全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅵ-ⅴ 寿司ときもの(その2)
そのような例は逆に見れば日本にもある。今やイタ飯パスタの店はどこにでもある。イタリアから伝わったパスタだけれども、メニューを見れば、「タラコのスパゲッティー」「和風山菜スパゲッティー」など、日本で増殖したと思われるメニューが並んでいる。
寿司屋の数が海外の方が多いとなれば、国際標準は変わってくる。海外で日本にはないメニューがスタンダードになった時、日本に来た外国人が老舗寿司屋で「〇〇ロール」と注文するかもしれない。頑固おやじが「そんなものない。」と言えば、「日本のすし屋は、そんなものも置いていないのか」と思われるかもしれない。
日本文化の国際化が思わぬブーメランとなって戻ってくるようになる。
これは柔道の世界でも感じることがある。
今や柔道はJUDOとして世界のスポーツである。ロシアのプーチン大統領も柔道の愛好者だという。日本の格闘技がこれほど海外に広まるのはとても嬉しいことである。しかし、誰しも感じているように、「ちょっと違うんじゃないですか」と思ってしまう。
私も中学や高校では体育の時いくらか柔道を習った。(やらせられた。)何故か柔道の授業は寒い時期に行われる。投げ飛ばされると冷たい足が畳に擦れて痛かったのを思い出す。それでも、日本の柔道を少しかじっただけで、日本の武道を習ったことが誇らしく思ったものだった。
柔道の授業では乱取というのがあった。二人で組んで技を掛け合うのである。最初に袖と衿をお互い掴ませられて、先生の合図とともに始まる。柔道選手の試合の様に、技の掛け合いなどと言えるものではなく、力比べをしているようなものだった。
しかし、最近のJUDOでは組まずに始め、組もうとする様子さえ見えない。レスリングのようなしぐさで相手のスキを伺っている。足にタックルする様はまさにレスリングである。
我々が習った柔道とJUDOは別物なのだろうという気さえする。
柔道着もカラフルである。青い柔道着はどうも違和感がある。白の衣装は特別な意味がある。白い柔道着、力のあるものは黒帯を締める。雑念を捨てて勝負に打ち込む気持ちが感じられるのだが青い柔道着ではどうも違う。
柔道のルールも柔道着の色も、国際JUDO連盟で決めたものなのだろう。世界各国の代表者が集まり決めたものだろうから日本の心とは離れて行っても仕方がない。国際化とはそういうものだろう。しかし、どうもそこに虚しさを感じるのは私だけだろうか。
さて、きものの場合はどうだろう。外国人のきものに対する関心は並々ならぬものがある。それは随所で感じられる。外国人が店にやってくると、着物を着た私の母や女房を見ると、「イッショニ、シャシンニハイッテクダサイ。」と言われる。タイからテレビ取材に来たタレントに仮絵羽の振袖を着せたらとても喜んでいた。このまま外を歩きたいと云っていたが、さすがにそれは断ったけれども。
知人が夫婦でミラノのスカラ座に行ってオペラを見たとき、夫婦で着物を着て行った。ちょうど演目が「蝶々夫人」であったこともあり、皆に囲まれたという。「日本の着物」は世界中の人が注目している
注目しているのであれば「自分も着てみたい」「着物が欲しい」と思うのは外国人も変わらない。私の店にも浴衣を買いに来る外国人も年に数人はいる。しかし、サイズが合わなかったり、女性の場合は「おはしょり」と云う着方がネックとなって実際に浴衣を購入して行く外国人は少ない。
つづく