全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅶ-42 きものは自由?(その2)
着物を離れて、洋服もその他の民族衣装も歴史的時間軸も全て超越して真っ新な状態で一般的な衣装を考えて見よう。
「衣装は着る人の自由」・・・「誰が何を着ようと自由」・・・そう問われた時、応えは「YES」の一言である。基本的に「何を着るか」は個人の自由である。
男性が赤い着物を着ようが、スカートを履こうが、また女性が男性の格好をしようが規制する決まりはない。
個人の自由で衣装を決められないのは、閉ざされた空間で規則に縛られる場合である。即ち「〇〇高等学校では登校時、指定の制服を着る事」と言う校則があれば、着るものは制限される。しかし、開かれた空間では「何を着るかは自由」である。
日本国では着る物を制限していない。「日本国民は全員国民服を着る事」と言うような法律ができれば日本国はたちまち閉ざされた空間となり「着る物の自由」は奪われる。あたかも戦時中の日本かSFの世界の様であり、日本国がそのようにならなければ良いと思っている。
日本では戦後しばらくたってから、ヒッピー族や竹の子族など、それまでの価値観とは違った衣装で闊歩する人達が現れた。価値観を異にする人達からは嫌悪されたりもしたが、法律で規制されることもなく存在していた。
開かれた世界では、「着る物は自由」が原則である。ただし、その下足は何時いかなる時でも万人に許容されるか否かは別問題として考えなければならない。
さて、着物の世界ではどう考えればよいのだろう。チェーン店の販売員の「着物は自由です」の言葉をどう捉えたら良いのだろうか。
着物を考える場合、個人の自由とは別に、「着物は長い歴史によって醸成された」と言う事実を踏まえなくてはならない。現在の着物の在り様は、日本の長い歴史の上に立っている。その結果、着物の着方、しきたりについて時として厳しい見方がされているである。
着物のしきたりに関しては何度も触れてきたが、実に事細かく定められている様に言われている。しかし、詳細に観察すれば、皆が皆同じではない。茶道の流派によって作法が違うように、人によって場所によって、着物のしきたりは微妙な食い違いもある。しかし、これまた茶道の流派の違いと同じで、全て理にかなったしきたりなのである。
その違いは、地方により、家族により、また職業によって違う場合がある。しかし、「そのどれが正しいのか」と言うのは議論に適さない。問題は、そのしきたりが日本の歴史が育んできた日本のしきたりのベクトルと同じ方向に向いているか否かが大切である。
葬式に孫娘が振袖を着て参列するしきたりの地方があるのを以前紹介した。黒の喪服ではなく、葬式で華やかな振袖を着るのを驚く人もいるかもしれないが、孫娘が故人を送る気持ちの顕れであることは間違いない。敬意を持って故人を送る、日本人のしきたりのベクトルに一致しているのである。
つづく