明治00年創業 呉服と小物の店 特選呉服 結城屋

全日本きもの研究会 きもの春秋終論

Ⅵ.きものつれづれ 43 これからの呉服屋に求められるもの

きもの春秋終論

 呉服業界が下降曲線をたどり始めてから久しい。40年前2兆円あった市場は今2000億円足らずである。西陣をはじめとして呉服の産地の生産量は激減している。私の街でも近くにあった呉服屋は6~7軒店を閉めている。今、商いを続けている呉服屋はそんな中でなんとか商売を続けている。

 呉服屋と言えば昔からある商売。昔ながらの商売を続けていると思われているかもしれない。確かに、扱う商品は着物や帯など昔と何も変わらないように見える。
「お宅は老舗ですから・・・。」
と言われることもあるが、老舗だからと言って何時までも安泰に商売を続けられるわけではない。老舗と言われる呉服屋が次々と店を閉めている。呉服業界に限らず、どんな産業でも常に時代の流れに乗ることが大切であり、できれば次の時代を見越して対応しなければ生き残ることはできない。どんなに商売が上手く行っていても、同じ物を同じように商いしていたのではたちまちにして時代に取り残され消滅してしまう。

 一見華やかな先端産業は、もっと厳しい競争を迫られている。

 2000年に入り、家電メーカーのシャープは業界の競争の厳しさもあり、社力を液晶に特化して注力し「亀山モデル」と呼ばれる液晶テレビの一貫生産工場を亀山で始めた。液晶に特化して技術を磨いている姿を見て、私は「さすがシャープ、素晴らしい」と当時感心したものだった。しかし、生産を始めて僅か6年で工場を閉鎖、韓国や中国にその覇権を譲り渡し、最後は会社自体を台湾の鴻海に売り渡さざるを得なくなってしまった。

 流通小売業を見ても、かつて小売りの王様だった百貨店は昭和50年代半ばにはスーパーにその座を奪われる。しかし、覇権を握ったかに思えたそのスーパー業界も、最大手のダイエーが倒産。続いてマイカル(ニチイ)も倒産。残ったイトーヨーカ堂とジャスコも現在スーパー部門は振るわない。

 イトーヨーカ堂はいち早くコンビニエンスストアー事業を育て、セブンイレブンはセブンアンドアイの稼ぎ頭となっている。しかし、コンビニエンスストアーも全国で5万店を超え、また労働問題なども噴出して次世代の在り方を模索している。

 どんな業界でも千年一日が如く商売をしていたのでは続ける事は出来ない。

 呉服業界も、私が知るここ5~60年の間でも多くの変遷、紆余曲折を辿ってきた。業界が時代の波に流されるのは、業界自身の事情もあるが、それ以上に消費者の欲求や必要性に迫られてのことである。これからの呉服屋には何が求められるのかを的確に把握しなければならないと思っている。

 これまで呉服屋は、どのような商いをしてきたのかをまず考えて見よう。

 私が呉服屋を意識したのは昭和35年頃だろうか。それほど明確な認識ではなかったけれども、子供心にただ何となく「ああ、家は着物屋なんだ」という程度であった。自宅と店が離れていたせいもあり、店に行けば自宅とはまるで違った雰囲気、着物が沢山並べられ、それを見に来るお客様が次々に店を訪れていた。

 昭和30年頃の呉服屋は良く売れていた。10年遡る終戦時には日本経済は破綻し、着物の生産どころではない。着物を持っている人はそれを食料に替えて生活していた。着物(洋服も含めて)に費やすお金よりも、食料の確保が先決で、それまで持っていた着物は、この時点で清算、在庫整理といって良い状況だった。

 しかし、日本経済は不死鳥の如く徐々に復活し国民の財布には余裕が出て来る。一度清算された着物は復活し、着物を持っていない人達が着物を求め始めた。もちろんその背景には、まだ多くの人が普段に着物を着、慶弔の場では着物を着るといった風潮が色濃く残っていたのも呉服業界には良い材料だった。

 当時の呉服業界は健全?だった。生産者が創った着物や帯は問屋に買い取られ、小売屋へと流れて行った。染屋や織屋が良い商品を創れば、それらはたちまち小売屋へと伝わり、消費者に響いた。消費者の嗜好はフィードバックされて生産者に響く。生産者は更に消費者の嗜好に合わせた商品創りをする。

 それらは、どの業界に限らず極当たり前のことだけれども、現代の呉服業界から見れば健全に見えるのは、やはり現代の呉服業界は病んでいると思わざるを得ない。

 当時の呉服屋がやるべきことは、「良い商品を安く仕入れて消費者に渡すこと」である。そして、生産者は、「消費者の嗜好に合わせた良い商品を創る事」だった。

 八百屋さんでも魚屋さんでも市場に行って、より新鮮でより良い魚屋野菜をできるだけ安く競り落とす。商売にとっては基本中の基本であるが、これを上手く熟すには、その業界のプロでなければならない。とても難しい事であるが、商売をする者にとっては、そうして消費者に喜んでもらう事が商売冥利に尽きるのである。

 そういう意味で、当時の呉服業界は、ある意味健全であった。今とは交通、流通事情のまるで違う当時は、問屋さんは京都から全国各地に沢山の商品を持って夜行電車で回って商売をしなければならなかった。呉服屋も仕入れに行くときは数日掛かりで行かなければならなかった。

 また、車が一般的でなかった時代に、お客様に仕立物を届けるのは、一日掛かりの仕事となることもあったが、呉服屋のやるべきことは、はっきりとレールが敷かれていたとも言える。そして、そのレールと言うのは、生産者、問屋、小売屋、消費者それぞれの利益に合致したものだった。

 さて、昭和30年代になると少々事情が変わって来る。日本は高度経済成長を迎え日に日に裕福になって行った。それに伴い呉服業界も更に好況を呈して行った。

 裕福になった消費者は、より高級な嗜好へと移って行く。洋服が次第に和服を駆逐していた事もあり、それまで普段着主体だった着物の消費が高級なフォーマル物へと変化して行く。もっとも現代と比べればまだまだ普段着の需要は多かった。ウールや紬アンサンブル等普段着の反物は店頭に山積みされていた。

 しょうざんウールや村山大島のアンサンブルなどは、この後もまだまだ呉服屋の店頭を飾っていた。夏場の浴衣を誂える人も多く、今は7月にならないと本格的に動かない浴衣だけれども、当時は4月から新柄の浴衣が山積みにされ飛ぶように売れたと言う。

 消費者の高級嗜好に応える為、昭和30年代(だろうと思う)に呉服屋で始めたのが「展示会」である。会期を限って、商品を一堂に集めて展示会を催す。消費者は、より多くの商品の中から着物を選ぶために来場する。

 当時、小売店は商品を買い取り在庫を持つのが普通だった。しかし、いくら在庫を持っていると言っても展示会をする程の在庫は持ち合わせていない。取引先の問屋から商品を応援してもらって展示会を開いていた。

 私は昭和31年の生まれ。小学生の頃、展示会の手伝いをしていた。何人もの問屋さんがやって来て、沢山の荷物が運び込まれる。会場は、当初はお店でやっていたが手狭だったのだろう。後に会場を借りていたが、ホテルや料亭と言った高級な場所ではなく、〇〇会館の一室といった素朴な会場だった。

 小学生だった私は、学校帰りに展示会場に行った。入れ代わり立ち代わりお客様が来場し、大忙しだった。接客するのは祖父や祖母、母をはじめ店の従業員。加えてかつて従業員だった人にも手伝ってもらっていた。それに手伝いに来ていた問屋の人達である。

 問屋の人達は4~5人。夜はその会場に寝泊まりしてもらっていた。今の様にセキュリティが完全ではなかった当時、高級品の並ぶ会場を守る役目だった。当時、泥棒のターゲットは、まだまだ着物にも向けられていたのだろう。現在は着物を盗む、と言った泥棒はいないだろうけれども。

 寝泊まりする問屋の人達には、父がビールとつまみ、マージャンを差し入れていたと言う。せめてものほほえましい当時の事情がうかがえる。

 そういった「展示会」の開催も自然の成り行きだったと思う。しかし、その展示会も徐々に変化していった。

 いつの頃からか、案内状にタクシー券が入るようになった。印刷された紙に「〇〇会館行、××タクシー」と書いてあった。何の色気もない紙だったが、それに結城屋のハンコが押されている。そのハンコを押す仕事をさせられた記憶がある。

 その当時は、まだ車に乗ること自体子供にとっては珍しく、今で言えば航空券が同封されている感覚だった。もちろん使用された分だけタクシー会社に代金を支払うのだけれど、子供にとっては「無料タクシー券」のように思われて、
「これでタクシーで家に帰りたい。」(店と自宅は離れていた)
と言って怒られたのを覚えている。このタクシー券は、お客様への接待の始まりだったかもしれない。

 その後、「よその呉服屋では昼の弁当を出してるらしい」と言う話があり、私の店でも手土産などを用意するようになった。

 それまでの単にモノ(呉服)を売る商売から少し踏み出した商売に変わって行った。それでも呉服を売ることを本業にしていたのは変わらない。タクシー券や手土産で客を集めようと言うのではなく、「より来場しやすいように」「本の心遣い」の域を出てはいなかったように思う。

 当時(昭和30年代~40年代初頭)呉服屋に求められていたものは、良い呉服を安く提供し、呉服に関する相談を受ける、と言った商売としてごく当たり前の物であったことは否めない。

 昭和40年代半ばから50年代半ばまでは、私にとって呉服業の空白期間である。中学に入るとクラブ活動で忙しく店に行くことは稀だったし、展示会の手伝いをすることもなかった。高校を卒業し学生時代は山形を離れ、卒業後三年間他の業界に就職した私は、その間呉服業界で何が起こっていたかはよく分からない。

 ただ一つ、後に聞いた話では、1971年のニクソンショック(ドルショック)それに続く第一次オイルショック(1973年)、第二次オイルショック(1979年)の時は世の中が狂乱物価で混乱していたが、呉服業界も正に混乱の最中だったと言う。

 毎月問屋さんが反物を持って店にやってくるが、毎月値段がうなぎ上りに上がって行った。最盛期には、問屋さんが持ってきた襦袢の卸値は、今店頭に並んでいる襦袢の値段を越えていた。賢い呉服屋は、反物の値上がりを見越して大量に買い付けて、大きな利益を得ていた。

 それでも私の祖父は、「買った値段で(当たり前の掛け率で)売れ。」と、法外な利益を求めることはなかった。なんとも商売下手だった。

 私が勤めていた問屋の先輩の話を聞いても、その当時はできるだけ多くの商品をかき集めて出張に出た。ボテ箱(反物が20反位入る段ボール箱)を10個も車に積んで出たが、帰りはほぼ空になって帰ることもあったという。

 当時、トイレットペーパーが市場から消えると言う噂が広がり、市民は競ってトイレットペーパーを買い求める騒動があった。呉服業界も同じように価格が上がらないうちに買い求めようという消費者心理が働いていたのかもしれない。

 私が呉服業界に入ったのは、第二次オイルショックが終息したころだった。戦後の呉服需要への高まりはなくなり、オイルショックの狂乱物価も終わり、呉服業界には陰りが見え始めていたが、今に比べればまだまだ活気があった。

「これから呉服業界で生きて行こう」と飛び込んだ世界で見たものは、想像していたものとはまるで違っていた。

 中学以来、呉服とは全く縁がなかった私は、言わば浦島太郎状態だったかもしれない。小学校の時に見ていた祖父の商売、店にやった来たお客様に、「いらっしゃいませ」と言って談笑しながら着物を広げて見せる姿を覚えている私にとって、それは似て異なる世界だった。

 問屋に世話になったのは二年間だけだったが、そこで私は、呉服屋の役割とは何なのか、商売の役割は何なのか、仕事の役割は何なのか、そしてその中で私がなすべき事は何なのかを考えさせられた。

 私は、「訪問販売」と言う言葉を知らなかった。知らないわけではなかったが、呉服が訪問販売で売られていることを知らなかった。私の頭の中には、祖父が店に座っている呉服屋。お客さんが店にやってくる姿しか想像できなかった。

 呉服屋の中には「かつぎ屋」と呼ばれる店がある。店といっても店舗があるのではなく、自宅の一室に呉服が並べてある。店主が商品を持って(かついで)お客様の家を訪問して商いをする。「かつぐ」と言っても車の普及した時代なので車に商品を載せて回っていた。

 また、店舗があっても商売の中心は訪問販売の店が多かった。番頭さんを複数雇っている店では、その番頭さんたちとは店では出会わない。皆、得意さんの家を訪問してまわっていた。

 ほとんどの呉服屋が多かれ少なかれ訪問販売に頼っていたのだが、私の頭では、それが理解できなかった。私が上司と得意先を車で回っている時に車の話になり、その上司に聞かれた。
「結城君、お父さんはどんな車乗ってるの。」
私は即座に答えた。
「家に車はありません。父は免許を持っていません。」
上司は驚いて、
「えっ、車ないの。どうやって商売してるの。」

 既に車は一家に一台の時代であった。商売云々を除いても、車を持っていない家というのはそれだけで驚かれてしまった。そして、結城屋が訪問販売をしていないことにも驚いていた。

 私が業界に入って更に驚かされたのは、その販売方法である。その当時私が勤めていた問屋の一番の得意先(取引額一位)は大阪の某呉服店だった。その店は、呉服店というには、余りにも私のイメージとはかけ離れていた。

 店舗は持たず数か所の拠点事務所を持っていた。それぞれの事務所は、「〇〇呉服店」と別々の店名が付けられていた。販売員は車で得意先や新規のお客さんを回って勧誘していた。販売は、時折行われる展示会で行われていた。展示会に並べられる商品は問屋が持ち込んでいた。

 その呉服屋向けの反物が、度々大量に私のいた問屋に染屋さんから持ち込まれていた。商品を受け入れる部屋には、染屋さんが持ち込んだ反物が積まれていた。同じ柄の小紋が一山(2~30反)積んである。その反物の端には、その呉服店の名前が染めてあった。「同じ小紋をこんなに沢山買い取るんですか。」
私は先輩社員に聞いた。
「いや、買うんじゃないよ、浮き貸しだよ。」

 浮き貸しとは、商品を貸して売れた分だけ仕入れる仕組みである。しかし、その呉服店の名前が入れてある反物を返品されたら染屋はどうするのだろう、他の呉服屋には売れないはずである。と素朴な疑問が湧く。
「どうせ大体は売るんだ。帰ってくるのは数反だよ。」
別に驚くことではない、と言う表情でそう話す先輩の言葉を聞いて驚いてしまった。同じ柄の反物をこれだけ多く売ると言うのは、いったいどれだけ多くの消費者を相手に、どんな方法で売っているのだろう。

 しかし、更に驚くことが先輩の口から出て来た。
「これ、いくらで売っていると思う。〇〇万円で売っているんだよ。」
その小紋は捺染(プリント)の小紋だった。インクジェットプリントの技術がない当時、捺染は最も安価な染色法である。その小紋を手描きの小紋並みの価格で売っていると言う。

 商売としては実にみごとである。非常に利幅の大きな商品を大量に売りさばく。そして、浮き貸し制度を利用して在庫のリスクはない。更に、全てローン決済をしていたので代金回収のリスクもない。

 その会社はとても儲かっていた。社長は大型の外車に乗って来社していた。その社長を迎える問屋の幹部が接待する時には、常に超一流の店だった。

 多くの利益を揚げるその社長は、事業の成功者と言えるかもしれない。実際、同じような販売をする呉服屋が次々と現れていた。そして、業界自体がそれを応援しているかのように見えた。それは今でも続いている。

 私がいた問屋の幹部社員もその会社を褒めたたえ、私にもそのような呉服屋になるよう暗に勧められたこともある。しかし、事業としての成功?(金儲け?)と呉服屋の役割は違うのではないかと言う疑念を私は持っていた。

 商売に限らず人の生業は何を目的としているのだろう。

 人が働くのは、収入を得て生活する為である。それは間違いない。しかし、「仕事をする」と言うのはそれだけの為だけだろうか。私の周りにも「立派に仕事をしているな」と思える人達は沢山いる。しかし、その人達は、必ずしも儲かっている金持ちばかりではない。商売をしている人であれば、物やサービスを商ってお客様に喜んでもらっている。勤め人や公務員でも、世の中に役立つ仕事をしていると思われる人達である。

 最近イタ飯屋(イタリア料理屋)が異常に多くなっている。イタ飯屋に限らず、和食の小料理屋やラーメン屋等の飲食店が次々に出来ている。それを開業している人達は、腕に覚えのある料理人である。彼らにとって独立して開業するのは夢なのだろう。

 しかし、それらの店の事情を聴くと、必ずしも台所事情が良くないところも多く閉店を余儀なくされる店もある。それでも彼らは、自分の料理をお客様に提供して喜んでもらいたい気持ちで始めるのだろう。

 そこそこの腕を持った料理人であれば、収入の為だけであればホテルや料亭に努めた方が良いだろう。しかし、彼らを突き動かすのは、収入(金)だけではなく料理人としての誇りと自分の料理を社会に提供したいと言う気持ちなのだろう。

 その業界のプロと呼ばれる人達は少なからずそう言った気持ちで仕事をしている。

 そば屋さんは美味しいそばを、ケーキ屋さんは美味しいケーキを、魚屋さんは新鮮な美味しい魚をお客様に提供する事を誇りとしているだろう。建設業であれば、より住みやすい住宅を建て、結婚式場であれば二人の思い出となる結婚式を演出する。その主役はお客様であり、お客様が本当に喜ぶ商品、サービスを提供する事である。勤め人や公務員の中でも仕事に誇りを持ち、
「あなた公務員なのにそこまでやるの。」
と思わず賛辞を送りたくなる人もいる。

 それらが生業の目的、役割だと思えるのだが、呉服業界の役割とは、これからの呉服屋が担う役割とは何だろうか。

 私の射程距離である昭和20年代から今日に至る呉服業界を振り返ったが、それぞれの時代における呉服屋の役割も変わって来ている。昭和20年代から30年代までは、本来の商売として業界は活気があった。それぞれの呉服屋は、より良い商品をより安く消費者に提供する役割を果たしていた。

 その後、昭和50年以降は残念ながら商売の本当の役割を逸脱していたように思う。
「いかにより良い商品をより安く消費者に提供するか。」
ではなく、
「いかにして売上を創るか。」
「いかにして大きな利益率を確保するか。」
に注力され、呉服商品は利益を生むための材料に過ぎないかのようだった。

「展示会に行きます」と言うまでお客様に電話をかけ続ける。「買います。」と言うまで商品を勧め続ける。そう言った所業があたかも仕事であるかのような呉服屋も多く見かけられる。

 それらの行為は、呉服の需要が萎んでもなお売上を維持しようとする姿勢が間違った方向に行っていたのではないだろうか。そういった商売は確かに売上を創ってきたが、昨今の事情を見るに、消費者もさすがに離れてきている。

 先日私の店に初めていらしたお客様が、
「呉服屋さんに係ると、しつこく電話が来て、展示会に行こうものなら買うまで返してくれない。だからもう呉服屋には行かないで着物も仕立ても全部インターネットで済ませているんです。」
と言っていた。(そう言って私の店にいらしたのだが)

  消費者の「呉服離れ」ではなく、「呉服屋離れ」が進んでいる。今は呉服業界の大きな転換点かもしれない。その転換点に於いて、これからの呉服屋の役割とは何かを考える必要がある。。

 現代の呉服を取り巻く環境を見て見よう。
  ➀ 着物を着る人、着る機会は昭和30年代に比べて激減している。
  ➁ 呉服業界の売上は激減しているけれども、現在の売上の相当数は消費者の自発的購買に寄らない売上(強力な売り込みによって発生した売上)である。
  ➂ 呉服の真の需要である自発的な購買は、➀➁を考え合わせると極々少数であると思われる。
  ➃ 本当に残念な事であるが、その極々少数の人達は、着物を着たがっている。本当の着物を求めている。しかし、呉服業界はその人達の欲する環境を提供していない。

 以上の事を考え合わせると、呉服業界の売上はまだまだ減少するかもしれない。消費者が呉服業界の歪んだ実態に気が付き、不本意な呉服の購買を避けるようになるだろうから。そして、本当に着物を着たいと思っている人、本当の着物を求めている人達にどのように接していくのかがこれからの呉服屋が求められる役割のように思える。

 では具体的にこれからの呉服屋はどうすればよいのだろうか。

 小学校の時(中学だったかもしれない)先生に、
「仕事と言うのは必ず人の役に立つものです。」
と教えられたことがある。仕事をするのは生活の糧を得るためだけれども、その仕事は人や社会の為になる事だと言う。簡単な話、泥棒がいくら稼いでもそれは仕事とは言わない。なぜなら泥棒は人の為にならない、社会の為にならないから。

 そういう意味で呉服屋のこれからの役割、仕事は人や社会の為にならなくてはならない。

 昭和30年代までは多くの人が着物を求めていた。その多くの人に沢山の着物を供給する事が当時の呉服屋のお役割だったかもしれない。

 しかし、今日の状況を見れば、着物を求めている人は当時に比べれば激減している。着物を買う人の多くは、自発的購買に寄らない人達である。その人達は、今後一部の呉服屋の甘言には辟易して着物から離れていく人も多いに違いない。展示会の誘いには乗らず、呉服屋には近寄らない、と言う風に。

 それでも、本当に呉服を求めている人達は必ずいる。その人達の為になることがこれからの呉服屋の役割を暗示していると思う。では、その人達は呉服屋に何を求めているのか、その人達の為に呉服屋はどのように応えたらよいのだろうか。

 本当に呉服を求めている人と言っても段階的に様々な人達がいる。既に着物の事を知り尽くしている人、今着物を着てもっと着物の事を知りたいと思っている人。着物の事は分からないが、これから着物を着たいと思っている人などである。

 呉服屋は、もちろんそれらのどんな人にでも対応しなければならない。必要なのは、誰にでもお客様が必要としている十分な知識とサービス、良い商品を提供する事である。

  着物を欲しいと思っているお客様には、価格的にも品質的にも適切な商品を。着物の知識を欲しているお客様には、売る為の方便ではなく本当の知識を。当たり前のようだけれども現在の呉服業界ではこれすらなされていない。お客様の身になって一緒に着物の事を考える姿勢が必要である。
「着物の仕立て替えを頼みに行くと嫌な顔をされるので」
と私の店に仕立て替えを頼みに来る客も多い。
「着物を洗ってもらえますか」
と行き場を失った人がやって来る。本来の呉服屋の役割は、どこで果たされているのだろうかと思ってしまう。

 具体的にどのような事が呉服屋に求められるのか。

良い品を安く消費者に提供する。・・・呉服屋が真剣に仕入れ買取をすればできる事である。
着物を着る、仕立てるのに必要な商品を提供する。・・・着物を着る人の立場に立てば、メンテナンスや着付けに必要な物は、少額であっても、頻繁に売れない物でも揃えるのが呉服屋である。
お客様の必要とする知識の提供。・・・まともな呉服屋であれば備わっているはずである。
着物に関するよろず相談。・・・着物が一般的でなくなっているだけに、着物に関して相談できるのは呉服屋であり、それに応えなければならない。

 これからの呉服屋の役割は、まだまだある。しかし、それらの事は何の事はない、昔から呉服屋が行ってきたことである。昔、着物を着る人が呉服屋に求めていた事、それこそがこれからの呉服屋に求められる役割である。

「これからの呉服屋に求められるもの」などと大仰な題目で書いてきたけれども、そう書かざるを得ないのは、何時の頃からか呉服業界がねじ曲がった方向に行ってしまっていた証左なのだろう。

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