全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅶ-67 和の終焉(4)
さて明治以降、文明開化と称し西洋の文化が濁流の如く日本に流入し、あらゆる「和の物」に影響を与えた。
現在、音楽の分野で邦楽というのはほとんど庶民の表文化から消えたようにも思われた。
私が小学校中学校の頃、邦楽はほとんど習わなかった。教科書には、いわゆる唱歌やクラシックなどの西洋音楽が幅を利かせている。邦楽は、教科書の最後にわずかに雅楽「越天楽」が載っていたが、先生がそれを取り上げる事はなかった。小学生には邦楽は既に死んでしまった音楽の様に思えた。
「唱歌」は日本情緒豊かで郷愁を誘う、私も好きなジャンルだが、実は「唱歌」は西洋音楽の影響の賜物である。それまで日本には無かった音符を使い、四分音符というオタマジャクシを五線譜に一つ一つ並べて行って創られたものである。伝統の邦楽とは程遠い。
しかし、邦楽の本流は脈々と続いている。雅楽、能楽、清元、長唄、小唄、端唄など他にもまだまだ歌い続けられているし大変奥の深い音楽である。
私が小唄を習い始めた当初、師匠に教えられ何とか覚えたと思って、家に帰って唄おうとしたが全く出てこない。四分音符になれた頭は、小唄の音調を全く受け付けない。何度か習った後、ようやくいくらか口について出るようになった。
洋楽と邦楽はそれほどまで違う。洋楽が邦楽に与えた影響と言うのはほとんどないのではないかと思う。ただ大和楽は洋楽を取り入れた邦楽として知られているが、雅楽、能楽、清元、長唄、小唄にはほとんど洋楽の影響はなく、今日に伝えられているのではないかと思われる。
さて、呉服業界はどうだろうか。先に定義したように、「和の物」の定義は、「明治以前の日本の文化、また西洋はじめ諸外国の文化に乱される(影響されるではない)ことなく今日まで続いている物」としてみる。
日本の伝統的衣装としてきものは伝えられてきた。いつを起源とするのが正しいのかは学者に任せるとして、長い間には着物自体も変わってきた。昔の小袖と現代で言うところのきものは違っている。帯も形状や締め方も変わってきている。
それらの変遷は、日本と言う文化圏の中で必然的に変化してきたもので、「小袖」と「現代のきもの」は、「どちらが和の正当か」と言う議論にはなじまない。どちらも日本の歴史の中でその時々の和の一つの象徴だったことには間違いない。
明治時代に洋装が日本に入って来て、着物に与えた影響と言うのは当初ほとんどなかっただろう。上流階級の夫人が洋服を着る事は有ったが、きものそのものに対する影響はなかった。
影響があったのは大正時代頃である。当時、きものや帯の柄にバラなどの洋花やアルファベットを用いたものなどがあった。大正デモクラシーの影響かどうかは分からないが、大正時代に入ると庶民も次第に西洋文化に染められたのかもしれない。
つづく