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全日本きもの研究会 きもの博物館

31. 弓浜絣(ゆみはまがすり)

きもの博物館

 織物の産地は全国に点在している。点在と言えば、あたかも織物の産地は特定の場所に限られているように思われるかもしれないが、その昔織物は全国各地どこでも織られていたのだろう。生活必需品として織物はどこの村でも、あるいはどこの家庭でも織られていたかも知れない。

 それらはその土地の特徴をもち、その土地で手に入る材料を用い、その土地の風習に即した柄が織られていたのだろう。流通が発達するうちに産地は淘汰され、次第に織物の産地は特定されるようになった。今日まで伝えられている織物は、それらの産地の中でも極わずかで歴史の中に消えていった織物も数多くあっただろうことは想像にかたくない。

 私が京都にいた頃、種々の織物に巡り会った。その中でも印象が深かったのは弓浜絣である。その味わいは素朴で民芸的である。どんな絣でもその製法には大した違いが無い。しかし、他の織物もそうだけれども、弓浜絣は一見して弓浜絣と分かる独特の味わいを持っている。それが何なのかは口では説明できないけれども弓浜絣の持つ個性にはそれ程に強いものが有る。

 日本の地図を広げ、中国地方に目をやると、山陰地方はあたかも屋根のように見える。その屋根の先端には出雲大社の鰹木のように取って付けたような島根半島が有る。その半島の付け根は西が出雲、東は米子である。この半島はまさに『取って付けた』ような土地で、出雲風土記の中で国引き神話として語られている。

『八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が出雲の地形を見て、
「この国は初めに小さく創られていて細長く未完成である。自分が継ぎ足して大きくしてやろう。」
と、新羅の国の余りを大鋤で切り取り、綱をかけて、
「国来、国来」
と、もそろもそろと引っ張ってつなぎ合わせたのが今の杵築御崎で、その綱が薗長浜。これをつなぎ止めた杭が佐比売山である。次いで北方の佐伎国の余りで引いてきたのが狭田の国、良波の国から闇見の国、そして最後に高志の都々御崎の余りを引いてきたのが三穂崎で、その綱が夜見の島、つなぎ止めた杭が白耆の国の火神岳である。』

 この神話に出てくる夜見の島が弓浜絣の産地、弓ヶ浜である。夜見ヶ浜は米子と境港を結ぶなだらかな海岸である。国引き神話ではこれを綱と見立ててその綱をつなぎ止めたのが火神岳というわけである。私も山陰地方に三度行ったことがあり、蒜山高原より眺めた米子から境港に真っ直ぐに伸びる弓ヶ浜は島を引っ張ってきた綱のように見えた。

 この国引き神話は戦後、日本帝国主義の海外侵略の象徴のようにも取られたそうだけれども、これは神話のユーモアと捉えた方が良さそうである。

 さて、この弓ヶ浜は神話にある通り「夜見ヶ浜」(よみがはま)とも弓浜半島(きゅうひんはんとう)とも呼ばれている。島根半島北面のゴツゴツした海岸線とは対称的に文字通り弓を連想させるような滑らかな海岸線を形作っている。このような海岸は地理学的には湾口砂州と呼ばれている。美保湾から押し寄せる波が中海から吐き出された砂を押し戻し、湾口では波力が弱まるので湾口に砂が堆積して砂州ができるらしい。

 この弓ヶ浜は南北が18km 、幅が約3~6.5km という日本最大の湾口砂州である。砂州というからにはこの土地は砂地である。砂地は稲作畑作には適さない。砂地でも栽培される作物は限られている。綿花がその一つである。綿花が砂地に植えられると言っても全く水が無くても良い訳ではなく、その昔弓ヶ浜ではほとんど作物が取れなかった。しかし、1759年(宝暦9年)砂州を縦断する約20kmの用水路、米川の開削が行なわれ、その新田化が進んだ弓ヶ浜では綿花が栽培されるようになり、伯州綿と呼ば質の綿れる良が取れるようになった。

 山陰地方は絣の技術が発達していた所で、弓浜絣の他に、出雲の広瀬、伯耆の倉吉にそれぞれ広瀬絣、倉吉絣があった。弓浜には一説によると広瀬藩の城下で火災があり、焼け出された織物職人達が綿の産地となった弓浜地方に移り住んでその技術を伝えたとも伝えられている。

 弓浜絣は当初、夜具地、座蒲団地、着尺地として織られ、その文様の題材は民芸的である。絣と言えば大島紬や結城紬の細い亀甲模様や精緻な図案を思い起こす人もいるかも知れないが、弓浜絣は横総絣(ヨコソウ・横糸だけで柄を織り出す絣)が主で荒い絵絣が特徴である。魚や亀、鳥などの文様が大胆に織り込まれている。

 絣は先染めした糸を織りながら文様を創る技法である。決められた柄に糸を正確に織り込んでいかなければ柄は乱れてしまう。乱れた絵は映りの悪いテレビ画面のようになってしまう。できるだけ精緻に柄合わせを行なうけれども、それは人間のなせる技である。友禅のようにはっきりと柄を描くことは出来ない。

 しかし、そのわずかなズレが絣の味でもある。大島紬や結城紬は細い糸をできるだけ細く正確に織る技術を競っているようにも思われる。しかし、弓浜絣は比較的太い糸(現在、並品は十四番手の紡績糸)が使われ、そのザックリとした織り上がりは絣の良さを十分に感じさせてくれるのである。

 弓浜絣の全盛は幕末から明治にかけてで、弓浜地方の各家で織られていたという。農家の娘にとって良い絣を織ることは良縁の条件だったとも言う。その後、弓浜絣独特の民芸的な素朴さが喜ばれて正絹でも着尺地が作られるようになる。しかし、御多分に漏れず近代化の波は、本藍を科学染料に、地綿は安い外綿の紡績糸に取って代わられて弓浜絣は古い時代の織物となっていった。

 昭和39年には約一万反織られていたという正藍の手織り絣は、現在年間わずか数十反しか織られていない。

 私は数年前ある宴会に出席した時に弓浜絣を着た女性に出会った。先に書いたように弓浜絣は見る人が見れば一目でそれと分かる。その場にいたほとんどの人は『弓浜絣』という言葉さえ知らなかっただろうと思う。私は、「ステキな弓浜絣ですね。」と話しかけると、とても嬉しそうに笑ってくれた。本人は、まさか自分の着ている弓浜絣に注目してくれる人がいるとは思わなかったのだろう。

 その女性にとってその弓浜絣は何か思い入れのある着物だったかもしれない。さりげない着こなしに素朴な弓浜絣は良く似合っていた。今だに織られている極わずかの弓浜絣も文化財としてタンスの奥にしまわれずにさりげなく着て貰いたいと思う。

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