全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅶ-42 きものは自由?(その3)
してみると、「何を着るかは個人の自由」ではあるが、日本人が日本人として着物を着る場合には、歴史を背景とした日本人の心を無視する事は出来ない。長年日本人が育んできた着物のしきたりは厳然としてあると言える。しかし、そのしきたりは、事細かに全国統一されたものではない。日本人が創り上げてきた慣習そのものが着物のしきたりなのである。
茶道の作法で、お茶を頂くときに茶碗を回す動作がある。右に回すのか左に回すのか、何回回すのか、と戸惑ってしまうがそれは流派によって違う。ある流派の人が他の流派の人が茶碗を回すのを見て、「自分が習った作法とは違う。」そう思うかもしれない。しかし、茶碗を回す作法の本質は、「ご亭主が大切にしている茶碗の正面に口をつけるのをはばかる」為である。茶碗を何回、どちらに回そうが、本質に叶っているのである。本質をわきまえる事が大切であって、自分と違うからと非難するのは筋違いである。
着物のしきたりも同じで、その本質をわきまえる事が大切である。それは捉えどころがなくとても難しい事である。形式的なしきたりを守る方が余程簡単かもしれない。その意味では、「着物は自由」ではない。
では、・・・話を戻そう・・・その着物のチェーン店の販売員が言った「きものは自由」は、何を意味しているのだろう。何を意図して言ったのだろう。
日本人が育んできた本質的な着物のしきたりを無視して言っているのであれば、それは革新的である。それまでの価値観をすべて否定して・・・と言うのは、ヒッピー族や竹の子族に通じるものがある。彼らとて決して否定されるべき人達ではない。それまでの価値観から脱して新しい文化を築いて行く原動力となる場合も稀にある。
ビートルズの長い髪はその後の男性のヘアースタイルに大きく影響した。もっともビートルズのロングヘアーはそれ程長くはなく、イギリスの中世貴族の髪よりは短かったようにも思う。しかし、その後男性の髪の毛は段々長くなった。私も学生時代には、髪の毛を肩まで伸ばして粋がっていた。
個人が時代に逆らう事は散見できる。しかし、「きものは自由」と叫んでいるのが、全国に多くの店舗を持つ呉服店の販売員である。その呉服店は、全社員に「きものは自由」と言う教育をしているのだろうか。
男性の髪の毛が短かった時代に、全国チェーンの床屋が「男性の髪の毛は長いのが流行です」と客に勧めるようなものである。
その呉服店は、信念を持って「きものは自由」と社員に教えているのだろうか。そんな事はないだろう。もしも、そうだとしたら正統派?のお客様は寄り付かなくなるだろう。高額な着物を購入する人達の多くは正統派?であろうから。
では何故、お客様に「きものは自由」と言うのか。理詰めで論を展開してきたが、その理由は実に単純だと私は思っている。
それは「きものは自由」と言えば着物が売り易い。ただそれだけの理由である。
着物のしきたりは日本の歴史が育んできた目に見えない確かなしきたりがある。本質は単純なものだけれどもそれを具体的に説明しようとすると複雑になり、多くの知識と経験が必要になる。
私も35年呉服屋をしているが、まだまだ経験不足の感は否めない。お客様が求める問いに全て応えられる自信もない。他の職業同様にその道で満足に仕事をするには多くの知識と経験を要するのである。
しかし、「きものは自由」の一言で全てが許されることになる。何を着せようが何を合わせようが、何を勧めようが何を売ろうが、知識と経験の裏付けは必要ない。
更にもう一つ踏み込めば、誰でも着物を売ることができる。着物を着たことがない人でも、経験のない人でも、着物の名前を知らなくても着物の販売員に成れるのである。
「何を着るかは個人の自由」が原則ではあるが、それは個人レベルでの話である。着物を売る人間は、着物の本質をお客様に説明し、その上でお客様が何を着るかを自由に 判断する。そのプロセスが壊れれば、日本の着物のみならず日本の文化は瓦解するのではないだろうか。