明治00年創業 呉服と小物の店 特選呉服 結城屋

全日本きもの研究会 きもの博物館

59. 鹿島錦

きもの博物館

 工芸や技術はひょんな事から生まれるものである。

 留米絣は久留米の米屋の娘、井上伝が古筵(何度も洗濯したきものであったとも言われている。)にできた白い斑点をヒントに生まれたと言う。また、大島紬の泥染めは、年貢を逃れるために役人の目をごまかし、糸を田んぼの泥の中に隠したところきれいな黒に染まっていたのが始まりと言われている。これらは多分に逸話として伝わっている面もあるけれども、染色に限らず技術の進歩は偶然によるものが多い。

 佐賀錦といわれる織物もひょんな事から生まれている。

 佐賀錦の起源は約二百年前、肥前(佐賀県)鹿島藩鍋島家の夫人が病で床に伏せったことに始まる。床に伏せった夫人の目に入ったのは桧の薄板の網代組の天井だった。夫人は薄板を織物のように組んだ網代天井の美しさに心を引かれたという。

 網代天井のような美しい織物が出来ないものかと考え、できた織物が佐賀錦である。

 織物は通常、糸と糸とを組み合わせるので緻密になり、網代のような組織にはならない。佐賀錦では糸の代わりに和紙を用いて網代組みのような風合いを織り出している。糸の代わりに和紙を使うと聞けば、さぞ弱い織物だと思うかもしれない。

 紙を用いた織物には紙布と呼ばれるものもある。紙布は使い古しの和紙を揉んで柔らかくしたものを撚って糸状にして緯糸に使った織物である。糸状に丸めて使うので結構丈夫である。

 しかし、佐賀錦は細く切った和紙を撚らずに糸の代わりに用いている。当初は生紙を使ったらしいが、後に和紙に金箔や銀箔、漆箔を、最近ではプラチナの箔を貼り付けて装飾性と強度を保持している。箔を貼っているとは言え、薄く細い和紙を用いるので、織手には細心の注意と高度な技術が求められる。

 初は佐賀錦という名称ではなく、「組錦」または「鹿島錦」と称し、鍋島家の夫人や姫君の手芸や行儀見習いとして織られていた。非常に細かい仕事なので、織るのに手間がかかり、織りあげた小さな佐賀錦地で印籠などの小物が作られていた。

 明治に入り一時その技術は途絶えるが、佐賀県出身の大隈重信がこれを再考し、再び織られるようになった。その後、明治四十三年ロンドンで行われた博覧会に、それまで「鹿島錦」と呼ばれていたのを「佐賀錦」として出品され、海外でも賞賛を浴びる事になった。

 その技法は帯の産地である西陣でも取り入れられ、帯地として生産されるようになる。 

 古来、西陣では様々な織物が織られてきた。錦、金蘭、繻子、緞子、紹巴など。帯地としては、綴織、唐織、すくいなど、西陣ならではの創意と工夫を凝らし、また外国からの技術の移入など帯地の種類は数えきれない。その中の一つとして佐賀錦は今では西陣の帯地の代表格の一つとなっている。

 従来の西陣の織の技法に巧みに佐賀錦の要素を取り入れ帯地として完成させてきた。より軽い生地を織るために片面にだけ箔を張った片面箔を用いたり、唐織の手法を取り入れたりと、永い織の伝統を誇る西陣ならではの創意工夫である。

 私は呉服屋として長い間帯を扱ってきたが、佐賀錦といえば西陣の袋帯を連想していた。もちろん、佐賀錦のルーツは肥前、佐賀県であることは知っていたし、昔ながらの佐賀錦をコツコツと織り、小物が作られていることも聞いていた。そして、もう一つの帯の産地である博多でも少量ながら佐賀錦が織られていることも知っていた。

 博多の佐賀錦はあまり出回らない。市場の佐賀錦の99%は西陣物である。

 先日、博多の織屋さんの展示会で博多織の佐賀錦を見る機会があった。 その手織りの帯は見た目はもちろん佐賀錦だけれども、西陣物とははっきりと異なる。西陣物は織物を感じさせるけれども、博多のそれは織物であると同時に紙であることを感じさせてくれるものだった。素朴ではあるけれども、
「ああ、これが鹿島錦か。」
と思われるような織物である。

 触ってみればとても柔らかい。帯を見せてくれた織屋さんは、
「まったくシワになりませんよ。」
と言って帯地を揉んでみせる。シワになりはしないかとこちらが心配してしまうが、シワはできない。

 博多の佐賀錦(鹿島錦)は和紙を裁断し経糸に使う。正確に言えば「経糸」と言うのは当たらない。「経紙」である。一枚の経紙は、幅三センチの紙を二十割から六十割に裁断して使う。一枚の幅は1.5ミリから0.5ミリという細さである。そのような細い紙を織機に掛けるだけでも大変だけれども、織っているうちに経紙が切れてしまう恐れもあり、大きな織物を織るのは大変難しい。

 帯の端を裏返して見れば、経糸に和紙が使われているのが良く分かる。経糸の和紙を一本一本すくいながら一日に数センチしか織れない緻密な織物である。

 しかし、袋帯を織ろうとすれば経糸の長さは一本分で約5メートルにも及ぶ。そのような長い経糸(経紙)を作るのも大変なら、整経するのも大変である。それにもまして絹糸のように丈夫ではない和紙の経糸を切らずに織り進むのは至難の業である。

 佐賀、鍋島家の婦人達が始めた「鹿島錦」の技術はは現代の職工の手で立派な帯を織れるまでに至っている。

 その昔、鍋島家の夫人が見た天井はどのような網代天井だったのだろうか。御殿の女性たちはどんな佐賀錦を織っていたのだろうか。

 彼女らの鹿島錦は今日博多に伝えられ、忠実に再現されている。もしも、彼女らが今日の鹿島錦を見たら何と言うだろうか。

 自分達の技術を伝えてくれていると現代の職工達に感謝するだろうか。それとも、当時は織れなかった一丈を越える袋帯を見て驚くだろうか。

 技術の伝承とは、ただ単に技術を受け継ぐだけではなく、更に良いものを生み出そうとする努力に他ならないように思える。 

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