるはずである。だとすれば、上述したきもののしきたりはどこかおかしい。「暑いのをがまんして」「寒いのをがまんして」というしきたりはないはずである。

 季節の着物を着る意味は、見る者に季節感を感じさせる。それは「他人に不快感を与えない」という原則に則り、相手とのコミュニケーションをよりスムーズにするものである。

 6月に袷を着た人の、「いやー、今年の梅雨は寒いですね。肌寒くで私はまだ袷を着ていますよ。」という言葉はどのように受け止められるだろう。「6月に袷を着る非常識な奴だ」と思われるだろうか。それとも「なるほど今年の梅雨は寒いな。」と共感を得られるだろうか。

 ロドリゲス・ツヅの著述のところで記したように、日本では儀式においては季節感をことのほか重視していたようである。しかし、それは生理的な暑さ寒さには踏み込まない工夫をしていたように思われる。

 しきたりにそぐわない?暑さ寒さというのは天候の不順によるものばかりではない。南北に長い日本列島では天候や気温は地域によって大きく違う。五月の北海道と京都では気温がどれだけ違うだろう。沖縄と東北はどれだけ違うだろう。保温、発汗という意味で、日本全国の人が同じ着物を着るのには無理がある。

 しかし、日本全国地域によって季節による着物が異なるという話は聞いたことがない。平均的な気温の地域を標準とした場合、それより大きくはずれる地域の人達は我慢しなさい、ということか。そんなはずはない。

 着物の季節感を共有しながら「袷の時季は何が何でも袷」「薄物の時季は何が何でも薄物」という枠を越えて、見る者、コミュニケーションの相手に季節を感じさせる工夫こそきもののしきたりに必要なものではないだろうか。

「本当のきもののしきたりとは」と言う表題で話を進めているが、「きもののしきたりは○○である。」という言葉が出てこないことに歯がゆさを覚える人も多いと思う。しかし、きもののしきたり、常識というものは一言で言い表せるような成文化できないものと私は思っている。

 次に書くのは、私の親バカ話である。

 私の息子が小さい頃、家族で焼肉を食べに行ったことがあった。私には息子が二人いる。長男は中学生、次男は小学生の頃だったと思う。

 煙の充満するような焼肉屋でカルビやロースを食べ終えて勘定をしていた時のことである。焼肉屋の女将さんが息子達に缶ジュースをくれた。サービスのつもりだったのだろう。冬の寒い時期で、息子達はコートを着て手袋を付けていた。

 缶ジュースが差し出された次男は、手袋をはずしてジュースをもらった。それを見ていた主人が、
「おっ、手袋はずしたね。」
と言った。そして、
「今時、手袋をはずしてもらう子は余りいないよ。」
とほめてくれた。

 手袋をはずして缶ジュースを受け取った息子を私は少し誇らしく思ったが、さて、息子は何故手袋を脱いで缶ジュースをもらったのだろう。

「人から物をもらう時には手袋を脱いで受け取りなさい。」
などとは私も女房も言い聞かせたことはない。それでも息子は礼儀にかなった振る舞いをしたのである。

 思うに日本の礼儀作法(他の国の礼儀作法も同じだけれども)は一本の筋が通っている。礼儀作法の一つ一つはまるで違ったもののように思えるけれども、実は皆繋がっている。

 私の息子は親のすることを見ている。私が格別礼儀正しいわけではないけれども、少なくとも商売をしている。私をはじめ店の人間がお客様にどのように振舞っているかを息子は見ている。

 いらっしゃったお客様に
「いらっしゃいませ」
「ありがとうございました」
と言って頭を下げる。お客様との商品の受け渡し、お金の受け渡し、またお茶の出し方など様々な日本の作法を目で見て焼きついていただろう。

「いらっしゃいませ」と言うことやお金の受け渡しは、手袋をはずすことと直接は関係がないようだけれども、実は一本の筋で繋がっている。日本の礼儀作法を十分に知る者は、いままで出会ったことのない場であっても礼儀に即した振る舞いをするだろう。

 それらの礼儀作法は成文化されたものではない。いや、その場その場に合わせて振舞う作法は、複雑すぎて成文化するなどとてもできないものだろう。

 きもののしきたり作法もこれと同じである。結婚式では何故○○を着るのか。葬式ではなぜ××を着てはならないのか。など、それらには一本の筋が通っている。しかし、それを成文化しようとすれば無理が生じ、作法は作法でなくなってしまう。

 きもののしきたり、作法は誰が決めたものでもないし、誰が決めるものでもない、長年築き挙げた日本の文化に絡みついた一筋が自ずと我々に提示してくれるものなのである。

 焼肉屋の主人に次男がほめられた後、我が家ではしばらくその話題が続いた。長男が次男をからかったせいもあるが、作法についての話題が食卓にのぼり、子供達も礼儀作法についていくらか関心を持ったようだった。

 その中で私は子供達に次のようなことを言った。

「礼儀作法を知るのは大切だけれども、礼儀作法は他人にひけらかすものではなく、もしも他人が作法を知らないのをばかにしたりすれば、その人は一番礼儀作法を知らない人なんだよ。」

 手袋をはずして缶ジュースを受け取った子供が、他の子が手袋のまま缶ジュースを受け取ったのを見て、「お前は礼儀知らずだな。」と言ったとすれば、その子は最も礼儀を知らない人間なのである。

 礼儀作法は何のためにあるのか。それは、きもののしきたりと同じく、他人とのコミュニケーションを良くするためである。自分の礼儀作法をひけらかし、他人を卑下するものはそれに最も遠い人間といえる。

 きもののしきたりに当てはめて考えてみよう。

 きもののしきたりは日本の文化に絡みついた一筋の道である。日々着物を着て、着物に触れる生活をしていれば、自ずからきもののしきたりは身についてくるはずである。紬ばかり着ている人が、友禅の訪問着を見れば、誰に聞かなくてもそれは普段着ではないと思えるだろう。

 日本人が日常きものを着なくなってしまったことがきもののしきたりを難解にしていることは否めない。今、きもののしきたりを経験で体得してゆくのは至難の技かもしれないが、きもののしきたりとはそういうものであることを覚えておかなくてはならない。

 きもののしきたりは、複雑で感覚的なもので、早見表などでとても表されるものではない。その事を忘れ、自分が聞いたしきたりだけが本当のしきたりであると思い込むことに問題がある。

 さらに、自分の思い込んだ偏狭なしきたりを是として、それに違う人に対して卑下するような態度はしきたり、作法、常識の論外といえる。まさに子供が手袋のまま缶ジュースを受け取ったのを見て「お前は礼儀知らずだなぁ」というようなものである。

 しきたりや常識は、誰が創って来たものでもない。日本のしきたりや常識は日本人が長い年月を掛けて積み重ねてきたもので、様々なしきたりは麻縄の如く日本の文化に一体となって絡み付いているものである。それは複雑で、とても言葉に表していいきれるようなものではないことはお分かりいただけたと思う。

 とても複雑なしきたりを理解しきれずに、または単純化して捉えようとしてクダラナイしきたり論争が生じていることは否めない。

 しかし、そのしきたり論争に混乱を生じさせているもう一つの原因は業界にある。

 業界が、いわば勝手にしきたりを喧伝して消費者に吹き込み、混乱を生じさせている。

 ここ数十年呉服業界は下り坂だった。生産量、販売額ともに転げ落ちるように減少してきた。その中にあって、業界では、それまでに無かった商品を次々に開発し、販売額の減少に歯止めを掛けようとしてきた。その努力は必要だし、大変な労苦を伴ったと思う。しかし、それが結果的に業界というよりも着物の文化を混乱させる原因となってきた。

 いくつかの例を挙げると、「紬の訪問着(絵羽)」「結城紬の留袖」「大人の振袖」「ゆかたの比翼」等々。いずれも、それまでには無かった需要を掘り起こそうと創られた商品である。

 紬の訪問着については何度も書いてきたが、「いつ着たらよいですか」の声が絶えない。消費者は紬の訪問着をいつ着たら良いのか分からない。メーカーや売り手は「結婚式でも着れます」とか「普段でも着れます」とか説明するけれども、その根拠がはっきりしない。というよりも根拠等ない。私には、ただ売らんが為の説明にしか聞こえない。

 紬の訪問着を創ることは悪いことではない。さて、それはいかなる場で着るべきか決めるのはメーカーでもなく、呉服の問屋でもない、まして呉服屋が決めるなどおこがましい。

 日本人が日本の文化と向き合いながら決めてゆくことである。それぞれが勝手にしきたりを決め付けてしまうことに問題がある。

 ある業界の本に、着物の専門家と称する人が記事を載せていた。現代は着物を着る機会も少なく、着る人も少なくなった。だから着物を着ることそのものが晴れであるから、小紋であろうと紬であろうと晴れの場に着ても構わない、と言う趣旨だった。

 長い年月を掛けて創り上げてきたきものの文化、しきたりを個人が勝手に変えられるものと思っているのだろうか。私はその記事をみてあきれ果てるのを通り越して憤りさえ覚えていた。

 確かに着物を着る人は減少し、着物の生産数自体も激減している。しかし、着物は日本の文化であり、いくら縮小して標本のようになったとしても、そこには晴れの着物、普段着のきものがあり、慶事の着物、弔辞のきものが厳然として存在し、またそれを守るのが我々の務めではないだろうか。

 メーカーや問屋、呉服屋をはじめ着物の専門家と称する人達がありもしない着物のしきたりを吹聴コントロールすることによって益々きもののしきたり論争は混乱の渦に巻き込まれることだろう。

 きもののしきたりは日本のしきたりであり、日本の常識、文化にリンクしている。きもののしきたりが日本の常識を逸脱することはない。もし逸脱していたとするならば、それはきもののしきたりとは言えないだろう。

 私は日本の文化が大好きである。そう思う日本人は多いだろう。そして、世界中多くの人達は自分の国や民族の文化を誇りに思っているだろう。

 日本の文化といっても一言で言い表すことはできない。その一つに謙譲の美徳というものがある。相手を立てて自分がへりくだるのが謙譲である。「愚息」「愚妻」いずれもおかしな言葉である。自分の息子を「愚かな息子」自分の妻を「愚かな妻」と呼ぶのはどうしてだろうか。これらは、自分の妻や息子を卑下する為ではなく、相手を持ち上げる為の言葉である。

 日本人は常に相手を気遣い、相手と良好な関係を保とうとする。これが日本文化の原点である。それは、島国と言う狭い閉じた空間の中でより良く生きる為の知恵なのかもしれない。

 謙譲とは相手に対して謙ることだけれども、その相手は謙った相手に対して居丈高になってはいけない。それは日本のしきたりに反する。

「これは私の愚息です。」という言葉に対して、「なるほどお宅の息子さんは馬鹿息子ですね。」などと言う人はいない。謙譲に対して謙譲で応えるのが日本の常識である。

 この謙譲の受け答えは、ただ言葉の上だけでのやりとりのように思えるが、実は更に深い文化を日本人は創り出している。

 山形で有名になった外国人タレントの講演で、その奥さんとの次のようなエピソードを話していた。

 夫婦で出かけて帰りが遅くなり、奥さんに「遅くなったから○○でも食べて帰ろうか。」と言うと、奥さんは「う~ん。」と言って要領を得ない。「それじゃあ△△を食べて帰ろうか。」と言っても「う~・・・ん。」とはっきりしない。外で食べる気が無いのだろうと思って家に帰って適当に食事をすると、奥さんに怒られたという。「本当は○○を食べて帰りたかった。」と言う。

 奥さんの「う~ん。」という言葉を単純に否定と捉えたのである。しかし、奥さんは、本当は自分が家に帰って食事を作らないといけないと言う思いもあり、遠慮もあって「う~ん。」と言う言葉になったのである。

 その講演のオチは「日本語ってむずかしいですね。」だった。

 日本人の言葉は単純であっても、その奥にあるのは複雑な日本の心のやり取りなのである。

 きものの世界では「平服」という言葉がある。「平服でお出でください」というのは、「普段着で着てください。」の意味ではない。(『きもの春秋14.平服について』参照)日本の会話は、その言葉の裏を読まなければならないのである。

 私はお茶を習ってはいないが、若い頃、経験にと友人に誘われてお茶の稽古を体験したことがある。謝礼を払うべきかどうか分からなかったので師匠に聞くと、
「どうぞお気になさらないで。」
という返答だった。言葉通りに受け取れば
「謝礼はいりませんよ。」
ということになる。後で友人に聞くと、
「気を使わないでください。」
と言うのは、何もしなくて良いという意味ではない。
「もしも、気を使ってくださるのなら、こちらでも相応の気を使わせていただきます。」
の意だという。

 その場で私が何もしなければ(気を使わなければ)、その師匠と私の関係はそれまでである。もしも、私が気を使って対応すれば・・・・・その結果が得られるのである。

 そういった習慣のない外国人から見れば、まだるっこしい、あるいは日本の不思議な習慣・常識に見えるかもしれない。しかし、それを実践することは人と人のつながりを更に強いものにするのである。

 きもののしきたりは日本のしきたりにリンクしている。いや、日本のしきたりそのものであるべきだ。

 その観点から考えると、巷でささやかれている着物のしきたりは、なんと浅薄であろうか。

 偏狭な決まりで語りつくせるほど日本の文化は単純ではない。きもののTPOの早見表で表せる程きもののしきたりは単純ではない。何が本当のきものの常識、しきたりなのかもう一度広い視野に立って考え直すべきと思う。

「本当のきもののしきたりとは」と言う表題で話を進めてきたが、具体的な結論を期待しておられた方は拍子抜けしたかもしれない。しかし、きものは日本の文化であり、日本の文化、常識とは何なのかを良く考えていただきたいのである。

 きもののしきたりを云々して他人の装いを否定するなど日本人の常識に合致するだろうか。

 どうしてもきもののしきたり、常識を成文化しなければならないとするならば、私は次の一言だと思う。

「他人に不快感を与えないきものを着る事」

 着物には決して型にはまった規則はない。しかし同時に、独りよがりの着物を着てはならない。誰しもが快く受け取ってくれる着物を着て、それでいて自分の趣味、センスが生きるきものを着る。それこそが着物を着る楽しみでもある。

 この章「本当のきもののしきたりとは」はこれで終わります。このコラムは『ゆうきくんの言いたい放題』なので、また思いついたら「きもののしきたり」について書くかもしれません。

 次回からは次回からは、これから呉服業界、きものを取り巻く環境の問題について考えます。

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