明治00年創業 呉服と小物の店 特選呉服 結城屋

全日本きもの研究会 きもの春秋終論

Ⅵ.きものつれづれ 49 時代の転換点・商売の転換点

きもの春秋終論

 歴史には転換点がある。歴史を遡って見れば、「これが転換点か」と思える出来事が数多く歴史の教科書に登場する。

 西洋では、長い間君臨してきたローマ帝国が蛮族の侵入に合い、パクスロマーナは脆くも崩れてしまった。それでも東ローマ帝国は、ビザンチン帝国として千年もの間ビザンチウム(現イスタンブール)を首都として生き残ったが、最後はビザンチウムの城壁の中だけの国家となり、1453年にオスマントルコに滅ぼされてしまった。ビザンチン帝国の消滅も歴史の一大転換点だと思える。

 イスラム世界では、ムハンマドがイスラム教を起こし、アラブを中心として、それまでとは違ったイスラム世界を形成して行く。

 中国では、度々易姓革命が起こり、時代を転換させている。

 日本でも度々時代の転換点は見られるが、近年では昭和20年の終戦、明治維新がそれにあたる。終戦や明治維新は昔の事だと思うかもしれないが、終戦は75年前。明治維新はその113年前である。終戦後、日本では未だ歴史の転換点と言えるほどの事件は起こっていない。あるいはもうすぐ、終戦後100年目頃に起こるのかもしれない。

 100年と言えば一人の人生がすっぽりと納まる年月である。私は昭和31年(1956年)の生まれである。生まれて此の方、個人的には様々な事に直面したが、歴史の転換点と言えるものには出会っていない。言わば安泰に過ごしてきた。

 父や母は終戦と言う一大事を乗り越えてきた。何歳で終戦を迎えたかはその人によるが、歴史の転換点を経験せずに安泰に一生を終える人よりも、歴史の転換点を経験した人の方が多いのではないだろうか。

 維新、戦争、災害、天変地異など、これから起こる歴史の転換点もしかりである。私が経験しなかったとしても息子たちはどんな事に遭遇するのか分からない。 

 十一世紀、中国に西夏という国が存在した。井上靖氏原作の「敦煌」と言う小説にも出て来る。映画化され渡瀬恒彦扮する西夏国の皇太子李元昊がやけに目立っていたように思う。

 西夏が存在したのは、1038年から1227年までの189年間である。しかし、現在はその跡形もなく、西夏国を創ったというタングートと言う民族も現在の中国には見当たらない。

 189年と言うのは人間の人生がすっぼり入って余りある。西夏国がモンゴルに滅ぼされる前にこの世を去った人達は、西夏国は永遠に続くと信じていたかもしれない。西夏国の滅亡は西夏の人々にとって大きな転換点である。そのような歴史の転換点を経験する人達は、どのように対処したものだろうか。

 さて、話は大きくなってしまったが、商売にも転換点がある。

 私の店は今年で創業120年になる。本当の老舗と呼ばれる店に比べればまだまだ歴史は浅いけれども、何とか呉服の商いを120年続けて来られた。傍から見れば、漫然と商いを続けている様に見えるらしい。しかし、私以前には昭和の不況も経験し終戦も経験し、様々な出来事を乗り越えて商いを続けてきている。  

 私は結城屋を継いで35年になる。歴史の上では35年などほんの一瞬、結城屋の歴史の4分の一かもしれないが、この35年の間、私も何度か商売の転換点を経験してきた。 

 では、商売の転換点とは何だろうか。そして、どのようにしてそれを乗り越えたらよいのだろうか。        

 私が経験した商売の転換点とは、それまでの商売が突然通じなくなる時である。それまで安泰に商売を続けてきて、突然商売を取り巻く環境が、ガラッと変化してしまう事がある。

 商売を取り巻く環境とは、商品であったりお客様の意識であったり、また販売の方法だったりする。今まで売れていた商品が突然に売れなくなる。しょっちゅう買い物来ていたお客様が突然来店されなくなる。今まで売れていた商いの方法が通じなくなるなどである。考えて見れば、世の中は変化している。何時までも現在の商品や商法が通じる訳はない。

 江戸時代の呉服屋の商品商売を続けていたら現代では通用しない。商売は常に時代の波について行かなくてはならないのは道理である。呉服屋に限らずあらゆる産業に言える。

 音楽産業では、かつてレコードと言えばSPレコードだった。回転数は78回転。レコード針もLPとは違っていた。昭和30年代には45回転のドーナツ盤、33回転のLP盤が主流となる。その間隙でフォノシートと言うのもあった。その後テープも普及してきて、8トラックやカセットも出て来た。そしてCDが登場し、レコードはほぼ駆逐された。レコード店では目まぐるしく変わる商品の対応に四苦八苦だったろうと思う。そして、今は、音楽配信が盛んになりCDの売れ行きも芳しくないと言う。

 アーチストは、CDの印税をあてにできず、コンサート収入にシフトし、コンサートの規模は日に日に大きくなっている。レコード店を含む音楽産業に携わる人は皆商売の転換点を迎える度に時代の流れについて行くことを余儀なくされている。

 さて呉服業界でも商品や商売の方法が時代の波と共に変化してきた。

 昭和30年初期頃までは、呉服屋は、京都や産地の問屋から商品を仕入れ、店に並べて商売をしていた。着物買いたいお客様は店を訪れ商品を購入して行く。またお得意様には必要な商品を訪問して販売していた。商売の方法は当時の酒屋さんが店頭で販売し、また近所のなじみの家には御用聞きに周ったのと同じである。(酒屋さんも、今日の商売は当時の商売とは似ても似つかない状態になっている。)

 昭和30年代に転換点が訪れた。「展示会」と言う商法が浸透して行く。当時の展示会は、お客様により多くの商品から選んでいただけるようにと始められたもので、問屋さんか商品を持ち込んで店の商品と一緒に会場を借りて展示していた。

 その当時私は小学生。店で展示会が行われている時には、学校の帰りは家ではなく展示会場に行った。そして何某かの手伝いもしていた。子供心に展示会の様子を見ていたが、当時着物は実に良く売れていた。ひっきりなしにお客様がいらっしゃる。展示会場には多い時は3~4組、少なくとも常に1組のお客様がいらっしゃっていた。

 売れた商品は段ボール箱に入れて積まれていた。そして閉めた後、祖父が売れた商品を分類していた。
「これは店の。これは〇〇さん(問屋さんの名前)の・・・」
それを聞いていた私は祖父に言った。
「全部問屋さんから借りたら良いんじゃない。」
すると近くで聞いていた手伝いに来ていた問屋さんが私に言った。
「やっちゃん。そうは問屋が卸さないんだよ。」
言い得て妙であった。やはり問屋さんは商品を買い取ってもらいたいのだ。

 さて、それほど賑わっていた展示会。さぞ売れていた事と思う。私は当時の店の売上や財務状態は分からないが、年間売上の相当部分を展示会が占めていったのは間違いない。、当時全国に広まっていた展示会は一つの転換点だった。展示会を経験した当時の呉服屋は、もはや展示会なしでやって行けなかっただろう。

 呉服の需要は、昭和50年前後を境に減少し始める。丹後の白生地や西陣の織物生産量を見ればよく分かる。昭和50年前後と言えば、ドルショック、石油ショックと時代が重なる。

 ドルショックや石油ショックが呉服の需要減少の原因とは言えないが、当時生地代が高騰した。月に一度来店する問屋が持ってくる襦袢地の値段は、前月に買った襦袢地の上代(店で付けている売値)を越えるほど高騰したと言う。ドルショックや石油ショックが呉服の需要減少の引き金にはなっていたかもしれない。

 昭和50年以前の展示会は、言わば「健全な展示会」であった。より多くの商品から着物を選びたいと言う消費者の希望に応えるもので、消費者の健全な需要に応えるものだった。しかし、昭和50年以降呉服の需要が減少するのに伴って展示会の来場者、売上が減少して行った。

 私が山形に戻った昭和50年代後半には、展示会の来場者が少なくなったとはいえ、まだ私の店でも展示会を行っていた。しかし、この頃が一つの大きな商売の転換点だった。

 昭和30年代に行っていた展示会は、集会場のような場所を借りていたが、次第に高級になりホテルや料亭で行われるようになっていた。展示会開催の経費は膨らんでいったが、売上の方は萎んでいった。それでも呉服屋にとって、通常の店頭売り上げも減少する中で展示会での売上は大きかった。

 展示会の売上が減少して行くこの大きな商売の転換点でどのように店の舵取りをするのか、呉服屋にとって呉服業界にとってとても大きな分かれ道であった。

 展示会の在り方は、私が京都にいた当時から変わり始めていた。それまでは、店の常連さんに案内を出し、お客様は必要があれば展示会を訪れていた。しかし、売上の減少を穴埋めする為にあらゆる手を尽くしてお客様を展示会に誘うようになっていた。

 来場者に豪華な土産を用意したり、食事など過度な接待を行う。展示会への勧誘は常連さんだけではなく、のべつ幕無しに家を周って集客する、と言った方法である。後には、「確約品」と称して高級(に見える)商品を格安で提供すると言って先に代金を受け取り展示会場でその商品を渡す、と言った集客も行われた。

 需要の減少する呉服の売上を維持する為にあの手この手の勧誘を行うのも商売と言えるかもしれないが、需要とのバランスは何時崩れるのか先が見えた商法だった。

 平成に入り、私の店では展示会をやめた。他の呉服屋とは真逆の選択をしたのである。理由は、展示会の採算性が悪くなっていた事であるが、さりとてあの手この手の集客をするのを潔しとしなかったからである。このような商売の転換点に立った時、二つの道がある。

 一つは、今迄の商売を何とか続ける道である。売上の萎んだ展示会を何とか維持して売上を確保しようとする方法である。あの手この手の集客は正にその方法である。

 もう一つは、それまでとは全く違った商売の方法を模索する事である。この場合には展示会に頼らずに商売を続ける方策を考える事である。

 実際には、展示会で何とか売上を維持しつつ、展示会なしでの商売を考えるのか現実的な道である。どちらにしても、今の商売の行き着く先はどうなるのか、他の商売の方法で果たしてうまく行くのか、必死で商売をしなければならない事に変わりはない。

 昭和30年代以来続けてきた展示会をやめることは、結城屋にとって命とりにはならないのか。来場客数が減ったとはいえ一回の展示会での売り上げはそこそこあった。それを捨てて他の売り上げで穴埋めできるのか。当時は自分でも分からなかった。

 しかし結果は、と言えば、私の店は未だに商売を続けている。最良の選択だったかどうかはわからないけれども、少なくとも廃業に追い込まれる結果にはならなかった。とは言え、ただ安穏として商売をしていたわけではない。細ってゆく展示会商売の代わりとなる商売の試行錯誤を繰り返した。

「結城屋きもの博物館」もその一つである。会場を使った総合的な展示会はやめたけれども、商品は単品に限り、消費者に商品を理解してもらい店頭で見ていただくようにした。ごく限られた商品でより効率よく、消費者にも満足いただく商売ができた。その回数60回を超える。展示会以外でも考えれば様々な商売の仕方がある。

 私が経験した商売の変わり目、転換点は展示会だけではない。
先々代からのお得意様が次々と姿を見せなくなった時期もある。これは決して私の店の対応のまずさではなく、時代の転換点だったと思う。

 先々代が出入りしていたお客様は、当時もう70歳を超えていた。孫を連れてきては振袖や嫁入り道具を仕立ててくれた。母親(嫁)と三人で店にいらして品定めをして行く。お婆さまは孫の着物選びに嬉々としているが、母親は余り要を得ない。着物のことがよくわからないのである。ちょうどその頃が、消費者の着物に対する認識の転換点だっただろう。嫁入り前に着物を作るのが当たり前の世代から世の中は変わりつつあった。

 先々代のお客様がいらっしゃらなくなった後は、急激にそのような需要が減ってゆく。店の商売が、昔からのお得意様に頼っていた面があったけれども、それが通用しなくなった時代の転換点である。

 その他にも、商店街の来街者の減少、インターネットによる流通環境の激変など様々な商売の転換点に出会った。そして、その度毎に頭の転換を図り対処してきた。

 さて、この度コロナ禍に見舞われて、ほとんどの業界が被害を被っている。コロナ禍の関連業種の中には極一部売上を伸ばしているところもあるが、それは極一部である。呉服業界も含めて壊滅的な状況である。 4~6月期の日本のGDP国内総生産は何と27.8%減だと言う。生産が従来の四分の三になったと言う事である。そのまま売上には直結しないけれども、売上が四分の三に減ったと言う感覚だろう。しかし、実際に我々呉服業界は影響が四分の三どころではないのが実感だ。

 飲食店はもっとひどいと言う。
「飲食店の半分は店を閉めるんじゃないですか。」
と話していた飲食店もあった。

 しかし、「ひどい、ひどい」とばかりは言っていられない。誰もが早くコロナ禍が明けるようにと祈っている。
「いつ元に戻るんだろう。」
と周囲で商売している人達は話している。私も早く元に戻ってもらいたいものだと思っている。しかし、新型コロナが流行する以前の状態に戻るのだろうか。

 わが国では、第二波がいくらか沈静化してきている様にも思える。うまく行けば来年の春頃にはコロナ収束の宣言ができるかもしれないと言う期待も生まれている。そして、オリンピックも一年遅れで無事開催できるのではないかと。

 しかし、日本が沈静化しても諸外国で沈静化しなければオリンピックの開催は困難と言う声もある。確かに日本や中国、韓国の感染者は少なく東アジア人のファクターXも取りざたされている。現在多くの感染者のいるアメリカや南米、インド、ロシアでの収束はもっと先になるかもしれない。

それでは、数年たてば元に戻るのかと言えば、そんなことはないだろう。ワクチンが開発され世界中の国で新型コロナが収束したとして、果たして元に戻るのだろうか。答えは「否」である。

 第一に、コロナは人々の心に大きな打撃を与えた。最もコロナ禍の影響のある業種として航空業界が挙げられるが、コロナが収束して後人々は従来通りに海外に渡航するだろうか。端的に海外旅行である。これまでは多くの人が海外旅行に出かけていた。コロナが収束すれば元通りになるだろうか。

 コロナが収束すれば多くの人が再び海外旅行に出かけるのは間違いない。しかし、100%戻るだろうか。70%かもしれないし80%かもしれない。ひょっとして90%に回復するかもしれない。たとえ90%に回復したとしても、その10%の減少は航空業界に与える打撃が継続することを意味している。10%の減少と言うのは、我々商売をしているものには無視できる数字ではない。

 コロナ禍を経験した人達は、「人に接しないように」「遠くに行かないように」「集会や劇場には行かないように」と言った習慣が知らず知らずに身につき、消費に間違いなく影響を与えるだろう。

 そして、第二に、影響は人々の心の中だけでなく産業構造にも影響を与える。とりわけ呉服業界である。只でも縮小し苦しんでいる呉服業界である。生産者は歯を食いしばりながら伝統を守ろうと頑張って来た。そこにコロナ禍である。

 先日、数カ月ぶりに白生地屋さんがやって来た。
「久しぶりですね。生きていましたか。」
の挨拶を皮切りに久しぶりの話をした。彼の口からは生産現場の様子が伝わって来る。

 私は2月から全く出張をしていない。商品の仕入れに行っていない。定期的に店にやってきていた問屋やメーカーの出張員もぴたりと来なくなっていたが、最近ちらほらやって来るようになった。

 白生地屋さんとの話は、やはりコロナの影響についてである。
「いや、メーカーは今大変なことになっています。」
白生地屋さんの話である。

 我々小売屋は、出張に行けず売上も上がらないまま、仕入れをせずに在庫商品を売ってしのいでいる。身を伏せて体力を消耗しながらも何とか嵐が過ぎ去るのを待っているようなものである。

 しかし、メーカーとなるとそうは行かない。メーカーは物を作らなくては売上が上がらず現金が回らない。只でさえも採算ぎりぎりの処で業界を支えてくれているメーカーは生産を止める事は直ぐに商売が行き詰まる事を意味する。
「襦袢が無くなるかもしれません。」
その言葉に私は驚いてしまった。襦袢が無くなれば着物を着る事は出来ない。目立たないけれども襦袢は着物のアイテムの中では重要な位置を占めている。白生地屋さんの言葉は続いた。
「襦袢と言っても安い襦袢です。セット物の振袖に使うような。」
セット物振袖の襦袢は非常に安い物が使われる。しかし、量的には昔に比べれば減ったとは言う物の相当の数が出ている。それだけに薄利の大量生産が求められていたのだろう。

 しかし、コロナ過の為、来年の成人式事情が中止や延期を余儀なくされている。振袖の売上にも大きな影響を与えている。薄利で大量生産していた襦袢の需要が半減すればメーカーはやって行けない。廃業を考えるメーカーが現れてもおかしくはない。

 コロナの影響は、我々川下の小売屋よりも川上のメーカーにはダイレクトに響いている。襦袢のメーカーだけではなく他にも廃業を考えざるを得ないメーカーも沢山あるだろう。業界の為に何とか踏ん張っていただきたいものだけれども、今回のコロナ禍はそれを越えるものかもしれない。

 業界内部の事情、消費者の心理的変化等を考え併せると、このコロナ過は正に「時代の転換点・商売の転換点」のように思える。

 売上が減少したからと言って、従来の方法で販促を強めて売上を伸ばす、と言った事は通用しない。商品の供給が従来とはまるで違ったものになることも予想される。その中でどのように生き延びたらよいのか、呉服業界を着物の伝統をどのように守り続けられるのか、今迄とはまるで違った発想が求められる。 今は正に「時代の転換点・商売の転換点」に我々は立っている。

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