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全日本きもの研究会 きもの春秋終論

Ⅵ.きものつれづれ 19.伝統・しきたりは守られるべきか

きもの春秋終論

 着物についての伝統やしきたりについては以前から触れてきた。しかし実は私はこの伝統・しきたりは守られるべきか」と言う議論には巻き込まれたくないと思っている。決して責任を逃れたりノンポリを決め込むつもりはないのだけれども、この議論は果てしなく勝敗は決してつかないからである。

 この議論が始まれば、
「伝統は守られるべき」
と言う肯定派と、
「伝統は時代と共に変わる」
「昔の悪弊を引きずる必要はない
と言うような否定派が喧々諤々の論争を交わすことになる。しかし、どちらかが相手を論破して納得させると言うのはまず起こり得ない。どちらも自説を唱えるのみで、妥協点を見いだせる物でもない。結局、何の結論も見いだせずに、場合によっては敵愾心のみが醸成されてしまうのである。

 着物に限らず伝統やしきたりを現代の世の中ではどう見たらよいのか、実に大切な問題ではあるけれども、巷ではそれぞれがそれぞれの解釈でコンセンサスは見出されていない。

 今回、紙面をもってこの難問を考えて見ようと思うが、これは議論ではなく私の個人的な見解を一方的に書くものである。どのような批判が浴びせられるか分からないが、一方通行の一撃離脱ブログである。

 この表題が思いついたのは、ニュースを賑わせた角界のさる事件だった。

  ご存知のように、土俵で倒れた男性に心臓マッサージを施そうと女性が土俵に上がった際、
「女性は土俵から降りてください」
のアナウンスが流れた。詳細は書かずとも事の次第はご存知の事と思う。

「土俵に女性は登れない」と言う伝統と、「命を救おうと土俵に登った女性」の間に齟齬が生じニュースを賑わすこととなった。

 結果から言えば、一刻を争う救命に立ち上がった勇気ある女性(看護師?)に対して「土俵に登るな」は的を得ていない、と言うのは衆目の一致する処だと思う。インターネットやSNSでも「女性は土俵から・・・。」への批判が多かった。批判の声が渦巻く中、八角理事長は謝罪の声明を出した。当然の対応だったが、あるいは「女性は土俵から・・・。」と咄嗟にアナウンスした本人も「まずい事を言ってしまった。」と思っているのではないだろうか。

 しかし、問題はこれに留まらなかった。その後も女性の土俵への登壇の是非が問題視され、土俵の下で挨拶をした宝塚市長は登壇できない事への不満を挨拶の中でしたと言う。本人は「伝統は撤廃すべき派」なのだろう。もちろんその主張には一理も二理もある。相撲協会の不手際に乗じて一気に伝統の撤廃を主張する良い機会と捉えたのかもしれない。

 私は再度申し上げるが、このよう議論には関わりたくない。宝塚市長の言を受けて相撲協会が白旗を掲げて伝統を完全に撤廃する事はないだろうし、もしもそうした場合、また多くの不満が反対派から噴出するだろう。決して決着は付かない問題だと思う。

 さて、相撲の話になってしまったが、着物の世界では相撲の世界以上に伝統やしきたりが論ぜられる。両派の議論に関わりたくないと言って耳を塞いでただ黙っている訳には職業柄いかない。この問題はどのように捉えれば良いのだろう。

 実は先頃私に初孫が誕生した。孫はかわいいものである。若い時には、
「孫の為には何でもしてあげたい。」
と言っている年配の方を見ると、
「何とも婆バカな。」
と思っていたが、私も「爺バカ」であった。

 私が孫に何をしてやれるのかと言えば、職業柄宮参りの掛け着の用意である。日本の伝統的しきたりとして、生まれた子を連れて神社に詣でる。その際、抱いた子供に着せ掛けるのが「掛け着」あるいは「一つ身」「祝着」とも言う。着物と言っても生まれたての赤ちゃんに着物を着せる訳ではない。赤ちゃんを抱いた上から掛ける着物である。

 さて、誰が赤ちゃんを抱くのかと言えば、伝統的なしきたりでは父方の母親が抱いて宮参りする事になっている。赤ちゃんを産んだ当の本人である母親は手ぶらで参ることになる。こういったしきたりが長年続けられてきた。

 ところが、知人の話によると、息子の子供を宮参りで写真館に行ったところ、息子の嫁が子供を抱いて祝着を掛けて写真を撮った。写真館の人の指示に従ったところ母親は幕の外で、嫁が抱いて当然と言う風だったと言う。伝統には全く目もくれずに親子三人の写真となった。

 赤ちゃんは、嫁が抱くのか母親が抱くのか。これもまた、「伝統・しきたりは守られるべきか」の論点となりそうである。

 生まれた子供を宮参りさせるときは子供の母親が抱いて行く、と言うのは理にかなっているし、当たり前に考えれば当然のようにも思える。それでは何故父方の母親が抱いて祝着を掛けるのか。それには、それ相応の理由がある。

 様々な理由があるらしいが、良く言われるのは、
「出産後の女性は不浄なので、神社に詣でてお祓いをしてもらうまでは子供を抱っこさせない。」
と言うものである。不浄と言うのは、昔は血を流すこと、血を出すことが不浄と考えられ、出産に際して血を流した母親の体には穢れがあると考えられていた。

 出産した女性は不浄なのか、と言えばその科学的根拠もないし、議論しても始まらない事であろう。
「昔の人はそう考えた。」
としか言えないだろう。そう聞けば、反伝統派の人達は、
「それなら意味がない。」
といきり立つように思える。

 しかし、伝統やしきたりには意外と合理的な意味が含まれていることが多い。お茶の作法や食事の作法等、昔から伝えられた伝統やしきたりは理に適っているようにも思える。

 食事の時の茶碗とお椀はどちらが右でどちらが左か。日本の食事では茶碗やお椀を手に持って食べる事になっている。茶碗やお椀を持つのは左手である。茶碗とお椀のどちらを手に持つ頻度が高いのかを考えれば自ずと答えが出てくる。

 また、何故茶碗やお椀を手に持たなければならないのか。最近はテーブル席が多いために茶碗を持たずに食べる人も見かけられる。しかし、御膳に座って見ればよく分かる。御膳では茶碗と口の位置が離れているために茶碗を持って口に近づけるのが理にかなっている。

 お茶の作法もしかりである。お点前で建水を後ろに下げる仕草がある。何故建水を後ろに下げなければならないのか。洋服でお茶を習っている人はつい飛ばしてしまうらしいが、着物を着てお点前をすればその意味がよく分かる。建水を下げなければ袖を濡らしてしまういとった事がある。お茶の作法は傍から見ると面倒くさそうに思えるが、実は合理的に組み立てられているらしい。

 さて、それでは宮参りで父方の母親が子供を抱くのはどのような合理性が伴っているのだろうか。

 よく言われているのは、
「産後間もない母親の体を気遣って」
と言うものである。私は子供を産んだことはないので分からないけれども、産後間もない母親は子供を抱いて宮参りするのは体に堪えるのかもしれない。と言うよりも、御姑に抱いてもらえば身体が休まる、と言う事だろう。

 他にも合理的理由があるのかと考えれば、家族の絆という意味もあるかもしれない。昔の日本は今と違い大家族、家父長制であった。生まれた子供がその家の祖母に抱かれて宮参りする事は、一家の一員として認められる第一歩だったのだろう。

 大家族や家父長制については現代では違和感があるかもしれない。私も家父長制については封建的な臭いがして少なからず批判的である。

 伝統やしきたりは、時代の事情を背景として築かれてきたものなので、時代が大きく変わると、その時代にそぐわなく成ることは十分に考えられるが、合理性を含んでいることもまた事実である。

 相撲の話に戻れば、現代の論点は「男女差別」にある。
「男性に許されることが何故女性には許されないのか」
と言う男女平等の根本問題である。土俵に女性を上げないと言うしきたりに合理性はないのだろうか。

「女人禁制」と言えば高野山が思い浮かぶ。現在は、和歌山県伊都郡高野町と言う都市として男女共に住まう街だけれども、昔女性は入山が許されなかった。私は高野町には仕事で数十回訪れたことがあるが、今は寺の多い普通の門前町だった。

 高野山が女人禁制だった理由は男女差別によるものだろうか。私は極合理的な意味があったと思う。高野山金剛峰寺は弘法大師空海が修禅の道場として開いたものである。当時修行をするのは男性であった。女性は男性にとってはとてつもなく魅力のある存在である。男性の修行の場に女性がいては修行に専念できない、と言う理由から女人禁制となったのだろう。

 一方、女性の修行の場として尼寺がある。尼寺は女性僧(尼、比丘尼)が修行する処で男性はいない。同じように西洋でも修道院は男子修道院と女子修道院に分かれている。どちらも修行の場に異性が居ては修行に身が入らないと言う事だろう。

 宗教の場、修行の場では異性を区別すると言う合理性が働いている。では、相撲の場はどうか。

 相撲は神事と言われるが、同時に勝負の場でもある。とりあえず相撲は男性の競技である。男性の真剣勝負の場に女性が居ては気が散ってしまうと言う事だろうか。昔、レーシングサーキットに女性を入れないところがあったと聞く。やはり事故と隣り合わせのレーサーにとって魅力ある女性は影響を与えかねないのだろう。

 伝統やしきたりには、少なからず合理性が潜んでいる。しかし、それが現代の世の中で通用するかどうかはまた別問題である。

 先の尼寺の例では、どこかの尼寺では尼僧になる人が少なく、男性の僧侶が住職になったそうである。

 では、この問題(伝統やしきたりは守るべきか否か)はどのように考えればよいのだろうか。

 伝統は不変である、と言う不文律は成立しない。伝統やしきたりは時代によって変わっているのは例を挙げるまでもないだろう。では、現代(までに)守られている伝統をどのように変えて行くのかが論点となる。ここで、「伝統は守られるべき」と言う肯定派と「伝統など無視して構わない」と言う否定派が議論にしのぎを削ることになる。

 この議論をする際に、双方とも盲目的な意見の主張であってはならない。つまり、「何が何でも伝統は守られるべき。」または「伝統など壊して然るべき」といった感情的な主張である。

 そう言った議論がなされる時、往々にして議論は本筋とはかけ離れた論理によって歪められることがある。

 相撲の話を例に採れば、相撲の伝統と男女平等の話が同じ土俵で語られている。土俵に女性が揚がれない伝統は男女差別から起こったものであることが明白であれば、そのような議論も成り立つだろうが、私にはそうとは思えない。何某かの合理性を含んだ伝統であると思える。

 議論に先立ち、まず明確な事実の把握が必要である。伝統護持に反対する者は、その伝統にどのような合理性があり、現代では通用しない非合理性はどこにあるのかを焙りだすことが先決である。

 同じように、伝統を守ろうとする者は、否定する人達は、守られてきた伝統が現代の世の中では何が非合理的だと主張しているのかを理解しなければならない。双方がお互いの真意を理解してこそ議論が始まる。

 さて、呉服の世界に話を戻そう。呉服の世界でも上記と同じように伝統しきたり論争がなされている。

 伝統護持派は、時代の変化を読み取らずに頑なに伝統を守ろうとしている。季節による着物、袷や単衣の着る時期、着物と帯の合わせ方など、見知らぬ人にまで強要して自分の主張の正しさを実感しようとしている。

 伝統を無視しようとしている人達は、伝統を守ろうとする人達から見れば、目を覆いたくなるような着物を着ている。女性が付けるような半襟を男性が付ける。女性が男性の羽織を着る。黒い喪服を平然と普段に着る、等。

 さて、両者にはお互いの主張を理解する努力は為されているのだろうか。答えは否である。伝統を頑なに守ろうとする人達は、自分が習ったまたは見知った知識が全てであり、他の価値観は認めない。伝統に逆らおうとする人達は、着物の伝統しきたりは初めから分からず知ろうともしない。自分勝手に着物を理解し着物を着ている。

 このようであれば両者は初めから水と油であり議論の余地もないだろう。伝統を守ろうとする人達は、現代の世の中をよく理解し、また若い人たちが何を求めて着物を着ようとしているのかを理解すべきである。そして、伝統の殻を破ろうとする人達は、まず着物の伝統を知らなければならない。その上で着物の伝統しきたりは今後どうあるべきかを考えなければならない。

 両者がお互いの主張を理解し日本の伝統文化の将来を考えるのであれば、両者の溝はそう大きくないと思う。相手の主張の真意を理解する事無く議論がなされれば溝は益々深くなってゆくだろう。

 角界であれ呉服業界であれ、伝統文化の問題は、もっと真摯に取り組むべきである。

 尤も、呉服の伝統の乱れは、商品を売ろうとするメーカーや商社がありもしない伝統を流布している感が否めないのは残念な事である。

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