明治00年創業 呉服と小物の店 特選呉服 結城屋

全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題

Ⅳ ⅴ 日本の染織の将来(その2)

ゆうきくんの言いたい放題

私が京都の問屋に勤めていた頃、三十数年前の話である。ニクソンショック、オイルショックを経て既に呉服業界は下り坂に入った頃である。「昔は良く売れた」と先輩社員から良く聞かされたものだが、それでも今よりは遥かに活気が合った。室町通はいつも荷降ろしする車でいっぱい。室町に用事があれば自転車で回っていた。

問屋の仕事は染屋織屋から商品を買って小売屋に降ろす事である。私は営業として小売店を回っていたが、小売屋から指定された商品がない時には染屋や織屋を訪ねて商品を探すこともあった。また私は修行の身だったので、務めて生産現場で知識を吸収しようと染屋織屋地方問屋をまわっていた。

西陣に行けば機の音が聞こえていた。残念ながら今はあまり聞かれない。西陣の老舗織屋を訪ねたときのことである。その織屋は主に洒落帯を創っていた。織屋の営業マンが店を案内してくれた。別棟の工場に行くと、そこでおばさん(近所のパートのおばさんだろう)

が一生懸命に細く切った箔を一本一本結んでいた。帯を織る為の長い箔の糸を作っていた。それを見て営業マンが誇らしげに説明してくれた。

「うちではこうして箔の糸を作って帯の織りに使っているんです。」

何十メートルも必要とする箔の糸をわずか2~30cmに切ったものを繋いで作るのは大変だろうと思った。箔の糸には結び目ができる。それを使って織るのも大変だろうし、織り上がりがどうなるのかも分からない。営業マンは更に誇らしげな顔で言った。

「この糸で織ってどんな帯ができるのか、それが良いのか悪いのか、それは消費者が判断しますが、うちではこうやって帯を織っています。」

その言葉には西陣の織屋としての誇りが感じられた。

その織屋の店は古い建物で、観光案内にも良く掲載されている。そのお店の二階には手織りの織機が数台並べられていた。当時は機械織が主流と成っていたが、手織りの帯は依然として織られていた。機を織っているのは学卒の女性の職人だった。機織にあこがれて大学を出てからずっと此処で織機に向かっているという。その時は無地の紬帯を織っていた。

無地の帯と言えば同じ横糸で最初から最後まで織る。織るのもそう難しくないと思えるかもしれない。しかし、その職人さんが機織の面白さを教えてくれた。経糸が上下する間を杼を使って横糸を左右に通してゆく。横糸を強く引くのか、緩く引くのかで帯の顔は変ってくる。杼を斜めに通すことでゆったりとした横糸が打ち込まれる。杼を通す角度を変えることによってその表情は微妙に違ってくる。無地の帯だけに、ちょっとした機の操作が帯の表情を変える。そしてその表情は帯に一様でなければならない。帯にアクセントを付けようと思えば、徐々に打ち込みを強く、あるいは徐々に弱くしなければならない。無地の帯とは言え、いや無地の帯だからこそ非常に神経を使う繊細な織り技が求められる。

女性の職人の織った帯を見れば、織屋の主人はその女性が妊娠したのが分かると言っていた。妊娠した女性は無意識にお腹をかばい、それが帯の表情に表れるという。

営業マンが織り上がった二本の無地の帯を持ってきて見せてくれた。一本は機械織り、もう一本はその職人が織った無地の帯である。それは一目瞭然だった。機械織りはとても綺麗に織られている。「綺麗」と言うのは「何の変哲もない」帯と言う意味である。手織りの帯は無地といえども帯に表情が感じられた。ここでまた営業マンは私に言った。

「どちらが良いのかは消費者が判断することです。」

つづく

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