明治00年創業 呉服と小物の店 特選呉服 結城屋

全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題

Ⅴ-ⅳ 常識は変わる?(その2)

ゆうきくんの言いたい放題

同じようなことは他にもある。私が子供の頃、入卒式の父兄(母親)は決まって色無地に黒の絵羽織だった。今よりも着物を着て式に参加する母親が多かったので、皆黒の絵羽織を着ている姿は、制服なのかと思える程だった。

しかし、これも最近は見かけない。私が京都にいた頃(35年前)にはまだ黒の絵羽織は売り場の片隅にあった。しかし、既に黒絵羽織を着る習慣はなくなり、わずかに昔の習慣にこだわる人が娘の為に仕立てる程度だった。その後、黒絵羽織は全く見かけなくなった。

戦前は、婦人の正装は縞お召に黒羽織だった言う。しかし、今はその姿にはお目にかからない。更に時代を遡ると、戦国時代に武将は辻が花染の華やかな柄物の小袖を着ていた。現代は、男性は基本的には染物の着物は着ない。着るとすれば地味な江戸小紋やその類の柄の細かい小紋で色は単色である。今時戦国時代の辻が花のような大柄で多色遣いの着物を着るのは、芸能人かよほどの変わり者だろう。

着物の常識は時と共に変わってきたと言えるだろう。では、何を切っ掛けに常識は変わるのだろう。

それまでの常識に反する、または全く新しい着物の着方は度々散見される。ここ二~三十年の間にも様々な反常識ともいえる着物が登場している。

「紬の絵羽物」、もともと紬や絣は普段着として扱われてきた。そして絵羽という形式は主にフォーマルの演出でもあった。しかし、紬の絵羽物は三十年位前から生産されている。どう言った時に着るものなのか、私は未だに分からない。それでも問屋ではよく売れているという。間違いなく着る人がいるのだろう。今までの常識にはない着物である。

「浴衣の伊達衿」、伊達衿は重ね着の演出である。おそらく十二単衣に源を求めることができるのかもしれない。伊達衿は暖かさの表現である。衿元にもう一枚重ねることによって見る人に暖かさを感じさせる。そして、衿に色を重ねることによってお洒落にもなる。しかし、暖かさを表現する伊達衿を夏のゆかたにするのか。私には理解できないのだけれども、ゆかた用の伊達衿も売られている。

浴衣と言えば、浴衣に帯締めや帯揚げをする人がいる。私の店にも「浴衣用の帯締めはありますか。」と言って来店される方もいる。浴衣に足袋を履いて帯締、帯揚げをするというのは一昔前にはとても考えられなかった。

このような例は他にもまだまだあるが、それらは常識の域に達しているとは言えないものの新しい試みとして常識を揺さぶっているのは間違いない。このような試みが着物の常識を変えてゆくのだろうか。

こう言った試みは、全て受け入れられるわけではない。メーカーや若い人の思い付きで始まったものもあるが、日本人の感性に反するものは淘汰されて消えている。丈の短い浴衣や背が大きく開いた浴衣などが売れ出されたことがある。しかし、それらは直ぐに姿を消している。

二部式の着物と称して紐で止める上着と巻スカートを組み合わせたものが一時出回った。こちらは相当普及していたが、結局姿を消した。流行りに乗じて作った商品が、最後には山積みでバーゲンに付されていた。

結城紬の留袖をメーカーが売込に来たことがあった。普段着の代表格である結城紬の留袖など考えもしなかったし、受け入れるべくもない。しかし、メーカーの人は結城紬の留袖の正当性を説明し、これから普及させるつもりだったようだが、それ以後聞いたことがない。

いろいろと新しい試みが行われているが、やはり日本人の感性に合わないものは自然に淘汰され消えている。突拍子もない若者の試みやメーカーの販売戦略ありきの商品は簡単に受け入れられるものではない。

いくら着物が縁遠くなり、着る人が少なくなったとは言っても、日本人には日本人の感性があり、それに反するものは受け入れられない。形式的な常識は、時と共にこれからも変わってゆくかもしれない。しかし、長い間に育まれてきた日本人の感性は、そう簡単に変わることはない。その日本人の感性こそ、日本人の常識であり、着物の常識なのではないだろうか。

着物のことならなんでもお問い合わせください。

line

TEL.023-623-0466

営業時間/10:00~19:00 定休日/第2、第4木曜日

メールでのお問い合わせはこちら