明治00年創業 呉服と小物の店 特選呉服 結城屋

全日本きもの研究会 続きもの春秋

8. 違いの分かる人

続きもの春秋

 ひと頃、インスタントコーヒーのコマーシャルで『違いの分かる男』というのがあった。各業界の著名人が出演し、(コーヒーの)違いが分かる男として暗に自前のインスタントコーヒーが一番旨いと印象つけるコマーシャルだった。それほど違いが分かるのならば、インスタントコーヒーなど飲まずにレギュラーコーヒーを飲めば良いだろうと思って見ていたが、マスコミの影響力は相当なものらしい。そのコマーシャルが当たったらしく、何人も人を代えて続いていた。

 違いの分かる『男』と言えば、違いの分かるのは男だけなのかと、ある筋から御批判を頂戴しそうなので、私の表題は違いの分かる『人』とした。きものの世界では女性が圧倒的に多い。違いの分かる『女』としても良いのだけれども『男』『女』という響きには何か妙な印象がつきまとっているようでならない。やはり『違いの分かる人』と言うべきだろう。

 さて、違いの分かる人とはどういう人を言うのだろう。おそらく良い物と悪い物、おいしい物とまずい物の違いが分かる人を指して言うのだろう。

 呉服を商っていると、常に良い物と悪い物を見る目が必要とされる。骨董屋の領域に足を踏み入れるようなもので、染物、織物の良さが分からなければ仕事にならない。染物一つとってみても、手描きの友禅から型物、そしてプリントで染めた物など様々である。柄の良さと染の良さを総合的に判断して、妥当な値段で問屋から仕入れなければならない。良い物を安く仕入れることができれば、呉服の商売はおのずとうまくいくはずである。

 しかし、最近ではそうとばかりはいえなくなってきている。

 呉服に限らず消費者は安くて良い物を求めている。私も買物をする時には良い品物を安く買おうと心がけている。主婦の中には毎日雪崩のように折り込まれる広告を見ては一円でも安い店に買物に行く人もいる。昨今の不況の中では益々その傾向は顕著になっている。食料品や化粧品などは全く同じ物が多量に流通し、○○社の××という製品と言えばどこから買っても同じである。偽物でもない限り、消費者は安心して安い方を買っても何も問題はない。

 しかし、呉服の場合、一点一点が皆違う商品であり、同じ物は二つとないと言っても過言ではない。一つ一つ、その値段なりに良いものを見分けて仕入れてくるのだけれども、必ずしも仕入れる人の好みと消費者の好みが同じだとは限らない。消費者の好み、すなわち売れ筋を考えながら仕入れをしなくてはならないのである。

 商品には製造原価というものがあり付加価値の高い商品が高価になるのはどの世界でも同じである。呉服の場合の付加価値は何かと言えば、第一に人の手間である。人の手間の掛かっているものは自ずから高価になる。ましてその技術が希少な技術であればあるほど商品は高価になるのも他の世界と同じである。しかし、手間をかけたからといって必ずしも良い商品だとは限らず、手間をかけても良くない商品は次第に淘汰されて市場から消える運命にあるのも利の当然である。

 しかし、最近の呉服業界では高い技術で手間をかけるという付加価値がそれほど重要ではなくなってきている面もある。

 ゆかたを例にとれば、最も手間のかかる中型、昔ながらの注染に代わって、プリント物のゆかたが多く出回るようになった。その背景には、染職人の減少や染屋の廃業という事実があるけれども、これも手の掛かる中型や注染に対する需要が減った証左にすぎない。ゆかたの需要も落ち込んでいるとはいえ、まだまだ需要が見込め、ゆかたブームという追い風も吹いているのである。

 そんな中で、プリント物のゆかたが大きなシェアを占めるようになってきた。プリントと言えば手のかかる中型や注染に代わる現代技術の賜物である。よりきれいに、速く、そして安価に染めることができるのである。しかし、安価に大量に染められるのだから小売りの価格が安いのかと言えばそうでもない。注染で染めたゆかたよりも高く、一反一反手で染め上げる中型と同じ位の価格がついている物すらある。できばえはと言えば、人の好みも様々だが、中型や注染の手造りの味は全く感じられない。きれいな写真を見ているようなものである。それでも現代の若者の目には、コンピューターに慣れたせいか、精緻な染めが受けるらしい。

 原価がはるかに安くできるはずのプリント物のゆかたの価格が下がらない。その背景には、ブランド力がある。洋服のデザイナーや人気アイドルの名を冠したプリントのゆかたは老練な職人が染めたゆかたよりも高値で売られているのである。染めの良さ、物の良さを考える時、私はどうも嘆かわしくなってしまうのだが。そう言っていたら商売にはならない。

 我国のブランド信仰は行き過ぎた感がある。海外旅行でブランド品ショップに群がる若い旅行者やブランド品の質流れ品の売り出しに長蛇の列を作るのを見るにつけてそう思う。

 ほとんどのブランド品は長い歴史や技術に裏打ちされて造られているのだろうけれども、その商品と機能、そして価格と、それを買う人のアンバランスさが滑稽に思えてしまうのである。

 商品の機能と価格に納得した上で、それに応じた価格を支払うのは良いけれども、どうも今の日本のブランド信仰は、ブランドの名前が与えてくれるステイタスが欲しくて、物の品質はそっちのけでブランド名が先行しているように思えてならない。

 高級ブランドに大枚をはたく日本人だけれども、一方安いものに対しては全く正反対の行動も見られる。最近、価格破壊と称して低価格の商品が流通している。低価格品を価格破壊の一言で是認してしまうのは早計であり、低価格で流通する商品にもいくつかの種類がある。不良在庫を損を覚悟で放出する場合。大量に生産して価格を下げる、いわゆるダンピング。低賃金の国で生産して価格を下げた物。価格破壊の波に乗ろうと原価を落として(品質を落として)生産したもの。流通機構を省いてコストを下げた物など様々である。

「価格が高い物は誰かが不当に儲けているから高いのだ。」
という思いがあるのか、安い物を買うのが利口だとばかり競って安い物を買う傾向がある。

「そんな物○○では××円で買えるよ。」
と、品質はお構いなしで安ければ良いという風潮である。

 ブランド品買いと安物買い、余りにも極端である。私はどちらに走る人も『違いのわからない人』だと思っている。

 自分が求めようとする商品の価格はどの程度の物なのか。そして、その価格はいくらが妥当なのかということが分かれば宣伝や風潮に惑わされずに良いものを安く買えるはずである。

 私の店に一年くらい前から若い男の人が買物に来るようになった。若い男の人と言うのは呉服屋にとって最も縁遠い存在なのだけれども、その男の人は月に一度くらい私の店を訪れる、そして、その人につられるように若い男の客が一人、二人と増えはじめ、今では四、五人の若い男が定期的に店に現れて買物をするようになった。

 彼らが買っていくのは晒(さらし)である。彼らが晒を買いに来る時には決まって片手に食料品をいっぱいに詰めたスーパーの袋を持ってやってくる。おそらく小料理屋かスナックでもやっているのだろう。髪が長くジーパンを履いている彼らを見ると、とても高級な店には思えない。そんな彼らは決まって店に入ってくると真っ直ぐに晒の置いてあるところへ行くのである。

食器を拭くふきんか、食器を並べるのに敷くのだろう。彼らが若く、余り裕福そうにも見えないので(失礼)、一度晒を買いに来た時にたまたま仕入れた特価の晒を勧めてみた。
「こちらの方が安いですよ。」
 その特価品の価格は約半額である。商売をしているのならば、いくらでも安い物を求めているはずである。私は彼らの店の経営を思い、親切で言ったつもりだったのだが、彼は一言、
「いえ、そちらの高い方・・・。」
 他の若い男の客も同じだった。誰も安い特価品に手を出そうとはしない。

 私の店で扱っている晒は最高級品である。最高級といっても高々1000円足らずだけれども。晒など安い店では500円位で売っているし、私の店でなくても晒など手に入るはず。彼らが私の店の晒を買っていくのはそれ相応の訳がある。彼らはいろいろと使った上で私の店の晒が一番使いやすいと感じたのだろう。


 晒と一口に言っても高級品から低価格のものまである。素人目にはどちらも同じ白い綿反にしか見えないかも知れない。全く同じ晒だと思って、あの店は高い、この店は安いと思っている人もいることだろう。


 しかし、晒について少し講釈すれば、その糸の太さと糸の打ち込みによって高級品か低額品が決まるのである。私の店で扱う晒は、20番手の糸を使い、縦糸数750本、一寸の間に横糸の打ち込みが75本である。同じメーカーで作る低額品は縦糸数630本、打ち込み62本である。品質には明確な違いがある。晒のごとき商品にはブランド力が這入る余地など全くない。品質の違いはそのまま価格の違いに跳ね返る。

私の店にやってくる若い男達は毎日のように晒を使い、その良さを十分に肌身で感じているのだろう。

 私は、彼らこそ本当に『違いの分かる人』だと思うのである。

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