明治00年創業 呉服と小物の店 特選呉服 結城屋

全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題

Ⅶ.きものつれづれ 43.これからの呉服屋に求められるもの(その4)

ゆうきくんの言いたい放題

 昭和40年代半ばから50年代半ばまでは、私にとって呉服業の空白期間である。中学に入るとクラブ活動で忙しく店に行くことは稀だったし、展示会の手伝いをすることもなかった。高校を卒業し学生時代は山形を離れ、卒業後三年間他の業界に就職した私は、その間呉服業界で何が起こっていたかはよく分からない。

 ただ一つ、後に聞いた話では、1971年のニクソンショック(ドルショック)それに続く第一次オイルショック(1973年)、第二次オイルショック(1979年)の時は世の中が狂乱物価で混乱していたが、呉服業界も正に混乱の最中だったと言う。

 毎月問屋さんが反物を持って店にやってくるが、毎月値段がうなぎ上りに上がって行った。最盛期には、問屋さんが持ってきた襦袢の卸値は、今店頭に並んでいる襦袢の値段を越えていた。賢い呉服屋は、反物の値上がりを見越して大量に買い付けて、大きな利益を得ていた。

 それでも私の祖父は、「買った値段で(当たり前の掛け率で)売れ。」と、法外な利益を求めることはなかった。なんとも商売下手だった。

 私が勤めていた問屋の先輩の話を聞いても、その当時はできるだけ多くの商品をかき集めて出張に出た。ボテ箱(反物が20反位入る段ボール箱)を10個も車に積んで出たが、帰りはほぼ空になって帰ることもあったという。

 当時、トイレットペーパーが市場から消えると言う噂が広がり、市民は競ってトイレットペーパーを買い求める騒動があった。呉服業界も同じように価格が上がらないうちに買い求めようという消費者心理が働いていたのかもしれない。

 私が呉服業界に入ったのは、第二次オイルショックが終息したころだった。戦後の呉服需要への高まりはなくなり、オイルショックの狂乱物価も終わり、呉服業界には陰りが見え始めていたが、今に比べればまだまだ活気があった。

「これから呉服業界で生きて行こう」と飛び込んだ世界で見たものは、想像していたものとはまるで違っていた。

 中学以来、呉服とは全く縁がなかった私は、言わば浦島太郎状態だったかもしれない。小学校の時に見ていた祖父の商売、店にやった来たお客様に、「いらっしゃいませ」と言って談笑しながら着物を広げて見せる姿を覚えている私にとって、それは似て異なる世界だった。

 問屋に世話になったのは二年間だけだったが、そこで私は、呉服屋の役割とは何なのか、商売の役割は何なのか、仕事の役割は何なのか、そしてその中で私がなすべき事は何なのかを考えさせられた。

つづく

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