全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅶ-70 下駄、草履の終焉
「和の終焉」に続いて終焉シリーズ第二弾である。
下駄、草履は日本の履物である。どちらも鼻緒が付いているが、木で出来ているのが下駄である。用途の違いは、正式な履物、ハレの履物が草履。雨時やケの履物が下駄と言うのが相場である。もちろん草履にも晴用、カジュアル様があり、下駄にもポックリなどハレの下駄もある。
足の指で鼻緒を挟む下駄草履は日本のオリジナルなのか。それはよく分からない。中国起源と言う話も聞く。中国の一部では草履か草鞋の様な履物があると聞いたこともある。また、古代ローマの戦士が履いていたサンダルの中には、指で鼻緒を挟むようなものが絵画や彫刻に見られる。
指で鼻緒を挟んで履物を保持すると言うのは、思考的にそう難しい事ではないので、日本のオリジナルと言うのは行き過ぎだろう。しかし、かつては日本人のほとんど全ての人が足の指で鼻緒を挟んでいた、すなわち日本人皆が草履か下駄を履いていたと言う事実を鑑みれば、下駄、草履は日本のオリジナルと言ってもそう間違いではないかもしれない。
かつて日本にも「くつ」はあった。「くつ」は「靴」または「沓」と表記され、その違いはよく分からないのだが、神官や宮廷で履かれたのが「沓」と言うのだろうか。古代から日本にもあるが、一般庶民の履物ではなかった。皇族が儀式で履いたり、神官が履いたり、また貴族が蹴鞠をする時に履かれた。それらを除けば、日本人は、ほぼ100%の人達が草履、下駄を履いていた。
普段の下駄は必需品であり、消耗品でもあった。私が仕入れている下駄屋の創業者(故人)は、
「何故下駄屋に丁稚に入り、下駄屋を創業したのか。」
そう聞かれて、
「下駄は消耗品なので絶対に必要な物なので、食うに困らないから。」
と答えていた。
私が子供の頃(昭和30年代)、下駄屋はそちらこちらにあった。「一町内に一軒」と言っても良いぐらい下駄屋があった。市井の下駄屋は、暗い店に所狭しと下駄が並べてある。そして、狭いスペースに加工台が置いてあり、親父さんが背を丸めて鼻緒をすげる作業をしている・・・と言うのが私の記憶にある下駄屋の印象である。しかし、そんな下駄屋さんは、今全くなくなってしまった。
また幼い頃、山形でも下駄を作っていた。近くの川の向こうに、トウモロコシを立てたようなものがいくつかあった。下駄を干しているのである。下駄の材料を丸く並べて、上に積み重ねて行く。何メートルくらいだっただろう。子供の私にはとても高い塔の様に見えたけれども、3m以上はあっただろう。上に行くに従って細くなる。バランスを考えての事と思う。それが一つの風景として私の頭の片隅に残っている。
山形は、全国的な下駄の産地でも何でもない。消耗品だった下駄は、山形に限らず日本全国で作られていたのだろう。
つづく