明治00年創業 呉服と小物の店 特選呉服 結城屋

全日本きもの研究会 きもの博物館

4. 黄八丈の事

きもの博物館

 黄八丈という織物がある。名前ぐらいは誰しも聞いたことがあると思う。黄色を基調とした縞や格子の柄の織物である。

 きもの用語は曖昧であると同時に、何故そんな名前が付くのかと思える物が多い。『博多献上』という帯があるけれども、これは福岡藩が将軍家に「献上」したことから「献上」と呼び習わしている。『御召』という織物がある。こちらは、徳川十一代将軍家斉が好んで「お召し」になったのでその呼び名がある。きものの名称は、その歴史の糸をたどっていかなければ、なぜそのような呼び名がついたのか分からない物が数多く有る。

 『黄八丈』という名称は何処から来ているのだろう。黄八丈の産地が、伊豆七島の南端に位置する八丈島である事を知っている人は、「八丈島で産する黄色の織物」を意味すると思われるかもしれない。しかし、きものの名称はそのような単純な命名ではないところに面白さがある。

 黄八丈の八丈は、八丈絹を意味している。八丈絹とは、昔(江戸初期)に一疋(二反)の長さが曲尺で八丈(約24m)の長さに織られた事に由来する名称である。その意味で一疋の事を八丈と呼び習わしたのだろう。現在でも同じように一反の事を三丈物(鯨尺で)、共八掛の反物を四丈物と呼んでいる。織物を長さに例えて呼ぶ習慣は今も昔も変わらない。

 疋単位で黄色に染められる織物が黄八丈となった訳である。そして、八丈島という名称は、その(黄)八丈を産する島、という事で、いつしか八丈島と呼ばれることになったらしい。もっとも、こういった名称の由来なる物は、諸説紛々として語られているので、私の聞きかじった知識が定説であるとは言い切れないかもしれない。 
 
 私が黄八丈という名前を初めて聞いたのはいつ頃だっただろうか。呉服屋に生まれ育った私の回りには小さい時から呉服用語が飛び交っていたので、いつの事だったのかは特定できない。しかし、私が思っていた「黄八丈」という織物は、その意を正しく指してはいなかった。長い間、私は黄色を基調とする縞や格子の柄の織物を黄八丈と言うのだと思っていた。それが銘仙であれ、ウールであれ黄八丈とは、「若い人が着る黄色の格子柄のきもの」というイメージで捉えていた。

 私が呉服業界に入り、正確な商品知識が必要になってくると、、「本場黄八丈」「秋田黄八丈」というような言葉が耳に入り、黄八丈という織物は結城紬や大島紬に並ぶ高価な織物である事が分かるようになった。
 
 私の友人で中島君という米沢で地方問屋をしている人がいる。彼と知り合ったのは、私が京都の問屋にいた時だった。得意先の小売店に他の問屋の出張員として来ていたのが中島君である。彼も修業の為に帯問屋にいて、お互い山形の出身で歳も同じだった事から現在に至るまで親しくさせてもらっている。

 彼は米沢と京都を行き来しながら呉服の卸をしているが、何故か彼の店にはいつも黄八丈が置いてある。私は米沢に行き、時間があれば彼の店に顔を出す事にしている。彼も忙しく、全国を飛び回っているので必ず会えるという訳ではないけれども、いる時には歓待してくれる。友人とは有り難いものである。

 私が黄八丈を見せてくれるように頼むと、彼は大事そうに一反一反箱に入った黄八丈を奥から出してくる。彼は何時、何処で黄八丈に出会ったのか知らないけれども、彼の黄八丈に対する思い入れは並々ならぬ物がある

 黄八丈の染料には「黄八丈」と呼ばれる刈安を用いた黄色い染料。「蔦八丈」と呼ばれるマダミの生皮を用いた樺色の染料。そして黒八丈と呼ばれる椎の樹皮を用いる黒の染料がある。

 中でも黒八丈の染料は樹齢三十年以上の椎の皮を三年間乾燥させ、それを煎じた汁で染め、その後いわゆる泥染めをする最も手の掛かる難しい染めである。鉄分の含んだ沼に一週間つける仕事は重労働で、染めた糸を五年間乾かすので非常に手間がかかり、数も少ないらしい

「黒は中々手に入らないんだよな。」
と、彼は生まれたばかりの我が子を手にするように大事そうに私に見せてくれる。そして、
「二反同じ物が入らないと売る気にならないんだ。」
と言う。
「それじゃ、在庫ばかり増えて商売にならんだろう。」
と、私が現実的な事を言っても、彼は、次いつ入るか分からないのでしまっておくのだと言う。

 彼は八丈島で昔ながらの草木染めの黄八丈を染めるただ一人の染屋である山下八百子さんの所に行き、作品を分けてもらっている。山下さんは、先代の山下め由さんと供に二代続けて東京都の無形文化財に指定されている。染色に非常に手間の掛かる物だけに、山下さんの所では高機(たかばた)が三台のみで、生産反数は月五~六反がせいぜいだと言う。年間にしてみれば百反にみたない。
「各県に割り当てれば一県あたりせいぜい一反か二反、なかなか商品が廻ってこないんだよ。」
と、中島君は言う。

 本場黄八丈を見たことがある人は殆どいないかもしれない。その生産反数からして本場の黄八丈に触れる機会は、余程その気になって捜さない限り無いはずである。それでも殆どの人は黄八丈とはどんなものかを知っている。そして、きものに興味のある人ならば皆、黄八丈を見たことが有ると思っている。それは冒頭で記したようにウールや銘仙、あるいは似せて作ったまがい物が出回っているからである。「まがい物が出回っている」という表現は人聞きが悪いけれども、まがい物が出回るのは、それ相応の訳が有る。

 黄八丈は江戸時代に租税として八丈島から幕府に上納させられていた。それらが将軍家から大名や御殿女中に下賜されたが、時代が下り文化文政(1804~1829年)の頃になると、庶民の手にも入るようになり、江戸中の女性の人気をさらったという。今で言えばブランド物だったのだろうか。そして、歌舞伎芝居の娘役の衣装に用いられたことで、その人気は益々高まった。人気スターの着ているきものを着たいというのは今も昔も変わらぬ娘心であろう。

 又、漢方医は黄八丈を制服のように着ていたという。それほど人気のあった黄八丈は当然供給が間に合わず、模倣品が出てくるのである。秋田や八王子、桐生で模倣品が織られ、その後ウールでも黄八丈の柄を取り入れて作られるのである。 「まがい物」「模倣品」などと書いてしまったけれども、それらは決してにせブランド品の類の物ではない。秋田黄八丈、銘仙、ウール、それぞれが着物の中にしっかりとした位置を占め、きものの普及に貢献したことは言うまでもない。

 さて、はづかしい話だけれども、本場の黄八丈は私も見たことがなかった。誰しも思うように黄八丈といえば、若い女性が着る格子柄の黄色の織物のイメージが強かった。しかし、山下さんの織る黄八丈は草木染め独特の深みの有る色で、若い女性の物というイメージとはかけ離れていた。江戸時代には若い女性と供に漢方医が着ていたと言うのだから、もともと黄八丈はそれほど派手な色ではなかったのかも知れない。

 山下八百子さんの手で細々と織られる本場黄八丈は、私には絶滅するシーラカンスのようにも思えてしまう。そして、その希少価値も去ることながら、本土から遠く離れた八丈島という小さな島でこのようなすばらしい織物が完成されたことに驚きを感じてしまう。

 離島と言えば、久米島紬や宮古上布、八重山上布など、沖縄の離島にも沢山の織物が残っている。離島に限らず全国を見渡せば細々と織られてきた織物は数多く見ることができる。伝承者がいなくなり今では見られなくなった織物も多くあるはずである。黄八丈を始めとして全国のすばらしい織物が今後も伝承され、日本の良い伝統文化が後世に伝われば良いと思う。

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